ビタミン

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    下のサイトを読むとビタミン剤やドリンク剤がブームになったのは東京オリンピックがきっかけとあるけど、日本人は米ばかり食べてるから欧米人のようにりっぱになれないっていう米オワコン説は戦後すぐぐらいからあるはずで、YouTubeで見た「今日からでも」っていうパンをゴリ押す茨城県映画が1952年だったし、「頭脳―才能をひきだす処方箋」の米を食べたらバカになる説が1958年、60年代にはキッチンカーが奥さまがたにフライパンを使った栄養ゆたかな料理を伝道しどっさりめしの弊害を説いた。ポポンやアリナミンの発売時から1964オリンピックの10年間ほどのあいだにチョコラ、QPコーワ、グロンサン、アスパラ、エスカップ、リポビタン、チオビタなど主要どころはだいたい出そろっている。

     

    ビタミン剤は体にいいことは何もない!(2017年1月24日 論座)

    https://webronza.asahi.com/science/articles/2017012000001.html

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    この論文は2013年12月にAnnals of Internal Medicine(内科紀要)という医学雑誌に掲載された 。これまで何年間もビタミン剤を飲み続けた人たちと飲んでいなかった人たちの健康状態を比較した多くの論文を集めて、その内容を検証したもので、科学的な信頼度は高い。あらためて考えてみると「ビタミンは体にいいから毎日飲んだ方がいい」という「ビタミン神話」には科学的根拠が不足していた。

    そもそもビタミンは病気の治療薬だった。ビタミンBは脚気の、ビタミンCは壊血病の特効薬であることはよく知られている。医薬品であるビタミンが処方箋なしに誰でも薬局で購入できる大衆薬に変身したきっかけは、1953年と54年に発売された総合ビタミン剤「ポポンS」ビタミンB1製剤「アリナミン」だった。これらはビタミン不足を解消して病気を予防することが目的だったのだが、次第に疲労回復や体力増進などに有効と信じられるようになり、病人ではなく健康な人が飲むようになった。その後、1957年にアンプル入りのビタミン剤がドリンク剤として発売され、1960年にはボトル入りのドリンク剤が売り出されて薬品が清涼飲料水感覚で飲まれるようになり、現在は健康食品としても販売されている。

    ビタミン剤とドリンク剤がブームになったのは1964年の東京オリンピックの影響といわれる。当時の日本人に比べて背が高く、立派な体格の米国選手が次々と金メダルを獲得し、日本人は米ばかり食べているから体力がつかないという説が広がって、子どもに「ご飯は残してもいいからおかずは全部食べなさい」という教育が行われたことを筆者も覚えている。また米国選手はビタミン剤を飲んでいるから健康で体力があるといううわさも広まった。こうして「ビタミンは体にいい」という神話が出来上がり、多くの健康な人が本来医薬品であるビタミンを日常的に飲むようになった。

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    わが国では一般人が白米を食べるようになった江戸以来より脚気に苦しめられ、国民病として年間1,2万人の死者を出していたにもかかわらず長らくその原因もわからないでいた。19世紀後半にはドイツで細菌学が勃興していたこともあってか伝染病説が幅をきかしていたようだが、明治末にはビタミンB1が脚気の原因と特定されこれがビタミンの発見となった。

    白米ではビタミンB1が欠乏するので、主食としてパンや麦、玄米などの優位性が説かれ、戦後にはビタミンB1を添加した「頭脳粉」を使った頭脳パンも各社から発売、袋には「頭脳―才能をひきだす処方箋」の著者である大脳生理学者・林髞博士の絵がえがかれた。今の時代、白米だけでごはん食べててもそうそう脚気にはならないと思うのだけども、昔の日本人はたぶん十分なおかずを食べていなかったのだろうし、それがアメリカ小麦戦略の入りこむ余地となったであろう。

    当初は脚気の特効薬だったはずのビタミンB1が脚気の患者が年間1000人を下回る1950年代後半より、頭が良くなる、パンのほうが偉い、また働きざかりなモーレツ社員の疲労回復・・てなぐわいに万能薬化している。それが今にいたるまで、タウリンとかアルギニンとかなんか有効成分にもいろいろあるけど結局のところビタミン剤や栄養ドリンクの栄養とはビタミンB群なのであり、しかもビタミンB自体そんなありがたがるような栄養素でもない。

    たとえばDHCのビタミンBサプリは一ヶ月分で250円であり、公式サイトによれば一日あたりではビタミンB1で40mgと一日の推奨量のおよそ40倍、ビタミンB2は30mgで30倍、ビタミンB6は水溶性ビタミンながら過剰摂取の弊害が報告されているそうで30mgと上限量こそ下回っているが、ともかくお手頃価格だからといってケチっているわけでもなく、むしろ現代人ってビタミンB欠乏してるんか?ということを考えたら入れすぎだろう。Wikipediaの脚気のページ読んでたら1970年代にジャンクフードばっかり食べて脚気になる奴がいた・・って書いてるけど、そのときに問題になったのか即席めんはビタミンBが添加されていることが多く、今私が買っておいてるカップヌードル肉だしうどんとチキンラーメンミニのパッケージの原材料と栄養成分表示みたところやはりいづれもビタミンB1とB2が0.2mg程度にカルシウムなど各種栄養が強化されているし、韓国のラーメンもビタミンB2はいってるのかたまにおしっこ黄色くなる。

    ただビタミンB2は栄養ってより黄色の着色料として添加されてるかもしれない。とりあえずよほどどっさりめしか妊婦でもないかぎりビタミンBの欠乏は心配しなくてよさげだし、またビタミンBは体に吸収される以上に摂取したとしてもおしっこになって排出されるだろうからいっぱい食べても意味なく逆にそれで健康を損なうってこともないと思われる。

    ビタミンBのありがたさは脚気患者の多かったビタミン黎明期および戦後の栄養全盛期の名残りでしかないというのがわが歴史観であり、ではなぜそのうえで今の時代にビタミン剤が好まれる根拠になってるかというと、ビタミンBは水に溶けやすくて体内に吸収されずらいから欠乏してるっていう前提があるらしい。ビタミンB1剤の代名詞的存在である武田薬品「アリナミン」はすべての商品にビタミンB1の吸収を助けるビタミンB1誘導体「フルスルチアミン」を配合している。

    ビタミンB1誘導体はニンニク由来であり、ニンニク注射というアリナミンの点滴?もあるそうだ。もともとニンニクでスタミナというイメージ自体はアリナミンが登場する前からあった。

     

    1960-70年代の保健薬批判―高橋晄正らの批判を中心に―

    https://www.r-gscefs.jp/pdf/ce09/ma01.pdf

    このような研究をしていた高橋が、保健薬の一つであるアリナミンの薬効に疑問をいだき、科学的に検証しようと思った契機は、著書『アリナミン―この危険な薬』(1971)のなかで次のように語られている。

     

    わたくしが毎日のように処方しているアリナミンについて、改めて系統的に勉強しなおして見ようと思い立ったのは、昭和40年(筆者注 1965年)のことだった。それが売り出されたのは昭和29年(筆者注 1954年)のことだから、10年以上のあいだ、わたくしは製薬会社の広告やパンフレットによって与えられてきた印象のままにアリナミンを処方してきたことになる。

    それは何もアリナミンに限ったことではなかったが、戦前には0.5ミリや1ミリのB1を大切に使用してきたのに、昭和29年ごろからアリナミンの5ミリ錠を1日3錠というように大量に使うようになり、それが37年(筆者注 1962年)ごろからアリナミンの大量療法といって1錠25ミリとか50ミリとかいう大量錠を1日に3錠も使うのが普通になってみると、そんなに大量に使って大丈夫なのかとふと心配になることがあった。わたくしのいた物療内科には神経痛、運動まひ、リウマチなどを患っている人が多く集まってきていたので、アリナミンの処方されない人はまれであるといっていいくらいであった。

    どの病気も、ときには治り、ときには治らなかったが、ビタミンB1は神経の栄養と関係があるのだという生理学上の常識を背景に踏まえて、誰ひとりそれを処方することの妥当性を疑う人はいなかった。(高橋1971b: 5-6)

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    高橋の主張によれば、唯一アリナミンが有効であるのは、ビタミンB1欠乏症の治療のみであるという。ビタミンB1欠乏症とは脚気のことを指し、明治から大正にかけては疲れが脚気を引き起こし、それはビタミンB1欠乏に起因するという常識があった。しかし、60年代にはビタミンB1欠乏という症状自体がほとんどなかった。ニンニクには強壮作用があるという印象が国民の間にあったため、アリナミンのニンニクを彷彿させるイメージが、人気に拍車をかけたといえるという。

    ビタミンB1誘導体の特徴は、高橋によれば次のようなものだという。ビタミンB1は生体の必要度に応じて吸収されるという性質をもつが、ビタミンB1誘導体は、ビタミンB1と比較して腸壁から吸収されやすく、体内に大量に吸収されて高い血中濃度を保つ。ビタミンB1誘導体は無限に生体内に「異常浸透」する危険な性質をもつと批判した(高橋ほか編1968; 高橋1971b)。これがアリナミンは有害だとされる科学的根拠の一つである。

    さらに高橋はアリナミンの大量療法を問題にする。アリナミンの経口投与による安全性は、人間で1日30mg弱までしか保障しえていない。しかし、60年代の医療機関では、1日150mg、300mgという大量のアリナミンが錠剤や注射で患者に投与されていた。10mg以上は吸収されにくいビタミンB1をアリナミンとして生体内に大量に取り入れるのは、人体にとって有害であるという。アリナミンの大量摂取は、ニンニク・タンパク質に対するアレルギーから、アナフィラキシーなどのショックや発疹を起こす危険がある。また、ニンニクの連用は貧血をおこすことが過去の研究で明らかにされているため、ニンニクと同じ成分が含まれたアリナミンにもその危険があるという。

    さきのグラフからも明らかなように、医療保険制度が導入された61年頃から、錠剤、注射液ともにビタミンB1誘導体の生産高は増加しており、医療機関では大量療法がおこなわれていた。製薬企業は、医療機関にはアリナミンの大量療法の効果を宣伝し、一般に向けては、健康維持のための連用を広告で呼びかけていた。

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    疲れをはねかえし タフなからだをつくる アリナミン! タフに活躍する世界のミフネ! 効果を強め治療期間を短縮する 大量療法を!

     

    ビタミンB自体は過剰摂取ぶんは体外に排出されていくけども、高橋晄正の批判によればアリナミン=ビタミンB1誘導体は無限に生体内に異常浸透し、くわえて大量療法といってかっては医療機関で大量に処方されていたのだという。二重盲検はもちろんやってないし過剰摂取て概念もなさそうなので、栄養はとればとるほど体にいいぐらいに思われてそうだ。

    アリナミンが健康被害を出したという話は知らないけど、この時代に特定の物質の過剰摂取でアレルギーを引き起こす危険性や二重盲検法の必要性をうったえていた高橋氏の主張はかなり先駆的だったのではないだろうか。なお高度経済成長期は薬害がよく起こっててアンプル入りの風邪薬で死亡者も出てた。

    昔は風邪薬やドリンク剤がアンプルで錠剤よりよく効くイメージがあったのだのだろうし、モーレツ社員であれば風邪なんかひいてる場合じゃないと大量に飲んでいたにちがいない。若人にはどっちかというと薬よりもライトなイメージのサプリメントやエナジードリンクの人気あるけど、アンプル世代の爺や婆はサプリだけではなくビタミン剤、ドリンク剤、点滴、注射といった「栄養」「薬」信仰が厚いってイメージだ。

    いづれにせよダルオモの原因は休息不足であって、ビタミンBの欠乏ではないはずだ。脚気が過去の病気となった現代社会において、ビタミンごときでや元気がみなぎったりお肌が美しくなるのか私はかなり懐疑的である。

    それでも飲むとすれば錠剤よりドリンクのほうがよい。なぜならヤクルトとかオロナミンCと同じで、薬効なくてもジュースとして楽しめるし飲んだときのリフレッシュされた感やカフェインによって偽薬効果が倍増するからである。

    あの茶色い瓶や量の少なさもありがたみの演出に寄与しているだろう。デカビタCがペットボトルで売られていることを考えると、ドリンク剤やオロナミンCの瓶ってアンプルの名残りなだけでじつは意味ないんじゃないかとも思ってるのだが。

     

    アンプル風邪薬事件

    https://www.cool-susan.com/2015/10/24/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E9%A2%A8%E9%82%AA%E8%96%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6/

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    日本各地でアンプル入り風邪薬を飲んで急死する事件が続発し、アンプル入り風邪薬による事件は連日のようにマスコミをにぎわした。新聞が報道しただけで3月4日までに死亡11人、累積死亡数は50人をこえた。大阪府医師会の調査では、アンプル入り風邪薬で異常をきたした患者は半年間で702人、そのうち62人が意識混濁、失神、呼吸困難、痙攣などの症状を示し、死に至らなくても多数の重症例がいた。

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    当時は、科学や医学の進歩を過信し、風邪は風邪薬で、しかも効きそうなアンプル入り風邪薬で治ると思い込んでいた。そのため各製薬会社は、粉末や錠剤の風邪薬をアンプル剤に変更した。アンプル風邪薬がより効果的との証拠は何もなかったが、注射を思わせるアンプルの首を割ってチュッと飲むと、何となく早く効きそうなイメージがあった。これは日本人の注射信仰を利用したものである。

    当時、「モーレツ社員」「ファイトで行こう」が流行語になっていて、風邪をひいたら注射ですぐに治してもらおうとした。高度経済成長の気分の中で「風邪などひいている場合ではない」という雰囲気であった。風邪でも何でも病院に行き、患者は「あの医者の注射はよく効く」、あるいは「注射を1本打ってください」と医師に注文するほどだった。

    アンプル風邪薬事件は、患者の特異体質と簡単に報じられていた。個人的な不幸な出来事ととされていたが、1カ月に11人の被害者が出たことから、マスコミが連日のように事件を報じるようになり、厚生省は重い腰を上げることになった。昭和30年2月19日、厚生省は大正製薬にアンプル入り風邪薬の広告と販売の自粛を要請。だが大正製薬の広報課長は「アンプル入り風邪薬は当社だけで9000万本を製造し、10年の実績をもっている。このような死亡事故は偶然が重なったせいで、厚生省の基準に従って製造したのだから問題はない」とコメントを述べ、厚生省の要請に難色を示した。

    この広報課長の難色発言がマスコミで大きく取り上げられ、アンプル入り風邪薬は社会問題へと発展していった。厚生省は責任が自分たちに及ぶことを恐れ、大正製薬、エスエス製薬に販売中止を再度要請、両社はこれを受け入れることになった。大正製薬は「強力パブロン・強力テルミック」、エスエス製薬は「エスピレチン」などのアンプル入り風邪薬を販売中止とした。

    アンプル風邪薬は販売停止となったが、薬局に置いてあるアンプル風邪薬を回収しなかったため、その後もアンプル風邪薬による死亡例が続発することになる。在庫を抱えた薬局が「在庫一掃大売り出し」を行っていたのだった。

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    風邪薬の副作用の大部分はピリンが原因とされているが、厚生省は「患者の体力が弱っている時に、早く治りたい一心から多く飲み過ぎたこと、他の薬剤との併用が原因ではないか」と述べ、悪いのは患者本人であるかのような発言をした。中央薬事審議会は「水溶性のアンプル剤は吸収速度が早いため、血中濃度が急速に上昇し、毒性が強く出たのであろう」と述べ、さらにショック死は「使用者の特異体質も原因」とコメントした。

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    厚生省の対応はかつてないほどの英断と評価されているが、製薬会社は大損害を被ることになった。そのため厚生省は回収が終えた時点で製薬会社を集め、今回の経緯について説明するとともに、損害を与えたことを陳謝している。この製薬会社への遠慮が、後に続くクロロキン網膜症の対応の遅れを作ったとされている。

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    60年代

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      パラリンピックって名称が使われ定例化しだした1964年の東京大会にあたっては高度経済成長期に所得倍増計画を打ち出したので有名な当時の池田勇人首相に車いすの選手をつれていって直訴するなどリハビリの先駆者であるストークマンデビル病院のグットマン医師や別府病院の中村裕医師が中心となって奔走し開催にいたったという経緯がある。そして東京オリンピック・パラリンピックと同じ1964年には障害のある娘を持つベストセラー作家の水上勉が「中央公論」誌で「拝啓池田総理大臣殿」と題した長い手記を発表してた。

       

      島田療育センター(Wikipedia)

      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%99%82%E8%82%B2%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

      東京の南多摩郡多摩村落合中沢というところに、島田療育園という重症心身障害児の収容施設があります。ここには約50人の盲、オシ、ツンボ、精薄、脳性マヒ、テンカン、奇形などの障害を、一身でいくつも背負っているかわいそうでみじめな子供が収容されています。こうした子供さんたちは、ダブル・ハンディキャップといわれて、人一ばい手がかかるために、一般の児童福祉施設や精薄児や盲、ロウアの施設などからしめだしをくったのです。ところが、ひとりの篤志家の決意によって設けられたこの施設に収容されることになったのです。「世の中には、重症心身障害の子を家にかくしてひそかに育てている人たちが、何万人いるだろう。むかしのように座敷牢に入れたり、まるで飼い殺しにするような状態から、何とかしてその子たちを救いたい」念願からこの療育園は出発したのだと園長はいっています。(略)

      ところがこの島田療育園に、現在まで政府が、どのような援助をなされたか、私が調べたところによりますとだいたい、次のようになります。昭和35年度4百万円。37年度6百万円。それだけであります。現在この療育園で、一児につき実費36万円かかるそうです。現在では合計2千7百万円の実費のかかる収容児をもっていますが、政府補助は、わずかに全費用の2割にしかなりません。療育園ではこの不足分をどうしておられるかというと、募金などに頼っているとの返答です。(略)

      総理大臣。私は、あなたに私の泣きごとをかいてみたかったのではありません。私は重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒したからです。政府が、今日までに、あのオシヤ、ツンボや、盲やかわいそうな子供たちが、施設からしめ出しをくって、収容されている療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです。私は、私の働いた金が、この島田療育園の子らにそそがれるのであったら、どんなに嬉しいかしれません。私ひとりの子でなく、私の子とおなじように歩けない子らの上に、そそがれる金であったら、私はどんなに嬉しいかわかりません。(略)
      — 水上勉「拝啓、池田総理大臣殿、」 [4][5]

       

      島田療育園は国に認可された初の重症心身障害児施設である。上記引用にある「ひとりの篤志家」とはパチンコ経営者の島田伊三郎であり、島田氏の息子は重い障害を抱えていたために夫人が介護に忙殺されていた。

      慶応病院の小林提樹の助言で重度障碍児をあずける施設の構想が芽生えて当初千葉県の土地を買おうとしたけど、現地住民の反対に会って多摩市になった。計画が進む中で島田氏の息子が事故で亡くなったり経営悪化で建設費が捻出できなくなるなど度重なる苦難のすえ、財界からの支援もあって島田療育園は1961年小林提樹を園長とし開設にこぎつける。

      しかし当時の児童福祉法では重症児が対象外だったために、社会福祉法人ではなく財団法人になった。財団法人は補助金が受けられず寄付にも税金がかかるため財政難となり、水上勉による告発「拝啓池田総理大臣殿」にいたっている。

      同じころ秋田県で島田療育園への入園を希望する17人ほどの重症心身障害児が人手不足のため受け入れを断られたのを秋田魁新報が報じたことで、同県の若い女性15人ぐらいが島田療育園に集団就職し彼女たちは「おばこ天使」と呼ばれた。おばことは秋田の方言で嫁入り前の娘さんみたいな意味らしい。

       

      https://www.amazon.co.jp/dp/B000JA7IKQ

       

      水上氏の告発が反響を呼んで、1967年から補助金が拠出されるようになった。その翌年には島田療育園に続き重症心身障害児施設の先駆けであるびわこ学園のドキュメンタリー映画「夜明け前の子どもたち」が制作されている。

      1968年は群馬県で国立コロニーのぞみ園の起工式だった。「拝啓池田総理大臣殿」「おばこ天使」で島田療育園の厳しい状況が知れわたるなかで重症心身障害者の終生保護を目的とする大規模なコロニー建設が具体的に検討されるようになり、1965年に厚生大臣の私的諮問機関として学識経験者17人からなる心身障害者コロニー懇談会が設置され、委員に島田療育園初代園長の小林提樹やびわこ学園の糸賀一雄、ソニーの井深大などが就任している。

       

      知的障害者の施設をめぐって 第8回 終生保護のための大規模施設コロニー(NHKハートネット)

      https://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/choryu/261753.html

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      障害者が暮らす村、コロニーの歴史は古く、欧米では19世紀末には、すでに千人を超える規模のコロニーが建設されていました。日本の施設のほとんどが自立生活の指導訓練のための100人にも満たない小規模な施設だったのに対して、コロニーは敷地内に、住宅、病院、学校、商店、農場、作業所などを備えた小さな町であり、終生保護を想定した大規模なものでした。一方、日本は、大規模施設どころか、終生保護を目的とする施設そのものが存在しませんでした。それだけに親亡き後の子どもの生活に不安をもつ重症児者の親たちは、欧米のコロニーにあこがれを抱いていました。

      しかし、欧米のコロニーは、障害者が一生安心して暮らせる居場所を確保する目的がある反面、障害者を一般社会から隔離収容するという負の側面ももっていました。この「保護」と「隔離」という二面性は、施設福祉の関係者の間でつねに論議となる問題です。とくにコロニーは「終生保護」を目的とするので、隔離の意図がなかった場合でも、結果として一般社会から隔絶した生活に陥ることが予想されます。日本でコロニー建設が検討されることになった1960年代、世界ではコロニー政策は人権の観点からすでに否定される傾向にありました。そして、施設は小規模化にすべきであり、できれば施設よりも地域で暮らすのが理想であるという考え方が広がっていました。

      日本のコロニー懇談会の委員たちも、そのような欧米の施設福祉の潮流は知っていました。そのために懇談会では、重症児者の親たちの終生保護を求める声に応えながらも、もう一方で障害者が一般社会から隔離されないように慎重に話し合いを進め、欧米の模倣ではなく、日本独自のコロニー建設をめざしました。

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      1968年(昭和43)には、群馬県高崎市で日本初の国立心身障害者コロニーの起工式が行われ、2年後の1970年(昭和45)に工事が完了し、翌年から入所が開始されました。名称は「国立のぞみの園」とされました。この国立コロニーの開園に前後して全国の自治体でもコロニー設置の計画が進み、さらに民間施設のコロニー化もはかられ、障害者福祉の世界ではコロニーブームと呼ばれました。

       

      コロニー建設の背景としては介護におわれる親への同情があったと思われ、人いちばい手がかかるのでどこも引きとってくれない「かわいそうでみじめな子ども」を早く施設に送ってあげないといけないし、1970年に親が脳性麻痺の子どもを殺害する事件が起こったときも減刑運動が起こっている。このような風潮に対する青い芝の会の反発はもちろんのこと、70年代も半ばになると施設職員の労働争議で島津療育園の小林提樹やのぞみ園の菅修が園長や理事長をしりぞくなど重症心身障害児の福祉政策は早くも岐路にたたされていたようだ。


      元テレビっ子

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        このブログの懐かしいカテゴリ生まれる前の話がほとんどなのであんまり懐かしくないのだが、今回はひさしぶりに懐かしいくしゅくしゅソックス時代を思い出すことにした。くしゅくしゅソックス時代とは1989〜1994年にJKがルーズソックスの原型みたいな靴下を履きだしたってことで私が勝手にそう呼んでおり、80年代と90年代もしくは昭和と平成の過渡期というつかみどこのない時代でジュリアナ東京やヘアヌード写真集など一時的に狂騒的なノリが支配してたのが、1995年のサリンやら震災やらで日本が鬱で謹慎ムードに転換するやいなや人々から瞬時に忘れられてしまった。

         

        はなきんデータランド 1993/12/3 名古屋テレビ放送分(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=TzM0fMr8XxM

        かってギャル雑誌にランズキってのがあってもともとはランキング大好きって誌名だったらしい。ギャルとランキングに何の関連性があるのかよくわからないのだけど、たぶんJKの流行がマスコミのお仕着せからストリートやクチコミへ移行するにあたって売れ筋ランキングっていうのが消費生活における重要な指針となっていったのではないだろうか。

        テレビ朝日系「はなきんデータランド」は1989年4月から1996年3月までと放送期間からくしゅくしゅソックス時代を象徴する番組だ。わがくしゅ時代の毎週金曜日は19時からドラえもん見てはなきんデータランド見てミュージックステーション(司会がタモリと生島ヒロシと有賀さつきの三人体制&ジャニーズ低迷期)と、前半戦はテレ朝2時間見てからいったん風呂入って22時からTBSドラマ(冬彦さんとか高校教師とか)からもぎたてバナナ大使てな流れだったと思うのだが途中から発明将軍ダウンタウンにくらがえしてはなきん見なくなった。

        しかし冬彦さんとか高校教師ってドラマのラインナップもだけど、書籍売り上げの第2位が完全自殺マニュアルってのもいかにもくしゅくしゅソックス時代らしい不謹慎さだし入水は嫌すぎる。当時は人権うるさくなりつつあったいっぽうでやけにエロだサイコだオカルトだと暴走してる部分もあり浅ヤンのヒッピーからヤッピーもちょうどこの頃だった。

         

        1993年11月17日 「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会各位

        http://www.npokama.org/kamamat/bunsitu/kaze/hansei.htm

         

        「SOS」大雪山遭難事件 不倫女性焼身自殺テープ(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=18xRDnaOWew

        SOSってでっかい丸太で文字作ってそこに「SOS−崖の上で身動きとれずーー」って大声とミンキーモモの歌が入ったテープと声の主の遺体が発見された1989年の怪事件。9の字事件とかミステリーサークルとかもあったので、空からしか見えないでっかい文字ってのが不気味に感じられナスカの地上絵にまでガクブルだった。

        遺体は1984年から山で遭難してた当時25歳の会社員だそうで、もうその頃から成人男性ミンキーモモみたいな幼女アニメ見てたってことだ。1984-89年とちょうど私の中でオタクおよびロリの市場が巨大化してくると位置づけてるバブル時代のあいだ行方しれずで、ぐうぜんにも史上最悪のロリ事件を引き起こしたほぼ同世代の宮崎勤が逮捕されたのと1日違いで発見されたってのが今思うと平成幕開け感ある。

        幼女アニメといえば1992年3月からセーラームーンが始まってて、私はもうマンガとか読んでも白鳥麗子とかだったんで世代じゃないんだがむしろ男子が見てた。だからミンキーモモといいセーラームーンといいエロではなくもともと幼女向けに作られたようなかわいらしいアニメキャラがオタクの心わしずかんでた部分もあるのもしれない。

         

        風船おじさん Part(1992年4月20日)

        https://www.youtube.com/watch?v=yh2KXz6Io2w

        風船を気球みたいにして飛び立ったおっさんがいてけっきょくそのまま行方不明になった。SOSやミステリーサークルのような空からしか見えないでっかい模様・・が怖かったいっぽうで風船おじさんや伝書鳩のような空へ飛び立っていくものにはなみなみならぬ憧れを抱いており、手紙つけて飛ばした風船に返事が来た人とかがすごいうらやましかったし、昔ギリシャのイカロスがロウで固めた羽で飛び立ったけど太陽熱でロウ溶けて墜落したっていうよくわからん歌も好きだった。

         

        キラキラネームのはしり 悪魔ちゃん命名騒動(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=d0be3gr8m3Y

        自分の子どもに悪魔って名前つけようとした人がいてすごいニュースになってた。1993年なので前述の完全自殺マニュアルやヒッピーからヤッピーとかと同じ年だ。

        なぜかこのニュースのバックに「ぼくたちの失敗」が流れてるのだが、ドラマ「高校教師」がヒットしたのも1993年であり、ついでにいうとジュラシックパークに端を発する恐竜ブームやジュリアナのTバックギャルもこの時期だった。それにしても昔のワイドショーていかにもおばはんが見る番組って感じで、東海林のりこや福岡翼などオバタリアン世代の芸能レポーター(当時50代ぐらいか?)が活躍してたのだが、この年に2時のワイドショーがTHEワイドになったあたりから有田芳生を筆頭にコメンテーターが多くなってきて、「おはようナイスデイ」も「ルックルックこんにちは」もオバタリアン世代の高島夫妻がなんにでも味の素かける「ごちそうさま」もなくなりさまざまな健康食品を世におくり出した午後はまるまる思いっきりテレビというオバタリアン番組までいつのまにかヒルナンデスになって、オバタリアン絶滅期に入った今なおオバタリアンのノリでがんばってるのはテレ朝ぐらいになった。

         

        本木雅弘 「東へ西へ」  【1992年 紅白歌合戦】(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=_CSCrcQ5A0s

        パートナーシップ条例が始まった頃ぐらいだったろうかジェンダーレス男子やGENKINGを人気者に仕立て上げようとするなど今にいたるまでマスコミがLGBTって概念を謎に激推し続けてるのだけど、くしゅくしゅソックス時代にもゲイとか女になった男が頻繁にとりあげられており、そのきっかけになったのが1988年に「笑っていいとも」でやってた「Mr.レディー&Mr.タモキンの輪」だったらしい。まだ当時は今ほど人権意識高くなく保毛尾田保毛男の例もあるようにホモとかおかまとか呼ばれて、くしゅくしゅソックス時代特有の呼称としてミスターレディてのもあったのである。

        ボディコンギャル顔負けの美貌を誇ったミスターレディたちも、1995年以降はコギャルの勢いの前にかすんでしまったのかルーズソックス時代はそこまででもなかったのだが。またゲイ、セックス感染のイメージが強かったエイズも、川田龍平が1995年3月実名公表して以降は薬害事件として話題になることのほうが多くなっていった。

        くしゅくしゅソックス時代は治療法がなかったのでキース・ヘリングやフレディー・マーキュリーなど著名人も亡くなり死亡不可避なゲイの病ってイメージが強かった。バブル時代は日本人の患者が判明するなどエイズのパニック期だったのが、90年代初頭にはコンドームでセックス感染予防しようという啓蒙がさかんに行われ1993年にコンドマニアっていうコンドーム専門店がオープンし同じ年にアクトアゲインストAIDSっていうコンサートが始まる。

        しぶがき隊が解散し「シコ踏んじゃった」って映画に出るなど俳優業で売れっ子になっていったくしゅくしゅ時代の本木雅弘も、1992年末の紅白歌合戦に出演したとき白い汁の入ったコンドームを首のまわりにいっぱいつけた衣装と巨大コンドームを手にエイズ撲滅をアッピールした。化粧し尻も見せていたので、ゲイを意識したパフォーマンスだった気がする。

         

        「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>(2014年04月7日 地球人スピリットジャーナル2.0)

        http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/osho19927-9a87.html

        ・・・

        帰国後、OSHO著作の装丁も手掛ける女性画家Maミーラが来仙して「アート・グループ」のワークショップが行なわれ、また7年振りに新譜「ニライカナイ・パラダイス」を出したSwウパニシャッド(喜納昌吉)のコンサートが仙台生年文化センターで行なわれ、静かな北日本でもOSHOのムーブメントは深くその渦を広げて行った。

        ・・・

        その後Swウパニシャッドは、芸能人の国民歌手としてのステータスである91年歳末NHK紅白歌合戦にOSHOの大きなサインを胸につけて登場し、ヒット曲「花」を歌い上げ、最後に世界に向けて「ヤフー!」とOSHO流の挨拶を送って新しい年と新しい時代の幕開けを宣言した。

         

        くしゅくしゅ時代の紅白といえばもっくんの前の年に喜納昌吉も出てたらしいのだけどこれは全然覚えてない。もうこのころJ-POPの脱歌謡曲化が著しいしジャニーズなどアイドルもパッとしなかったので紅白は低迷期に入ってると思う。

         

        MJ 井上陽水特集(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=PE5sKkKkkLQ

        遠恋発祥やチャゲアス「YAH YAH YAH」で殴りに逝くって歌われたフジテレビ系の歌番組MJ(ミュージックジャーナル)司会は夜のヒットスタジオと同じ古館伊知郎のほかに加山雄三と田中律子もいた。動画は井上陽水特集でバックに1972年発表の「東へ西へ」が流れてたけどこの曲は栄養ドリンク「リゲイン」CMで24時間戦えますかの次にやってた本木雅弘バージョンにてカバーされててさっき書いたように紅白にも出た。

        MJは短命番組ながらけっこう印象に残ってるので電光掲示板とかFAXガールとか懐かしいすぎる。くしゅくしゅソックス時代の毎週水曜日はドラゴンボールZやらんま2分の1のアニメにやまかつ、木曜日はクイズ年の差なんてと世にも奇妙な物語にみなさんのおかげですと水・木にかけてフジテレビ率高かった。

         

        アニメ 「YAWARA」 - 第1話 & 第2話(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=-aHF3IQsShs

        1989から1992年にかけ日テレ系で柔道のアニメ「YAWARA!」が放送され主題歌のミラクルガールもヒットした。主人公の猪熊やわらという女の子がおかっぱ頭だったために、当時の有力選手だった田村(谷)亮子がモデルなのかと思っててじっさい田村選手もやわらちゃんって呼ばれてたのだけど、いくらマンガとはいえ顔違いすぎて戸惑った。

        しかし今しがたWikipedia見たところマンガのYAWARAが先にあって田村氏のあだ名がやわらちゃんになったと書いててようやく事情がのみこめた。同じころにあったちょっとエロい漫画ぷりんせすARMYの主人公もおかっぱの柔道少女で、つまるところ1992バルセロナオリンピック時のやわらちゃんブームはすごかったのである。

         

        これは動画じゃないのだけどくしゅくしゅソックス時代はレンタルビデオ全盛期だったように思う。くしゅくしゅソックス元年でもある平成元年、昭和天皇崩御で幕開けたためにテレビが自主規制し人々は見るもんなさすぎてレンタルビデオに押し寄せたってな話もよく語られるところである。

        邦ちゃんと西田ひかるの「山田ババアに花束を」、同時上映だった野島伸司脚本で島崎和歌子と大江千里「スキ!」いづれも映画ではなくビデオレンタルで見て好きな作品だった。しかし邦ちゃん「年の差なんて」「必撮ビデオあんたが主役」「もぎたてバナナ大使」など司会業をはじめお笑いに歌にと活躍しマクドナルドのカレーライスのCMもやってたのがルーズソックス時代をさかいにテレビから姿を消した。


        ベビーヘア

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          評価:
          Array
          Genie Music Corporation, Stone Music Entertainment
          ¥ 700
          (2019-06-14)

          韓国の歌番組で見かけたロシーっていう歌手が気になってミュージックビデオをチェックしたところ、歌よりもポニーテールがかわいくて何回も見てしまう。ルーズながら全体を細かくウェーブにしてるのだけど、生えぎわの短い毛もしっかり巻いて天ぱっぽくしてるのがポイントで個人的にはシースルーバングよりこっちのほうが好き。

           

          로시 (Rothy) - BEE MV(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=3PFJrUN7BXw

           

          モモランドのデイジーとかユーチューバーのひよんちゃんもこういう生えぎわクルクルのポニーテールよくやってる。アイドルがポニーテールやツインテールしてるのだけど、とくにこのくせ毛ふうアレンジが韓国人ぽく、またこんなガーリーな髪形にあえてのTシャツにズボンという男みたいな服装を組みあわせるのが現代的だ。

          それにしてもこのロシーて歌手、雰囲気がすごいIUに似ててコメント欄にもそう書かれてるし本人もIUに憧れてるのだという。再生数を見るかぎりそこまでヒットしてるわけでもなさそうだが歌もよかった。

           

          【前髪アレンジ】次はこれ‼韓国で話題の前髪2パターン|Two Bang Types Popular in Korea!(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=yd6ePRACEIw

           

          【簡単ヘアアレンジ】究極かわいい♡韓国アイドルヘア【K-POP】(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=0DGztiDTNto


          小児科の本

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            このブログで障害者の記事を書きだしたのは、風疹の検査は優生思想・・みたいな話をネットで見たのがきっかけだった。30年ぐらい前に風疹の入ったMMRワクチンというのが副反応ですごい問題になってたのでもしかすると現在の流行もその話と関係あるのかもしれないが、多くは大人の男性が感染源になっていると聞く。

             

            大阪の0歳男児、先天性風疹症候群…今年3例目(6月20日 読売新聞)

            https://www.yomiuri.co.jp/national/20190620-OYT1T50288/

             

            風疹ワクチン、40〜57歳男性に無料接種 なぜ必要(6月23日 Yahoo!ニュース)

            https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190623-00000005-nikkeisty-hlth

             

            妊娠初期の女性が風疹にかかると赤ちゃんの目や耳に障害が出るってことから昔は女にだけ打ってたのだろうし今でも男は打たなくていいって人もいる。予防接種の話でややこしいのが日本で副反応が問題になったMMRワクチンが、その後海外では自閉症の原因になるといわれたことで忌避され麻疹が世界的に流行してしまったことだった。

            MMR自閉症説はヒッピーみたいな人が支持してるという話もある。わが国でもユナイテッドピープルがMMR自閉症説の映画を配給しようとしてたことを考えると、上映中止ならなかったらそれこそ環境運動系の人たちが麻疹ワクチンを危険視する流れに行ってたのかもしれない。

            だがそもそも日本のワクチン忌避はヒッピーというよりも障害者運動の影響が強いことから、その関係もあってヒ素ミルクの「元の体に戻せ」石けん運動の「合成洗剤で奇形児に」みたいなノリのMMR自閉症説はあまりポピュラーにならなかったのではないだろうか。日本ではインフルエンザみたいな効かないし病気自体がたいしたことないとされているワクチン、また日本脳炎やポリオみたいに滅亡したも同然なワクチンが批判されてることが多く、麻疹は病状が重くワクチンの効きがたいへんすぐれていることから打ったほうがいいって言われることが多い。

            もともと副反応に対して声をあげたのがインフルエンザの副反応であり、またかって天然痘の予防接種が天然痘なくなってからもけっこう長らくやってたそうで、たいしたことない病気や古い病気のワクチンなんかやってたら病気から救われる人より逆にワクチンで病気になる人のほうが多くなっちまうというわけなのだろう。子育て雑誌「ちお」などジャパンマシニスト社の執筆者のあいだでも統一見解があるとは限らないので説明が難しいのだが、山田真の「はじめてであう小児科の本 改訂第四版」(2016)にもMRワクチンは打っておいたほうがいいって書いてる。

             

            麻疹(はしか)は英語でMeaslesといい、風疹は英語でRubellaというので、両方の頭文字をとってMRワクチンといいます。つまり麻疹と風疹を予防するためのワクチンです。

            麻疹はこのところ激減して患者は年間200人から400人くらいになりましたが、やはり予防接種がさかんに行われたためでしょう。

            麻疹にかかった場合、せきや発熱がひどく、なおるまでに二週間くらいかかることがあります。生命に関わることは滅多にありませんがやっかいな病気ですから、予防接種をしておく方がよいと思います。

            風疹はほとんどの場合、かかっても軽くすみ、かかった人のうち15〜30%は発病しません。(発病しないで免疫ができることを不顕性感染といいます。)

            しかし妊娠初期にかかった場合、胎児が先天性風疹症候群という状態になる率がかなり高いので、女の子はワクチンをうっておくべきです。幼児の時にワクチンをうつよりも大きくなってかあうつ方が副作用が少ないのではないかと考える人もいますが、そんなことはないようです。

            1歳から1歳半の間にMRワクチンの形でうつのがよいと思います。

            (山田真著「はじめてであう小児科の本」388〜389ページより)

             

            MRのほかに打っておいたほうがいいワクチンとしては四種混合(百日咳、ジフテリア、破傷風、ポリオ)があげられてるけど、このうちジフテリアとポリオは古い病気なので本当は必要ないのだけど四種混合でしか製造されてないとのことである。あとBCGと水ぼうそうとおたふくかぜがあげられてたのは意外だった。

            ワクチントークの黒部信一がBCGに反対してるのと、水ぼうそうとおたふくかぜって昔はかかったとこでそんなに大騒ぎしてなかった(最近になってワクチンでの予防がさけばれだした)ように思うので、打たなくていいと言ってそうなイメージを勝手に抱いてて、じっさい別のページでは小さいうちにかかっておいたほうがいいとも書いている。また毛利子来と出してた「育育児典」はもっとワクチンにたいして懐疑的だった気がするのだが、あの本は予防接種のページを毛利医師が担当していたと記憶しているので、山田医師のスタンスはそれよりもちょっとゆるいということなのかもしれない。

            なのでけっきょくどのワクチンが危険かってより、お子さんに何打たすかはお母さまに選ぶ権利があるのでまわりが虐待だとか公衆衛生の脅威だとかとやかく責めたてるべきではないという「母親に寄り添う姿勢」のほうが重要なように思える。また生きとし生けるものはみんなつながってて意味があるのに悪い菌や障害をこわがってこの世からピンポイントで滅亡さそうとする、人間の選別する心が優生思想なのだという点で障害者運動とも連動してくるのだと。

             

            ここでどうしてもひとことつけ加えておきたいことがあります。妊娠中に風疹にかかったり薬をのんだりした時、「障害児が生まれるのではないか」と大騒ぎする人がいます。妊娠中の母体は大事にされる必要があり、病気や薬物、放射線などに気をつけなければならないのは当然ですが、「障害児」「奇形児」が生まれるということで騒がれるのはわたしはいやです。「障害」や「奇形」を持っていることが「よくないこと」であり、そういう「よくないもの」は生まれてくるべきではないという発想がその背景にありそうで、それは優生思想に他ならないと思うからです。

            どんなに医学が発達したとしても、いわゆる「障害」や「奇形」を持ったこどもたちはかならず生まれてきます。環境が汚染されつつある今、生まれつきの病気を持ったこどもが生れてくる率は確実にふえているといってよいでしょう。

            そのような時、わたしたちがまずしなければならないことは、障害を持っているとか持っていないとかいうことで差別をされることのない社会を作ることであり、どんな人にも住みよい社会を作ることです。

            そのことをおろそかにして、「障害児や奇形児が生まれてこないように」と様々な発生予防の手段ばかり考えていくことは、今、現に生きている「障害者」に対して「生まれてくるべきでなかったもの」として鞭うつことになるのです。

            「障害児を生みたくないから」ということで風疹の予防接種を熱心に望む女性の姿勢、予防接種をまだしていなくて妊娠中に風疹になった女性がすぐ中絶しようとしたりする姿勢になんとなく肌寒いものを感じます。

            ・・・

            (山田真著「はじめてであう小児科の本」369〜370ページより)

             

            「はじめてであう小児科の本」はジャパンマシニスト社ではなく福音館書店という児童書などの出版社から出てて、同社の育児雑誌に「母の友」に「母のための小児科学」として連載されていた。山田真や毛利子来といった左翼系の小児科医のあいだでは小児科や育児書が母親に寄りそってないっていう問題意識があったらしく「子育て―みんな好きなようにやればいい」ってタイトルの著書もあるし、昔サンマークから出てた子どもの病気の原因は母親と主張する「母原病」も批判してた。(さし絵は同じ人なのだが)

             

            ・・・

            例えば、とてもなおりにくい喘息のこどもについて家庭の様子を調べてみると、お母さんは過保護で、一方お父さんの方はてんで無関心というケースが多いという報告もあります。

            そこで、過保護なお母さんとこどもを切りはなす目的で入院させますと、喘息がよくなるといわれたこともあります。そして喘息を「母原病」などと呼びお母さんの責任にするお医者さんもいましたが、そのことにわたしは腹をたてました。お母さんは自分で勝手に過保護になったわけではなく、たいていは、はじめにかかったお医者さんにおどかされてそうなっているのです。「これはたいへんだ。喘息だ」とか「かぜをひかせないように厳重に注意しなければ」とか、あるいはまた「早めに治療するようにしなければ」などといわれたはずです。

            そこでかぜをひかせないために、おもてへ出さないようにするとか、厚着にさせるとか、ちょっと咳が出たからといって病院へ連れていくとか、そんなふうになってしまうのです。ですからこれは「母原病」というより「医者原病」といってよいでしょうし、父親の方が育児をなおざりにすることでお母さんが一人で責任をかぶるようになって過保護になるのだとすれば、それは「父原病」といってよいはずなのです。

            こどものからだについての問題をすべて母親のせいにしようとするのは、育児は母親がすればよいという間違った考え方から出てくるものとしか考えられませんから、わたしは「母原病」なんていう言葉には反対したのです。

            (山田真著「はじめてであう小児科の本」105〜106ページより)

             

            山田真の本読んでたら夫婦別姓で家事も分担してたそうで、夫婦別姓はともかく家事の分担はこの世代ではかなり珍しい。なお母親が原因で子どもに病気が〜の系譜はおそらく戦後に顕著な傾向と思うが、昔は自閉症もMMRではなく心が冷たい「冷蔵庫マザー」によって引き起こされると言われていたらしい。

             

            Steve Silberman: The forgotten history of autism(YouTube)

            https://www.youtube.com/watch?v=_MBiP3G2Pzc


            日本アイドル史

            0
              評価:
              南沙織
              Sony Music Direct
              ¥ 1,750
              (2013-04-10)

              けっこう前に思いつきで1984年ごろの世相をまとめた記事を書いてて、当時「投稿写真」など投稿系雑誌があいついで創刊されたこともふまえてカメコ全盛期な気がしたのだけど、もしかするとアマチュアエロ写真文化が出てきた背景に篠山紀信のアイドル写真の存在があったのかもしれない。1974年に創刊されたゴローって雑誌があり創刊翌年から「激写」ていう篠山紀信がアイドルとか撮ったシリーズやってたらしい。

              Wikipediaによると激写の第一号が山口百恵であり、1979年には「激写・山口百恵」てNHK特集も放送されてたと書いてて、あゝその番組NHKアーカイブスで見たことあるな・・って思い出した。激写の人気を受け1980年に篠山氏をメインとした写真雑誌「写楽」もあったとのことだが、こちらは1985年末に発売された号をもって休刊している。

              激写が今の激安とか激ウマみたいな激○の元祖らしいのだが、激写というと何かスキャンダル写真みたいな感じがするし、私の世代だと篠山紀信はサンタフェなど狂乱の平成初期におけるヘヤヌード写真集のイメージなのだった。しかし少なくとも1970年代すでに芸能人のお色気グラビアで篠山氏は他の追随を許さぬ地位を築いていたとみえる。

              男は60年代からジャニーズとかグループサウンズとか団体いたけど、女は今イメージするところのミニスカートで可愛い系みたいなアイドルが出てきたのって、1971デビューの天地真理、小柳ルミ子、南沙織、1972デビューの麻丘めぐみ、アグネスチャン・・など、高度経済成長終了後の話ではなかろうか。前述の山口百恵は1973年に歌手デビューしてて、日テレ「スター誕生」で合格した森昌子と桜田淳子の3人で「花の中三トリオ」って呼ばれてたらしく、団体としてはキャンディーズも同年デビューだった。

              GORO誌が創刊された1974年とは、そうした女アイドルが出そろったタイミングである。雑誌グラビア自体はそれまでもあっただろうけど、激写が今に通じるアイドル文化を形成していた部分は大きかったにちがいない。

              昭和における水着グラビアとしては東レやユニチカなど化学繊維メーカー、水専用ファンデーションやサンオイルといった化粧品キャンペーン、あとクラリオンガール、JALなど夏や海に関する広告のイメージが強いが、グラビアアイドルの元祖的存在は激写シリーズが始まった同じ年、エメロンのCMをきっかけに爆発的な人気を博したハワイ出身のアグネスラムとみられる。その顔立ちを見る限り、もう70年代も半ばになると欧米への憧れもひと段落してるのか外国人モデルでもめっちゃ掘り深いって感じでもなく、少女漫画でもお目目キラッキラにしなくなってきて、前田美波里がサンオイルのモデルやってた時代に比べたら美形な欧米人顔やつけまつげバチバチのデカ目メイクよりさっぱりとしてかわいい顔が好まれるようになってきたのではないだろうか。

              またアイドル歌手、グラビアアイドルのほかにも古い日本映画とか見てたら秋吉久美子、原田美枝子、森下愛子、風吹ジュン・・あたり脱ぎまくってるイメージがある。時期的にそういう若手女優が激写の被写体になることもあったはず。

               

              大場久美子 オリンパス OM10 CM 1979年(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=uRDsv53kaBY

              大場久美子は静止画のようにじーとこちらを見据えているのだが、おもむろに首からかけてたタオルをとるとビキニ着ててドキっとした。この1979年のオリンパスのCMは、俺も激写みたいに可愛い(のにおっぱいでかい)女をちょっとエロいい感じに撮ってみてぇというアマチュアカメラのロマンが醸成されつつあったてことなのかもしれない。

               

              【懐かしいCM】ミノルタ X-7 - 宮崎美子 YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=LgKc-oJc1R0

              翌1980年にはミノルタのCMで宮崎美子が人気爆発。大場久美子と同様ちょっとミュージックビデオっぽい構成である。

               

              早見優 PENTAX CM 1980年代(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=aziNa2GzV5w

              1982年ペンタックス早見優。テクノ時代のカメラCMはいづれも水着のおなごの可愛い一瞬をカメラマンきどりな男が撮っているって点でどこか激写的なのだけど、もういっぽうで盗撮の機運も高まりつつあった。

              冒頭でも書いたように1980年代半ば投稿系雑誌の創刊が相次ぎミノルタα7000が発売されてることをふまえ、バブル時代(1984-88年)はカメコ全盛期ってブログにまとめてたけど、下記サイト読んで私の歴史観も意外と正しいと思った。文中に出てくるセクシーアクションって固有名詞を画像検索すると80年代の盗撮文化がかいま見える。

               

              『投稿写真』のあったころ 第1回(WEB本の雑誌)

              http://www.webdoku.jp/column/ohashi/20091015_122539.html

              ・・・

              読み物の内容もさることながら、「投稿」雑誌を「投稿」で成り立たせるためには、当然、多くの質のいい投稿者が存在しなければならない。今でこそ、携帯電話についているカメラでさえ、誰でもプロ並みの写真が気軽に撮れるようになったが、'80年代の頃の一眼レフカメラは、専門知識を持っているプロかマニアの使う高価な機材で、一般人の使うカメラといえばコンパクトカメラが主流。しかし、コンパクトカメラで撮った画像では、大伸ばし(ちなみに「セクシーアクション」はA4判、「投稿写真」はA5判)に耐えるだけの解像度が足りなかった。

              コンパクトカメラを使ってネガフィルムで撮られた写真は、せいぜいキャビネ判までが限界で、見開き大で使用するには、一眼レフで撮った画像でなくてはならない。幸い、アクション写真を撮る投稿者達は、セミプロ並みのマニアもいて、一眼レフで撮った作品を投稿してくれていた。(今だから書けるが、犯罪的な盗撮写真のほとんどは実はヤラセで、プロのカメラマンが撮っていた。1ページ大、もしくは見開きで掲載されるスクープ的盗撮写真は、99.9%プロの作品だ。残りの0.1%が本物だったことでいろいろなトラブルも起きるのだが、それは本題に譲る)
              だが、写真を送ってくる投稿者の多くがアイドルファンもしくはマニアであるアイドル写真ともなるとそうそう簡単にはいかない。彼らが好きなのはアイドルであって、写真を撮ることではないのだ。投稿料目当てで、通常のアクション写真よりアイドルを被写体にした方が掲載率が高くなるからと、鞍替えするセミプロの投稿者もいるにはいたが、アイドルマニア達は、カメラ技術となるとシロウト並みがほとんどだった。

               

              『投稿写真』のあったころ 第2回(WEB本の雑誌)

              http://www.webdoku.jp/column/ohashi/20091022_123910.html

              そんな状況の中、ハード面からの追い風が吹く。'85年に発売された世界初のオートフォーカス(AF)一眼レフカメラ「ミノルタα-7000」だ。この本でカメラの歴史を語るつもりはないので、スペック的な解説は省くが、このカメラの出現はアマチュアカメラマン業界に産業革命的な衝撃を与え、その後、大手メーカーのニコン、キヤノンもAF市場に参入し、一般人への一眼レフカメラの普及は、一気にドカーンと広がった。アイドルファン達も例外ではなく、カメラ小僧(「投稿写真」では"カメラBOY")と呼ばれるアイドル写真マニアを大量に生み出す原動力となった。

              同じ'85年4月、CX系で「夕焼けニャンニャン」が放送開始、スタート直後はそれほどパッとしなかったものの、デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットするや瞬く間に空前のおニャン子ブームを巻き起こす。その裏で「あざとい」と称される秋元康のプロデュース法が、82年組ではなしえなかった多くのファンとマニアとオタクとカメラ小僧達を大量に生み出すこととなった。

              ・・・

               

              今ショッピングモールで唄ってるアイドルだと至近距離で見れるしスマホの画質いいのだけど、昔のアイドル営業はけっこう距離もあって一眼レフでないときれいに撮れなかったようだ。そしてアイドルは見せパンではなくガチのパンツはいてたのと、パンチラ写真が雑誌に掲載されると報酬が出るため読者はそれ目当てで投稿してたてことでα7000以前はアクション写真(盗撮)とアイドル写真は別ジャンルだったらしいこともわかった。

              昭和50年代グラビアアイドルというジャンルと水着のかわいこちゃんを篠山気取りの男が撮るって設定のカメラCMだが、水着といえば1960年代からあったらしいアイドル水泳大会もまたカメコの標的になっていった。しかしWikipediaによるとアイドル水泳大会は1998年に終わってて、これはギルガメッシュナイトやA女E女の終了時期と同じなので鬱で自主規制なルーズソックス時代さえなんとか生きながらえていたお色気番組もこの時点でいったん滅亡してる。

               

              火曜ワイドスペシャル 第12回 オールスター寒中水泳大会(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=fgR87VpTU9s


              90年代はアイドルと歌謡曲の低迷期で、途中SMAPやTOKIOや近畿が頭角あらわしてジャニーズすごい盛り返したけどそれもどっちかというとアイドルの型を破るという方向性なので80年代に比べるとバラエティや俳優業に重心置きだしたのであり、女にいたってはアイドル感あった売れっ子て広末ぐらいだろう。だが2000年代に入るとサラ金のCMやイエローキャブや真鍋かおりといった水着だけでなくバラエティもこなすルーズソックス世代のグラビアアイドルが次々と出てきたうえ、モーニング娘が後藤真希加入で路線変更して以降アイドル文化が復活してきて今に至る。

              ロリもおそらく宮崎勤の時代から自粛傾向にあったろうしそもそも90年代においてトレンドではなかったと思うのだが(12歳とかでデビューしていた島袋寛子や福田明日香は高校生ぐらいにしか見えなかったし加護ちゃんもやはりデビュー当時はヤンキー娘って感じだった)、2000年代初頭ミニモニや小倉優子が出てきたり昭和歌謡が再評価されてくるあたりが契機となってオタク文化が80年代の様相に戻ってきた気がする。その頃になるとインターネットもだいぶ充実してきたのでパンチラどころかヌード写真の顔部分だけアイドルに挿げ替えたアイコラ画像もよく見かけた。

              いきなりK-POPの話になるのだけど、少女時代が日本に伝来してきたとき日本人から見ていろいろとアクが強く衣装としては股上の深いショートパンツをはいていることが多かったのだが、Apinkという可愛い系ガールズグループの「NoNoNo」(2013)や「Mr.Chu」(2014)あたりからまるで日本のJKみたいなミニ丈のプリーツスカートをはきだし、2015年に日本人メンバーも在籍しているTWICEがデビューしてからは日本ぽさはより顕著なものとなった。K-POPといえばダンスなのでプリーツミニスカートをはいていればパンチラ(実際はズボンだろうが)は必然であり、また日本風グラビアを撮るのでロリコンきめぇと議論をかもしているロタというカメラマンもいた。

              幼い顔に爆乳なグラビアアイドルの篠崎愛が人気出たし、おニャン子クラブでカメコ文化に一役買った秋元が韓国アイドルプロデュースしTWICEやIZONEの日本人メンバーによってK-POPが一部アニメ声で唄われてることもあり、今じゃすっかりセクシー路線が下火な韓国もだんだんロリ・水着・パンチラ・セーラー服といった奥ゆかしい日本的エロが優勢になってくるような気がしてならない。カメコってことでいえば女アイドルに限らず韓国は肖像権(というかアイドルの人権自体が)すごいゆるいらしく今時点でも移動中やら歌唱中に撮られまくってて歌番組で客席が写るとスマホはもちろんすごいレンズで撮ってる人もいる。

               

              韓国のマスターの意味や特権は何?どうしたらKpopアイドルに認知される?(ヨネマルの韓国大好き!)

              https://yonekorea.com/1299.html

              ・・・

              でも機会があれば見てほしいのがマスターさんの撮影テク!!!!良席になった時に周りに黒色&袖ゆるめのワンピースがいたら、恐らくマスターさんですwマスターさんは画質にこだわるので、一眼レフを構えていることが多く、更にレンズの長さがハンパない。スタッフの目をかいくぐって撮影→即座に服に隠すという神業を持っています。ちなみにでっかいカメラが大砲のように見えることから、大砲ヌナ(大砲お姉さん)とかバズーカーヌナ(バズーカーお姉さん)と呼ばれますwww

              見た目は…そう、ジブリのカオナシ的な感じ(笑)え、そのカメラどこから出てきて、どこに消えたの!?と目を疑いたくなります。


              NICU

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                明治の母乳サイエンスに申し入れしてた3団体がちょうどそうなのだけど、わが国の「母乳神話」を形成してきたのはだいたい小林登系、山内逸郎系、助産院系に分類されるのだと思う。くわえてラ・レーチェ・リーグてかなり古くからの国際団体もあって、日本支部の代表者はマタニティヨガとかやってるインストラクターのようだ。

                ヨガってことはスピリチュアルみたいなのも入ってるのかもしれないけど、それはよくわからなかったので1992年「母乳をすすめるための産科医と小児科医との集い」に出席してるラ・レーチェ・リーグの女性を検索したところ、別のサイトでは肩書が「日本母乳の会」運営委員になってたり「赤ちゃんに優しい病院」で母乳の講演してたりするので、やはり山内逸郎の影響は少なからずある。というか「母乳をすすめるための産科医と小児科医との集い」自体が山内先生の呼びかけなのだろうし、この前年には山内先生の岡山国立病院が赤ちゃんに優しい病院第一号に認定されている。

                そして小林登系、山内逸郎系、助産院系の3系列はきれいに分かれてるわけではなく、小林先生が桶谷式の本を監修してたり、日本母乳の会の堀内勁聖マリアンナ医科大学名誉教授と「おっぱいとだっこ」て本を監修してるのが自然育児の山西みな子だったり、また山内逸郎と関係の深い脳科学者の大島清がラマーズ法の出産ビデオ監修してたりと相互に影響してて、前述の「母乳をすすめるための産科医と小児科医との集い」には自然なお産で超有名な故・吉村正も参加していた。吉村医院は妊婦に薪割りとか雑巾がけさしてたイメージが強すぎて母乳についてとくに何か主張していた記憶はないのだが。

                小林登と大島清の研究からは「胎内からの○○」みたいなタイトルで80年代に胎児や新生児の知られざる能力が注目されだしたようで、胎教そして脳科学にもとずいた早期教育や池川先生が有名にした胎内記憶に発展してる。胎内記憶という四字熟語を最初に使ったと思われる本の著者の1人が右脳開発の早期教育で著名な七田眞で、七田チャイルドアカデミー出身の飛谷ユミ子がかみさまとのやくそく〜あなたは親を選んで生まれてきた〜っていう胎内記憶映画にも出演してた。

                母乳すばらしいの根拠となっている研究はだいたいヤギとかサルなどの動物たちが多いのだけども、未熟児や孤児など生まれたてホヤホヤもしくは乳幼児期に母親の愛情をじゅうぶん浴びれずに過ごさねばならなかったことでのちに精神を病んだ人間・・の例もその次ぐらいに多い。なので冷蔵庫マザー説にも顕著なように、自閉症とかサイレントベビーの原因が母親の愛情不足ってことになってたりする。

                前述した日本母乳の会の堀内勁聖マリアンナ医科大学名誉教授がサイレントベイビーの本出してたり、また母子の絆を深める母子早期接触「カンガルーケア」の第一人者といわれてるのだけど、検索したとこによると堀内先生が最初にカンガルーケアを実施したのは1995年12月、本格導入したのは1996年のことなのだそうだ。しかし少なくともその10年ほど前には生まれたてホヤホヤ赤ちゃんを胎脂がついたまま抱くっていうのはすでに行われてたはずで、「3歳児神話」の命名者である大日向雅美の著書にも1986年にNHK「母子の絆〜胎内からのスタート」って番組で生まれたてホヤホヤ赤ちゃん胸の上に抱くシーンが放送されたって書いており、この番組に限らずクラウスとケネルの母子相互作用(生まれたてホヤホヤのヤギ母と引き離すときずなが形成されないし人間も同様に赤ちゃんだっこし目と目を見つめあいおっぱいをあげることで母性愛が深まるけど人工栄養ではそうはいきません)などと並列して紹介されていたのだ。

                ただそういう80年代にラマーズ法で生まれたてホヤホヤ赤ちゃん抱くようなのは全然カンガルーケアとは呼ばれてなく、いつからカンガルーが出てきたのか疑問には思っていた。たぶんカンガルーケアとは1979年にコロンビアの病院でやり出したのを起源とし、わが国においては堀内先生が90年代半ばより始めた未熟児の抱っこのことであって、たぶん未熟じゃない児を抱くのにかんしてはクラウスのボンディング(母子のきずな)理論を根拠としカンガルーケアより先だって行われていたってことなのだと思われる。

                検索して出てきたカンガルーケアの歴史読んだら90年代から始まったカンガルーケアが2000年代に入って未熟じゃない児にまで広まった・・とあるけど、堀内先生がカンガルーケア始めたのと同じ年にWHOが「正常出産のガイドライン」にて早期の母子接触としてのカンガルーケアを推奨してたそうなので、厳密には90年代に未熟児の抱っこだけではなくその前からやってた未熟じゃない児を生まれたてホヤホヤの時に抱くのまでがカンガルーケアって呼ばれるようになったのではないだろうか。その経緯で混同されたという歴史観であれば、起源がコロンビアの病院なのかボンディング理論なのかよくわからなかったりヤギのくせにカンガルーて名前だったりとややこしいかったのもつじつまがあうのだが。

                そのカンガルーケアに異議をとなえているのが久保田史郎で、端的にいうとカンガルーケア自体も危ないし母乳だけで育てたいからとなかなかミルクやらないので新生児の状態が不安定になり、それが発達障害の原因になっているって話だったかと思う。久保田先生への反論としてはラクテーションコンサルタント協会のQ&Aにて、母乳だけで育った子は発達障害どころかむしろIQが高いことが多くの研究で高い根拠が示されている。と、「母乳神話」「3歳児神話」の科学的な正当性が裏ずけられているようなことも書かれていた。

                あと「母乳神話」の科学的根拠ってことでいえば、授乳中に分泌される「愛情ホルモン」ことオキシトシンとか、コンドンの「エントレインメント」(引き込み現象)とかいろいろあり、ソーサって人の研究では生まれたてホヤホヤ赤ちゃん抱くと母子のきずな固く結ばれて母乳で育てられる期間が2倍以上長く、ヤギでは生後5分で人間は12時間とか具体的な数字まで出してる。母乳神話って言い回しには客観的な科学と対をなす迷信という含みが感じられ、ミルクはじめベビー用品の質が向上したり赤ちゃんの生態が分かるにつれ母親が偏見や重圧から解放されるかのような錯覚を抱かしてるのだが、科学が母親に寄りそってくれるとは限らないわけで、たとえばもし原因がわからなかった子どもの病気が母親の愛情不足もしくは母乳不足で引き起こされてると今後「科学的に立証」されたらどーすんだ。と思うことも、ないわけではない。

                なにしろ今時点でさえ「母乳神話」は昔を美化する老害や金に目がくらんだヤブ医者、オカルト助産師といった悪者が若いお母さまがたをいじめるために思いつきで考え出したような荒唐無稽な迷信なのではなく、数多く母乳や未熟児を診た実績のあるお医者さんたちのあいだでさえ生まれたてホヤホヤ12時間以内に抱っこすることが母子のきずなを形成したり粉ミルクより母乳のほうがIQ高くなることが「科学的に立証」されているために、医学や出産について無知な一般人は母乳の優位性を受け入れるしかない状況だ。3歳児神話に関して命名者の大日向雅美の言う「科学的な虚構」もしくは「科学的な研究であれば純粋に客観的な手法によって得られた疑いようのない事実を提供しているはずだという幻想」もおそらくそのへんに問題意識がある気がした。

                さて母乳育児の権威である「母乳は愛のメッセージ」故・山内逸郎先生が未熟児医療の先駆者であり、未熟児の運命は母乳が左右する。てとこからかなり強硬な母乳推しなのでここでもやはり未熟児なのである。すごい名医で1976年の日本初の五つ子誕生のさいに医師団を指導したのも山内先生だった。

                 

                医療の未来を見つめるジャーナリストの視点(総合南東北病院)

                http://www.minamitohoku.or.jp/up/news/southerncross/2011-64/top.htm

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                朝日新聞に入社して、初任地は岡山の支局でした。警察回りもしたし、事件、事故報道もした。しかし、朝日の同期では唯一の理系記者であり、岡山赴任から3カ月後に朝日新聞の全国版に初めて書いた記事は医療に関するものでした。
                685グラムの未熟児が国立岡山病院で誕生し、無事退院した。その当時の日本記録です。それをスクープした。今では400グラム台まで進んでいますが、低体重になると失明や虚弱などの問題が起きてくるので小さな子供を育てたという競争はもう止んでいるけど、その当時はまだあった。
                そこで気づいたのは医療には差があるということ。病院によっても、都道府県によっても、医師によっても。これは厳然たる事実だということです。医療は決して均一ではない。それが私の医療ジャーナリストとしての出発点です。
                その未熟児の主治医は山内逸郎という小児科の権威でした。後に話題になった五つ子の顧問医として知られますが、当時は国立岡山病院の小児科部長でした。
                岡山県は当時未熟児医療のメッカで、岡山の小児科は新生児死亡率をはじめとする三つの指標で三冠。全国でトップの成績でした。

                ・・・

                 

                https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8W8VM

                 

                日本初 五つ子(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=IVhVEmRoubk

                 

                山下さん 五つ子誕生(NHK名作選)

                https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030145_00000

                 

                [昭和51年5月] 中日ニュース No.1166 2「五つ子東京へ」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=L0DZDxMNJvk

                 

                [昭和51年10月] 中日ニュース No.1185 1「五つ子元気で退院」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=G9uMXGIGGPk

                 

                [昭和51年12月] 中日ニュース No.1198 1「ますます元気に」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=52fa6KIle7w

                 

                [昭和52年2月] 中日ニュース No.1203 2「元気に満一歳」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=02QGgoE6SI0

                 

                NHK特集 五つ子 一年(NHK名作選)

                https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010213_00000

                 

                [昭和52年5月] 中日ニュース No.1217 2「チビッ子の休日」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=88s4xofkOJc

                 

                [昭和52年9月] 中日ニュース No.1233 1「五つ子京都へ」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=Xn-tQScmMno

                 

                [昭和53年1月] 中日ニュース No.1251 2「五つ子、もうすぐ二歳」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=bgfSzGWINeg

                 

                [昭和53年2月] 中日ニュース No.1255 1「五つ子 元気に満二歳」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=ihHN94wea0M


                [昭和54年1月] 中日ニュース No.1303 2「五つ子 元気にお正月」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=_gSXdnXPQYM

                 

                [昭和54年2月] 中日ニュース No.1308 2「五つ子 かわいい誕生日」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=RfppG1EX5IE

                 

                [昭和54年10月] 中日ニュース No.1343 2「五つ子 元気に運動会」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=n2VLB29_8l4

                 

                [昭和55年2月] 中日ニュース No.1360 2「五つ子 元気に満四歳」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=aF1_Q8VSUfQ

                 

                [昭和57年4月] 中日ニュース No.1427 3「五つ子、元気に一年生」(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=mLY42AMOX5A

                 

                五つ子 小学1年生に(NHK名作選)

                https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030184_00000

                五つ子の女の子は壊死性腸炎にかかり、体重も1200グラムとかなので手術は無理だったにもかかわらず初乳を飲んでたために自力で回復することができた。母子の絆はカンガルーに学べ。ということわざがあるように(ないけど)初乳の大切さは1グラムの未熟児で生まれて無事育つカンガルーから学んだ、とは山内先生の弁である。

                昔は初乳は何の意味もなくそのあとから出てくる白い母乳がガチなので捨てたほうがいいぐらいに言われてたらしい。山内先生はそうではなく初乳にこそグロブリンAやラクトフェリンといった免疫がすごい入ってるのでありそのおかげで新生児が大腸菌などの悪い菌の影響を受けなくてすむと強く主張していたのだった。

                かくして五つ子はすこやかに成長した。そのフィーバーぷりはすさまじく退院時の人出がご成婚パレードかってレベルだし、その後少なくとも小学校入学まで密着され続けてるのでもしかすると山下家が大家族スペシャルの元祖なのだろうか。

                 

                壊死性腸炎(日本小児外科学会)

                http://www.jsps.gr.jp/general/disease/gi/55v9rc

                壊死性腸炎とは,腸への血液の流れが障害され,それに細菌などの感染が加わることにより腸が壊死になる病気です.

                ほとんどは生まれてから30日未満(特に1週間以内)の赤ちゃんにみられますが,時に生後30日目以降にみられることもあります.妊娠週数が32週以下の早産児や生まれた時の体重が1,500g未満の赤ちゃん,なかでも1,000g未満の赤ちゃんにおこる危険性が高く,全体の80%は体重が1,500g未満の赤ちゃんにみられます.最近の新生児医療の進歩により体重の小さな赤ちゃんの命が助かるようになってきたため,壊死性腸炎の発生が増加しているといわれています.

                その原因は,まだ完全にはわかっていませんが,小さな赤ちゃんの腸の未熟性,血液の流れの障害,細菌感染がその要因となります.腸の免疫(めんえき)や運動が未熟なために腸の中で細菌が異常に増えます.これに加えて,血液の流れが障害されて腸の壁に傷ができると,その細菌が腸の壁のなかに入り込みやすくなり壊死をおこすと考えられます.お母さんのお腹の中にいる時や出産の時に,赤ちゃんの体の血液の流れが一時的に悪くなり酸素が少なくなる状態(仮死,呼吸の異常,循環の異常,先天性の心臓病など)や子宮内や出産時の感染が加わると発症する危険性が高くなることがわかっています.また人工栄養(人工ミルク) も壊死性腸炎を引き起こしやすいと考えられていますので,できるだけ母乳をあたえることが,その予防につながるといわれています.

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                スポーツ

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                  ワクチン忌避運動とも関係ある障害児を普通学級へ全国連絡会のサイト見てたらオリンピックおよびパラリンピックに否定的な記述があった。東京オリンピック協賛してる何かの企業CMで障害者スポーツがうつってインクルーシブがどうのこうの言ってるのも見かけたけど、障害児運動の急先鋒としては障碍者どうし戦わすより健常者が配慮し皆いっしょに楽しくスポーツできるようにするのがインクルーシブじゃないのかい。ということなのかもしれない。

                   

                  悩み相談 Q & A(障害児を普通学校へ・全国連絡会ホームページ)

                  http://zenkokuren.com/soudan.html

                  No.8 プールに入れてもらえません
                  ■ 質問

                  ,むつをしているからとプールに入れてもらえません。
                  ⊆屬い垢了劼蓮危険だからプールに入れないと言われました。
                  ■ 答え

                  今年もプールに入れてもらえないという相談がいくつかきていて、まだ日本の教育はこんな程度かとがっかりします。パラリンピックの成功を言う前に、プールに入れない子を入れるようにすることのほうが、よほど大事な行政の役目だと思うのですが…。

                  学校は、教育をするのが仕事で、教育を受けさせないということはあってはいけません。障害者権利条約では他の子(人)と違う扱いを受けることが「障害」であり、その「障害」を除去するための配慮が「合理的配慮」であると言っています。つまり、この場合、子どもがみんなと一緒に入れるようにすることが「合理的配慮」なのです。入れさせないことではなく、入れ させることが管理者の責任です。

                  おむつをしている子は水をよごすというのであれば、おしっこも汗と同じ成分ですから、汗をかく子も入れさせられません。うんちは、確かに大腸菌に問題がありますが、実はどの子にもおしりにうんちはついているわけで、その子だけが拒否される理由にはなりません。つまり、おむつをしている子がプールに入ってはいけない理由は何もないのです。

                  「車いすの子は危険」についても同じです。危険は、どの子にもあるわけで、すべての子について、どういう危険があり、そのためにどういう手立てをしようとしているかを学校は明らかにしなければなりません。車いすの子だけ手立てができないというなら、それは明らかな障害による差別です。

                  ・・・
                  No.9 宿泊行事に親が付き添うように言われそうなのですが
                  ■ 質問

                  中学生です。近く、宿泊行事があります。今、学校に呼び出されています。宿泊行事で付き添うように言われそうです。親としては付き添いたくないのですが、どう返事をしたら良いでしょうか。
                  ■ 答え

                  「行きません」と、はっきりことわりましょう。

                  宿泊行事も、学校教育の中の一つです。何らかの事情で手助けが必要な子もいます。かりに「障害」があって手がかかる、安全上心配、医療的ケアが必要であるなどの子もいるかと思いますが、それは、親がすることではありません。学校や行政が、人手を増やす、看護師を配置するなど工夫してその子がみんなと同じように参加できるように配慮しなければなりません。ですから、もし、その手立てができなくて親に頼むとするなら「大変申し訳ありませんが、今度の宿泊行事にどうしても人手を増やすことができないので、おうちの方に行っていただけないでしょうか」と、頭を下げてお願いする話です。

                  もっとも、予算がないとか人手がないというのは、親に付き添わせるための口実でしかありません。オリンピック、パラリンピックにどれだけのお金を使っているかということを考えれば、子ども一人の宿泊行事に対応するぐらい、やる気さえあればできることです。子どもの権利条約(2条・23 条)にも、障害者権利条約(24条ほか)にも、そして憲法にも障害児(すべての子に)に対して教育、学習参加は保障されなければならないと書いてあります。それをしないのは、行政の怠慢でしかありません。他の子には親の付き添いを要求しないで、障害のある子だけに付き添いを要求してくる、これはあきらかな「障害による差別」です。

                  ・・・

                   

                  https://www.amazon.co.jp/dp/4880496537

                   

                  もともと国を背負ってるってとこから障害者運動に限らず、左翼はオリンピックやパラリンピックに対して否定的な傾向が強いように見受けられる。上の本ちょっとだけ読んだことがあって、オリンピック・パラリンピックという健常者と障害者の分けについては、だんだん義足とかの能力が上がってきてるので将来的にオリンピックの記録を超えるかもしれなく、健常な足を持った人がわざと足を切り落とすこともなくはないと指摘されてた。

                  さすがに足切り落とした人はいないと思うけど、スポーツの世界において国や性を変え違う枠から出たために論争になった例は聞いたことある。だからスポーツって本来楽しいからやるのであって、競争や成果主義を持ち込んだとたんドーピングやパワハラといった体や精神をむしばんだりライバルけおとしたり国と国で憎しみあったり、そうやってアスリートが神経すりへらすなか一部の人間だけが儲かってる矛盾をかかえた国家イベントなのだと解釈した。

                  またプロじゃなく走るの遅い子とかでも大人になってかけっこがなくなったら走るの嫌だって思う機会もほぼないしダイエットや気分転換など自分のために体を動かすのであればむしろ楽しいという例は多々あると思われる。能力を可視化させ運動できない子に劣等感を抱かせてるのも競争がスポーツにとって害しかないといわれるゆえんのようだ。

                   

                  「障害者を見せ物にするのか」 難産だった東京パラ(2018年1月9日 NIKKEI STYLE)

                  https://style.nikkei.com/article/DGXMZO25253410Z21C17A2000000/

                  時計の針を東京パラリンピックの3年前に戻す。1961年10月22日、大分県で「大分県身体障害者体育大会」が開かれた。レクリエーションではない、障害者による本格的なスポーツ競技会は日本で初めて。まだ東京パラリンピックの開催は決まっておらず、そうした大会の存在さえほとんど知られていなかった。

                  推し進めたのは国立別府病院整形外科医長だった中村裕だ。当時、脊髄損傷の治療法といえば温泉入浴やマッサージで、通常の社会生活に戻るのは難しいとされていた。中村はパラリンピック発祥の地の英国で、スポーツを治療に生かす方法を勉強。自分の病院に戻って実践しようとしたところ、猛烈な批判にさらされた。

                  「日本の病院が全てそうであったように、別府の職場や周りの関係者は、患者にスポーツをやらせることにこぞって反対した。『それはむちゃですよ。せっかくよくなりかけたものを悪くするようなものです』と言い、『あなたは医者のくせに、身障者を公衆の前に引きだして、サーカスのような見せ物をやろうというのですか。医者の考えることではないですよ』と、無謀視する者ばかりであった」(『中村裕伝』水上勉、井深大、秋山ちえ子ら編)

                  中村に寄せられた批判は、治療の方法にとどまらなかった。「見せ物にするのか」という言葉が象徴するように、当時は「障害は隠しておくべきだ」「障害者はできるだけ表に出ないほうがいい」といった社会通念があった。障害者のための施設は各地に作られていたが、そこで一生を終えるのが当たり前だった。

                  ・・・

                  そんな遅れた日本にとって、パラリンピックは突然降ってきた隕石(いんせき)のようなものだった。実は中村は英国に留学中、パラリンピック創始者であるルードイッヒ・グットマン博士から、あるメッセージを預かっていた。「64年の東京五輪の直後、その施設を利用してパラリンピックを開いてほしい」

                  ・・・

                  今でこそ五輪とパラリンピックは当たり前のように同時に開かれているが、もとはまったくの別物だ。パラリンピックはグットマンが所長を務める施設の名前から「ストーク・マンデビル大会」として、ロンドンで毎年開かれていた。五輪との同時開催は60年のローマ大会が最初。博士が64年の東京にこだわったのは、同時開催を定例化したかったためとみられる。ちなみにパラリンピックという呼称になったのは64年の東京大会からだ。

                  ・・・

                  中村は政官界にもパラリンピック開催を働きかけた。知己の無かった中村が頼ったのがマスコミだ。朝日新聞社で厚生文化事業団の事務局長をしていた寺田宗義は、こう回想する。

                  「(62年の5月ごろ、中村が)突然私を訪ねていわく(中略)グットマン博士はかねて我が国に開催を呼びかけているが、厚生省(現厚労省)はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれない(中略)こんな始末ではとうてい開催が難しいと思うので(中略)各方面に呼びかけ実現してほしい(中略)東京五輪のあとに東京パラを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろうと強い口調で訴えたのである」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)

                  寺田は中村の意を受けて、7月に当時首相だった池田勇人に面会する。これからロンドンのストーク・マンデビル大会に出場する車いすの選手を2人連れていた。

                  「閣議を終えて駆けつけた故池田勇人首相は(車いすに乗った選手を)チラリとみて驚きの眼を見張った。『これはどうしたことなんか…』と不審の面もちである。私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは『身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ、まったくすばらしい、国際親善と、身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。1億たらずの金で開けるというのなら、君たちの手で民間の資金が集まらないときには、いつでも言ってこいよ、なあに全額国費で賄ってもよいよ』(中略)この首相のひと言にその瞬間、『しめたっ、これで東京パラは完全にスタートできるぞー』との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった」(同上)

                  ・・・

                   

                  パラリンピックの起源は1948年ロンドンオリンピック開会式と同日に行われたストークマンデビル競技大会とされており、第二次世界大戦からすぐなこともあって傷痍軍人のリハビリという側面が強い。このストークマンデビル病院でリハビリやってたのがドイツから亡命してきたユダヤ人のグットマン医師であり、1960年にオリンピックやってたローマで開催しグットマン医師が会長をつとめた第9回ストークマンデビル競技大会がパラリンピックの第一回にカウントされてて、1964は第2回てことだがパラリンピックという呼称が使われるようになったのは東京大会以降である。

                  オリンピックとセットで定例化するためリハビリおよびパラリンピックの先駆者であるグットマン医師、また別府病院の中村裕医師らが中心に開催にむけて奔走しストークマンデビル大会の選手を連れて池田勇人首相にも直訴した。この当時は障害者は外に出さないしリハビリって概念もなかったのでスポーツなんかさせたらよけい悪くなると言われていたらしい。

                   

                  パラリンピックと傷痍軍人:米国のケース

                  http://para.tokyo/11-AmikoNOBORI.pdf

                   

                  https://www.amazon.co.jp/dp/4260010042

                  内容紹介

                  痛いのは困る。気持ちいいのがいい。

                  現役の小児科医にして脳性まひ当事者である著者は、あるとき「健常な動き」を目指すリハビリを諦めた。
                  そして、《他者》や《モノ》との身体接触をたよりに「官能的」にみずからの運動を立ち上げてきた。
                  リハビリキャンプでの過酷で耽美な体験、初めて電動車いすに乗ったときのめくるめく感覚などを、全身全霊で語り尽くした驚愕の書。


                  チジュボゴ

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                    「ダブチのトモダチ」として「濃厚チーズファンにささぐダブチ」ノグチとともにラインナップされてた「焼肉ソースがグッとくるベーコンダブチ」ヤグチ。今回はクーポン使ったのでくだらぬ商品名言わずにすんだ。

                    当初ノグチが野口五郎、ヤグチが矢口真里でそれぞれに広報を担っていたのだけども、いざキャンペーン始まってテレビとYouTube一回づつCM見た限りでは野口五郎しか出てなかったし、矢口真里起用でマクドナルド炎上ってニュースの見出しをネットで見かけたのでクレーム殺到で降板したのだと思った。モー娘。といえば保田圭が元アルバイトな縁であるときマクドナルド広報に起用され、よっすぃもイベントに呼ばれてたのだけどそれ行く途中よっすぃ人はねた。

                    ヤグチはソース濃くて好みの味なだけにケチャップとピクルスないほうがいいような気もした。焼肉ソースとはいうけどカルビマックのときみたいに焼肉が入ってるわけではなくペラペラのベーコン、まったく存在感ない。

                    ノグチは最下段のチーズクリームが濃グラコロのときみたいにパスタソースぽい。でもこっちは色も味もチーズ感しっかりでなかなか悪くなかった。

                    矢口と野口にもうひとつトリチこと「トリプルチーズバーガー」はダブチの肉とチーズ1枚づつ多いっていう、近年のマクドナルドに顕著なありあわせで具の比率変えただけシリーズだ。ふわふわのバンズや味わい高いたれ使った限定バーガー次々出てくるけど、こういう何のてらいもないケチャップ味のチーズバーガーが一番おいしいのかもしれない。

                    チキンフィレオの夜マックはビガビックマックに匹敵するぐらい分厚かったが、こっちは箱じゃなくて紙に包んでくれてたし肉がめっちゃ固いので崩れることなく食べれた。私はレギュラー販売されてるハンバーガーは長らく100円ぐらいの奴しか買ったことがないので倍じゃない状態で350円もするチキンフィレオは今回が初めてだ。

                    以前はもも肉だったらしいのに、なんで胸肉にしたのだろうか。これはこれで食べごたえあるけど、倍は分厚すぎるし350円て値段を考えたら同じ鶏でも成形肉のチキンクリスプやチキチーのほうが柔らかくて安い。

                    チキンナゲットのタレやシャカチキの粉30円で売ってくれるというの、やったことなかったけどこのあいだレジ横で売ってたので1ケづつ買ってみた(増量の場合は2ケまで無料らしい)。チーズの粉入れてシャカポテにすると思われたのか紙袋もつけてくれたがこのときタレや粉は持って帰ってスナック菓子につけようと思ってたのでポテトはシェイクに浸けて食べたし、そもそも私はシャカチキやシャカポテのたぐいを袋に入れてシャカシャカしたことがない。

                    シャカポテといえばロッテリアにふるポテというまったく同様の商品があり、確かそのふるポテの安売りでカルビーとコラボしたサッポロポテト味としあわせバター味を食べたのが今に至る私がハンバーガーにはまるきっかけだった。日本マクドナルドさんもチェダーチーズだけではなく、うまい棒とかとコラボしスナック菓子の粉を販売してほしい。

                    この微妙にマクドナルドぽくないハンバーガーはバンズとチーズ持ち込みシャカチキバーガーを私が勝手に作った。持ち込んだといってもマックの店舗ではなくスーパーのフードコートなので別に問題はなかろう。

                    しかしこのバンズが最近はやりのコッペパンみたいなフッカフッカした食感なのと、チーズがふつうのチーズの2倍の厚みある本格派な奴なので、何か意図したのと違う高級バーガーぽい味になってしまったしじっさい高くついてる。クラフトとか雪印で普通の厚さのチェダーチーズ出てるのだけど、このスーパーには置いてなかったのだ。

                    これはロッテリアのハニーマスタードフライドチキンでたぶん限定ではない。ハニーマスタードけっこう甘くて台湾KFCで食べたピーナッツバターフライドチキン思い出した。

                    しかしこれ以前に食べたチキン南蛮バーガーのタルタルがハニーマスタードになっただけなような。南蛮はタルタル2倍で420円だったのでカラシだけで同じ値段て思うと割高感はいなめない。

                    ロッテリア今出てる限定3種はもっと高く単品で680-780円セットで1000円、ロッテリアでこんなん頼む人いるのか?!と近年いちじるしいハンバーガーの高級化に戸惑った。なお参考までにマクドナルドの最高級はグランクラブハウスの単品490円バリューセット790円である。

                    フライドチキンバーガーの背後にうつってるのはタピオカなっちゃんシェイクで、タピオカがカラフルらしいのだが全然見えてなかった。ロッテリアはドリンクがコカコーラじゃなくってサントリーおよびペプシコーラっていうのが私的にポイント高くまたタピオカがちゃんとコシありながらもやや小粒で私のような喉の筋力衰えたおばはんにも飲みやすい。

                    物悲しいヤマザキのとろ〜りとしたチーズのハンバーガー。軽くチンしたのでバンズはふわふわでおいしいけどパティが・・カップヌードルの謎肉以上に何の肉なのかわからないので原材料見たらハンバーグとしか書いてなかった。

                    これなら同じヤマザキでもふっくらバーガーのほうがチンする仕様でないとはいえ同じよな値段と具で食べごたえあると思う。ちなみにとろ〜りもふっくらもチーズ風のマヨネーズみたいなのがちょっと塗ってるだけでチーズは入ってない。


                    科学から神話へ

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                      先日ベッテルハイムの冷蔵庫マザー説うんぬんて書いてたけど、どうも冷蔵庫という形容を使ったのはレオ・カナーという医師のようで、Wikipediaによれば同氏はアメリカで初めて児童精神科医を名乗りまたハンス・アスペルガーとともに自閉症研究の基礎となったとのことである。ベッテルハイムの「自閉症・うつろな砦」を日本語に訳した神戸大学名誉教授の故・黒丸正四郎がカナーも訳していてなおかつ「三歳児」(1966)という著書もあるので、もしかするとこの黒丸先生がわが国における「三歳児神話」とやらに影響をおよぼしているのかもしれない。


                      https://www.amazon.co.jp/dp/B000JAA088/

                       

                      「三歳児神話」とは心理学者の大日向雅美による命名だそうで、てきとうにネット検索して見てたら小林登先生や高橋悦二郎先生など80年代に小児科医から激推しされてたクラウスとケネルの「ボンディング」および「母子相互作用」(だっこして目と目を見つめあいおっぱいをあげることで母子のきずなが深まるみたいな説)を批判しているアイヤーという学者がいることを知ったのだが、大日向氏がアイヤーを訳した「母性愛神話のまぼろし」て本もある。ネットで三歳児神話とは何なのか検索するとボウルビィという学者の説ってことになってるのだけど、もしかすると本当はボンディング理論のことをいってたのだろうか。

                       

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                      商品の説明
                      メディア掲載レビューほか

                      「幼少期は母親が育児に専念しないと,子どもは健やかに成長できない」という「母性愛神話」の虚構を暴く
                      女性の生き方はいつの時代も,その時代の要請によって操られてきた。社会が深刻な問題に直面して大きな転機を迎えると,複雑な利害が交錯する社会問題の解決の方策として,「女らしさ」や「母らしさ」という女性の特性を強調するキーワードが巧みに利用されてきた。

                      本書はそうした女性に対する社会的操作の過程を多面的に分析し,生物学的ではなく,社会的につくられた性役割の通念を批判した挑戦の書。本書の特色は,今日の社会において女性の人生を操作する黒幕を「科学」と断定し,その科学の魔性を批判している点にある。

                      とりわけ,母親が常に子どもの傍らにあって愛情を注いで育児に専念することを重視した,「ボンディング理論」が徹底的に批判されている。本書には,このボンディング理論の影響で育児の責務を過大に科せられ,プレッシャーに苦しんでいる米国の母親たちの現実が随所に紹介されている。

                      家族や親子のきずな,父親の役割を考えるうえで,日本人にとっても示唆に富む,重要な視点を提供してくれる本だ。 (ブックレビュー社)
                      (Copyright©2000 ブックレビュー社.All rights reserved.)
                      -- ブックレビュー社
                      内容(「BOOK」データベースより)

                      「子どもが3歳になるまで育児は母親の手で」をはじめとする母性愛神話はいかにして形成され、いかにして母親たちを追い込んでいったのか?その虚構を鋭く暴き、真に開かれた親子関係のあり方を考える。

                       

                      ただ母子相互作用について書かれた本見る限りでは、生まれたてホヤホヤの赤ちゃんが母親とスキンシップしたりおっぱい飲むのがすごい重要で、そこ間違うとのちのちまで影響を及ぼす・・て話であり、三歳児みたいにもう全然赤ちゃんじゃない時期のことについては言及されていなかったように思うのだが。その生まれたてホヤホヤの時分が重要っていう理論によって新生児がトラウマになる病院じゃなく畳の部屋で産婆さんや家族に囲まれて分娩、胎脂がついたままお母さまの胸の上に寝かす、おなかすかして泣いてんのにおっぱい出るまで頑張る、といった危なっかしい出産法がとられているのだと。

                       

                      https://www.amazon.com/dp/B000Z57AFS

                       

                      生まれたてホヤホヤ赤ちゃん抱くっていうのは今ではカンガルーケアという名前で呼ばれることが多く、1979年よりコロンビアで未熟児のために行われていた方法がルーツとされているが、1976年にはクラウスとケネルによる「マターナル・インファント・ボンディング」て本がすでに出ているので70年代半ばには母子の早期接触がガチな絆を形成するって説はすでにあったろうし同じ年にはルボワイエ著「暴力なき出産」も日本語に訳されてた。その後、生まれたてホヤホヤどころかおなかにいるときから赤ちゃんは母をわかってるみたいな話になってて1982年に小林登によってトマス・バーニー著「胎児は見ている」がわが国にもたらされ胎教や胎内記憶に発展したという認識だ。

                       

                      作為の有無は別として、研究が社会的情勢の要請に応える形で行われたり、知見が導入されるという実態は、低成長期における三歳児神話強調の時期においてはいっそう顕著にみられる。この時期は母子相互作用研究が一世を風靡した時期である。母子相互作用研究とは、母子関係は母子の双方が生来的にもち合わせている特性が寄与しあって両者の絆を形成するという視点に立った研究であり、厚生省(当時)も母子相互作用研究班に全面的なバックアップをしている。

                      従来は母親が子どもを養育するという一方向の視点から研究がなされてきたことに比べて、絆の形成に母子双方の関与を認めた視点は画期的なものではあった。しかも研究は小児医学や心理学およびその近接領域が加わって学際的に行われ、手法も最新機器が用いられて「科学的」という印象を与える点でもホスピタリズム研究の比ではなかった。一例をあげると、超音波を用いることによって胎児期にまでさかのぼり母子の絆を探る研究など、科学的な手法を駆使して母子の絆の特別な意味の解明が進められた。そうした母子相互作用研究は、出生後間もない時点の子どもの成長が母と子の生理学的特性によって保障されている仕組みを解明した点で、一面では意義の大きいものではあった。

                      しかし、当時の母子相互作用研究の中には研究手法や結果の解釈において、当初から母子関係の特性を強調する方向に偏在したものも少なくなかった。たとえばネズミやヤギの母親行動が、分娩後の一定期間のホルモン分泌に規定されている知見にヒントを得て、人間も分娩後の三日間、新生児とより濃密な接触をもった母親のほうが半年後、一年後の母性行動が優れているとした研究(クラウスとケネル、1979)が日本にも紹介され、大きな話題を呼んだ。新生児と母親が別室に置かれたそれまでの母児別室制が急遽母児同室制に移行されるなど、産院に与えた影響も少なくなかった。

                      たしかに産後の母児の接触がスムーズに行われれば、その後の母子関係も良好なものとなるであろう。しかし同時にそこには夫や周囲のサポート、子どもを育てようとする母親自身の意欲、さらには生まれてきた子どもの個性など、多くの要因が複雑に関与しながら人間の子育ては長期にわたって展開されていく。そうした諸要因を捨象するほど強力に分娩後の短期間のホルモンの影響力を過大視するのは、この研究を実施したクラウスにとっても本意ではなかったようである(アイヤー、2000)。それにもかかわらずあたかも出生直後の母子の絆が育児の大半を決定するかのような論調でこの研究が紹介された点では、ホスピタリズム研究導入時と類似したものがあった。

                      しかも母子相互作用研究のなかには、実証的な研究という枠をはみ出すくらい過剰に、母と子の一体感を強調する勇み足的な過ちを犯したものも散見された。たとえば母子相互作用班の一部が登場したテレビ番組「母子の絆〜胎内からのスタート」(NHK、1986年5月12日)では、出生直後の新生児を分娩台上の母親の胸に抱かせるシーンを放映したが、母親に抱かれた新生児は泣き声を止め、母親の顔を必死に見つめる様子が映しだされて印象的であった。しかもその場面に対して「生まれた直後から赤ちゃんはお母さんがわかるのですね」と男性研究者らが感慨深げに語り、そのうちの1人は「だからこそ母親は産後は、できるだけ側にいてあげてほしい」というコメントをつけた。しかし、この場面を助産師さんたちに見てもらったところ、この赤ちゃんは出生直後に、口の中のものを吸引してもらえずに母親の胸に抱かれた状態で、おそらく息苦しさから泣き声を出せなくなり、目を「しろくろ」させているという解釈であった。赤ちゃんが産声をあげる現象は体外に出てきて肺呼吸に切り替えた証拠で、泣かないのはかえって心配だという助産師らの指摘は的確である。

                      ・・・

                      (大日向雅美「母性愛神話の罠」83〜85ページより)

                       

                      上記引用によると、1986年にNHKで放送された「母子の絆〜胎内からのスタート」て胎内記憶風味なタイトルの番組でカンガルーケアのシーンがあったそうだ。当ブログで何回か引用もした高橋悦二郎著「胎児からのメッセージ―赤ちゃんは胎内でなにを訴えている」(1984)の表紙にも「NHK『胎内からの出発』でも大反響!」て書いてるので、80年代NHKなどが今科学が発展して赤ちゃんのことがここまでわかりますた。みたいなドキュメンタリーを複数回やってたと思われる。

                      でも80年代ってラマーズ法で自然に産んだ赤ちゃんを胎脂がついたまま抱き〜みたいなこと言ってても、カンガルーケアって言葉は使ってないような気がする。赤ちゃんに優しい病院を選定してる「日本母乳の会」監事の堀内勁聖マリアンナ医科大学名誉教授がわが国におけるカンガルーケア研究の第一人者ってよくいわれてるのだけど、堀内先生には「サイレント・ベイビーからの警告―子どもたちはなぜ壊れるのか」という著書や、自然育児友の会に影響を与えた桶谷式の故・山西みな子助産師と「おっぱいとだっこ」て本を監修してたりする。

                       

                      https://www.amazon.co.jp/dp/4198609632

                      商品の説明
                      内容(「BOOK」データベースより)

                      子育てに自信をなくした親に!泣かない騒がない子どもが、コミュニケーション不全症候群の始まり=これを「回復する」=「受容」と癒しの「ダッコ」育児法を。
                      内容(「MARC」データベースより)

                      泣かない騒がない「サイレント」な赤ちゃんが増えている。彼らは後々「壊れて」社会問題になりかねない。小児科の現場から育児法の誤信を正し、大きくなってからの「回復」の可能性を提言する。

                       

                      以前記事にした明治の粉ミルク「母乳サイエンス」に意見を申し入れたのが小林登(母学、子ども学)と山内逸郎(母乳は愛のメッセージ)および赤ちゃんに優しい病院と関係の深い「日本母乳の会」、あともう1つが「日本ラクテーションコンサルタント協会」ってのは知らなかったのだけど今調べたところ自宅分娩や水中出産もとりあつかう助産院のようで、公式サイトの「カンガルーケアと完全母乳で赤ちゃんが危ないって本当?」という項目を読んだかぎりではやはりカンガルーケアを推進しているように読める。カンガルーケアを行うと母乳哺育の成功率が高まると言われているのだった。

                      私が思うに母乳サイエンスに申し入れした小林先生、日本母乳の会、助産院という3つのラインが、ラマーズ法とかが注目されてくる80年代あたりから「科学的根拠」にもとずきおっぱいや母子のきずな(クラウスとケネルのボンディング理論)を激押しした結果が俗にいう「母乳(母性愛)神話」であり、赤ちゃん生まれたてホヤホヤの時分におけるお母さまのアクションが重要という価値観において自然なお産や早期教育や胎内記憶とつながってるし大日向雅美が言うところの「三歳児神話」(幼稚園では遅すぎるby井深大)もまたしかりであろう。サイレントベビーは柳沢慧といってまた別の小児科医の説だけど、例によって参考文献にクラウス「新生児の世界」トマス・バーニー「胎児は見ている」井深大「0歳からの母親作戦」大島清「胎児教育」などがあげられてて、端的にいうと生まれたてホヤホヤの時分にだっこやおっぱいや目と目で通じあう母子相互作用がうまくいかないと静かな赤ちゃんになっちまうっていう警告であり、お母さまがたにはできるだけ動物園に逝ってパンダサルなど動物の母子を観察するようすすめている。

                      「三歳児神話」を広めたとされるボウルビィの時代より赤ちゃん生まれたてホヤホヤの時分が重要なのはネズミやヤギやパンダやサルといった動物行動学にもとずいてるところが大きそうなのだけど、脳科学っていうのもよくあって脳科学自体がやはり動物たちの行動原理をよく引き合いに出している印象だ。天才脳を育てる0歳児教育〜みたいな本をいっぱい出してる久保田競京都大学名誉教授はオオカミに育てられたオオカミ少女の例を出してたようなのだが、Wikipedia情報によればオオカミ少女って信憑性低いらしい。

                       

                      名著『幼稚園では遅すぎる』著者で ソニー創業者の井深大氏は、 なぜ『赤ちゃん教育』を絶賛したのか? 久保田競:京都大学名誉教授・医学博士  久保田カヨ子:脳科学おばあちゃん(2015年7月4日 ダイヤモンドオンライン)

                      https://diamond.jp/articles/-/73966

                      ソニー創業者で、子育ての名著として名高い井深大さんの『幼稚園では遅すぎる――人生は三歳までにつくられる!』は、1971年に出版されました。
                      井深さん(1908〜1997)が、なぜ「幼稚園では遅すぎる」と考えられたのでしょうか。

                      名著の「まえがき」に、はっきりとこう書いておられます。

                      ――最新の大脳生理学は、「人間の脳細胞の発達は三歳までに七〇〜八〇パーセントを終える」という衝撃的な研究結果を報告しています。――

                      脳を刺激したりしながら脳の働きを調べる研究分野が「大脳生理学」で、1870年ごろからはじまっています。

                      脳の働きを、神経線維や神経細胞の働きから調べて明らかにする研究分野が「神経生理学」で、1935年ごろからはじまっています。

                      井深さんの名著が書かれたころの私は、前頭前野のワーキングメモリーのメカニズムを細胞レベルで明らかにして、それなりの神経生理学者になっていました。

                      ・・・

                       

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                      サイレントベビーの参考文献見てて「乳児はなんでも知っている」(1987)て本もあることを知った。赤ちゃんはなんでも知っている、胎児は知っている、胎児は見ている、胎児は天才、胎児からのメッセージ、胎内からのメッセージ、胎内からのスタート・・とかもうわけわからんし赤ちゃん別に頭よくないだろ正直なところ。


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