イルカ好き

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    評価:
    ケン・キース・ジュニア,Y・モンキー
    佐川出版
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    (1984-01)

    「ライトスタッフ」の米作家トム・ウルフさん死去(5月16日 朝日新聞)

    https://www.asahi.com/articles/ASL5J2D49L5JUHBI009.html

     

    米作家のトム・ウルフが88歳で亡くなった。読んだことないけど、とりあえず表紙の絵とタイトルからしてこれ↓はメリー・プランクスターズっていうLSD野郎のバスの本なのではないだろうか。

     

    https://www.amazon.co.jp/Electric-Kool-Aid-Acid-Test/dp/031242759X

     

    さて先日イルカの記事を書いたさい、ミュージシャン細野晴臣と宗教人類学者の植島啓司がイルカについて語らう動画を目にした。この番組はたぶんイルカ大好き博士のジョンCリリーが来日した1992年であり、その翌年には80年代に人気博した坂本龍一のテクノグループYMOが再結成したそうである。

     

    対談21世紀 TRANQUILITY イルカ・人・コミュニケーション(1/2)

    https://www.youtube.com/watch?v=fLra7Q5evqE

     

    植島啓司って人は知らなかったけど動画見ててどっかで見たことある名前だなー。「メディア・セックス」の訳者だったような気がするなー。と思って検索したらやっぱりそうだった。10年くらい前だったか関暁夫(スティーブン・セキルバーグ)の著書でサブリミナル効果に関心を抱きこの本も買ったのだが、SEXが隠されている広告写真見ても、私には上からペンでSEXSEXSEXってかいてるだけにしか見えなかったし、なんかサブリミナルって概念自体がニューエイジ臭い。

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4845703726/

     

    YMO - Technodon in Tokyo Dome (1993.06.10,11)

    https://www.youtube.com/watch?v=lZpJ4-9QyCc

    てなわけで1993年にYMOが再結成したさいアルバム「テクノドン」を発表したとのことだ。少なくともYouTube上にミュージックビデオなどはないようだが、東京ドームのライブはたまに映像が加工されてたり、後ろの画面にミュージックビデオ的な物が大写しになったりしている。

     

    テクノドン(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8E%E3%83%89%E3%83%B3

    曲解説

    ・・・

    DOLPHINICITY

    細野が当時傾倒していた、イルカの声をサンプリングした環境音楽。「BE GOOD BOYS」の声はイルカの調教師のもの。男性の声は神経生理学者でありイルカ研究家でもあるジョン・C・リリー博士がイルカに向かって語りかけている声である。

     

    「Hi-tech Hippies」で使われてる60年代風のアニメには初期のカラフルなアップル社のロゴやホールアースカタログのような地球の絵がえがかれているし、そのタイトルからしてもヒッピーとコンピューターのことを歌っているのはまちがいない。あとWikipedia曲解説によればビート作家ウィリアム・バロウズの音声を使った曲もあるそうで、サリン事件前だったとはいえなんでくしゅくしゅ時代にこんなサイケな音楽だったのかよくは分からないのだが、坂本龍一はこの再結成くらいの時期にLSDを世に広めたティモシー・リアリーとも会ったそうである。

     

    ティモシー・リアリーとの出会い(反骨の音楽家、坂本龍一が若者に伝える「大人の言うことを信じるな」「とにかく自分で考えろ」の意味)

    https://logmi.jp/231831#subhead1

    坂本龍一氏(以下、坂本) 僕は60年代に高校生で10代で、サイケデリックとか音楽とかヒッピーズとか、そういうものにもろに影響を受けた世代なので、まさかね、その頃は自分がティモシーに会うことになるとは想像もできなかったけども。

    超有名なカルトの教祖ですよね。という感じでとても大きな関心を持っていたので、90何年か、92年か93年ぐらいかな。L.A.で会った時に本当に驚きましたよ。

    友達に連れてってもらったら、いた。そしたら「お前日本人か。日本人だったらJoi Itoを知ってるか」と言うから「知らない」。「すごいおもしろい日本人がいて、若い子で、ヴァーチャルリアリティのテーマパークみたいなものを作ろうとしてるから絶対会えよ」っておじいちゃんに言われて。それで記憶にあったの。
    ・・・
    林 僕からすると、坂本さんもそうだしティモシーもそうなんだけど。同じ大きな第一世代というか、あのベトナム戦争反対という流れがヒッピームーブメントとカルチャーになって、そこから音楽とか、ああいう生き方のコンセプトみたいな。それがスティーブ・ジョブズに伝わって、というか受け継がれて。 そういう次の流れが、ティモシーみたいな人とかJoiもそうだけど第二世代というか、次の世代というか。

     

    景山民夫、鯨に逢いに行く。ライアル・ワトソン、坂本龍一、他。(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=hrPeRhvlDMk

    この動画1時間半もあるから後で見るけど、やっぱり坂本龍一もクジラ好きなのだろうか。ライアル・ワトソンもクジラ大好きにくわえ100匹目の猿とか言っててうさんくささに定評がある。

     

    百匹目の猿現象(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%8C%B9%E7%9B%AE%E3%81%AE%E7%8C%BF%E7%8F%BE%E8%B1%A1

    百匹目の猿現象(ひゃっぴきめのさる げんしょう、英: Hundredth Monkey Effect)は、生物学の現象と称してライアル・ワトソンが創作した物語である。疑似科学又はオカルトに分類されている(疑似科学#自然科学に関するもの)。

    宮崎県串間市の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が閾値(ワトソンは仮に100匹としている)を超えたときその行動が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られるようになったというストーリーであった。このように「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、これが接触のない同類の仲間にも伝播する」という、実際には存在しない現象を指す。

    経緯
    ライアル・ワトソンが1979年の著書『生命潮流』 で述べ、1981年に出版されたケン・キース・ジュニア(1921年-1995年)の著書『百番目のサル』によって世界中に広まった。これが日本では船井幸雄の『百匹目の猿―思いが世界を変える』で紹介され、人間にも同様の現象が存在するのではないかということでニューエイジ関係で有名になった。

    ・・・

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4584182582

     

    七田眞=胎内記憶。基本的に「脳」「意識」とかいう語彙群はサイケ文化の産物と思われる。

     

    昔のCM 181 1993年 劇場版 遠い海から来たCoo(番宣)

    https://www.youtube.com/watch?v=qY5tEEwyVdo

    景山民夫はどっちかというとニューエイジっていうより新興宗教で有名な人だった。1993年公開の恐竜映画で角川文庫だったせいか、アニメであるにもかかわらず安達祐実のREXとものすごいイメージかぶってる。

    やはり1993年公開だったジュラシックパークに比べると遠い海から来たCooとREXはちょっと痛いと思ってたし、じっさい宣伝のわりにそんなヒットしなかったのではないだろうか。でもWikipediaであらすじ読んだら、パゴパゴ島のトンベルア酋長の許可をもらい、日本から移住した海洋生物学者の小畑徹郎とその息子である洋助フランスの核実験計画をめぐる同国諜報機関の暗躍を知り銃をとり云々と書かれてて、もしかしたらジュラシックパークより深い話なのかもしれない。


    地球好き

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      「カッコーの巣の上で」著者ケン・キージー率いるバスのコミューン「メリー・プランクスターズ」。「ホールアースカタログ」編集者として著名なスチュアート・ブランドもこのLSD軍団のメンバーだったという。

      ホールアースカタログ読んだことないっていうか読んだところで日本語でおk。としかならないだろうが、とにかくヒッピーのあいだですごい有名な雑誌だった気がする。Wikipediaによれば、1968年に創刊され表紙にはブランドが1966年にNASAに地球見せやがれと運動を起こして公開さした写真が使われているとのことだ。

      それ読んで、1966年ってまだ月面着陸してないだろ。と思って確認したところ、やはり月面着陸はその3年後だった。てっきり私はアポロが月面から地球を映像だか写真だかにおさめ、みんなそれで初めて地球見、とくにベトナム戦争とかで疲弊してたアメリカの人々に「地球ってひとつなんだ〜」ってな感動与えたと思ってたけど、1966年時点で地球の写真あったってことはすべて私の作り話だったようだ。

      ホールアースに影響与えてるのがバックミンスター・フラーが1963年ぐらいに提唱した「宇宙船地球号」らしいのだが、Wikipediaで宇宙船地球号読んだら月面着陸前の1968年「アポロ計画で撮影された地球の写真は、観る者に、もはや地球は無限大の存在ではなく、保護の必要な華奢な存在という印象を与えるようになった」って書いてたのでアポロうんぬんの私の作り話あながち間違ってないと思った。今では環境問題とかエコロジーいうと9割がた地球の絵(たまにイルカ)が使われ、とくに10年ほど前の温暖化ゴリ押し時などはそういうイメージ氾濫してるのを見るたびニューエイジみたいな奴ねじこんでくんのやめやがれ。って思ってたし、番組の名前に使ったトヨタ一社提供「素敵な宇宙船地球号」もすごいロハスでEMだんごを川にほうりこむ様子とか放送されてた。

      ホールアースカタログにのってた「ステイハングリー、ステイフーリッシュ」って標語は、元ヒッピーでアップル創業者スティーブ・ジョブズがスピーチで引用してたので、ジョブズ氏亡くなったときさかんにとり上げられてたのを聞いたことあるかたも多いのではないだろうか。今検索して確認するとジョブズの死没2011年だそうで、このちょっと前iPhoneが爆発的に普及したため関心度も高かったのである。

      没後すぐ自伝か何か発売され、私もいちおうヒッピー時代の部分だけ読もうと買ったが、すごい分厚くて重い本で持ちたくないと思ってるうちにどっか逝った。とにかくアップルみたいな大企業にも影響与えたホールアースカタログ、1969年には「部族」がやってた諏訪瀬のコミューンもヒッピーの聖地として紹介されてるんだって。

      初期の宝島誌は大橋歩画伯の地球の絵もまんま中身も全都市「カタログ」である。宝島は今付録つきファッション雑誌のイメージが強いけど、ルーツはヒッピー雑誌だったのだろう。

      同じくポパイ誌も初期は米西海岸の文化を紹介する雑誌であり、同誌を発行するマガジンハウス社に見られるカタログ的な誌面も「ホールアースカタログ」の流れと思われる。ロハス雑誌「ソトコト」編集長ももともとマガジンハウス社員だったし、初期のポパイ・宝島両誌にかかわっている北山耕平の著作は冷えとり服部みれいにも影響を与えた。

       

      https://www.amazon.co.jp/dp/4778311981/


      LSD全盛期

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        評価:
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        ワーナー・ホーム・ビデオ
        ¥ 998
        (2010-04-21)

        今でこそヒッピーは大麻のイメージだけど禁止される前の60年代はLSDであり、本場アメリカ西海岸ではメリー・プランクスターズっていうLSD軍団のサイケなバスが走っていた。Wikipediaによると、このバスはLSDの先駆者ティモシー・リアリー博士とも合流したことがあるのだという。

         

        https://www.amazon.co.jp/Magic-Trip-DVD-Import/dp/B005HI4LLO

         

        メリー・プランクスターズ(Wikipedia)

        https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA

        メリー・プランクスターズ(Merry Pranksters)は、1960年代に活動したケン・キージー率いるアメリカ合衆国のサイケデリック集団。団体名は、「陽気ないたずら者たち」という意味である。

        キージーの自宅農場があるカリフォルニア州とオレゴン州を中心に活動した。

        ・・・

        概要

        LSDが合法だった1964年にカリフォルニア州ラ・ホンダ(英語版)を出発し、全米を虹色に塗ったバス(ファーザー)に乗って、アシッド・テストをして回った[1]。ティモシー・リアリーとも合流したことがある[2]。その後、1966年と1969年にも同様のツアーを行った(ただし後者にはキージーは参加していない)。

        ビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー』のモデルとなったと言われている[3]。

         

        ビートルズの映画マジカルミステリーツアー(1967年)のモデルになったとのことでYouTubeでダイジェスト的な動画見たところ、確かにサイケぽいしバスが走っている。ビートルズはとくにボーカルのジョン・レノンとギター担当のジョージ・ハリスンがヒッピー文化と密接だったと思われ、あとイマジンって歌だったかたまにロハスや憲法9条で引用されてたり、ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコがキャンドルナイトにメッセージを寄せたりしてるのを見たことがある。

         

        Magical Mystery Tour (HQ Version)

        https://www.youtube.com/watch?v=jIDEZ_frJBs

         

        「ビートルズに影響を与え世界初のコンセプトアルバムを産み出したLSD」〜ビートルズとスピリチュアルな世界 その2〜(TRINITY)

        http://www.el-aura.com/beatles20160831/

        幻覚を見ることでなにを得られるの? と思うかもしれませんが、古来から「シャーマンが幻覚剤を使って異なる世界にアクセスしていた」ことからもわかるように、通常では気づかなかった領域の情報を受け取ることが可能になります。

        MacintoshやiPhoneの産みの親である「天才スティーブ・ジョブズ」も、LSDを使用したことがあり、その時の体験を「人生の中で最も重要な体験のひとつ」だとしています。それは幻覚をみたというよりも、「自分自身のセンスを強化し、別のものの見方を与えてくれたことに起因している」ようです。

        そんなLSDによって得たインスピレーションから生まれた名曲として知られているのが「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」。頭文字をとると「LSD」になることから、当時はラジオで放送禁止になったこともあります。しかしながら、タイトルに関しては偶然であり、ジョン・レノンの息子であるジュリアン・レノンが保育園で書いたルーシーという友達の絵が元になっているというのが定説です。

        タイトルの略称からこの曲が有名となっていますが、ジョン・レノンはLSDを「天の恵み」と表現したほどであり、他にも「レイン」や「アイ・アム・ザ・ウォルラス」などもLSDの影響が強いものとして知られています。

         

        ジョージ・ハリスン(Wikipedia)

        https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%B3

        ジョージは60年代後半にはヒッピー・ムーブメントやサイケデリックなドラッグの影響もあり、ヒンズー教にこるようになった。1960年代半ばまでに、ハリソンはインドの宗教を他のビートルズに紹介し、インド文化と神秘主義の賛美者になっていた。ヘルプの撮影中、ビートルズのメンバーはバハマで、スワミ・ビシュヌ・デバナンダ(シヴァナンダ・ヨガの創始者)の会合に出席。彼は本に署名した「ヨガの完全なイラストレーション・ブック」を渡した。1966年の最後のビートルズツアーのころには、ヒンズー教のヨガの伝統に沿って、ハリソンは1960年代後半に菜食主義者になった。インドへ、ビートルズのメンバーやドノヴァン、ジェーン・アッシャー、ミア・ファーロー、マイク・ラヴらと旅行に行ったこともある。1966年にラヴィ・シャンカールによって様々な宗教的なテキストが与えられた後、彼はスワミ・ヴィヴェカナンダとパラマハンサ・ヨーガナンダのヨガと、ライターの教えの生涯にわたる支持者として残った(ラジャ・ヨガとヨギの自叙伝による)。 1969年中頃、彼はLondon Radha Krishna寺院のメンバーによって実行された、"Hare Krishna Mantra"のシングル盤を制作した。「マイ・スウィート・ロード」の曲中でも、クリシュナという歌詞が出てくる。

         

        メリー・プランクターズのリーダーが「カッコーの巣の上で」の原作者であるケン・キージーで、バス運転手であるニール・キャサディはビートニクの作家であるジャック・ケルアックの代表作「路上」の登場人物のモデルにもなっているらしい。またメンバーの1人として「ホールアースカタログ」のスチュアート・ブランドの名前もあげられている。

         

        Magic Trip Trailer(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=57OaoZZ61oM

        「路上」「禅ヒッピー」などの著書があるビート文学の代表的な作家ジャック・ケルアック。

        バス運転手ニール・キャサディ。ケルアックの代表作「路上」(1957年)の登場人物はキャサディほかアレン・ギンズバーグやウィリアム・バロウズなどビートニクの作家がモデルになってる。ってWikipediaに書いてた。

        アレン・ギンズバーグは日本ホリスティック医学協会名誉顧問・上野圭一のコミューン映画「スワノセ・第四世界」に出てくるらしくヤマハのレジャー開発反対運動の署名もやってたというので、山尾三省やナナオサカキらへんの「部族」と交流があったのだろう。このへんの話は山田塊也の本読んだら全部書いてそうだ。

        メリー・プランクスターズのリーダーであるケン・キージーが著した1962年のベストセラー小説「カッコーの巣の上で」。


        LSD人気に嫉妬

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          いしだ壱成の叔父である星川淳、Wikipediaで著書や訳した本のタイトル一覧見て、この本全部読んだらニューエイジ博士になれると思った。しかし山尾三省にしろあがた森魚の母(助産婦)にしろ、なんでヒッピーのあいだでは屋久島人気大爆発なのだろうか。

           

          https://www.amazon.co.jp/dp/4944075758

           

          星川淳といえばロハスブーム(をマスゴミが創出してた)2000年代後半にグリーンピースの事務局長をつとめていた。ちょうどその頃、グリーンピースがクジラ肉を盗んだり、ザ・コーブってくじらたん野蛮な日本人に虐殺されてるって映画が話題になったり、シーシェパードの妨害行為が大きく報じられるなど、なぜかクジラ問題が炎上気味だった。

          私はクジラ肉なじみないし炭水化物大好き野郎なので、クジラは日本の文化とかなんとか議論されてるのすごいどうでもいいしクジラたんかわいそうだからもう食べるのやめたれくらいにしか思ってなかった。ただクジラたんイルカたん賢くて大好きみたいなこと言う奴はたいていニューエイジなのである。

           

          Catch Up! J.C.Lilly Talking(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=5UgJrKFOdss

          イルカたんかしこくて大好きの根拠はジョンCリリー博士だろう。

          タンクに浮くうんぬんの実験はアルタードステーツって映画にもなった。

          1994年クジライルカ会議って書いてるから93〜94年ごろか。日本の皆さんクジラ食べないでとかLSDとか、今日本で放送されたらゑ?ってなりそうだけど、くしゅくしゅソックス時代はサリン事件の前でまだこういうのゆるかったんだと思う。

           

          鯨イルカ・イデオロギーを考える(検法 宗.献腑鵝Γ叩Ε螢蝓爾両豺隋 

          http://luna.pos.to/whale/jpn_miura_lily.html

          ・・・

          そもそも先にも述べたように、第一期イルカ研究も後半になるとリリーはLSD使用にのめりこんでいく。 幻覚剤を使うこと自体、アメリカ60年代から70年代にかけてのカウンターカルチャーの中で、外部世界に向けられていた革命の対象を内部世界に転じるといった意味付けがなされていたわけだが、50年代から一部で始まっていたようである。22) リリーもイルカ研究に手を染める前、50年代半ばに人間の精神を研究していた時代にすでに同僚から研究目的で LSD使用を勧められており、その時は断ったようだが23)、時代の流れも彼の体質を後押ししたわけだ。 もともと彼は脳や心に関心があってイルカに近づいたという経緯があり、ドラッグ使用を肯定的に捉えやすい体質があったと言える。 64年、イルカ研究中にドラッグで心が自分の肉体から離脱した状態を体験し、その状態がイルカによってプログラムされたのではないかとリリーは考えた。 しばらくはイルカ研究とLSD使用を並行して続けたが、結局はイルカからは離れて、LSD体験によって人間の心を研究する方向に回帰していった、と見るべきだろう。
          リリーはスタンフォード大学の催眠研究所やメリーランドの精神医学研究センター、そしてエサレン研究所を知る。 エサレン研究所とは60年代に設立されたセラピーのための施設で、タオやチベット密教など東洋系宗教をも含むさまざまなサイコテクノロジーの実践の場となっていた。 オルダス・ハックスリーやベイトソンもここに出入りし、やがてリリー自身も密接な関係を持つようになり、一時期ここで講師も務めている。24)
          60年代末からのリリーは仏教や禅に詳しいアラン・ワッツや、ヒンズー教やヨガに詳しいリチャード・アルパートや、さらにチリに住むオスカー・イチャーゾを尋ねてそこのグノーシス主義研究所に出入りし、スーフィズムや仏教や禅について独特の教義を学んだりして、この方面に深入りしていく。 この時期のリリーも複数の著書を出しており、邦訳されているものもある。25) イルカ・イデオロギーを扱う本論の目的からはずれるので内容についてここで検討することはしないが、要するに幻覚剤を用いての神秘体験やその方面の研究所での仕事について書かれている。 今から見れば、70年代にもてはやされたニューエイジ、およびその中のニューサイエンス26)という枠の中でリリーは動いていたと言えるだろう。 この時期、彼はいくつもの恋を体験しては愛に関する考察をも極めようとする。 しかし終始LSDを手放さなかった事実は押さえておかねばならない。  

          ・・・

           

          https://www.amazon.co.jp/dp/4892031410

           

          文中に出てくるヒンズー教やヨガに詳しいリチャード・アルパートって人はインドでさずかったラム・ダス(神の下僕って意味らしい)の名で出してるビーヒアナウっていう本が有名である。訳者の1人である上野圭一は日本ホリスティック医学協会副会長なので帯津良一との共著もあるし、70年代には監督として「スワノセ・第四世界」っていうナナオサカキとかアレン・ギンズバーグが出てくるらしいコミューン映画作ってた。

           

          https://www.amazon.co.jp/dp/427232036X/

           

          上野圭一や三砂ちづるとの共著(対談)もあり、ロハス全盛期の中心人物だった辻信一もナナオサカキと親交があったり著書の中で山尾三省の詩とか引用してるらしいので、こうしたつながりを見る限り部族などの60年代古参ヒッピーと2000年代のロハスは明らかに連続性がある・・・っていうか、精神世界とかニューエイジって言われてたの同じ物だけどやっぱりチベットとかグルとかLSDにオウムのイメージつきまとってたからロハスって格好良い名前変えただけなんじゃないだろうか。地産地消ってのもマクロビオティックの身土不二だし、食育って言葉もマクロビ用語なので、ロハス全盛期の2000年代に広まった言葉は基本的に目新しい概念などではなくきっと昔からあったニューエイジなのである。

           

          ナナオは歩く(世話人・辻信一のコラム)

          http://www.sloth.gr.jp/library/tsuji/020122nanao.html

           

          https://www.amazon.co.jp/dp/B000J94BQG

           

          ビートニクを代表する詩人ジャック・ケルアックの「禅ヒッピー」のモデルは、山尾三省やナナオサカキとともに諏訪瀬のコミューンにいたゲーリー・スナイダーとのことである。ジャック・ケルアックはアレン・ギンズバーグのオススメで鈴木大拙って人の本読んで禅に心奪われた。

          しかし禅とかポエムとかLSDって60年代の文化であって、現在ロハスのイメージとはそこまで結びつかない。こういう文化が出てくる背景には、アメリカのイケイケぷりやベトナム戦争がビートニクや若人のあいだで逝ってよしとなり、インドやチベットや禅といった東洋の精神世界に走らせたのだと適当に解釈した。

           

          ティモシー・リアリー博士の生涯 2 3(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=2vdtSnzD8YE

          LSD界の大御所ティモシー・リアリー博士のドキュメンタリー動画を発見。

          前述のリチャード・アルパート博士(ラム・ダス)やアレン・ギンズバーグも出てくる。


          おさな妻

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            評価:
            喜納昌吉&チャンプルーズ,チャンプルーズ,喜納昌吉
            徳間ジャパンコミュニケーションズ
            ¥ 1,330
            (1994-06-25)

            飯村貴子、セクシービデオが嫌いな恋人・いしだ壱成は「私で十分と言っています」(2月3日 スポーツ報知)

            http://www.hochi.co.jp/entertainment/20180203-OHT1T50077.html

             

            つい先日コミューン俳優のいしだ壱成が以前より交際していた24歳年下の女性と再再婚したとのことである。いしだ氏がここ何年か複雑な家族関係を売りにしており、父親の石田純一とバラエティ番組に出演しているのは知っていたが、ちゃんと見たことないので今どんな感じの顔なんだろうと画像検索したところ薄毛とK-POPアイドルばりの白塗りにびびった。

            相手女性との結婚と妊娠を発表したのもAGAスキンクリニック広報室発毛大使就任記者発表会だったとのことで、今後は複雑な家族関係にくわえて薄毛も売りにしていくのだろう。奥さんはまだ19歳なだけあって可愛い感じの人で、ラマーズ法や畳の部屋でかどうかはわからないけどとりあえず元気な赤ちゃん生みそうな感じがした。

            現代の若人からすると、このくたびれた爺いったい何なんだい?って思ってるかもしれないが、何度かこのブログでも言及したように四半世紀ほど前、デビュー当時のいしだ氏は新しい時代を感じさせられたものである。それまで格好良いとされていた吉田栄作や加勢大周のようなハンサムな奴らとは明らかに異質の存在で、ぼくたちのドラマシリーズで初めてその姿を見たときは衝撃を受けたし、ほどなくして俳優やファッソンリーダーとして売れっ子となった。

            そのため石田純一の息子と認識されていたけど家族関係をオープンにすることもなかったし、むしろいしだ壱成が第一線なのに親父は俳優業よりワイドショーでばかり騒がれてちょっと格が落ちるくらいに思われていたはずだ。それがいろいろあって石田純一が東尾理子と結婚、また異母妹であるハワイ育ちのすみれがデビューして石田家に注目が集まった2010年代以降、親父に振り回されつつも同じ道を歩む息子って役まわりに活路を見出してる。

            まずいしだ壱成は2001年にLSDと大麻で逮捕された。ここからが第一線俳優から現在の地位にいたる序章なのだが、芸能人に大人気の覚せい剤ではなくLSDと大麻ってセレクトがコミューンである。

            しかし芸能界で薬物なんてあいさつがわりぐらいなもんだろうし、常連だった野島ドラマがヒットしなくなってたとはいえいしだ氏クラスなら普通に復帰もできたと思うのだが、何かその後決定的な不祥事あったような。とWikipediaを確認したところ、2009年川合千春と一緒に住んでたのに他の女性を妊娠させてしかも連絡をシカトしたので女性が自殺未遂と堕胎、川合に振られ事務所からも解雇されってなことがあったと書いてた。川合千春は小松千春とよく混同してしまったものの、くしゅくしゅソックス時代に売れっ子だったモデルさんで当時流行の口裂けメイクが似合いそうなおしゃ顔だった。

            そういえばいしだ壱成は坂井真紀やとよた真帆などどっちかというと同世代か年上の女優と浮名を流していたはずで、43歳の今アラフィフ熟女行くかと思いきや今回は19歳ってとこが納得いかん。で川合千春との破局とプライベート安売りのあいだに一瞬だけコミューン育ちや反原発を売りにしてた時もあった。

             

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            今だからみんなで考えたいこと。(2011年3月4日 Arrivals)

            https://ameblo.jp/isseiishida/entry-10819818986.html

            ・・・

            たしか自分が11歳ぐらいの頃だった、二歳のとき両親が離婚したあと、母子家庭で当時は母と母の恋人と山のなかで三人で暮らしていた。

            旧ソ連(現在のウクライナ)のチェルノブイリ原発が大爆発を起こしたわりとすぐ後、だったと記憶している。

            当時通っていた、山梨県長坂町(現在の山梨県北杜市)の小泉小学校の校舎の窓からクラスメイトたちと曇る空を見上げながら『きっと死の灰が降ってくる』と不安を囁きあったものだ。

            そしてその事故の同年か翌年に、四国の最西端に建つ伊方原子力発電所で、とある実験があった。

            出力調整実験、という実験だった。

            ・・・

            それを技術がそこまでしっかりと追いついていないのに、そんな実験をするなんて、とさすがに小学生の僕でもとんでもないことだと感じた。というか、単純に恐怖だった。

            そして、まさに、その出力調整中に、あのチェルノブイリは爆発したのだ。

            母親からその話しを聞いたときは、ぞっとした。

            それを、日本でやるという。

            ついこないだチェルノブイリが同じ実験をしていて大爆発をしたというのに、やるという。

            母たちは全国から仲間たちを募って、その実験を止めてもらう様、即刻四国電力に行くと荷支度を始めていた。自分も行く、と言った。そう言ったか、勝手に車に乗ったかよく覚えていないが、とにかくそのまま車で八ヶ岳から四国へ出発した。

            学校は、休んだ。

            全国から四国は高松にある四国電力本社前へ実験中止を訴えようと、数えきれない人たちが座り込みに集まっていた。

            ・・・

            そして、実験当日の実験開始時刻まであと一時間ほど。

            現場がやはり、荒れ始めた。

            声を荒げる人が増えはじめた。

            自分の親たちも、慌しく荒々しく声を上げはじめた。

            伊方が爆発する。

            お願いだ、やめてくれ。

            それが、やめろ、に変わり、恐怖と興奮と怒りとが入り混じった不穏な空気があたりを包みはじめた。一触即発の空気。

            無論警察が介入、そしてなぜか機動隊が群をなして押し寄せて来た。

            当たり前だが、生まれて初めてそのときに機動隊を生で見た。

            人数は正確には覚えていないがこちら側の約200名から見ると多勢に無勢なのは明らかだった。

            ・・・

            やはり、武力による衝突が始まったのだ。

            急いで起き上がるが、身体の小さい僕は圧倒的に非力だった。

            あたりはカオス状態だった。

            今度は機動隊員の膝蹴りを喰らった。

            また冷たいアスファルトの地面に顔面から叩きつけられた。

            ラジ!!と聴いたことのある声が聞こえた。ラジというのは、僕の洗礼名で、親たちにはこう呼ばれる方が多い。

            顔を上げると、子供になんてことするんだ!!と僕を助けようと手を伸ばして叫んでいる西荻窪で無農薬野菜の八百屋を営む親(一括してそう呼びたいと思う、僕には沢山の親がいると思っている)がいた。一瞬だが、知った顔を見つけて安心した。

            その矢先、機動隊の警棒が彼に叩きつけられ、彼は苦痛に顔を歪めてその場に倒れ込んだ。

            あんなに優しい笑顔しか見たことのなかった人間が見知らぬ人間に殴られて、苦痛に顔を歪めている。

            ・・・

            そして、実験開始時刻。

            突然、騒乱は収まった。

            収まったというか、親たちが動きを止めて皆、一斉に地面に伏せたのだ。

            無言の祈り。無音の時間。

            そして実験は成功し、爆発は起こらなかった。

            これが、僕が原発、というものに本格的に興味を持ったきっかけだ。

            ・・・

            読んで下さって、ありがとう。
            愛ある日々を!!


            No Nukes One Love.

             

            薪割りをしながら‥。(2007年6月2日 Arrivals)

            https://ameblo.jp/isseiishida/entry-10035478240.html

            ・・・

            ん、あ、僕生まれたのは東京の世田谷区なのですが、育ったのは屋久島という島の山の奥深くなんです。っていうかジャングルのなか。
            小学校の2年生くらいまでは東京にいて、いわゆる典型的な鍵っ子だったのですが、その後はずっと島っ子。母の『東京離れたいな〜』という突発的な(? 笑)衝動に『いいねー!』と乗っかるカタチで、作家をしている叔父、星川淳、といいます、の家族が住む屋久島に母と移住したのは小学3年に上がろうかという頃。
            僕らが住む事になったのは、電気もガスも水道もない山のなかにぽつんと佇む木造の小さな小屋。
            ・・・
            とはいえ、それまで都会の生活を享受していた子供にとって、島での生活はカルチャーショックの連続。
            先ほども書きましたが、まず電気が無い。夜なんかはいわゆるランプと蝋燭の生活です。あれほど、夜って怖いんだぁ、って思ったことはなかったです。森の木々がざわざわ揺れて、時にゴォッて音をたてて‥雨がざざぁって横殴りに小屋を揺らして‥。
            当然、TVやらもある訳が無い。
            やー、そうなったら読書です読書。あ、僕はもっぱら東京から持って行った漫画ばかりでしたケド(笑)
            無論、ステレオなんぞもありませんから、音楽が聴きたくなったら夜な夜な集まって来る陽気な大人たちがお酒を酌み交わしながらアコースティックギターやパーカッションで奏でるメロディやリズム、それぞれの思いおもいの人生の唄を聴かせてもらう訳です。それも僕は何だか暖かくていいな、と思いました。だって自分たちで音を鳴らすしか無いんだもん。だけど、どこか心暖まる優しい風景。
            ・・・

             

            てっきり東日本大震災に便乗して原発とかコミューン言い出したくらいに思ってたけど、今確認すると原発のことを長々語ってたブログ記事が地震の一週間前というすごいタイミングだったし、2007年時点でコミューンの話もしてた。記事読んで、そうそう福島の事故が起こるまで祝島とかめっちゃ言ってたし映画もあったなー。と記憶がよみがえったし、多島美とかいって瀬戸内の自然に脚光が当たり出したのも上関原発反対運動が関係していると当時ひそかに思ってた。

             

            上関原子力発電所(Wikipedia)

            https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%96%A2%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80

            推進運動と反対運動
            上関原子力発電所の計画に当たっては、賛成派・反対派で町内を二分するほどの激しい対立が続いている。2005年から2009年にかけて、中国電力は建設予定地での詳細調査を行い、2010年には予定地内の埋め立て工事に着手しているが、いずれの機会も反対派の町民や祝島漁民、「虹のカヤック隊」と称するシーカヤックに乗った活動家グループによる作業の実力阻止が試みられている。このこともあって、事業主体の中国電力では計画が浮上してから着工許可を国に上程するまで複数回の延期を繰り返している。

             

            祝島って震災以降とんと聞かなくなったので原発の計画も棚上げになったと思ってたけど、今Wikipedia↑読んだら2016年以降はまた工事着手への準備が進んでいるって書いててびっくりした。虹のカヤック隊ってネーミングはたぶんネイティブアメリカンの虹の戦士からとってると思う。(カヤックももとは先住民の船)

            いしだ氏が参加したという四国電力の座り込みは、チェルノブイリ後に反原発運動がけっこう盛り上がってる時期だった。YouTubeで動画を見るとバブル期なのにヒッピー大集合してて、喜納昌吉やチェルノブイリ時にブレイクした広瀬隆も登場していた野草社「80年代」誌におけるコミューン主義との連続性を感じさせる。
             

            喜納昌吉 原発サラバ記念日&命の祭り 1988年(YouTube)

            https://www.youtube.com/watch?v=7abXqj7YQr4

             

            洗礼名のラジという名で呼ばれ〜というくだりはおそらくキリストの教会でやる洗礼ではなく、ラジってくらいだからラジニーシってインド人からもらったサニヤスネームだと思う。でもWikipediaによるといしだ氏の叔父でラジニーシの訳者でもある星川淳のサニヤスネームがスワミ・プレム・プラブッダで、喜納昌吉がスワミ・プレム・ウパニシャッドとあり、それに比べるとラジって短すぎるので違う気もした。

            西荻窪で有機野菜の八百屋を営む親(のような存在)ってのは、ほびっと村の長本兄弟商会と思われる。この八百屋にかんする本が1982年に出ているが、表紙の絵は山田真の本とかでよく見る柳生弦一郎画伯だろうか。

            背景にはほんやら洞を示す看板もえがかれている。長本兄弟商会とはいうけど兄弟でやってるわけではないらしい。

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/4794919735


            流浪の民

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              評価:
              Osamu Kitajima
              Psi Psychedelic
              ¥ 2,775
              (2016-09-16)

              ヤマギシ会はまだやっていた --- 島田 裕巳(2013年2月17日 アゴラ)

              http://agora-web.jp/archives/1519621.html

              ふと、ヤマギシ会はどうなっているのだろうかと気になった。ヤマギシ会は、日本で最大のコミューン、共同体であり、理想社会の実現をその組織の目的としてきた。創立は1953年のことで、ちょうど今年で60年になる。

              私は、大学時代にヤマギシ会に関心をもち、宗教学のゼミでの調査をきっかけに、近づき、その運動に共鳴して、メンバーになったことがあった。今から40年近く前のことである。ヤマギシ会の共同体で生活していた期間は7カ月と短かったものの、その後も、ヤマギシ会を出てきた人間たちが中心になった、共同体つくりの運動に参加し、そのあいだはヤマギシ会ともかかわりをもった。


              当時のヤマギシ会には、学生運動に参加した経験をもつ若い人間が多かった。ヤマギシ会は、1959年に「ヤマギシ会事件」を起こし、世間の注目を集めたが、それによって危険な団体とも見なされ、一時、運動は停滞した。ところが、学生運動崩れが多数参加することで、60年代の終わりから70年代のはじめにかけて、ユニークな運動体として注目を集めたのだった。

              ・・・

              私が抜けた後、ヤマギシ会は、農業産業の方向へ大きく舵を切った。若いメンバーは、朝から晩まで熱心に働くようになる。そして、都会の主婦層から、ヤマギシ会の農場で生産される卵や鶏肉が自然で安全な食品ということで需要が生まれ、共同体の規模は拡大していった。

              ・・・

              ところが、急激な拡大はひずみも生む。ヤマギシ会の共同体のなかで、子どもに対する体罰が行われているなどとして日弁連などによる調査が行われ、その事実が明らかになることで、ヤマギシ会は社会から激しいバッシングを受けることとなった。それは、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こってから、それほど経っていない段階でのことで、ヤマギシ会はオウム真理教と同様に危険なカルトであると見なされたことも大きかった。

              ・・・

               

              おそらく1970年代の現象と思うのだが、雑誌「80年代」の執筆陣だった新島淳良、野本三吉、島田裕巳、野草社創設者の石垣雅設、また水俣病にとりくんでいた宇井純など、ヤマギシズムやってた人がけっこう多い。「コミューン」とかいう他人どうしの共同生活が一瞬脚光をあびたものと思われるが、私がJCぐらいの時分にはすでにヤマギシ危ない連中ってのが一般的なイメージだったことから、産婆やマクロビと違い左翼が発掘したけど人気定着しなかったパターンと思われる。

              たぶんヤマギシの主力商品って卵とか牛乳だし公式サイトを見たら「ほんもの」を売りにしてたので、三一新書が食品公害を告発していたような時代にはオバタリアンから支持され生協みたいな存在価値もあったのかもしれない。ただ牛乳の殺菌が80℃と120℃なのであまり低温ではないようだ。

               

              東海アマブログ

              http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-22.html

              日本では、資本主義的競争価値観が孤立化家族を産み出したことはあっても、それに逆行する大家族共同体を結成し、その良さをアピールする民衆運動は極めて少なかった。
              冒頭に述べた『新しき村』をはじめ、資本主義の弊害が目立ち始めた時代にアンチテーゼとして登場した大正デモクラシーや幸徳秋水・大杉栄らによる社会主義・アナキズム思想運動から、いくつかの試行錯誤が行われたにとどまる。
              また、1960年代に、小規模ながら、ヒッピー運動から派生した「部族共同体運動」(榊七夫らによる)が長野県富士見町などで営まれたこともあった。
              これらは、ただ一つの例外を除いて、ほとんど有力な勢力となりえなかった。

              その「ただ一つの例外」こそ『ヤマギシ会』であった。
              ヤマギシズムは、ちょうどイスラエルの入植者共同体「キブツ」が登場するのと時を同じくして1953年に登場し、この両者だけが、現在、数万人を超える参画者を有し、経済的に優位な自立的地位を獲得し、世界的に共同体として成功を収めている稀少な例である。(キブツは、現在では「工業共同体」に転化している)
              すでにブログでも何度も取り上げているが、筆者は、ヤマギシ会の本拠地である伊賀市が近いこともあり、これまで大きな関わりをもって見守ってきた。

              ・・・

              ヤマギシズムは、当初、思想運動の側面が色濃く、分けても、1956年から伊賀市柘植の春日山実顕地で行われた「特別講習研鑽会」によって、明確に「私有財産を拒否する農業共同体」、当時で言う「コミューン」思想を主軸に据えていた。
              1959年に「世界急進Z革命団山岸会」と改名し、非合法な監禁に近い洗脳工作を行ったとされ、マスコミなどから大規模なバッシングを受けることになった。
              この事件以降、「アカの過激派団体」と見なされることが多くなり、ヤマギシズムは一時的な停滞に陥った。
              筆者も、ヤマギシズムを初めて知ったのは1969年だったが、1974年に、この「特講」に参加している。
              このとき、ヤマギシズムの代表を勤め、特講の最高幹事だったのが新島淳良であり、奇しくも、彼は筆者が毛沢東思想に傾斜していた時代の教師ともいえる存在であった。

              実は、1960年代後半から燃え上がった「学園闘争・全共闘運動」のなかで、最期に赤軍派などの大量殺人が摘発され、一気に意欲消沈、運動が崩壊してゆくなかで、主役であった戦闘的な若者たちの多くが、こうしたコミューン運動に幻想を抱き、ヤマギシズムに共鳴して、参画していったのである。
              思想的オピニオンリーダーの一人であり、日本を代表する中国革命思想研究者だった新島淳良は、早稲田大学教授の地位をなげうって、全財産をヤマギシ会に提供し、一家で参画したのだった。(本人は死去したが妻や子供たちは、まだ参画している)
              当時、筆者も「ベ平連運動」に共鳴していた一人だが、ベトナム戦争での無意味な人殺しを拒否した在日米軍脱走兵などがヤマギシ会に匿われていたと記録されている。筆者自身は立川のローカル活動家であって、鶴見俊輔らと直接の交際はなかった。

              ・・・

               

              上記引用にある榊七夫とは詩人のナナオサカキで、山尾三省が購入した長野県富士見町の山地に「雷赤鴉族(かみなりあかがらすぞく)」というコミューンを作っていた。同じ部族共同体運動でも国分寺や長野やトカラ列島などやたら拠点が分散していてよく分からないのだが、そういえばだいぶ前にNHKアーカイブス的な再放送で山尾三省が出演している古いドキュメンタリーを見かけたことがあり、そのときの山尾氏は与論島に住んでいたように記憶している。

               

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              屋久島にも住んでいたのか?高樹沙耶はじめ今でもヒッピーって都会から入植してきて自然ゆたかな山の中や南の島で共同生活したり大麻やったりしてるけど、「部族」はそのパターンの先駆けだろう。

               

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              にっぽんコミューンて本は1979年に出ており、ほびっと村やヤマギシのほかに奄美大島の無我利道場なんかもとりあげられているらしい。その無我利道場や前述の「部族」に詳しい動画がYouTubeにあった。

               

              アイ・アム・ヒッピー―日本のヒッピー・ムーヴメント’60(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=iZVyM7lDdro

              無我利道場の故・山田塊也を追った毎日放送のドキュメンタリー。山田氏による同じタイトルの本が1990年に第三書館(マリファナや辻元清美の著書を多く出してた会社)から出ているので、近い時期の番組と思われる。

              スワノセってことはこれが「部族」の「バンヤン・アシュラマ」ってコミューンなのだろうか。検索したとこによると、1967年にはすでにナナオサカキなどが入植しLSDとかやっていたようだ。

              70年代には国分寺を拠点にヤマハによる諏訪之瀬島観光開発計画の反対運動としてフリーコンサートを開催しており、そうしたコンサートの常連だったロックバンド「裸のラリーズ」は結成当初よど号メンバーの若林盛亮が在籍していた。若林氏も山田塊也と親交があったという。

              しかしこの記録映画なんなんだろう。と思って検索してみたところ、1976年制作、監督が上野圭一、音楽が喜多嶋修、キャストはナナオサカキとアレン・ギンズバーグとのことである。アレン・ギンズバーグは村上春樹も訳したとかいうビートニクの詩人、喜多嶋修は喜多嶋舞の父親でDNA鑑定のときに光GENJIのことディスってた。

               

              アレン・ギンズバーグ(Wikipedia)

              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0

              アーウィン・アレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg, 1926年6月3日 - 1997年4月5日)は、アメリカの詩人。ジャック・ケルアックとともにビート文学の代表者のひとり。

              https://www.amazon.co.jp/dp/4309462987/

               

              今アレン・ギンズバーグを引用して、あれ?この人ってゲーリー・スナイダーって詩人とは別人なのか。と気づき、Wikipediaを確認したところ、ゲーリー・スナイダーのほうは山尾三省やナナオサカキとともに諏訪瀬のコミューンに住んでたらしい。ゲーリー・スナイダーには山尾三省との共著やナナオサカキ、片桐ユズルによる訳書がある。

               

              ゲーリー・スナイダー(Wikipedia)

              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%BC

              ゲーリー・スナイダー(Gary Snyder、1930年5月8日 - )は、アメリカ合衆国の詩人、自然保護活動家。20世紀のアメリカを代表する自然詩人。カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。

              代表作の詩集『亀の島』ではピューリッツアー賞を、『終わりなき山河』ではボリンゲン賞を受賞。アレン・ギンスバーグやジャック・ケルアックなどとの交友関係は有名で、(しかし本人は、自身をビートと結び付けたがっていない)1950年代前半には「ビート・ジェネレーション」の詩人として活躍した。

              1956年から1968年までの期間の大半は京都に滞在し、相国寺や大徳寺で臨済禅を学んだ。この時期には宮沢賢治の詩の翻訳も試み、「春と修羅」などの一連の作品の英訳が『奥地』(The Back Country)に所収されている。また、ナナオサカキ、山尾三省らと鹿児島県のトカラ列島に属する諏訪之瀬島にコミューンを作り、移住した。

              ・・・

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              なぜか旭日旗みたいなの持って爆走する全裸集団。この人々絶対ドラッグとか大麻やってる。

              集団で歌うヒッピー。70年代のフィルム映像なのでかなり不気味。

              無我利が問題になっていた頃の、ヒッピーは出ていけー!って行進してる映像もあるのだけど、これ当時どれくらい報道されてたんだろうか。都会から左翼が大挙してドラッグや大麻やったりテロリストかくまったりとなれば、むしろコミューンが僻地にとって本土資本や原発いやそれ以上のやっかいな存在だったにちがいない。


              国分寺

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                10年ほど前に移転してきたとはいえ自然育児友の会が事務局を置く「カフェスロー」やラマーズ法の流れをくむ矢島助産院など、ロハスの名所が国分寺に集中しているのは偶然ではない気がした。かなり前に「中央線なヒト」って本を読んで思った(内容は覚えてない)のだが、60年代における新宿の若者文化が中央線ぞいに伸長していき、長年にわたってサブカルやヒッピーを寄せつけてきた側面があるのではないかと。

                 

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                日本においてラマーズ法の第一人者である三森孔子助産婦の「産婆の学校」また「やさしいかくめい」が編集された地でもあるヒッピーの複合施設「ほびっと村」の西荻窪もまた中央線沿線である。検索したところによると、ほびっと村の2階にある自然食レストラン「バルタザール」は以前「ほんやら洞」って名前で、ほんやら洞はもともと1972年に京都で開業された喫茶店なのだが、その2年後には国分寺にも存在していたらしい。

                ほんやら洞 (喫茶店)

                https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BB%E3%82%93%E3%82%84%E3%82%89%E6%B4%9E_(%E5%96%AB%E8%8C%B6%E5%BA%97)

                ほんやら洞(ほんやらどう)は、京都府京都市、東京都国分寺市などにある喫茶店。各店の名称は、多くの場合、つげ義春の短編漫画「ほんやら洞のべんさん」(初出:1967年6月『ガロ』)[1]に由来する[2]。

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                『ほんやら洞の詩人たち』出版
                この2階スペースには、1970年代、ボブ・ディラン楽曲の訳詞者である中山容片桐ユズル、秋山基夫、有馬敲らオーラル派と呼ばれる詩人たちが集まり、しばしば自作詩の朗読を行った。そのなかから『ほんやら洞の詩人たち』[9]という朗読レコードが1975年(昭和50年)に制作され、1979年(昭和54年)には同名の本が生まれた。

                ・・・

                国分寺の「ほんやら洞」

                国分寺市の店は、京都・出町柳の店舗づくりの中心メンバーだった早川正洋が同様のコンセプトでつくり、1974年(昭和49年)頃に中山容が買い取ったものである。2014年現在の店主はシンガーソングライターの中山ラビで[17]、京都の店のコンセプトを熟知する彼女が1977年(昭和52年)から経営し、作家の花村萬月、漫画家のいしかわじゅんらが常連だったことでそれぞれの読者から注目を集めた。いしかわは、中山ラビをモデルにして自作の漫画のキャラクターを書いている。

                画家の牧野伊三夫が店の看板をつくっており、これまで若手の美術家の個展などの会場となることもあった。

                ・・・

                 

                ノーベル文学賞でおなじみボブディランの訳詞者である中山容が国分寺ほんやら洞店主の女性歌手、中山ラビと同じ苗字であることから夫婦と思ったが、それぞれのWikipediaを読んでもそんなこと書いてないし2人とも本名中山ではないらしい。中山容が英米文学研究者として教鞭をとっていた京都精華大学は、片桐ユズル・中尾ハジメ兄弟が名誉教授と元学長となっており、京都のほんやら洞との関係性がうかがえる。

                京都精華大学は2006年よりマンガ学部を創設したことで有名とのことで、これは2001年から05まで日本マンガ学会初代会長だった中尾氏が同年まで学長だったためだろう。以前ロハス史振り返るシリーズで津村喬や毛利子来が寄稿していた野草社「80年代」って雑誌を紹介したことがあるが、同誌には中尾氏によるスリーマイル島の記事も掲載されていた。

                 

                https://www.amazon.co.jp/dp/4787781855

                 

                amazon情報によると、中尾ハジメ「スリーマイル島」は1981年に出た本である。スリーマイル島の原発事故が1979年だったてのもあるとはいえ、反原発運動がロハスの一部に組み込まれたのもおそらく「自然なお産」同様1980年ごろという時期が重要になってくるにちがいない。

                反原発運動が今と同じようなノリで盛り上がるのはチェルノブイリの事故以降かと思うのだが、雑誌「80年代」はそれよりも早くて、窪川町の原発誘致や広瀬隆の記事が掲載されていたし、野草社からは「スリーマイル島」と同じ1981年に「いま原発「現地」から 80年代別冊」、広瀬隆著「原子力発電とは何か そのわかりやすい説明」って本も出ていた。同じく野草社から多数の著書がありまた「80年代」の執筆陣の1人であった詩人の山尾三省は、60年代後半ごろか?国分寺のコミューン「エメラルドのそよ風族」が家宅捜索されたさい大麻取締法違反で逮捕されており、下記引用サイトによればこれが日本で初の大麻弾圧事件だったそうである。

                また当時は非合法化される前てこともあったのか大麻よりLSDの方がメインで、LSDの幻覚作用であるサイケデリックも流行したようだが、YouTubeで若人が大麻でもLSDでもなくシンナーやってる古い動画も見たことある。ドラッグとか植物キメだした第一人者がオルダス・ハクスリーで、前述の中山容や片桐ユズルもハクスリーの訳書を手がけていた。

                 

                創立40周年「ほら貝」の閉店(麻声民語)

                http://amanakuni.net/pon/maseimingo/51.html

                ・・・
                わが国初のロック喫茶として、1968年に創立開店した「ほら貝」が、40周年を迎えた今夏をもって閉店することになったので、この日は元ヒッピーたちが集って、長年の労をねぎらい、名残りを惜しんだ。この日顔を見せた元「部族」は、サタン、ミロ、アキ、リューゴ、ヤー、マリ、ミチ、エヘラ、ソーキ、ハス、ハワイのクリス、そして「部族」の友人でありながら一線を画してきた、サワ、デビッド、トラオなどだ。
                「サマー・オブ・ラヴ」と呼ばれた67年夏以来、全世界を席捲したヒッピーブームは、日本でも同時発生し、コミューン運動「部族」は、信州富士見高原の「雷赤鴉族」、トカラ列島諏訪之瀬島の「バンヤン・アシュラマ」、東京国分寺の「エメラルド色のそよ風族」の3ヶ所が発足した。
                高度経済成長の体制社会をドロップアウトして、旅とコミューン作りを開始したヒッピームーヴメントには、ロックとマリファナという強力な武器があった。「ほら貝」はロックという革命的な音楽を、多くの若者たちに紹介するために、「エメラルド色のそよ風族」が、国分寺に築いたヒッピー砦だった。
                当然のことながら、権力側にも目をつけられ、68年初夏「ほら貝」の開店と前後して、警察は「エメラルド色のそよ風族」を家宅捜査し、山尾三省など5名を、大麻取締法違反で逮捕し、わが国初の大麻弾圧事件となった。しかし検察側にはまだ公判を維持するだけの資料がないため、起訴猶予となったが、マスコミは「ヒッピーは麻薬常習者」というスキャンダラスな記事を大々的に報道した。
                ・・・

                 

                第3章 ヒッピーブームの中の「部族」

                http://amanakuni.net/pon/hippie/3.html

                諏訪之瀬が雨期に入る頃、島にある唯一の電話を通して、東京の仲間からエメラルド色のそよ風族にガサが入り、大麻所持で三省など5名がパクられたという連絡があった。
                やっぱり来たか、と思った。雷赤鴉族の土地が三省の名儀で登記されていると知って、エメラルド色のそよ風族も当然マークされているはずだと、三省にも警告しておいたのだ。
                わが国初の大麻取締法違反(所持)による逮捕者は、三省、マモ、ナンダ、ミコ、シロの5名。折からヒッピーブームの最盛期とあって、マスコミは大々的にこれを報道し、新聞は全員の顔写真まで載せた。
                私としては救援に飛んで行きたかったが、ナナオから諏訪之瀬の方が大切だと言われて思いとどまった。ナーガとピー子はインドへ行っていたが、救援は三省の全学連時代の友人、日吉真夫がやってくれた。
                しかし捕まえてみたものの検事側には、これを裁判にもって行くだけの公判資料がなかった。日本国の必要から生まれた法律ではないから、大麻を有害とする学術資料などあるはずがなかった。そのため全員を起訴猶予として無罪放免した。とはいえ権力は「ヒッピーは麻薬中毒のダメ人間」として、5人を見せしめにしたことで目的を果たしたのである。ヒッピーブームに対する、これが権力による恫喝だった。
                これに対して「部族」は、マモが名誉毀損で反撃したが、控訴棄却されて後が続かず、その後大麻解放運動とは一線を画し、69年から70年にかけて「マリファナ解放戦線」の運動にも関らなかった。そして深く静かに潜行した。
                私たちは富士見や諏訪之瀬のコミューンで、北海道から採取してきたカラスを回しのみ、マントラ・ヨガを修め、自然に回帰する生活を探求した。もっともこの当時は、大麻よりもLSDの方がメインだったが。(LSDが日本で非合法化されたのは1970年)

                 

                出てくる固有名詞がほんやら洞とかほびっと村とかほら貝とか全部似たような名前で訳わからなくなってきたので整理さしてもらうと、ほびっと村が西荻窪、ほんやら洞が京都と国分寺の喫茶店、ほら貝が国分寺に10年ぐらい前まであった日本初のロック喫茶・・・なんだそうだ。検索していると、ノーベル文学賞でおなじみ村上春樹が作家デビュー前に営んでいたというジャズ喫茶「ピーター・キャット」もほんやら洞のほど近くにあったって書かれてるのだが、そういえば同氏の1Q84って小説が「80年代」に出てくるようなヒッピーコミューンをモデルにしてるってのもどっかで読んだので、世界の村上春樹は国分寺ロハスほっこり文化に詳しい可能性が高い。

                ところで山尾三省にしても片桐ユズルにしても、ヒッピー黎明期に詩人とか詩の朗読がやたら多いのはヒッピーの前にビートニクというブームがあったからと思われる。村上春樹のジャズ喫茶ってのもビートニクの影響下な気がするけど、私はポエムや小説といった文学方面はちんぷんかんぷんなのでこの適当な推察は話半分にきいとくれ。

                 

                村上春樹がついに伝説のビート詩人に挑んだ これは“事件”だ(2016年5月7日 デイリー新潮)

                https://www.dailyshincho.jp/article/2016/05071000/?all=1

                 

                ビート・ジェネレーション(Wikipedia)

                https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3

                ビート・ジェネレーション(英: Beat Generation)は、1955年から1964年頃にかけて、アメリカ合衆国の文学界で異彩を放ったグループ、あるいはその活動の総称。ビートニク(Beatnik)と呼ばれる事もある。生年でいうと、概ね1914年から1929年までの、第一次世界大戦から狂騒の20年代までに生まれた世代に相当する。

                最盛期にはジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグそしてウィリアム・バロウズを初めとするビート・ジェネレーションの作家たちは多くの若者達、特にヒッピーから熱狂的な支持を受け、やがて世界中で広く知られるようになった。またポエトリー・リーディングの活動も有名である。


                近年冷えとりで有名な服部みれいには詩人という一面もあり、何か呼吸法つながりらしい谷川俊太郎と朗読したりしてるの含めてビートニクなのかもしれない。谷川氏も昔はLSDやってたんだそうだ。

                 

                服部みれいさんとの朗読会@自由学園明日館(谷川俊太郎*com)

                http://www.tanikawashuntaro.com/archives/681

                2013年3月3日は自由学園明日館の講堂にて
                服部みれいさんとの朗読会でした。

                意外なことに、お二人はこういった形で共演するのは今回が初めて。
                俊太郎さんのポエメールに、みれいさんがお返事詩、「レス詩」を書いて
                送ってくださったのが、この朗読会をやるひとつのきっかけとなりました。

                朗読会では、ポエメール&レス詩を交互に朗読したり、
                この日に先行発売となったみれいさんの処女詩集、
                『だからもう はい、すきですという』(ナナロク社)から朗読したり、
                創作についてのお二人のお話や、質疑応答、二人の私物大放出の
                抽選会もあったりして、濃密な2時間でした。

                ・・・

                終了後の打ち上げにて、俊太郎さん、服部みれいさん、加藤俊朗先生。
                加藤先生は、俊太郎さんとみれいさんの呼吸の先生でもあります。
                この日は、なんと京都でのお仕事が終わった後に、
                打ち上げ会場にかけてつけてくださいました!
                加藤先生、ありがとうございました〜。

                 

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                自然育児

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                  国分寺のロハスなカフェに事務局を置く「自然育児友の会」が山西みな子助産師の指導を受けた母親たちで組織され、またその山西氏は桶谷式マッサージの桶谷そとみに師事していた。ってな話が前回までのロハス史なのだが、自然育児という概念において山西氏と並び重要なのが食物アレルギーの権威だったと思われる松村龍雄である。松村氏は1981年に「自然育児法―丈夫な体質をつくる」って本を出しているので、その後1983年にできた自然育児友の会の「自然育児」って言い回しも松村氏からの流れだろう。

                  美健ガイドでおなじみ真弓定夫は自然「流」育児という言葉を用いているが、自然育児友の会の顧問も務めていたし、また自身が監修したマンガに「牛乳はモー毒」「断乳できない哀しい日本人」があることから、その思想は松村氏の影響下にあるものと考えられる。「断乳できない哀しい日本人」の表紙には牛さんのオパーイに人間がぶら下がっている絵がえがかれており、松村氏が1972年に著した「母乳主義―あなたの子どもは「牛」ではない」の表紙に酷似していた。

                   

                  出会い 〜一期一会〜「山西みな子先生」 - 松原まなみ

                  http://www.matsumana.net/deai/index4.html

                  私の人生にとって最も影響のあった出会いといえば、やはり助産師として、看護職としての恩師、山西みな子先生との出会いである。

                  山西みな子先生は、桶谷式マッサージの創始者である桶谷そとみ姉に師事したのち、桶谷式乳房管理法の理論化と普及に努め、自らも東京中野区で自然育児相談所を開設され、2万人以上の母子のケアにあたられた。
                  おっぱいが出ない、痛い、吸えない、といった母乳育児相談のほか、食物アレルギーの父、松村達夫先生と共に、母乳育児、食養生を通してアトピー体質を克服し、丈夫な体質をつくる「自然育児法」を広められた。

                   

                  母乳育児、自然育児法の理念はやがて統合されてTotal Breastfeeding(総合母乳育児)として大成された。
                  山西先生やその弟子のケアを受けた母親たちは、この理念を子育ての指針とし、母親たちによる自助グループ「自然育児友の会」を発足させた。
                  「自然育児友の会」は、日本全国のみならず、世界中に会員を持つNPO組織に発展し、一昨年の愛知万博「地球市民村」では、海外のNPOと共同して、1ヶ月間のブースを運営するまでの組織に発展している。
                  母親達が母乳育児をとおして母子の絆を深め、食育手当て法による自然治癒力、自らのからだ、子どもののびゆく力への目覚めを体験した母親達のパワーは、私達専門家の力、働きを超えた広がりをもつ。

                   

                  共同したアメリカのNPO: Attachment Parenting Internationalが提唱する「愛着に満ちた子育て」の源泉は、実は、戦争直後の沖縄で目にした日本の伝統的な子育ての中に見たおんぶ添い寝母乳育児といった子育ての基本を、アメリカ人小児科医が本国に持ち帰って広めた子育て指針であったという事実に驚かされた。
                  どんなに文化が違っても、社会が変化しても変わらない、失ってはならない、「ヒトが人として育つ」ための道筋を私達に示して下さった山西みな子先生のコンセプトは、師の手当て受けた母親達の活動によって、海外へも広がっている。

                  ・・・

                   

                  日本母子ケア研究会とは

                  http://boshicare.com/aboutus/

                  日本母子ケア研究会の母体となったのは1980年頃から約25年続いた自然育児法研究会というユニークな勉強会です。自然育児法は故山西みな子先生と故松村達雄群馬大学名誉教授が提唱された食物アレルギー学説に基づく育児法でした。

                  私たちは当時から「人間の赤ちゃんは人間のおっぱいで育てられるべきである」という自然界においては当たり前のことを現在の母乳育児普及運動に先駆けて提唱し続けて来ました。そして、母乳育児確立のために、全身を診ること、整えることを学び、温灸療法イトオテルミー、遠赤外線治療、ポラリティー、快医学、食事療法、手当法、漢方、中医学、ホメオパシー、アロマテラピー、抱っこ法、インナーチャイルドワーク、ダウジング、ヒーリング、気功などを母乳育児支援に取り入れてきました。

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                  自然育児はもはや「昔(母乳、おんぶ、抱っこ、添い寝)はよかった」をも通り越し、インナーチャイルド、ヒーリング、ホメオパシーなどと90年代のトラウマ全盛期以降も内容が進化し続けている模様。また上記引用によれば、日本母子ケア研究会のルーツも例によって1980年ごろらしい。

                  また食物アレルギー研究ってことは、松村氏はいち早く牛乳とアレルギーの関係に目ーつけてたのかもしれない。牛乳とアレルギーの関係とは、牛乳に代表される戦後欧米化した食事がアレルギーやアトピーの一因ってなノリのことであり、じっさいに関係あるかどうかは私にはわかりかねる。

                   

                  https://www.amazon.co.jp/dp/454090065X/

                   

                  1.「食物アレルギーへの考え方の今昔」

                  http://www.glico.co.jp/boshi/futaba/no74/con04_04.htm

                  2.食物アレルギーの最初の考え方

                  日本で、食物アレルギーという言葉を最初に唱えた人は、1970年前後に在任していました群馬大学小児科の松村龍男教授です。この先生が初めて食物アレルギーという概念を唱えたわけです。そのときの考えが、子どもが食事(抗原)を食べて、体に抗体ができて(感作と言います)、それによって反応が起こるという考えだったのです。

                  ・・・

                   

                  今の常識は,将来の非常識(医薬ジャーナル社)

                  https://www.iyaku-j.com/iyakuj/system/dc8/index.php?trgid=27603

                  1900年初頭von Pirquetは,免疫現象のなかに相反する現象を観察し,アレルギーと呼ぶことを提唱しました。1905年SchlossmanやFinkelsteinが牛乳による食物アレルギーの症例を報告し,1921年PrausnitzとKüstnerがアレルギー反応における血清因子の重要性を立証しています。
                  本邦における食物アレルギーの歴史を振り返るとき,私の母校である群馬大学小児科 松村龍雄初代教授と門下生の1960年からの約20年間における業績が挙げられます。1960年に米国よりダイズ粉乳を取り寄せ,牛乳アレルギー児の臨床症状を詳細に検討し,食物アレルギーを本邦へ紹介しました。胎内感作に関する研究として,臍帯血や羊水,新生児血,胎便からPCA法で卵白抗原を検出し,食物抗原が母親から胎児に移行することを示しました。さらに,人工流産した胎児の脾臓や肝臓のリンパ球が卵白特異IgGやIgMを産生することを見いだし,胎児の能動感作を証明しています。臨床研究では,食物アレルギーを「はっきり型」と「覆面型」の2つに分類し,前者は即時型を,後者は毎日のように食べる食物によって起こる病態を想定しました。アトピー性皮膚炎を後者によって起こる疾患と捉え,厳格除去食物療法を実施し,動物蛋白として蛇や蛙などを食べさせたことはあまりにも有名です。さらに,食物アレルギーの診断としてオープン試験の不確実性と二重盲検法の重要性を強調し,食物特異IgE抗体価との相関性がなく,抗体が証明されてもすぐに起因アレルゲンと同定できないことも明らかにしています。 

                  ・・・

                   

                  乳製品の過剰で病気に(中野薬房ナチュラルインフォメーション)

                  http://www.nakanoyakubou.com/ninfomes/nyuukabyou/nyuukabyou.html

                  今から20年以上も前のことだと思いますが「あなたの子供は牛ではない」(群馬大学教授、松村龍雄著)という本を読みました。アトピーなどアレルギーの原因は牛の子供に与える乳を人間の子供に与えているからだという内容です。
                  現在では牛乳に限らず卵をはじめとした異種タンパクが、未消化で高分子のまま腸管から取り込まれることがアレルギーの原因になることが分かっています。
                  食養の分野では牛乳は「邪食」としてはじめから受け入れられていません。
                  一方、栄養学者たちは吸収の良いカルシウムをたくさん含んでいるということから牛乳を推奨しています。
                  果たしてどちらが本当なのでしょうか?

                   

                  上記引用によれば「あなたの子供は牛ではない」ではアトピーも牛乳が原因とされているとのことだが、今検索したかぎりではアトピーにかんする本が出てくるのがこれまた1980年ごろである。私がちょうど1980年生まれですでに同級生にアトピーはかなりいたので、相当爆発的に増えていたのかもしれない。

                  そういえば今アレルギーでもっとも人口が多そうな花粉症にしても、20年以上前に愛ラブ爆笑クリニックでスギ花粉がファサーと舞うアルガードのCMやってた気がするのだが、その時点ではリアルに花粉症の患者を見たことがなかったし、今くしゃみしてる奴等もここ20年くらいで発症していると思われる。花粉症やアトピーの前はどっちかというとぜんそくのが多いイメージだ。
                  戦中戦後の日本は本当に貧しかったので、アメリカ小麦戦略や給食が広めた動物性の脂肪やたんぱくに富む栄養バランスの良い食事は体位向上に寄与し、また衛生的なダイニングやキッチンも経済成長をめざす日本人の憧れであったにちがいない。しかし1980年ともなるとおそらく世の中は成熟しており、団地とか応接間とか家具調みたいな、高度経済成長期の豊かさダサッてな時期に来ていたと思われるし、アトピーのような未知の病気、また乳、卵、小麦といったアメリカ小麦戦略ぽい食材に対するアレルギーが顕著など複合的な要因が重なってロハスの「戦後や欧米化は悪」といった価値観を形成していったと思われる。

                  ただこのブログで何度か書いているように「あなたの子供は牛ではない」説聞くようになったのはここ10年くらいの話であり、少なくとも1990年ごろまで牛乳に関する議論はオバタリアンや生協による、ノンホモでパスチャライズなほんとうの牛乳が飲みたい。ってノリが優勢だったのだ。それが自然育児友の会も参加した愛・地球博の2005年頃にロハスがチーズタッカルビの100倍くらいゴリ押された折、マクロビオティックや助産院、母乳育児の流れに通ずる「あなたの子供は牛ではない」も何らかの形で広まったと考えられる。

                  ロハスでは紙おむつ害悪論も根強いけど、1980年はまだ紙おむつ普及していないのでちょっと後の話だろう。それにかんしていうと自然育児友の会はホーローのおまるを用いるおむつなし育児を推してた。

                   

                  先輩ママに聞く 「冬のおむつなし育児」(YouTube)

                  https://www.youtube.com/watch?v=zvVySAoJrfI

                  自然育児友の会radio 12月16日に開催された「おむつなしお茶会」(東京国分寺)から 冬の季節ならではの、おむつなし育児についてのママの悩みについて、お茶会でのお話をご紹介しています。

                   

                  おむつなし育児はマスゴミが自然なお産とか言ってた2009年あたりにゴリ押されているが、その前の歴史が見つからない。ロハスがだいたい1980年代に出そろっているにもかかわらずである。

                  2000年代半ばより経血コントロール(ナプキンではなくトイレで経血を排出する)という概念を提唱していた三砂ちづるがその2009年に「赤ちゃんにおむつはいらない」って言い出してるので、おむつなし育児ってのは経血コントロールの赤ちゃん版なのだろう。紙おむつ害悪論は紙おむつが普及しだした時点ですでにあったようだが、おむつなしとなるとわりと歴史は浅いのかもしれない。


                  母乳と産婆

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                    ロハス史振り返るシリーズで7,8回書いたように、戦後ありがたってきたアメリカの文明よりも自然や昔の知恵こそがガチ。というロハス的価値観が完成されてくるのは1980年代というのがわが持論なのであるが、ヒッピーが目をつけたラマーズ法のブレイクによって産婆や助産院が見直されてきたのと同様、粉ミルクがオシャな時代から母乳に移行してくるのも1980年ごろと考えられる。そもそも人によって程度の差はあれ助産師が母乳至上主義みたいなことになってて、自然なお産をマスゴミがゴリ押してた2010年前後も、助産師のゴッドハンドによる母乳すごい出るマッサージだの、デカパイになるマッサージだのが、テレビや雑誌で頻繁に紹介されていた。

                     

                    2012年2月29日放送 22:00 - 22:54 フジテレビ ザ・ベストハウス123(TVでた蔵)

                    https://datazoo.jp/tv/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9123/548260

                    15秒で母乳が溢れる!奇跡のゴッドハンド 平田喜代美

                    厚生労働省の調べによると、出産後の母親の48%が母乳が出ない・不足気味と悩んでいる。母乳が出ないため乳腺炎になりやすいというリスクがある。母乳専門のコンサルタントをしている平田喜代美を紹介。

                    キーワード
                        乳腺炎厚生労働省

                    福岡市にある、平田さん経営の施設の待合室には連日母乳が出ないという女性でいっぱいになる。マッサージを受けた女性はおさえなくても母乳がでるようになったとコメントした。

                    母乳が出ない女性達を救うゴットハンドによるマッサージ。マッサージを初めて15秒で噴水のように母乳が出てきた。マッサージで母乳が出る仕組みが解説された。

                    母乳が出ない女性にはある共通点がある。母親が食べたものが母乳になるが、刺激物や高カロリーのものばかり食べているとまずい母乳になってしまう。子供が乳首を吸わなくなり、母乳が出ていないと勘違いをする母親が多い。 平田喜代美さんは「おっぱいの事は学場所がないから、それを伝えていきたい。ものを言わないで体中で悲鳴を揚げている赤ちゃんたちの代弁者としてしっかりお母さん達に伝え続けていきたい。」と話す。

                     

                    これ↑はごく一例だが、この頃特集された助産師はしばしばゴッドハンドと形容され、マッサージに限らずこれまで○人の赤ちゃんをとりあげたからゴッドハンド・・・ってな使われ方もしていたように記憶している。あと自然なお産で子供が「産まれる」ことで○○(絆とか)が「生まれた」みたいな言い回しも多かった。

                    番組に出演していた平田喜代美は美健ガイド「おっぱいはえらい!!―母乳育児を取り戻そう!」の監修も務めている助産師で、プロフィールによると「1981年10月平田母乳育児コンサルタント開業」とあるので、やはりここでも1980年ごろと呼べる時期である。平田氏は桶谷式に影響されて母乳の相談やマッサージを始めたのだった。

                     

                    https://www.amazon.co.jp/dp/4894720930

                     

                    【福岡・福岡市】平田喜代美(ひらた・きよみ)助産師(西日本新聞)

                    http://www.nishinippon.co.jp/nnp/lifestyle/shoku/koushi/k01/post_1.shtml

                    母乳育児が、昭和四十年代ごろから牛乳を元にした人工ミルクに取って替わられたことが、どこかで現代の病理現象と結びついていると私は感じている。
                    母乳育児は母子で心を通わせることで、子どもには人間への基本的な信頼感をはぐくみ、母親には母性愛を呼び起こす大切な営みなのだ。
                    引きこもりや不登校、いじめなど、子どもを取り巻くさまざまな問題は、乳幼児期に母乳育児を受けなかったことが遠因となって起こっているのではなかろうか。母親の乳幼児虐待も、根っこには人工ミルクの授乳による母子分離のケースがあると思う。

                    「人間が人間のお乳を飲むという原点を取り戻すことが地球を救う原点」とアピールし、母乳育児を指導する助産院「おっぱい110番」を開業して、二十年以上が過ぎた。母乳育児の大切さが少しずつ理解されてきたように思う。産婦人科の病院などにも母乳外来を設けるところが増えてきている。
                    「おっぱい110番」には開業以来、これまでに約一万人の母親が訪れた。母親に対し、よい乳質のお乳をたくさん出してもらえるように桶谷式マッサージを乳房に施し、和食中心の食生活を指導する。乳児が歩くようになるまでは母乳をしっかりと飲ませてもらい、二歳前後で断乳して母子分離をしてもらう。
                    この間、心身の発達やアレルギー、しつけなどの育児問題だけでなく、夫婦や嫁姑(しゅうとめ)間の人間関係なども含め、さまざまな悩みの相談にも応じてきた。
                    母親たちの学習グループの活動が元になって、育児大学講座とゼミを開設。日本の伝統食作りを習い、オモチャづくりなどを楽しんでもらうなど、総合的に育児を支援している。

                     

                    平田氏の主張では母親が欧米化した油っこい食事をとると母乳がドロドロして詰まり、和食はサラサラで美味ってな感じで、これオリジナルの桶谷助産婦が言い出したことなのかもしれないけど、NHKでアメリカ小麦戦略を特集した「食卓のかげの星条旗 〜米と麦の戦後史〜」が放送されたのも1978年だったりするので、それまでのバランスや動物性たんぱくを重視した「栄養」を見なおし、日本人なら肉や乳じゃなく野菜や米(玄米)食べようよ。と、戦後しばらくパンに押されていた和食やマクロビが見直されたのもやっぱり1980年代なんじゃなかろうか。生協が牛乳、卵、肉を重視しているのを見ても、専業主婦文化花盛りの1960〜70年代ごろはまだ欧米化な食事は悪ではなく、ダイエットにしても生野菜サラダをいっぱい食べるとかそういう方向性だったと思うのだよね。

                    なお母乳出なかったらミルクでいいって助産師さんもいるようだが、平田氏にかんしては食事指導等かなり厳しいだろう。というわけで桶谷式もやはりラマーズ法同様、助産婦界で同時期に人気爆発したイメージがなんとなくある。

                     

                    「−母子一体性の原理− * 桶谷式と私 」

                    http://www.oketani-kensankai.jp/html/meet-episode6.html

                    恩師、桶谷そとみ先生との邂逅から早25年になります。今の私があるのは、先生のお陰と心から感謝しています。

                    30年前、「桶谷式」は、世間に一大センセーションを巻き起こしました。「痛くなく、母乳がよく出る」とのキャッチフレーズの下、医学界を始め助産師界、いろいろなマスコミ界の注目する所となりました。
                    私も、早速桶谷式の門下生としてお許し頂き、1985年から2年間、先生から直接御指導を頂きました。
                    先生はまさに、母子の為に、母乳哺育の普遍化の為に、又、私達助産師の育成の為に一生を捧げられた方でした。
                    その情熱は、時にお母さんや助産師を感動させ、涙を誘う事も度々でした。

                     

                    桶谷式乳房治療手技研鑽会が作られたのが1980年、「桶谷そとみの母子一体性の原理」って本が1983年に出ており、また上記引用に30年前桶谷式が一大センセーションを巻き起こして1985年から桶谷先生の指導を仰いだってな助産師さんの記述があり、いつの時点から30年前なのか分からないのだがわが歴史観にもとずき80年代初頭に桶谷式がさかんに紹介されていたにちがいないと勝手に解釈した。また助産婦にかぎらず山本高治郎著「母乳」(1983)山内逸郎著「母乳は愛のメッセージ」(1984)内藤寿七郎著「赤ちゃんの命を守る母乳のはなし わが子の一生に影響する乳児期の栄養法」(1984)根津八紘著「母乳で育てる! オッパイの出し方・飲ませ方」(1985)など、80年代前半より母乳本の出版があいついでいることがインターネット検索で判明した。

                     

                    https://www.amazon.co.jp/dp/4787702009/

                     

                    また桶谷助産婦に師事していた山西みな子「母乳で育てるコツ」上画像の増補改訂版は2002年に出ているが、オリジナルは1984年となっている。その前年、山西氏の指導を受けた自然育児友の会が発足しており、この会は美健ガイドでおなじみ真弓定夫先生が顧問だったり、2000年代には愛・地球博に参加したり、反原発イベントであるキャンドルナイトを日本で始めた辻信一の「カフェスロー」に事務局が移転したりと完全にロハスに進化した。

                     

                    特定非営利活動法人自然育児友の会

                    https://fields.canpan.info/organization/detail/1161375223

                    1983年
                    自然な育児をめざす母親たちのサークル「Natural Aid Circle」としてスタート。

                    自然育児相談所の山西みな子先生に母乳育児の指導をうけた母親たちが、中心となって、毎月一回集まりながら手作りの会報を発行した。

                    母乳育児のお母さん同志の知恵のつたえあいからスタートした会は、自然にのびのびと子どもを育てたい育児サークルとして
                    都内のお母さんたちの間で少しづつ広がっていく。

                    2000年からは、自然育児にかかわる人とモノが集う「マザリング・フェスタ」を、年一回開催。
                    (会場は、早稲田奉仕園、日赤看護大学、三鷹産業プラザ等。2009年は、府中市ルミエール府中で開催の予定。)

                    2000年10月
                    事務局を豊島区に置き、NPOとして、より広く社会にむけて、母乳育児の講座や、自然育児についての情報発信をはじめる。

                    2005年6月、愛・地球博「地球市民村」に参加。米NPOアタッチメント・ペアレンティング・インターナショナルと協働して、親子の早期の絆作りの大切さを伝える「赤ちゃんと絆館」を出展。
                    この年、事務局を三鷹市に移転。

                    2006年8月 「子育てはスピリチュアル 親子合宿」(ファシリテーター:井上ウィマラ氏)をスタート。以後、毎夏行う。

                    12月、音楽イベント「スローマザー・ギャザリング」開催。このイベントでの出会いをきっかけに、カフェ・スロー(府中市)の一角に、事務局を移転。赤ちゃん連れが遊びに来ることができる子育て広場をスタート。


                    2007年5月 代々木オリンピックセンターにて、「お泊りミーティング」を開催。(翌年から、毎年母の日に開催。)

                    2008年 6月 国分寺市に事務局を移転。

                    他のNPO・市民活動団体との協働、他の学協会との共同研究・協働の実績
                        
                    ・米アタッチメント・ペアレンティング・インターナショナルとの協働
                    ・津田塾大学 三砂ちづる教授の研究プロジェクト
                    赤ちゃんにおむつはいらない〜失われた身体技法を求めて〜』に協力


                    宮殿

                    0

                      カンブリア宮殿 Ryu's Eye (生活クラブ連合会 顧問 河野栄次)

                      https://www.youtube.com/watch?v=Qh6ZUWVoAkQ

                      この前テレビ東京の番組で生活クラブやってたらしい。↑パスチャライズ牛乳(低温殺菌)

                      できることなら生協の記事書く前に見たかった。岩根夫妻ともう1人若い男の子が創業メンバーだったみたいなのを本で読んだことあるので、それがスタジオ出演してた河野栄次顧問だったんだろう。

                       

                      [昭和44年10月] 中日ニュース No.824 1「“チクロ”ショック!」(YouTube)

                      https://www.youtube.com/watch?v=W-bVRLDBswk

                      主婦つながりということでオバタリアン動画鑑賞。チクロというのは昔菓子などに広く使われていた人工甘味料で、発がん性と催奇性が指摘され、日本ではこの動画の1969年に使用禁止になったことで大騒ぎになり姿を消した商品もあるが海外ではまだ使用されてる。ってWikipediaに書いてた。

                      こんにち人工甘味料といえばアスパルテームやエリスリトール、トレハロースなどが思い浮かび、なかでもダイエットで人気なアスパルテームは本当に体に悪そうな甘さなのだが、チクロにかんしては砂糖よりも廉価で美味だったとする意見がある。ほかにズルチン、サッカリンなどの甘味料がかってポピュラーだったという。

                       

                      第4回「チクロは旨かった」の巻(まぼろしチャンネル)

                      http://www.maboroshi-ch.com/old/sun/pha_12.htm

                      子どものころ、粉末ジュースも瓶入り清涼飲料も現在のものよりおいしかった気がする。ヒトは自分の子ども時代の文化と風俗至上主義に陥りがちであるが、食べ物の味は確かにいまより昔のほうがうまかった。昔の味を知らなければ別にどうってこともないのだけれど。
                      たとえそれが人工ものであってもだ。飲料がおいしかったのは、人工甘味料にチクロを使っていたからだ。以前、「あなたの希望を叶えます」的な趣向を持つテレビ番組で、故林家三平の奥さんが、夫がテレビで宣伝していた渡辺製菓の「しるこの素」を再現して欲しいという企画があった。試作品を食べた奥さんは「なにかが足りない」とひとこと。甘味がチクロじゃないからだということになり、名古屋にある製菓メーカーの社長が、記念にチクロを金庫にしまってあるということで、それをみせてもらっていた。私以外にも「チクロ」のほうが砂糖よりもうまいことを覚えている人がいるのだなと嬉しくなった覚えがある。発がん性があろうとなかろうとうまいものはウマイ。ダイエット飲料に使われている「ステビア」や「アスパルテーム」の薄っぺらい味ではあの味はでない。

                      「チクロ騒動でデパートにはすばやく自然食品コーナーが出現しました」

                      「危険なチクロの使用はパンから味噌、しょうゆまで加工食品27品目にもおよぶとあって、台所をあずかる主婦にはショック」

                      このあとマウスの実験の映像が出てきて、胎児が奇形になることが分かった。みたいなこと言ってるのだが、この頃って合成洗剤にしても危険な化学物質といえばとにかく奇形児。しかし私が日本消費者連盟の本にガクブルしてた30年くらい前だと「発がん性」はあっても、すでに奇形児とは言ってなかったと思う。

                      どうもチクロといえば粉末ジュースらしい。粉末ジュースってのも、ウソツキ食品全盛期にはジュース名乗ってたけど途中で三一新書あたりからお前はジュースなんかじゃねぇと言われ、通称として残ってるだけなのだろう。

                      「東京の主婦連本部には、不信にとりつかれた主婦が食品検査の依頼にあとをたちません」

                      ウソツキ食品全盛期の昭和40年代は消費者運動の映像に絶対主婦と商品テストが出てくる。これはオバタリアンではなくマンガでよく見るタイプの明治生まれ婆さんだが。

                      主婦連は戦後すぐから存在し、前述の生活クラブ始め生協に影響を与えていると思われる。また動画の中で日本酒の防腐剤についても言及されているがこれはたぶんサリチル酸のことで、やはりチクロと同じ昭和44年に全廃された。

                       

                      酒文化研究所

                      http://www.sakebunka.co.jp/archive/20kuriyama/20kuriyama02.htm

                      −この世紀に、腐造が多くたいへんリスキーだった清酒造りが安定したものに変わり、産業化していきました。
                      栗山 本当に安定したと確信がもてたのは今世紀後半の昭和44年からでしょうね。
                      −と言うのは?
                      栗山 業界としてサリチル酸の全廃を達成できたからです。この時は、マスコミや世論のはげしい声に呼応して全国の蔵元が防腐剤の使用を止めたのです。
                      しかし、当社はそれより60年も前の、明治44年、今世紀前半に「防腐剤ナシ」の商品を本格的に売り出しています。これは非常な冒険でした。その頃はまだ業界全体の技術レベルも上がっていない。それをあえて発売にふみ切ったのは、「お客さんが安心して飲める酒でなければならない」という、今でいう消費者志向の信念がすでにあったからだといえるでしょう。
                      ・・・
                      しかし、「防腐剤ナシ」の出荷では、ずいぶんと失敗もしています。東京に着いたらほとんど腐っていたケースさえあったという。当時、火落菌というのは何千種もあるということは学会でもまだわかっていませんでした。私が業界に入った50年前でさえ、学会での研究発表も、研究者それぞれが違う菌でやっていました。だから、殺菌温度60度、5分でよいというのも、たまたまその研究に使った菌がその条件で死んだだけの話。さすがその頃になったら「先生の使ってるのはどんな菌か」くらいは質問がありましたが、当時はまだスライドがないから「黒板に絵を描きます」という程度(笑)。後に、乳酸菌研究の大家・北原覚雄先生が膨大な数の火落菌を分類されて、それぞれに属する菌がわかり、その対策も系統的にできるようになっていった。
                      それから10年ほど経って、昭和36年、サリチル酸を飲食物に使っては駄目だというWHOの勧告もでてきた。ついで昭和44年のチクロ騒ぎの時に、マスコミが清酒のサリチル酸も取り上げてしまったから、さあ、たいへんなことになった。

                       

                      [昭和45年5月] 中日ニュース No.853 1「安売りとはいうけれど」(YouTube)

                      https://www.youtube.com/watch?v=nDc8bs1rVwY

                      チクロショックの翌年の動画にも主婦連が出てきた。トレードマークのしゃもじにチクロ、不買、とかなんとか書いてる。


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