伝統をめぐる情報戦
http://lite-ra.com/2016/02/post-1969.html
夫婦別姓に関する最高裁判決や、渋谷区の同性パートナーシップなど、昨年は「家族」「性」に関する新たなかたちを模索する動きが多く生まれた年であった。
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夫婦別姓の問題にせよ、パートナーシップ条例をめぐる議論にせよ、政権側からは、この「伝統的な家族制度」なる言葉が盛んに使われる。しかし、この「伝統」とはいったい何を指しているのだろうか。小説『桃尻娘』や、『古事記』『源氏物語』の現代語訳など古典文学研究の仕事で知られる橋本治氏は、「週刊プレイボーイ」(集英社)16年2月15日号のインタビューでこんな言葉を残している。
「今や建前が好きなのって自民党の政治家だけじゃない? なんか、あの人たちの言う「伝統」やら「日本」やらが私は一番嫌いなんですよね。
それは明治以降の近代日本人が「勝手につくった日本」だろうっていうのが頭にあってさ。そういうのがいやだから、こうして近代以前に遡りながら「そうじゃない日本」を一生懸命に探しているわけなんですけどね」
安倍政権をはじめとした保守主義の人々がことさらに喧伝する「伝統」という言葉。しかし、歴史を振り返ってみれば、彼らの言う「伝統」は、「伝統」でもなんでもない。たかだか150年ほど前、明治時代以降、急速な近代化の流れのなかで形づくられたものだった。また、橋本氏はこんなことも語っている。
「平塚雷鳥とかの女性解放運動が出てくるのが明治だから、それ以前の時代の日本って、ずっと女性を抑圧していたように思われているけど、実は一番、男女差別が激しくなるのって、むしろ明治からなんですよね」
「みんな「女は女らしく」っていうのが封建道徳だと思っているかもしれないけど、例えば江戸の芸能って、劇中で女が刀を振り回すシーンとか、カッコいい女盗賊の話なんかも、ごく当たり前にあるのね。ああいうのを見てると、少なくとも江戸時代の人には「女はおとなしくしてなきゃいけない」って感覚はないと思う」
「女は女らしく」という考え方も、結局はたかだか150年前に出てきたものだったと橋本氏は主張する。
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先日、本サイトでも取り上げた、古典エッセイストの大塚ひかり氏が指摘している通り、日本の家族制度は古来、母系的な社会であったと言われている。
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同性パートナーシップの問題に関しても同様のことが言える。前述したヘイトデモで配られたチラシには、先に引いた〈伝統的な家族制度に混乱をもたらす渋谷区条例〉という文章の他に、こんな文言も書き記されていた。
〈若者が多く集まる渋谷区の路上や職場で、男性同士、女性同士が公然と抱き合ったり、キスをしたりする姿が日常の光景となり、やがてエイズが蔓延してしまうことを、誰も歓迎しておりません〉
〈条例案は、日本の伝統と文化に対する挑戦状〉
正直、引用するのもはばかられるような差別的テキストだが、ここでもとくに熟慮することなく無邪気に使われている「日本の伝統と文化に対する挑戦状」という言葉。この「伝統」も果たして本当に「伝統」なのだろうか。
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『源氏物語』のなかで使われる有名な言い回し「女にて見む」は、改めて指摘するまでもなく、「(相手の男を)女としてセックスしたい」という意味であると解釈されている。
また、時代は下り、江戸時代、男色は春画のモチーフとしても多く描かれることとなった。
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安倍首相は、『新しい国へ 美しい国へ 完全版』(文春新書)のなかで、多様な家族観を描く高校の家庭科教科書に対し、こんな疑問を記していた。
〈同棲、離婚家庭、再婚家庭、シングルマザー、同性愛のカップル、そして犬と暮らす人……どれも家族だ、と教科書は教える。そこでは、父と母がいて子どもがいる、ごくふつうの家族は、いろいろあるパターンのなかのひとつにすぎないのだ〉
〈「お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ」という家族観と、「そういう家族が仲良く暮らすのがいちばんの幸せだ」という価値観は、守り続けていくべきだと思う〉
しかし、ここまで述べてきたように、これまで我が国が歩んできた「家族」「性」に関する考え方は、安倍首相が断じているほど画一的に述べられるようなものではない。むしろ、本当の意味で日本の「伝統」というものを考えるならば、「家族」や「性」といったものに対し、もっと多様性を認める考えのほうがよっぽど「伝統」なのではないか。
国家統制を強めるため、国民を国家に奉仕させるために、明治政府が「勝手につくった」にすぎない「国家」や「家族」というフィクションを、「伝統」などと持ち上げる安倍政権の詐術にはだまされたくないものである。
夫婦別姓や同性パートナーシップをめぐる論争にさいしてか「安倍など右翼の言う伝統って嘘っぱち」といった言説を左翼サイトで近ごろ数多く目にするようになってきたので、見つけ次第・・・というか気が向いたら報告していきたい。その趣旨は「夫婦同姓の施行は1898年の明治民法」を引き合いに出しているように、安倍など右翼の言う伝統なんぞは多くが江戸っ子が大虐殺された明治以降に捏造されたものであり、フリーダムでエッチな文化(春画、男色)に比べるとシャバすぎだろというわけである。
だから私が「江戸しぐさは右翼が作り上げた嘘っぱちの伝統」みたいな論に違和感をおぼえるのもそこで、多くのばあい江戸礼賛は伝統を重んじているのではなく、橋本治がいうように「あの人たちの言う「伝統」やら「日本」やらが私は一番嫌いなんですよね。それは明治以降の近代日本人が「勝手につくった日本」だろうっていうのが頭にあってさ。そういうのがいやだから、こうして近代以前に遡りながら「そうじゃない日本」を一生懸命に探している」にすぎないのである。私は江戸しぐさにかんして長らく左翼かどうか分からないと保留していたが「江戸しぐさの正体」という江戸しぐさ批判のバイブル的な本(紛失中)を読み、越川禮子っていうもともと公民権運動を取材していた反アベ政治の人が明治政府が江戸っ子を虐殺したとか?そのときにウンデッドニーの虐殺やソンミ村虐殺といったように白人によるインディアン迫害やベトナム戦争を引用しているらしいことを知って、江戸しぐさも左翼だったんだという確信にいたった。
公民権運動やネイティブアメリカンやベトナム反戦ってのは、60年代くらいにカウンターカルチャーで混然一体となっていたのである。だからベ平連の流れをくむロハス系の左翼も、江戸礼賛と並行して「ハチドリのひとしずく」とかいうネイティブアメリカンの民話や、ネイティブアメリカンと結婚したセヴァンスズキの「伝説のスピーチ」とかいうのを江戸しぐさと同時期にさかんに紹介しており、これらもやはり道徳やら英語やら学校の教科書に採用されていたりする。
別にこれは教科書が右や左というのは深読みしすぎで、育鵬社も東京書籍もACとかNPOとかNGOみたいなCSRイカスっていう2000年代以降の風潮から、そういう意識高い系のイイ話をお子さんがたに伝えたくなったのだろうというのが私の見方だ。しかし江戸時代もそうだが、最近の左翼は古事記とか天皇けっこう好きだし、日本人はパンより米だろ。とか、フリーチベットとか中国産じゃなくて地産地消しろとか言うのでまれに保守と誤解されている例もある。
では保守の歴史観の決定的な違いとは何なのか?いちおう左翼には反戦という建前があるので「サムライ」「武士道」「楠木正成」など、日本の先祖が武士で儒教でストイックって設定だったら右翼である可能性は高いのではないか。
そして右翼のいう伝統はほとんど明治以降(長州藩=安倍)であるからして、江戸時代は日朝友好でエコでエロで楽しかったけど明治政府が大虐殺。っていう明治凶悪説も左翼なのである。では私の個人的な歴史観はどっちかというと、明治や江戸に生きたわけではないので知ったこっちゃないって感じだ。
ただ右翼のいう「伝統」を否定するためだけの「昔の日本人はエロかった!」みたいな左翼的歴史観に、もう完全にアレルギーが出始めている。男の絵師が妄想で描いただけであろう春画が本当にあったかのような設定になってるのも謎で、200年後にはめちゃコミックや快楽天のエロマンガが史実になり博物館に展示されるんじゃないかと今から心配だ。
- 2016.02.26 Friday
- オスメスキス
- 00:14
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