1964

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    子どもの日に健康優良児、敬老の日にとしよりの日の記事を書いたシリーズで、体育の日に東京オリンピックがらみの記事を書こうと心に誓った。2000年代初頭より始まったハッピーマンデー制度により体育の日がいつなのかよくわからなくなったが昔は1964東京オリンピックの開会式である10月10日の固定であり、来年にいたっては7月24日がスポーツの日に制定されてて今日びそんな梅雨明けしたような時期のスポーツ怖い。

    このブログでときどき高度経済成長期のこと書いてるうち、終戦から約20年である1964ごろが日本のピークであり東京オリンピックはその象徴なのではないかと思いいたった。3種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)が普及し、次に新三種の神器である3C(車、カラーテレビ、クーラー)に移行せんとする時期である。

    当時はまだ3輪車もそこそこ走っていたであろう。GHQによって解体させられた航空機の会社も戦後しばらく3輪車作ってたが、飛行機の製造や運航の禁止が解除されてからはゼロ戦などにかかわった技術者が念願の国産民間機YS11を完成さし1964年に出荷と納入を開始、同年のオリンピックでは聖火を日本全国に空輸した。

    1946年代々木に建設されジャニーさんがあおい輝彦とか少年集めて野球やってた米軍の団地ワシントンハイツは日本に返還され、選手村として利用。選手村ではテトラパックの牛乳が提供されてテトラパック普及した。

    ワシントンハイツの少年野球チームだったジャニーズが1964年に「若い涙」でレコードデビューした。おそらくこのジャニーズこそが一番最初のジャニーズだったのだろう。

    東京オリンピック直前の1964年10月1日、東京と大阪を結ぶ「夢の超特急」東海道新幹線が開通した。Wikipediaによると開業当初の所要時間はひかり4時間、こだま5時間と現在より1時間多くかかっていたらしく、これがのぞみ(1992ー)だと2時間半なので今の基準で考えたらすごい遅い。

    この年に井沢八郎の「あゝ上野駅」って歌が出てる。よくテレビとかだと団塊の世代(戦後すぐぐらいに生まれた爺で1964年当時10代後半ぐらい)=全共闘みたいなことになってるが、1960年代だと大学逝けたのは秀才かお金持ちなどごく一部の選ばれし者に限られてて中学卒業後に集団就職してる人のほうがだいぶ多かったんじゃなかろうか。

    高度経済成長期のニュース映画見てたら体感では半分ぐらいが交通事故な気がする。まだ3輪車も走ってたりと一般の自家用車の普及はそこまででもなかったかもしれないが、東京オリンピックの工事でトラックが爆走したり、バイクがノーヘルだったり、道の整備やマナーも十分ではなかったと思われ、死亡者数が日清戦争に匹敵していたために「交通戦争」とも呼ばれていたそうだ。

    なので輸血もよく行われてたけど、昔は献血より売血制度が主でWikipediaによると売血してたのは覚せい剤の静脈注射が蔓延するようなモラルの低い低所得者層だった。注射針の使い回しでウイルス性肝炎が蔓延しており、また赤血球数が回復しないうちに売血するのでその血液は黄色く見えたという。

    1964年3月、日本で人気のあったライシャワー駐日アメリカ大使が精神障害の少年に刺されたうえ輸血が原因で肝炎に感染し晩年まで苦しめられることになる。この事件をきっかけに「黄色い血」の追放運動が起こり、731部隊にも関係する陸軍軍医中佐の内藤良一が創業した日本初の民間血液銀行である日本ブラッドバンクも同年に血液売買を廃止、血液を原料とする医薬品メーカーとしてミドリ十字に改称した。

    またライシャワー死傷事件を起こした少年に精神障害があったことから、精神障害は危険で隔離しなければならないという機運も高まっていたようだ。重度の障碍者をコロニーに隔離しようとしてたのもやはりこの時期である。

    あと医療つながりでいうと1964年より本格的な臓器移植手術が始まりだした。しかしその後1968年の和田心臓移植がすごい問題になり1997年の臓器移植法まで脳死移植はタブー視された。

    平均寿命が70歳をこえた。1964年当時は江戸時代(〜1868年)生れのとしよりもかろうじていたようだ。

    一本足打法を確立した王選手が55本塁打を記録した。長嶋選手とのON砲で活躍し巨人軍は翌1965年よりV9時代に入る。

    1964年に公明党が結成された。それまで創価学会の人は無所属で出馬していたらしい。

    1963年よりフジテレビで放送された手塚治虫原作「鉄腕アトム」は日本で最初の1話30分の連続アニメシリーズだったという。同年アトムと同じフジテレビ系で「鉄人28号」、テレビ朝日系で「狼少年ケン」TBS系「エイトマン」と、本格的なテレビアニメ時代が幕開け、1964年には東映まんが大行進(まんがまつり)も始まった。

    この時代のテレビ番組は一社提供でアトムが明治製菓、鉄人28号がグリコ、狼少年ケンが森永製菓、エイトマンが丸美屋、それぞれ菓子やふりかけやココアやらにシールをつけていた。今じゃテレビアニメとそのキャラクターのシールついてる食品なんてべつに珍しくもないのだが、おそらく当時の「現代っ子」にはかなり目新しかっただろうし、物心ついた頃からテレビアニメやそのグッズに囲まれてた「現代っ子」こそがその後のオタク第一世代だったのかもしれない。

    1964年1月から10月までフジテレビで放送されていた明治キンケイカレー1社提供のアニメ「0戦はやと」。梶原一騎原作のプロレス漫画「タイガーマスク」が著名な作者の辻なおきはタツノコプロの創設にも関わっており、「0戦はやと」のほかにも「0戦太郎」「0戦仮面」とか0戦多い。

    タツノコプロの吉田竜夫原作でこれまた梶原一騎原作の「0戦チャンピオン」(1962)てボクシング漫画もあったし、梶原一騎原作は大山倍達が特攻隊上がりになってたり「新戦艦大和」「吹けよカミカゼ」などスポーツだけでなく戦争がらみの話が多い。1960年代の少年マンガでは九里一平「大空のちかい」ちばてつや「紫電改のタカ」貝塚ひろし「ゼロ戦レッド」「ゼロ戦行進曲」など戦記ブームで、1964年は吉田竜夫原作の「忍者部隊月光」て特撮もフジテレビでやってた。

    0戦はやとも戦争をえがいているということでテレビ局の組合やPTAの批判にさらされていたが、1968年「あかつき戦闘隊」というこれまた戦争漫画を連載していた少年サンデー誌が日本海軍兵学校正装一式など戦争グッヅを懸賞品にしたことで左翼からすごい抗議された。戦記物人気だった理由はよくわからんけどもそうした作品の担い手であるオバタリアン世代のマンガ家たちはそもそも軍国少年だったろうし、堀越二郎も設計に参加した国産機YS11の活躍、また戦後廃止されていた紀元節=神武天皇即位の2月11日が建国記念の日として復活したりと、わが国は復興と経済成長によって自信をとり戻しGHQに抑えられていた戦前戦中のノリもふたたび日の目を見ることになった。

    Wikipediaによれば白土三平や水木しげるなどの貸本漫画を出版していた長井勝一が白土三平「カムイ伝」を連載するために1964年「ガロ」を創刊し、全共闘の大学生に人気が出たとのことでこれが日本で初めての成年むけの漫画雑誌とある。昔は貸本屋という大衆的な書物を貸し出すお店があって1953年ごろから貸本漫画という貸本用に書かれた漫画が出回るようになったが、これは1950年代半ばが全盛期で少年マガジンなど少年漫画の雑誌が創刊されたり図書館が充実してきたりで1960年代にはかなり衰退していたらしい。

    そんな貸本漫画家に活躍の場を与えたいという目的もあったガロ誌が初めての成年マンガ雑誌ってとこから、大人になってからもマンガ読むの団塊世代以降かと思ったが、もともと貸本漫画の読者層が集団就職で都会に出てきたような若い労働者だったという記述も散見される。貸本の前に安価な「赤本」で書きおろしの漫画が存在してて、戦後すぐに出た手塚治虫の「新宝島」が高度経済成長期に活躍した漫画家にかなり強い衝撃を与えていた。

    新宝島に影響を受けた一人であるさいとう・たかをが貸本時代から「劇画工房」「劇画集団」など劇画というコンセプトを強力に打ち出しており、ガロの創刊と時ほぼ同じく少年マガジンが降板した手塚治虫の穴を埋めるべく貸本劇画の作家を起用したのを契機に同誌は劇画路線になり、またゴルゴ13が連載されるビッグコミックや漫画アクションなど青年漫画雑誌も数多く創刊され劇画ブームとなった。劇画はべつにさいとう・たかをタッチである必要はないらしいのだが、けっきょくさいとう・たかを(およびその元アシスタントで少年マガジンに「巨人の星」を連載してた川崎のぼる)の成功によって劇画と聞くとゴルゴ13みたいな絵を連想するようになってしまったようだ。

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4845844206/

    商品の説明 内容紹介

    1964年、日本のコミック界に大きな激震が走る!

    それまでは3~4ページ、時には1ページという漫画が主流だった頃、

    さいとう・たかを作の15Pの狡絞圻畄牴が掲載されました。

    これこそが青年コミックの原点となり根付かせ現在、

    海外でも大人気の日本コミック文化の礎ともなった作品だったのです。

     

    みなもと太郎 さいとう・たかをの偉大な功績を語る(2016年5月2日 miyearnZZ Labo)

    https://miyearnzzlabo.com/archives/37462

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    (みなもと太郎)これは現実に私も読んでいないんでわからないんだけれど。ただ、それが当時においては、手塚治虫がデビューしてきた時も、これはそれ以前の東京の人たちの、それも大人漫画を書いていた人たちからは「とんでもない野郎が来やがった」という時代ですね。昭和20年代。

    (宇多丸)「とんでもねえ」というのは、どの部分でとんでもないんですか? 俗悪?

    (みなもと太郎)俗悪。要するに、高尚なものではない。子供の漫画そのものが、だいたい子供に漫画を読ませること自体が悪だ、ぐらいの観念があったのが戦後の時代ですから。赤本漫画というのは、書店にも置かれない、それこそ駄菓子屋さんで売るか、夜店で売られていたような時代だという。そういう赤本時代というのがあるんですが。それで、『新宝島』が出たり、『来るべき世界』とか、今でこそ……

    (宇多丸)今でこそ、名作中の名作と言われるようなものが。

    (みなもと太郎)でも、それが出た時代には、PTAや先生たちが怒って取り上げて。戦後に置いて焚書。校庭に積んで焼いたというようなものは、戦後民主主義の時代になって、なおかつそれが行われたのは漫画だけですし、それは手塚治虫がいちばん矢面に立ったわけですね。それぐらい、漫画というのは俗悪なものであると。子供に読ませてはいけない。ましてや、大人漫画だったら2ページで終わるわけです。

    ・・・

    (みなもと太郎)はい。だから『サザエさん』だって、新聞4コマが江利チエミでまず映画化されて。それでまあ、現代も続いているというようなものになるわけですけども。要するに、漫画は4コマか、長くて2ページあればいいわけですね。

    (宇多丸)というのが、常識だった。

    (みなもと太郎)ところが、子供漫画は長いでしょ?

    (宇多丸)そうですね。まだお話があるから。

    (みなもと太郎)そうすると、それを一生懸命読みふけっているから、勉強しないんだというこの理屈が出てきちゃうわけで。だから子供から漫画を取り上げろ! と、こういう話になるわけですよ。

    ・・・

    (みなもと太郎)これがね、この『劇画1964』という本には実は載っていない、本当のデビュー作というのを今日……「デビュー作」っていうのは週刊誌のですよ。これが、『どぶの流れ』というんですが。これが、やっぱり漫画研究家の方から提供してもらって。私がこの時に、さいとう先生にインタビューした時には、まだ発見されてなかったんです。さいとう先生自身が覚えてないんです。もう、無理です。

    (宇多丸)その豪快さがね、そのチマチマしたことを覚えていないところが。

    (みなもと太郎)覚えていない(笑)。

    (宇多丸)これ、でも64年10月6日号と書いてあります。別冊週刊漫画……

    (みなもと太郎)それが、最初のものなんです。

    (宇多丸)「異色大長編」って。これは何ページものなんですか?

    (みなもと太郎)「異色大長編」ですよ。長編だけじゃない。「大」がついて。

    (宇多丸)『劇画ダークサスペンス どぶの流れ』

    (みなもと太郎)(ページ数を数える)21ページ! あっ、大長編だ。

    (宇多丸)これ、やっぱり当時、4ページだの……

    (みなもと太郎)どんなに長くても8ページ以上は割けないという時代に、この21ページをもぎ取ったわけですね。

    ・・・

    (みなもと太郎)このさいとうさんが持ち込んだ時っていうのはどういう時かっていうと、いよいよ貸本文化がダメになる時です。

    (宇多丸)要は、みんなもう雑誌をちゃんと買うようになったと。

    (みなもと太郎)買うようになった。貸本屋に行かない。貸本屋もどんどん潰れて行く。それまで全国に3万軒あったというものが、3千軒を割るようおになった。そうすると、いままでは貸本向けに卸していた本が2万部でも3万部でも刷れていたものが、2千部刷っても返本が来るという時代になって、「もういらないよ」と言われて。毎日毎日、食うに困ったのが、水木しげるのドラマを見ていただければ……

    (宇多丸)『ゲゲゲの女房』を。

    (みなもと太郎)そうそう。あの時代が、貸本が全部ダメになって、ストーリー漫画を作る腕はあるのに、発表する場所がなくなった。その時に、ぴったりさいとう先生が雑誌を口説いて。「大人も漫画を読む時代が来るんだ」ということを言った。

    (宇多丸)言って、24ページ割かせて。本当は100ページとかで行きたいけど、まずは20何ページ割いた。

    ・・・

     

    さてガロ誌の表紙は朝日ジャーナルを意識したレイアウトとのことで、いっとき「右手にジャーナル、左手にマガジン(少年マガジン)」と言われるなど朝日ジャーナルは全共闘必携の左翼雑誌だった。よど号犯が「われわれはあしたのジョーである」(あしたのジョー=少年マガジン連載)という言葉を残してたり、またのちのエロ劇画が「劇画全共闘」と呼ばれるなど60〜70年代の劇画(貸本、ガロ、少年マガジン、エロ本)と全共闘は切り離せない関係があったのだろう。

    1964年「みゆき族」と呼ばれたアイビールックの若人がVANの店舗があった銀座のみゆき通りをブラブラするのが人気爆発した。みゆき族が参照した雑誌は同年に創刊された「平凡パンチ」、芸能人だと加山雄三あたりと推察される。

    平成以降は目新しい格好した若人を「○○系」とカテゴライズするのがもっぱらだったが、昭和は「○○族」でみゆき族の前にも「カミナリ族」(暴走族)や「太陽族」がいたようだ。アイビールックは七三分けにブレザー、ローファーと今見れば好青年な服装なのだが、当時は不良的なイメージがあったのかみゆき通りの店主たちからウザがられ、東京オリンピックを前に警察が取り締まり秋にはいなくなったのだという。

    1964年時点で女性週刊誌はひととうり創刊されてたが、テレビ朝日で初めてのワイドショーであるモーニングショーが始まりオバタリアン文化全盛を迎えた。モーニングショー1993年でいったん終わってるのに2015年からまた復活させててしかも現代版のモーニングショーもやたら上から目線だったりタイトルに司会者(羽鳥慎一)の名前入ってたりと昭和に忠実なノリなのでテレ朝にはオバタリアン文化のともしびを消してはならぬという社風でもあるのかもしれない。

    海外旅行が自由化された。サントリーが1961年に「トリスを飲んでハワイに行こう」と言ってたがその時点でまだ自由化されてなかったので積立預金証書で100人も当選したのにみんな現金に引き換えてハワイ行ったの4人だけらしい。


    コンビニ以前

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      ロリコン史を調べてて見つけた川本耕次著「ポルノ雑誌の昭和史」。今まで読んだことある元関係者が雑誌を回想する本は内輪ノリの業界話が多くてイメージがわきずらい印象を抱いてたが、この本は新書なのに画像が多いし記述が淡々としてて80年代ごろのエロ事情の詳細がわかりやすく解説されていた。

      川本氏は「少女」「セーラー服」を題材にした官能小説も書いていたようだ。もしかするとロリコンちゅうのはオウム以前のオカルトのごとく、ちょっとしたインテリやサブカル系のたしなみぐらいに思われてた可能性もある。

      私が印象に残ったのは自販機本とビニ本の話だった。自販機本が透け透けランジェリーのビニ本に滅ぼされたと伝えられてるが、本書によるとビニ本もまた1985年ごろにはなくなってたんだそうだ。

      てことはけっきょく自販機本もビニ本も同じ時期の媒体なのであり、滅亡したのがいづれも1985年ごろということからアダルトビデオ(成年用)や投稿雑誌(男子学生用)などに押されてしまったということではないだろうか。しかしなぜか自販機本はまだ残ってるところがあると書かれてて、確かに私も20年ぐらい前にエロ本売ってる自販機見たことある。

       

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      商品の説明 メディア掲載レビューほか

      消えゆく「エロ本自販機」を、粘り強く探した男の記録

      「数年前、深夜のドライブの寄り道先ぐらいの気分で、エロ本自販機巡りをはじめたんです。最初はブログのネタにと思ってメモを書き溜めていたのですが、次第にこれを本にできるんじゃないか、と。類書も全然ないですしね」

      そう語るのは、先日、『あの日のエロ本自販機探訪記』を刊行した黒沢哲哉さん。自販機との出会いは、第一次全盛期の70年代、黒沢さんの学生時代に遡る。

      「当時のエロ本自販機には、そこでしか買えないオリジナルの雑誌が入っていて、買わないとどんな内容か分からない、ガチャガチャみたいな楽しさがありました。毎週買いに行くぐらいはまりましたね」

      80年代半ばにエロ本自販機ブームが終わり、社会的には死滅したように思われていた。黒沢さんも、20年ぐらい自販機から遠ざかる。

      ところが、実は郊外の街道沿いで、第2の大きな山が、80年代後半から90年代にかけてあったんです。雑誌の新古本やDVD、グッズを商品にして。いまや規制強化とネットの普及で、猛スピードで消えかけていますけれども」

      ・・・

      評者:「週刊文春」編集部

      (週刊文春 2017.06.29号掲載)

       

      当時としても相当珍しかったのだが2000年ごろといえばまだエロ本の需要はあったと思われ、お店でそういうの買うの恥ずかしい男がもしかしたらひと目をしのんで自動販売機で買ってたのかもしれない。またエロ本以上に昔はおつまみの自動販売機があってツナピコを売ってた・・てエピソードに興味をそそられた。

      今自動販売機といえばたいていジュースでたまに17アイスがあるぐらいだけども、ごくまれに残ってるうどんそばとか日清食品のロゴがまだ大韓航空みたいな頃のカップヌードル(カップヌードルの自販機自体は船内とかだと今でも見かける)とかあの手の古い自販機がたいてい昭和50年代ぽい雰囲気である。米とか酒とか避妊具も自販機がたまにあり、もっというとサントリーがくしゅくしゅ時代にボスやらCCレモン売り出す前は缶ジュースも変な自販機多かった。

       

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      なんでおつまみや軽食やエロ本を自販機で売ってたかというと、昭和50年代は車が普及し道も整備されてたがまだコンビニがそんなになくて、あっても24時間営業ではなかったというのが理由として思いつく。そのコンビニも昔、言うてもそんなに昔じゃなく平成でもampmとかあとよくわからん地方コンビニ残ってたのにほとんど淘汰されて令和は7とローソンとファミマの3強ばっかりでエロ本も売ってない。

      私が子どもの頃(30年ぐらい前)コンビニは酒屋さんが転換したような店が多かった。酒屋さんは今のコンビニと同じぐらいかそれより少しせまかったかもしれなく、酒以外にもちょっとした食料品を売っていた。

       

      サンチェーンCM 1985年(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=uKREDZTMKfY

       

      タイムリーCM集(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=mDrfjkD-ONk

       

      ココストアCM集(1988〜2011)(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=a3S4SKdnu6U

       

      ホットスパー cm(1988〜2009)(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=2NvkNX8nNyo

       

      【コンビニ】スリーエフCM集(1991年〜2000年代)(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=dzMKNiCrc0M

       

      ナイトショップいしづち CM(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=xeboUiPPa_o

       

      家で飲むビールはスーパーやらドラッグストアやらで缶を買うことが多いだろうが、おそらく昭和のビールはビンで冷蔵庫の広告とか見てると今なら紙パックの牛乳やペットのジュースはいってそうなとこにビンのビールとビンの牛乳だったりする。お中元のカルピスも比較的最近まで水玉の紙に包まれたビールみたいなビンに入った原液でそれをせんぬきで開けたあとにプラのキャップにつけかえて大事に飲んでた。

      缶やペットボトルと違ってビンは重いので周期的にビールやジュースを酒屋が配達してたそうである。ビンの牛乳も配達だし、米屋がプラッシーお届けってあたりから米も配達であったろう。

      ふぞろいの林檎たち(昭和58)で中井貴一の家の酒屋。店の前にプラッシーの自動販売機(缶)がある。

      プラッシーとビールの配達。もうこの頃になると缶、自販機、コンビニの普及率はかなりなはずだ。

      しかしビンと配達の時代のジュースってそんな気軽に飲めるようなものではなかったかもしれない。昔は来客に粉末ジュース出してたってネットで読んだことあり、団地への招待とかいう憧れの洋室暮らしな動画見てたらおっさんが怪しい液体飲んでたり、あとジュースが噴水になってる自販機もあってすごいまずかったらしい。

       

      日本の缶ビール、苦闘の戦国史(2015年2月23日 NIKKEI STYLE)

      https://style.nikkei.com/article/DGXMZO83219100W5A210C1000000/

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      高度成長期を代表する飲みものを1つだけ選ぶとすれば、それはビールだろう。総製造量は55年の約40万キロリットルから64年の199万キロリットルと約5倍に伸びた。同期間のアルコール飲料製造量の推移は清酒約2.5倍、焼酎約0.8倍、ウイスキー約1.3倍で、ビールが突出している。全酒類中のシェアでも55年度の清酒36.9%、ビール29.3%から59年度には逆転、64年にはビール53.9%、清酒34.6%と差が開いた。市中の飲食店で手ごろな価格で注文できる上、高度成長期「三種の神器」の一つである冷蔵庫の普及で家庭でも冷やして飲める。市場の急拡大を受けて57年には焼酎の宝酒造(後に撤退)が、63年にはサントリーが進出している。

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      「缶ビール普及の最初きっかけは自動販売機だった」と端田館長。63年に久保田鉄工(現・クボタ)が開発し各メーカーも参入。70年代に入ってから国内各地での自販機設置が本格化した。71年(昭和46年)〜73年の第1次ピークに約4万8000台、77〜79年の第2次ピークには約7万5000台が出荷されたという。いちど設置すれば一定の販売が見込める。

      キリンの関根さんは「80年代末からの酒類小売販売の規制緩和や大規模小売店舗法の改正が缶ビールの需要を伸ばしていった」と分析する。具体的にはコンビニエンスストアやスーパーマーケットで消費者が1本から気軽に買えるようになったためだ。

      社会の核家族化も進んだ。その一方で各地の酒販店は後継者難、人手不足に悩まされるようになった。一軒家の勝手口に、酒販店の青年が数ダースの瓶ビールを届ける風景は都市部から見られなくなっていった。関根さんは「日本人のライフスタイルの変化が缶ビールを選ばせるようになったといえる」とみている。キリンで缶ビールの比率が5割を超えたのは約289万キロリットルを出荷した98年。昨年は約75%が缶ビールだった。アサヒの鈴木氏は「今後も新しい素材を使った缶ビールが登場するかもしれない」と予想する。

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      昔ながらの酒屋さんが減った理由(2015年10月8日 みせびと)

      http://mise-hito.com/column/%E6%98%94%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%82%89%E3%81%AE%E9%85%92%E5%B1%8B%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%8C%E6%B8%9B%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%90%86%E7%94%B1

      昔ながらの酒屋さんが、減っていると思います。

      ある日、昔ながらの酒屋さんが、コンビニに変わっていたことあるりますよね。

      コンビニの出入り口の自動ドアをよく見てみると、コンビニの店名の他に、◯◯商店、◯◯酒店などを見ることがあります。

      これは、屋号です。元々は、その名前で酒屋さんやお米屋さんなどを営業されていたのです。

      随分と昔ですが、酒屋からコンビニに業態変更をするオーナーを担当したことがあります。

      その酒屋さんは、三代続いていました、その稼業をやめることに決めたのです。

      質問しました、なぜ、コンビニにするのですか?と。

      その酒屋にお客様が来店されて買い物していただく売上は、大したことないそうです、数万円程度だと記憶しています。

      大半の売上を配達で稼いでいたそうです。

      配達先は、飲食店や個人宅などを数多く持っていたそうです。

      確かに、一昔前は、酒屋さんがあって配達もしてくれていました。

      サザエさんで、三河屋さんが御用聞きに来てくれていますよね。

      しかし、時代の流れで買い物する場所が多様化していきました。

      大型スーパーやディスカウントショップの出現、コンビニの出店攻勢と、さらに酒類の販売免許の規制の緩和も追い打ちをかけました。

      また、核家族化が進みライフスタイルの変化も影響ます。

      そして、酒屋さんから配達で購入する方が激減していったそうです。

      このままでは、酒屋としての存続は難しいと考えて、悩みに悩み、そして調べに調べてコンビニにすることを決めたそうです。

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      缶に入った飲み物は昔からあったが、プルトップ(今の缶詰のフタみたいに輪っかに指を引っかけて開ける)がなかったので飲むとこに2個穴を開けなくてはならなかった。たぶん1個では液体出てこないのだろう。

      そんなせいかジュースの自販機も缶ではなくビンがメインだったと思われる。コカコーラの自販機、コーラのほかにハイシーとファンタをビンで売ってるのたまにあり、機械に栓を引っかけるとこがあるのでそこでフタ開けて飲んだあとカラのビンをその場で返却する・・みたいなのやったことあるけど、これが缶に切り替わったために自販機全盛時代を迎えたのではないかとにらんでいる。

       

      ごみをへらそう(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=LdDtm63lKJ8

      この動画は昭和55年で、1970年代のあいだに缶ジュースの自販機が普及したのは間違いない。だがこの型の(コンビニ同様よくわからん銘柄も多かった)ジュース自販機90年代初頭にはもう稼働してなかったと思う。

       

      キリンのサイトにある「日本のビールの歴史年表」によれば自動販売機が急速に普及したのが1970年となっており、当時の売上高のトップが乗車券、売上高の伸びが大きいのがたばこ、牛乳、炭酸飲料とある。翌1971年は電気冷蔵庫の普及率90%・・てことは高度経済成長期のモーレツ社員が帰宅するなり電気冷蔵庫でキンキン冷えた瓶ビール飲んだことであろうし、コカコーラもやはりその頃ぐらいだ。

      しかしのび太のパパにしてもそうだが、オバタリアン世代ぐらいまでサラリーマン家で着物着てたらしい。これ着ると亭主関白感出てるせいかサザエさんでは波平が着物でマスオさん洋服だった。

      1965年には各社缶切りのいらないプルトップ型を発売していたにもかかわらず1972年時点で缶ビールの割合は全体の2.8%ほどだった。けっきょくビールやジュースがビンから缶に切り替わり、自動販売機が全盛期を迎える(台数そのものではなくエロ本や明るい家族計画やうどんそばなど売ってる物が多用だったという意味で)のが具体的にいつなのかはネット検索では特定できなかったけども昭和50年代っていう私の歴史観たぶん間違えてない。


      ロリバブル前夜

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        昔のエロ本には自動販売機で売ってた「自販機本」、そのあと本屋で立ち読みできないようビニールに包まれてた「ビニール本」が存在してたそうだが、自販機のほうが気がねなく買えそうなのになぜビニ本に滅ぼされたのか不思議に思った。Wikipediaで該当記事を読んだかぎり、自販機本からビニ本にうつりかわるのは1980年ごろである。

        自販機本は下着が透けていなかったこと、また手に入れやすいことでPTAから目をつけられていたことなどが衰退の原因だったようだ。またビニ本の修正していないバージョンの「裏本」の最盛期が1983年であるという。

        にしても先日ロマンポルノ・・って固有名詞書いててふと思ったのだけど、昭和の男たちはインターネットはもちろんビデオもなく、男と女が性交する模様をみてぇ。と思っても映画館まで逝かないとなかったんじゃないだろうか。だからビデオデッキ普及するまで自販機本なりビニ本なりといった静止画(ヌード写真)が主力である。

        ベータマックスなくなるの?の広告が1984年てことからビデオデッキの普及もその前後と思われる。アダルトビデオは1981年に「ビニ本の女・秘奥覗き」というビニ本を題材とする作品が初期なようで、翌1982年に「主婦斎藤京子の場合」裏ビデオ「洗濯屋けんちゃん」がヒットしており、それまで裏本がもっともエロいコンテンツだった昭和の男たちにとってAV画期的すぎてビデオデッキ普及しまくったに違いない。

        テクノ時代のあいだ自販機本からビニ本へ、ビニ本からAVへ、劇画からロリへとすごい勢いでエロが進化していたことだろう。AVはバブル時代に急成長し、1971年団地妻にはじまったロマンポルノは1988年に終了した。

        ただビニールかどうかはともかくとして、中高生ぐらいだとふつう自分の部屋にビデオデッキないからエロ本はエロ本でそれこそ投稿雑誌など需要はあったはずである。この8月にコンビニエンスストア各社がエロ本の取扱いやめたそうだが、80年代拡大中のコンビニにおいてはエロ本もそれなりの売れ筋商品だったと思う。

        ビニ本で画像検索したらこのモデルさんばっかり出てくるので調べたところ、小川恵子とか薬師丸ひろみとかの名前で1980-81年ごろ売れっ子だったようだ。タイトルや見出しで少女なんちゃら〜って書かれていたりセーラー服着てたりとJKぽくしてて、たしかにかわいくて似合ってるのだけどそれは顔立ちが幼い、アイドルぽいてだけで、じっさいの年齢はじゅうぶん20超えてそうな感じに見受けられる。

        JKというと昔はスケバンみたいなアバヅレもいたろうからロリの範疇に入れていいのかどうかは微妙なとこで、1980年代前半の小川恵子やエロ劇画の「少女」「セーラー服」もしかりである。しかしほんの何年後かのロリコンランドだかロリコンHOUSEだかを画像検索するとそっちはJKどころか女子児童???ってレベルの本格派に進化してた。

        1980年つまり自販機本とかビニ本とかいってるロリ時代の前段階においては童顔のお姉さんがセーラー服着てるだけだったり、JKがエロ漫画に描かれててもめっちゃ劇画調だったりしたのが、エロやおたく文化が進化していく過程で、よく考えたら少女じゃねー。と、淘汰されていったのではないだろうか。なお自販機本はヌード写真だけではなくエロ劇画も掲載しており、この自販機本やエロ劇画というのは学生運動出身の人がやってたようだ。

        てことはやはり団塊世代が劇画志向なのであり、テクノ時代→バブル時代と若者文化における左翼じじいの影響が薄れる過程で性欲や漫画表現が変化していったのだと思った。それに80年代はJKやアイドルもファンシーなキャラのついた服や雑貨を好んできゃぴきゃぴしたりと、後の時代に出てくるコギャルと違って「少女」を演じてたフシがある。

        ロマンポルノもロリバブルと重なる末期においてはロリータをうたった作品が複数制作されていたようで、検索しただけでも「ロリコンハウス おしめりジュンコ」(1983)「ロリータ妻・微熱」(1984)「いたずらロリータ うしろからバージン」(1986)「ロリータ・エクスタシー 肉あさり」(1987)「ロリータバイブ責め」(1987)が引っかかった。いたずらロリータの監督はデスノートの金子修介だそうである。


        少女時代

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          現在のブブカ誌の画像見てたら表紙がAKB軍団ばっかりでもはや流出写真の名残りはほとんどなさそうに見受けられる。現在の発行元である白夜書房はコアマガジンと系列の会社でビニール本に起源を持ちエロ雑誌を数多く展開していた。

          ビニール本とはビニぼんと略され、昔エロ本が立ち読みできないようビニールで包装してたのでそんな呼び方だったらしい。なぜか今調べるまでビニ本とは自動販売機で売られてたエロ本のことかと思ってたらこっちは普通に「自販機本」なのだそうで、じゃ自販機でエロ本買ったらビニールにも包まれてない状態で本が出てきたんだろうか。

          昭和50年代ごろは自動販売機でジュースはもちろんのことエロ本とかコンドームとかうどんそば買える・・ってのが画期的だったと思われるのだが、最近はジュースや17アイスしか売ってないし自販機本もビニ本が出てきてから滅亡したってWikipediaに書いてた。でもいちおう20年ぐらい前にもエロ本売ってる自販機見たことはある。

          1982年に白夜書房から「漫画ブリッコ」て雑誌が出ており、創刊当初は劇画だったのが販売不振によって1983年5月号より美少女コミック誌にリニューアルされ、同年「おたく」という呼称が同誌により作られている。あまとりあ社「レモンピープル」とともに2大ロリコン漫画雑誌の草分け、以前にエロ漫画が劇画から可愛い系もしくはオタク的なイメージの強いロリやアニメぽい絵が主流になるのは1984年ぐらいじゃないだろうか。と、推察したことがあったのだが、私の歴史観あながち間違ってないと思った。

          漫画ブリッコ誌の創刊号の画像を見ると「B級劇画の心意気!!」「耽美劇画の巨人迫真のカラー!!」「ただいま官能劇画ビッグ3!!」との見出しがおどり、映画監督として著名な石井隆の名前がある。そういえば石井隆原作のロマンポルノ「天使のはらわた 赤い淫画」(1981)がビニール本の話だった。

           

          レモンピープル(Wikipedia)

          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB

          創刊時は少女モデルのグラビア中心の誌面だったが、のちに漫画中心に移行した。従来の成人向け漫画はエロ劇画系の作品がほとんどだったが、本誌では少女漫画風・アニメ風の可愛らしい絵柄と性的描写を組み合わせた作品を起用したため、若者を中心に好評を博して発行部数を伸ばした。 『漫画ブリッコ』とともに、漫画系ロリコン雑誌・美少女コミック誌の草分けと言われ、「2大ロリコン誌」と並び称された。歴史的には本誌が先行し刊行期間も長かったため両誌が併存した期間は長くないが、『漫画ブリッコ』廃刊後は『漫画ホットミルク』に引き継がれて並び立つ時期が続いた。その時代にロリコン漫画ブームが盛り上がった。

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          士郎正宗は画集『イントロンデポ』にて、一般漫画誌『メルティレモン』に掲載されたイラストについて「メルティレモンはやらしい本ではない」と注釈を付けている。さらに併記されていた英語解説文には事情を理解できない外国人向けに「日本ではレモンピープル誌のため、レモンの付く雑誌名に卑猥なイメージがある」と記されている。(他に1980年代の「レモン」が付く成人向け作品名として『くりいむレモン』などがある)

           

          『おたく』の研究 第1回(漫画ブリッコの世界)

          http://www.burikko.net/people/otaku01.html

           

          『おたく』の研究 第2回(漫画ブリッコの世界)

          http://www.burikko.net/people/otaku02.html

          さて前回は、この頃やたら目につく世紀末的ウジャウジャネクラマニア少年達を『おたく』と名づけるってとこまで話したんだよね。『おたく』の由来については、まぁみんなもさっしがつくと思うけど、たとえば中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくらさぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない。  

          そいでまぁきゃつらも男なんだから、思春期ともなればスケベ心のひとつも出てくるだろう。けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね。それに『おたく』ってさぁ、もう決定的に男性的能力が欠除してんのよね。でたいがいはミンキーモモとかナナコとかアニメキャラの切り抜きなんか定期入れに入れてニタニタしてるんだけど、まぁ二次元コンプレックスといおうか、実物の女とは話しも出来ないわけ。これがもうちょいマシになると、女性的存在をあんましアピールしないアイドル歌手のほうへ行ったり、屈折してロリコンしたりするってわけ。それで成熟した女のヌード写真なんか絶対受けつけないんだよね。僕の知ってる男で、人が親切にビニ本見せてやろうってのに、「よせ!キタナイッ」なんてわめいて必死で目をそらす奴がいたけど、まぁそいつは今『COMIC BOX』 の編集やってるけどさ、そんな感じなんだよ。  

          でそういう奴らでも唯一許せるのが、あのおたく雑誌『GORO』でやってる紀信の激写なのであった。ホラ、くみこクンにお手紙を書いてみませんか、気に入ったお便りには彼女が返事をくれますっていうあれだよ。もう考えただけでゾッとするけど、編集部には何万って『おたく』 からの手紙がギッシリと届いてんだぜ、きっと。オエ〜〜。げんに最近出た激写の別冊のお便り欄、もうおたく手紙がいーっぱい。激写が出るの待ちかねて隣り町の書店まで行ったとか、気に入った女のコは切り取ってファイルしてるんだけど(ここがいかにもおたく的ね)そのファイルを女房にみつかっちゃってヤバイ!なんてゆってる26歳の会社員とかさ、○○子クンに捧げる詩なんて作ってくる奴はいるわ、もうそんなのばっか、頭痛くなっちゃったよ。でもいるよね、四畳半の薄汚ない下宿の本棚にビシーッと『GORO』のバック・ナンバー折り目ひとつつけずに保存してる奴が。中には保存用とナニ用に二冊ずつ買ってるって奴もいるぐらいでさ。  

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          上の引用文が「おたく」が命名された1983年の記事とのことで、執筆者のペンネームが当時のアイドル中森明菜をもじっててしかも掲載誌がロリコンいうてんのにびっくりするぐらい「おたく」を子馬鹿にした内容となっててなんか思てたんと違うと同時に、アニメやアイドルにハァハァしてる野郎は宮崎勤の事件で猟奇的なイメージつく前からその「クラさ」で気持ち悪がられてたことがうかがえる。ミンキーモモの切り抜き〜のくだり読んで思い出したことには1984年に遭難したSOSの人もミンキーモモのテープ持ってたので、この1982年放送の幼女向けアニメが出初めの「おたく」に強い影響を与えていることは間違いなさそうだ。

          漫画ブリッコ創刊号「官能劇画ビッグ3」のうちの一人である羽中ルイの画像を見ると、エロ漫画がロリ化するまでのエロ劇画この絵柄で「少女」と言い張ってて戸惑う。また絵柄から想像つかないことには羽中氏は藤子不二雄のアシスタントであり、ドラえもんの誕生日も同じく藤子不二雄のアシスタントだった「ドラえもん百科」「のんきくん」の片倉陽二が羽中ルイの誕生日9月3日からつけた・・って話をやはり藤子不二雄のアシスタントだった「まいっちんぐまちこ先生」のえびはら武司が明かしており、ジャイアンの剛田武もえびはら氏の名前から取っているのだそうだ。
          羽中ルイはもともと漫画を読んだことがないような人だったためにその描き方を片倉陽二から教わっていて、エロ漫画で独立した背景にも片倉氏の自宅にあった大量のエロ本の影響をえびはら氏はその著書で示唆している。それはそうとミンキーモモもなのだけど「ドラえもん百科」「のんきくん」「まいっちんぐまちこ先生」あたりは世代で、そもそも私が幼女だった80年代は藤子不二雄アニメの全盛期だった。

          劇画というと私は昭和40年代に顕著にみられる巨人の星、はだしのゲン、ゴルゴ13みたいな絵柄を思い浮かべてたけど別に必ずしもそういうわけではないようで、たぶん手塚治虫や藤子不二雄みたいなマンガマンガした絵ではない、リアル志向の絵柄ってことなのだと思う。よど号グループが「われわれはあしたのジョーである」と言ってたらしいし、戦後生まれである団塊世代が大学生かつ少年マガジンおよび梶原一騎全盛期の1960年代後半あたりからいい年してもマンガ読むってなったさい絵柄も子どもぽさから脱却する必要があったのではないだろうか。

          しかしエロに限らずマンガ自体が70年代は劇画タッチだったのがいつのまにか「タッチ」「さすがの猿飛」みたいな可愛い系の絵にシフトしてるイメージがあり、それは少女マンガも同様である。1980年あたりからすでに劇画もしくはお目目キラキラみたいな暑苦しい絵やストーリーがクサいクラいとギャグの対象にしかならなくなってきて、少年漫画も少女漫画いづれも可愛い系の絵でラブコメ・・みたいな軽いノリであまり差がない時期があったのかもしれない。

          リニューアル後の漫画ブリッコの表紙も今イメージするところのロリってよりは少女漫画タッチである。80年代はロリコン漫画だけではなく「ロリコンHOUSE」「ロリコンランド」て雑誌もあるし、アクションカメラ言うてパンツ盗撮、また女子高校生を中心としたアイドルグループに「おニャン子クラブ」て名前など、たぶんそれまでおっぱいや尻でかい成熟した20歳前後の女が性欲の相場だったのが、まだそうでもない「少女」に男たちが開眼しはじめた。


          風邪シーズン

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            ビタミン剤、栄養ドリンク、エナジードリンク、何でもいいのだけど、そういうたぐいのものがなんで元気になるって信じられてるのかを考えたときに、糖分やアルコールやカフェインまた独特の薬っぽい風味というのもさることながら、まづ戦前はおかずが十分でなかったのかビタミンB1欠乏に由来する脚気患者が多かった。脚気には倦怠感、食欲不振、手足のだるさといった症状があったために昔の人はじっさいにビタミンB1ごときで元気になったと思われ、その成功体験がよっぽどの偏食でないかぎりビタミンB1欠乏しなくなった現代にまで疲れに効くありがたい栄養素って設定がずっと続いてるというのが私の見立てだということは前にも書いた。

             

            昔はこんな薬もありました 25(おくすり博物館)

            https://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_129.html

            昔はよく風邪にしろ、疲労回復にしろ“では注射を一本打ちましょう。”と良く注射が打たれたようで、もちろん現在でも注射薬は予防接種はじめさまざまな医療の現場で使われていますが、リンゲル液はじめ多くの注射薬は点滴製剤、輸液製剤に取って代わられ、また注射薬も点滴に加えられて投与されるなど、かつて幼児期の注射によって大腿四頭筋拘縮症(大腿四頭筋短縮症)なども発症したことなどから直接注射を打たれることは滅多になくなりました。

             

            上記urlの古い注射画像、やはりビタミンB1やオリザニンといった名前がよく目につくし、ぜんそく治療薬エフェドリンもある。戦後しばらく栄養ドリンクや液体風邪薬がアンプルだったのは注射飲んでるイメージだったのだろう。

            今病院行っても診察して薬処方される流れで、注射って予防注射ぐらいしかしないような気がする。だがかっては栄養や風邪薬が注射だったようでとくに医療機関にかかることの多くなった1960年代に注射が多かった。

            まだ筋肉の未熟なお子さんに障害の出る事故が多数報告されたために、注射打たなくなったのはその影響とみられる。1960年代といえばビタミン剤やアンプルの栄養ドリンクの全盛期であり、アンプル風邪薬の死亡事故、またイソミンを妊婦さんが飲んでたのもそれぐらいの時期で、高橋晄正は「薬を監視する会」や三一新書で危険な薬を告発した。

             

            幼児大腿四頭筋短縮症

            https://www.cool-susan.com/2015/10/28/%E5%B9%BC%E5%85%90%E5%A4%A7%E8%85%BF%E5%9B%9B%E9%A0%AD%E7%AD%8B%E7%9F%AD%E7%B8%AE%E7%97%87/

            昭和48年10月5日、朝日新聞は「幼児集団奇病 山梨で23人が歩行困難 原因はカゼの注射?」の見出しをつけ、全国版の1面でこの記事を報じた。朝日新聞は、山梨県南巨摩郡鰍沢町と隣の増穂町を中心に、ひざ関節が曲がらず、足がつっぱったまま歩行や正座ができない幼児が20数人いることを伝えたのだった。

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            母親の話からS産婦人科医院(慶応大医学部卒業)に疑いの目が向けられた。障害児たちは例外なくS産婦人科医院を受診していて、風邪や下痢などで大腿部に筋肉注射を受けていた。子供に注射を打つ場合、尻に打つことが多いが、S産婦人科医院では仰向けのまま大腿部の前面に注射をしていた。子供はうつぶせにさせられただけで、恐怖心から泣いてしまうが、仰向けの場合は子供が泣く前に注射は終わっていた。S産婦人科医院では、子供の風邪にも頻回に注射を打ち、生後1年間に最高150回の注射を受けた乳児がいた。

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            ちょうどそのころ、東京大医学部講師の高橋晄正が、増穂町に薬害問題の講演に来ていた。当時、スモン、コラルジル中毒、クロロキン網膜症などの薬害が問題になっていて、高橋晄正は「薬を監視する国民運動の会」を創設し、薬害運動の中心になっていた。高橋晄正は大腿四頭筋短縮症の存在を知らずにいたが、講演での聴衆との質疑によって初めて知ったのである。

            高橋晄正の行動は速かった。大腿四頭筋短縮症の原因解明を約束して東京へ帰えると、自主検診医師団を結成、昭和49年3月9日と17日に子供たちの検診を行った。この検診によって、171人の子供のうち130人が大腿四頭筋短縮症と診断された。大腿四頭筋短縮症の子供は例外なく大腿前面に注射を打たれていて、障害の程度は注射の回数に比例していた。

            同年12月18日、テレビの「奈良和モーニングショー」で、ひざの曲がらない奇病と自主検診医師団が特集として放映されると、全国の母親たちは騒然となった。多くの母親は、子供が風邪などで頻回に注射を受けていることを知っていたからである。大腿四頭筋短縮症は全国から注目を集めることになった。

            大腿四頭筋短縮症は、昭和21年に東京女子医大の森崎直木が初めて症例を報告して、筋肉注射が原因としていた。しかし散発的な発症から、筋肉注射の危険性は軽視されていた。しかし昭和30年代の後半になると、消炎鎮痛剤や抗生物質などの開発が進み、筋肉注射が急増することになる。昭和35年に南江堂から出版された日本外科全集には、「大腿四頭筋短縮症の原因は大腿部前面への注射による」と記載されたが、小児科医の大腿四頭筋短縮症への認識は乏しかった。

            昭和36年に国民皆保険制度が開始されると、患者の医療費負担が少なくなったため、医療機関を受診する患者が急増し、大腿四頭筋短縮症も増えていった。大腿四頭筋短縮症は筋肉が未熟な幼児期に多かった。幼児期は筋肉が未熟な上に、大腿前面に注射をされる場合が多かったからである。この大腿四頭筋短縮症は山梨県だけでなく、日本各地で急増していた。

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            さて「エフェドリン”NAGAI”」「塩酸エフェドリン注射液」などエフェドリン類の製造元は大日本製薬となっている。前述のイソミン(サリドマイド)も大日本製薬なのだけど昔はヒロポン(メタンフェタミン)作ってて、そもそもメタンフェタミンはエフェドリンから合成された。

            ヒロポンの由来は疲労がポンと飛ぶともささやかれてるぐらいで、疲労回復力としてはビタミンB1の比でない。戦後しばらくは覚せい剤取締法もなく一般人のあいだで多く中毒者が出るほど出回っていたらしいので、アンプルの疲労回復イメージとしてはビタミンB1だけでなくヒロポンも寄与しているような気がする。

             

            昔はこんな薬もありました 25(おくすり博物館)

            https://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_129.html

            この前の敗戦(終戦)の頃“ポンちゅう”という言葉がありましたが、つまりヒロポン中毒のことで、覚醒剤と覚醒剤中毒の代名詞が昭和18年から25年にかけて(旧)大日本製薬が発売したヒロポンでした。
            我国薬学の祖として有名な長井長義はドイツ留学の後、明治16年(1883年)の政府出資官製会社の大日本製薬の設立に技師長(のち東大教授)として参画、その後明治18年(1885年)には麻黄よりエフェドリンを単離し世界で初めてエフェドリンと命名し、その後誘導体のアンフェタミン類までをも抽出合成に成功しました。
            この喘息治療薬のエフェドリンの合成過程から誘導されるアンフェタミン類つまりアンフェタミンとメタンフェタミンのうち、メチル基の付いているメタンフェタミンの方が薬理作用が強くこれがヒロポンで、メタンフェタミンは明治26年(1893年)に長井長義により合成されたものです。 ちなみにエフェドリンは現代でも覚醒剤密造の主原料となっています。
            (エフェドリンや麻黄成分を含む市販の風邪薬の値段が高いのは密造をしても採算が取れないようにするためという説があります。)

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            エフェドリンやメタンフェタミンの原料になる麻黄は葛根湯にも入ってる。麻黄といえば高橋晄正が漢方薬批判する本を昔読んだことあって、内容難しいからほぼ覚えてないけど麻黄やめんげんが否定されてたように思う確か。

            ビタミンだけでなく生薬というのもやはり栄養ドリンクや風邪薬と親和性が高い。ユンケルみたいなのももともとは養命酒など薬用酒の強壮イメージからきているのだろう。

            しかし疲労だとか風邪だとかいう病気っていうより寝てたらよくなるたぐいの症状、本当に薬が作用して元気になったのかどうか実証しずらそうだ。山田真の本で基本的にウイルスの病気には薬は使わない(だから予防接種で予防する)みたいな一節を読んだ瞬間、風邪薬にビタミン剤や栄養ドリンクに相当する印象を抱いた。

            高橋晄正はインフルエンザ予防接種も告発していたし山田真とも接点あるけど、山田医師は治療に漢方だか鍼だか東洋医学ぽいのをとりいれている。命にかかわる感染症など代替医療で治そうとするのは無茶だが、そうでなければ偽薬効果というのも馬鹿にできないのだからホメオパシーでもいろいろやってみたらいいんじゃないだろうか。みたいなこと書いていた。

            偽薬効果でも利用するというのであれば確かに栄養ドリンクを飲んでファイトや元気がみなぎっても別にいいし、じっさいにビタミン欠乏症の予防にはなってるだろうからそういう栄養補助食品レベルのまで否定するつもりはない。しかし代替医療ということになればほんとうに費用と薬効(偽薬効果)のコストが見合ってるのか、また病気の進行および副作用的な症状で健康を損なってるにもかかわらず「人工的に合成された化学物質で症状を抑えるのは邪道で体に悪い」て思い込みから通常医療の機会をのがすことになりはしないのだろうか。

             

            風邪をひいたときに飲む「ユンケル」 佐藤製薬(2011年9月1日 日本経済新聞)

            https://www.nikkei.com/article/DGXNASFL010AB_R00C11A9000000/

            佐藤製薬(東京・港)は26日、7種類の生薬やビタミンを配合した栄養ドリンク剤「ユンケル滋養液ゴールドα」(指定医薬部外品)を発売する。従来品に、免疫力を高める植物性の生薬や発汗を促すショウガを加えた。風邪をひいて体調を崩した時に服用し、栄養を効率よく補給できるように仕上げた。カフェインが入っていないため、就寝前にも安心して服用できるという。

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            【漢方薬のプラシーボ効果】

            http://ww7.tiki.ne.jp/~onshin/kan07.htm

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            古典の研究や治療家の臨床経験をもとに、投与し手応えがあれば、効きそうだ、効いた、効く筈だ、と言った具合に曖昧な感触だけで使われ続けてきた。膨大な時間と費用をかけた正しい臨床試験は行なわれていない。このような漢方薬が保険でどんどん消費され、ついに年間1000億円を越えるまでになった。もし効かないものであれば保険財源の無駄遣いになる。そこで科学技術庁は1979年から5年間にわたって総額3億3000万円の研究費を針灸・漢方研究者達に与えて、大研究を行なわせた。そのうちのひとつ富山医科薬科大・寺沢先生の研究報告に注目されるものがあった。3ヶ所の大病院を訪れた更年期障害の患者264人について、漢方的な「証」の診断のもと、以下の3群に分け漢方薬が投与された。

                1.陽実群(体力・病勢強く、熱性...)→桂枝茯苓丸+黄連解毒湯
                2.陽虚群(体力・病勢弱く、寒性...)→当帰芍薬散+人参湯
                3.陰虚群(肝血の損耗による虚熱....)→加味逍遥散

            漢方薬はエキス顆粒として投与され、プラシーボには通常効果がないと思われるエキス顆粒の1/10の含有量の顆粒が用いられた。これは医師、患者双方が、プラシーボか否かを判別できないように工夫されたものであった。これによって効果の差がでるかどうか4週間服用後の状況を調査した。

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            漢方関係者のみならず驚愕の結果となった。2.3群では数字を見る限りプラシーボの有効率が高くなっている。いずれの薬でも60〜80%が「効く」と言う事になる。そして、この数字がまさに心理効果であり自然治癒力なのだ。この数字を差し引いた数字が「真の薬効」になるが、上記のように差がなければいずれがプラシーボかの判別もつけられない。しかし、通常のプラシーボ効果は約30%、多くても50%前後であるとされている。何故こんなに高い数値が出たのか気になるところである。判定そのものが患者の訴えにもとづくもので、有効の判断は判定者の直感に頼るものであった事は否めない。客観的数字や画像などでの確認でない以上厳密性は薄れる。そもそも漢方の運用が愁訴を手がかりに行なうため二重盲検法での薬効検定には馴染まないという苦しい弁明を聞いた事もある。有効率の扱いはさておいてこの結果は漢方懐疑派にとって力を得るものとなった。「漢方薬は危ない」という高橋晄正先生の本よれば、無効だが危険な副作用はあるように言及されている。私は薬効検定に関わった事も、詳しく学習した事もなく、おそらく素人同然の知識しか持ち合わせていない。この事をお断りして、疑問点を提起したい。有効性の判定にプラシーボを必要とするように、副作用の判定にもプラシーボが必要ではないのか?危険な作用には慎重にならざるを得ないし正しい検定結果を待てない緊急性も納得できる。副作用は疑わしいだけで警戒しなくてはならない事も解る。

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            華々しい西洋医学の成果の陰で、相変わらず脈々と伝え使い続けられた薬草・漢方療法である。これからも消滅するどころか益々頼られる療法であろうと確信している。たとえ証拠がなくても、そこには医療とは一線を画した「癒し」とでも言うべき分野があるように思う。先の二重盲検法で漢方薬とプラシーボがほぼ同じく60〜80%の効果が認められた。通常のプラシーボ効果は30%、多くても50%前後であるという。一体何故このような高い数値が出たのだろうか?生体に備わる揺れては戻る自然治癒力と心理効果の関与する率の高い疾患。つまり放置してもやがて治る風邪や急性熱病、急性胃腸病など...そして心理的影響の大きいものでは不定愁訴や更年期症候群、自律神経失調症など...皮肉にも漢方が得意とする分野と一致する。この適応分野の選択さえ誤まらなければ副作用が少なく、ある程度の効果を上げることが出来るのである。漢方の効果が統計学的手法で認知されなくても、高いプラシーボ発現率の理由を色々な理論で説明する論考がある。神経系、ホルモン系、免疫系、暗在系、微弱な刺激や極微量の感知機能を想定する試みもある。代替医療がその効果を説明するのと同じような話が漢方でも語られる。ついには波動やO・リングまで駆り出される事もある。説明できないからと言って疑似科学の理屈を拝借するのはもっと納得がいかない。知的好奇心としての研究や議論ならまだしも、その仮説から展開される治療理論には辟易させられる。奇妙な理屈を駆使してまでも漢方の有効性を主張すべきなのであろうか?不可解なものは不可解としながら、謙虚にその存在価値を模索することも大事であろう。

             

            【プラシーボの癒し(3)】

            http://ww7.tiki.ne.jp/~onshin/health13.htm

            「終り良ければすべて良し」。結果はしばしば過程より重視され、事と次第では罪さえ減じられることがある。苦痛が緩和され病気が治るなら毒でも飲みたくなるが、小麦粉では効かない。この小麦粉を薬にする演出が代替医療の理論と技法だ。人の心理に深く巧みにかかわり効果を発揮することもあるが、効果があっても微々たるもので、ほとんどがまったく効果のないことが証明されている。しかし不確かながらプラシーボ効果で症状を緩和したり病気が改善されるなら、これに希望を託し「終り良ければすべて良し」といかないのだろうか?

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            1例の有効例は1%の偶然かも知れない、副作用は1例でも100%の必然かも知れないと疑うべきだ。患者に好転反応などと言って我慢を強い誤魔化してはならない。通常医療でも証拠のないものはたくさんあるが、ここからは漢方薬を考えてみたい。いまのところ医薬品として通常医療で利用され地位を得たかのような扱いだ。「天然物で作用が緩和」、「伝統的に使われてきた」、このていどの理由で認可され医療の舞台に踊りあがった。1979年から5年間かけて行った科学技術庁の研究で、プラシーボ同等、あるいはそれ以下という結果が出た。プラシーボにも劣る漢方薬とは一体なんだったのか、ずいぶん悩んだ。その後も既得権益は温存され、通常医療の現場で医療費と生薬資源を喰い続けている。大手漢方メーカーは「漢方を科学する」と謳い、生薬成分の薬理をもとに漢方処方の有効性を報告しているが、動物での薬理実験や症例を集めるという、テレビの健康番組の延長にたがわない。科学技術庁の研究を主導した医師は相変わらず業界に君臨し様々な提言を行ったり、漢方薬を処方し続けている。そこには何らかの希望や手ごたえを感じ、取るに足るものを信じてのことに違いないが、1%かもしれない偶然を30%も40%も割り増しするバイアスがあるのかも知れない。

            ・・・

            EBM(Evidence Based Medicine)による治療に対し、NBM(Narrative Based Medicine)が語られるようになった。前者の、証拠に基づく医療に対して、語りや心を重視する医療である。これを両輪として全人的医療を提供するという思想だ。ここにプラシーボの居場所を確保しようという目論見もあるが、「終り良ければすべて良し」とはいかない。放置しても治る症状が紛れ込んでいれば、服用した時間と費用の分、生活のクオリティを奪うことになる。改善したものには自然治癒が含まれ、その偶然の一致で治療家は自信を深めてきた。「治療を受けたにもかかわらず治癒した」とき、漢方も含めEvidenceに欠ける医療は費用と時間を浪費したことになる。

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            漢方薬効かないって解釈されそうなのでいちおうことわっとくと私はビタミン剤で元気やお肌が美しくってのは気のせいだと思ってるが漢方はそうでもない・・っていうかそれ以前にほとんど飲んだことない。ただいろんな生薬をまぜてるのだろうから不純物だらけで体に悪いのやぎゃくに全く薬として意味ないの入っててもわかりにくそうな印象はある。

            コッホやパスツールの時代(1800年代後半)にコレラや結核などいろんな菌見つかり、手洗いや害虫駆除することで病気が防げるとわかった。漢方ってそれ以前の、まだ菌とかビールスの見つかってない時代の医療であり、近代医学がミクロな世界におよんで病原菌を特定できるのに対し、病気を病巣や臓器など部分じゃなく患者の体質や生薬の性質などホリスティックな見地から診ていく・・てのがたぶん「全人的医療」てやつなんだと思う。

            医療や衛生が発達するなか、このまま予防接種なり抗生物質なりで世の中から病気なくしちまおうぜ。と楽観視してたときもあったかもしれないが、耐性を持つ菌や虫も出てきたし薬害もある。人間にとっての「悪い菌」を化学物質で攻撃し自然の生態系を狂わせてしまった近代医学のカウンターとして、発汗作用など潜在的に持ってる治癒力を天然成分でブーストし病気を追い出そうってのが代替医療の発想なのだろう。


            うやまう

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              2000年代初頭より始まったハッピーマンデー制度により敬老の日や体育の日がいつなのかよくわからなくなったが昔は9月15日の固定だった。それよりもっと昔だと敬老の日を「としよりの日」と呼んでた。

               

              昭和33年09月23日 としよりの日 0105(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=J-zivIOdTWM

              「9月のとしより福祉週間に川崎市でもいろいろの催しが行われましたが、まず15日には市内の寿司商組合や芸妓連中が末長の市立養老院を慰問しました。おすしやさんが腕によりをかけてのプレゼントに恵まれぬ100名のお年寄りたちはおおよろこび」

              養老院とは老人ホームのことで、1963年の老人福祉法で改称されたらしい。「としよりの日」もこのとき「老人の日」になってるがその後「敬老の日」に改称された・・と、Wikipediaには伝えられている。

               

              [昭和35年9月] 中日ニュース No.349_5「としよりの日によせて」(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=vGOXSaDze34

              この時代の爺さんがたは明治生まれでつるっぱげと和装が鉄板なのだが、それにひげ伸ばした泉重千代型もけっこういた模様。なお今あまり生き残ってない大正生まれは当時40代ぐらいとまだ働きざかりである。

              「東京では年に一度の敬老金が配られましたが、わずか2000円のおこずかいなのにみんな押しいただくようによろこんでいます」

              こういう婆さんはいまだマンガにえがかれてるのだが、明治世代ファッションゆえ私が子どもの時(30年ぐらい前)でさえリアルで見たことないレベルである。30年前80歳超の老人はけっこう珍しかったしいても今よりだいぶ老けてた。

              「ここ京都は鴨川のほとりに10年前から風変わりな老人が住みついています。なかみちえいたろうさんという今年76歳の老人で、年がら年じゅう鴨の河原で石ころを拾っています。妻にも子にも次々と先立たれひとりぼっちになったなかみちさんはこうして仙人のような生き方を選びました。気に入った石が集まると川の水できれいに洗い橋の下の家に持って帰ります」

              「愛知県半田市グァム島さながらのほら穴に年老いた夫婦が住んでいます。このおださん夫婦も戦争でわが子と財産を失いよるべのない身を18年、皮膚を土色にして生きてきました。この悲惨な境遇を見るに見かねた町の篤志家がバラックを贈り老夫婦はほら穴を去ることになりました。老いて変わらぬ夫婦愛のきずなこそ18年のどん底生活を支えてきたものといえましょう」

               

              [昭和36年9月] 中日ニュース No.401_1「としよりの日」(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=lr1LepHnDmc

              「9月15日のとしよりの日を迎えて今年も各地で敬老の集いが行われました。折も折浅草では不遇の親子をめぐって下町らしいあたたかい人情がみられます。気の毒なこの親子を見かねた中山さんはとりあえず少年を自宅に引きとり自分の経営する中華料理店で店の手伝いをさせることにしました」

              「さらに人々の善意は両眼失明の父親にも注がれ近く手術をすることになったのです。その前夜これも厚意あるお風呂屋さんのはからいで10年ぶりの入浴。そのうえ衣類まで与えられていよいよ入院。こうして元軍人だった頑固者の老人も浅草っ子の善意に見守られながら再出発することになったのです」

              現代の敬老の日・・って若い者が若々しい年寄りを囲み、これからも長生きしてねってなノリだと思うのだが、昭和30年代における「としよりの日」だと年寄り=かわいそうな人々っていう障害者とか発展途上国みたいな位置づけで、そういえば初期の24時間テレビの動画見たときも寝たきり老人が10年20年風呂に入らないって言ってた。当時は障害児に対しても「異常児」「精神薄弱」「不幸な子どもが生まれてこないでほしいのはみんなの願い」とかいってたが、やはり高齢者に対しても「恵まれぬ」「気の毒な」「衣類まで与えられて」「頑固者の老人」など言い回しにほぼ配慮がない。

              「元軍人といえば大垣市に住むしもようきちさんは今年81歳。皇国の興廃をかけた日本海海戦に旗艦三笠の乗組員だったというのが自慢のたね。としよりの日を祝って今日も庭先の掲揚塔にZ旗をかかげ遠ざかる明治をおしんでいます」

              この爺さんは日露戦争時で25歳ぐらいなようだ。昭和36年当時すごい長寿って言われてるのがだいたい明治初期生まれで江戸時代生まれもいるにはいたけどもうだいぶ少なくなってる。

               

              昭和36年09月26日 としよりの日 0155(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=XKwpQSqDIVk

              「また東田町の高橋しちじさんは明治2年生まれで91歳。老いてますます元気なおももちで祝いの品を受け、長生きはするものと悦にいっていました」

               

              昭和40年09月28日 としよりの日 0218(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=fl0F3C8eDSI

              「また野川に住む小久保りのさんは明治3年生まれで95歳。老いてますます元気なおももちです。市長さんからお祝いの品を受け、長生きはするものと長寿を喜んでいました」
              明治○年生まれ〜老いてますます元気なおももち〜祝いの品を受け〜長生きはするもの〜と、東田町の高橋しちじさんと川崎ニュース内でナレーションの文章が使い回されていることに気づいた。「長生きはするもの」とかじっさいは言ってない可能性もある。


              平成アイドル史

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                90年代半ばに「お宝ガールズ」って雑誌読んでたことを急に思い出した。べつに購読してたとかではなく、下校時に買い食いしたり本屋逝ったりと寄り道してたときよく立ち読みしてた雑誌・・のうちの1冊という感じなのだが。

                 

                https://www.amazon.co.jp/dp/B00ULJMIM8/

                 

                この雑誌Wikipediaがないのだけど、少なくとも2010年代までは存在してたようだ。おそらく上の画像の1996年9月号が創刊とみられる。

                1996年といえばルーズソックス時代まっただなかで、J-POPでは小室ファミリーやビーイングなどよく聴かれててアイドルは下火だった。しかしくしゅくしゅソックス時代(平成初期)はかろうじて東京パフォーマンスドールや桜っ子クラブやらとまだアイドルグループが存在してたし、小室やビーイングのプロデュースで生まれ変わったJ-POPの女性歌手もブレイク前はやはりイケてないアイドルもしくはグラビアで股の切れ込みがすごい水着とか着てた。

                ルーズソックス時代をかけぬけるスターたちの、まだ髪の毛まっくろけで眉毛太くて男たちにこびをうってた下積み時代を楽しむのがこの「お宝ガールズ」というわけである。当時くしゅくしゅソックス時代を封印してたのは飯島愛に限った話ではなかったし、というか封印する意図がなくてもバブル〜くしゅくしゅ時代のイケイケな服装や化粧は1995年をさかいにたいていの人にとって黒歴史扱いとなったことだろう。

                お宝という言葉の由来はまちがいなく1994年に始まってすぐに人気を博したテレビ東京「なんでも鑑定団」である。「お宝」の意は下積み時代の古い写真が貴重ってだけではなく、愛好家によってテレホンカードなどアイドルグッズにプレミアがつくという現象も人々の関心を集めていた。

                お宝ガールズの表紙画像をよく見ると「スーパー写真塾増刊」とある。スーパー写真塾はたぶん投稿写真系のエロ本だ。

                「お宝ガールズ」「スーパー写真塾」を出してたのがコアマガジンって出版社なのだけど、ブブカも同じとこから出てたらしい。ブブカ誌は今でもあるようで、創刊の時期も1997年1月なのでお宝ガールズとほぼ同時期である。

                お宝ガールズとブブカは個人的には読んでた時期がちょっとずれてるのだけど、確かに同じ出版社なだけあって印象がだぶってる。ブブカは小室よりあとのモーニング娘。の時代に読んでた。

                ブブカ読む目的はアイドルの流出写真であり、たぶん写メールが出てくる前に使い捨てカメラみたいなので撮った写真を写真屋さんが流出させてたんじゃないかと思うのだがあまり記憶がさだかではない。あと倉木麻衣が売れたときに親父が出てきたような気がするんだけど、これまた検索しても詳しい情報が出てこなかった。

                そしてまたしても記憶があいまいなことには、広末や鈴木あみなどアイドルの登下校を盗撮した写真ってのもよく見かけた。それはお宝ガールズなのかブブカなのかもはやわからないのだが、こうしたアイドルをつけまわす行為が当時「おっかけ」「ストーカー」として比較的公然と行われていたように思う。

                 

                https://www.amazon.co.jp/dp/4846301923/

                 

                https://www.amazon.co.jp/dp/4870313723

                内容(「BOOK」データベースより)

                広末涼子・SPEED・奥菜恵・菅野美穂・長瀬智也・三浦理恵子・穴井夕子…数々のアイドルを7年にわたり追跡した青春の記録。禁断のアイドル自宅調査レポート。
                内容(「MARC」データベースより)

                広末涼子、SPEED、奥菜恵、菅野美穂…。92年に高橋由美子との遭遇で「ストーキング」に目覚めて以来、7年にわたって数々のアイドルを追跡した著者の行動記録をまとめる。


                このストーカー日記てタイトルの字の感じがこのうえなく90年代後半だ。たしかストーカーて言葉そんなに古くなくルーズソックス時代にストーカーのドラマが2つあってそっから定着したような気がして調べたところ、記憶どうり日本テレビ系列「ストーカー逃げきれぬ愛」TBS系「ストーカー誘う女」がいづれも1997年の1月から3月にかけて放送されてて、どっちも見たことないけど前者の主題歌は坂本龍一の娘が唄った奴だったそうで、嗚呼あの歌ってストーカードラマの主題歌だったんだ。と今検索して知った。

                誘う女のほうは大映制作なのでちょっとふざけてた可能性があるし、このストーカー日記て本も読んだことないけど、何か今と比べてストーカーを軽くとらえてる印象を受ける。おそらくストーカーやばい超怖いって知らしめたのが、この本が出た4か月後に起こった1999年の桶川ストーカー殺人だったのだろう。

                 

                「ストーカー日記」 広末は哺乳類の最終進化形態である(2009年12月10日 完璧な卵)
                https://kanpeki.at.webry.info/200912/article_7.html

                ・・・

                無関係の僕は笑っていられるが、ストーカーされたアイドルたちにとっては笑いごとでは済まされないのは確かだ。アイドル自宅調査道を邁進するとかほざいてアイドルの実家や現住所をあらゆる手を駆使して調べたり、アイドルの通う学校の校門のそばで張り込みをしてアイドルを待ったり、しまいにはアイドルの尾行までやってのける。その過程で明らかに法律に抵触する行為もある。アイドルの実家のサボテンを持ってきちゃだめでしょう。窃盗罪。返せばいいってもんじゃない。あと、住居不法侵入も駄目だろう。
                 ・・・
                 広末涼子が高校を卒業するまでに何としても制服姿を生で見たいと、広末の通う高校まで行き、出待ちをする。
                菅野美穂が家族と住んでいる団地を突き止め、菅野家の出したゴミを持ってきてしまう。
                奥菜恵が通学に利用するバスに乗り込み、近づいて奥菜恵の匂いを嗅ぐ。これが一番ひどい。奥菜恵が知ったらショックで倒れそうなあまりにも鬼畜な行為である。だが読んでいて面白くてたまらない。

                ・・・


                生れないでほしい

                0

                  島田療育園の小林提樹と「拝啓池田総理大臣殿」で島田療育園および重症心身障害児の窮状をうったえた小説家の水上勉が参加している「誌上裁判 奇形児は殺されるべきか」と題した雑誌の座談会。障害児とその親=不幸ってことにかんしては議論の余地もないほど当たり前の共通認識なようだ。

                   

                  誌上裁判 奇形児は殺されるべきか

                  http://www.arsvi.com/1900/196302it.htm

                  戸川 ベルギーのサリドマイド嬰児殺しの被告人五人が全員無罪になった原因のひとつとして、十二人の男の陪審員がもしも自分の子だ△124としたらという恐怖感のために一種の興奮状態にあったことが考えられますね。
                  小林 一人の奇形児を死なせたということで五人の健康なものが処罰されるのならば無罪のほうがいい、と考えたかもしれません。
                  ・・・
                  水上 その子が生きていることがほんとうに不幸であって、親が努力しても駄目だということがわかる場合は、その子を消すことに、私は賛成しますが、もう少し殺し方があったのじゃないかということを考えますね。

                  ・・・

                  戸川 サリドマイドを使った薬は、日本でもあるのですか。
                  小林 日本では全面的に姿を消しました。
                  戸川 政府が禁止しないうちに自発的にメーカーが在庫品まで処分しましたが、サリドマイドはつわりを楽にする効果のある薬だったのですね。そして、妊娠初期に飲んだ人がいちばん危険なのです。
                  仁木 これは妊娠の過程において、ぜんぜんわからないことでしょうか。
                  小林 腕のないアザラシ奇形でしたら七ヵ月になって、レントゲンで調べればわかる。ほかの奇形は、レントゲンに写らないものがありますから、どうにもならないです。
                  水上 レントゲンでそういう奇形児が歴然としているなら流産を奨励したいですね。
                  小林 そのときはやるべきだと思います。

                  ・・・

                  戸川 日本でサリドマイドが売り出される以前、アザラシ奇形児はどうだったんですか。
                  石川 ありました。子どものときに、見世物△126 小屋で、客の呼び込みが、左の肩から指が二本、右の肩から指が三本、と叫んでいたのをおぼえています。
                  水上 私は若狭の曲馬団の小屋で見た記憶があります。
                  小林 昔の医学の教科書にも出ています。
                  水上 ですから薬を飲んでいてもちゃんとしたお子さんが生れるかもしれないし、どうにもそれはわからない。ただ、いちばん最初に発見するのは母親よりもお医者さんになるわけでしょう。このお医者さんの措置が非常に日本ではあいまいだと思うのです。おギャーと生まれたときに奇形だったら、医者が、産婦に母親の意識が芽生える前に処置できるのじゃないかと考えますね。うちの娘の場合は脊椎破裂というのでしたが、五日間もほうっておかれた。その間、病院ではめずらしいからというので学生に見せたりしている。私が仕事場から病院へ来て娘の様子をみると頭から布がかぶせてあるのです。五体ちゃんとしてますと病院は答えながら、死ぬのを待っていたのです。私は、さっそく外科の方にお願いして手術していただきました。そうしたら、ちゃんと泣くようになりました。しかし、現在、両足ともだめなんです。

                  ・・・

                  水上 私は人を殺すということは、ちゃんとした人間であった場合の殺人ということで立法されていると思うのです。しかし今日のように薬が悪魔的になり、空からいろいろなものが降ってくる時代になって、健康であっても奇形児が生まれてしまうのなら、法律もやはり発達して、赤ちゃんを殺して、それが有罪か無罪かということも規定しなくてはいけないと思います。私は中学一年生に入ったときに、人間はなんのために生きるか、ということを校長先生がおっしゃった。社会にプラスするものになるということにその意義があるのだ。それがないということは、生きる資格がないということです。水頭症の子どもとか、脊椎破裂の子どもというものは、仁木さんもいらっしゃいますが、やはり足が不自由であっても、社会にプラスすることができるので生きる権利がある。それさえでき得ないと判断された場合には、人の範疇に入らないのではないかと私は考えます。そこでですが、小林先生がいま面倒見ていらっしゃるお△128 子さんのなかで、この子が生きても社会にプラスするところは、一ミクロンもないと思われるお子さんがいらっしゃいますか。
                  小林 おります。しかし、明らかに育ててよかったと思うことがずいぶんあります。
                  水上 それは健康な五体そろったものが感情として言われることであって、社会にプラスしないということはかわりないでしょう。
                  小林 社会にプラスするかしないかは考えません。
                  水上 先生にあずけられる前に処置しておいたほうがいいとはお考えにならないですか。
                  小林 その人たちを育てるのは、本来は国がやるべきことです。重症心身障害者はほんとうに生きる屍です。泣く声もたたない。しかし、私は人間として生きているものは生きさせるほうが正しいであろうと考えます。

                  ・・・
                  石川 あるクリスチャンと議論して、ぜんぜん世間に対してプラスにならない人間はヒューマニズムを適用する必要ないんじゃないかという話をした。ところが、相手はぜんぜん世間に対してプラスにならないナマコみたいな不具廃疾の人でも、その看護をして生活している周囲の人たちが、天の啓示を受けることがあるというのです。
                  小林 たしかにそうです。
                  石川 しかしその場合は、人間じゃなくてほかのものだって啓示は受けられる。そういう議論をしたのですがね。
                  小林 そこで生まれた時に奇形がわかれば、安楽死をとお考えかも知れませんが、私はそれは安楽死という言葉じゃない気がするのです。生まれたばかりの赤ん坊は、むしろ両親、家族のほうが苦しんでいるので、自分たちの精神安定のために、行なった犯罪、人殺しになってしまうという気がするのです。

                  ・・・

                   

                  それとこの座談会読んでたら当時というか70〜80年代ぐらいまで「このさき奇形児は増えていく」という未来予想図が共有されてそうだ。今そういう増えていく子どもの病気のイメージはアレルギーだと思うのだけど、1960年代ぐらいだとまだアレルギーのお子さん少なかったとみられ、山田真の何かの本にも「昔アレルギーは珍しくてそういう子どもは群馬大学でみてもらってた」みたいなこと書いてたので松村龍雄先生ぐらいしか研究してなかったと思われる。

                  そのかわりサリドマイドベビーはじめ薬害、公害、食品公害でよく赤ちゃんが障害をもって生まれてきてた。高度経済成長で急に大量生産大量消費で化学物質汚染な時代になったもんで、食品添加物に催奇性が。界面活性剤で奇形児が。・・という三一新書でオバタリアンな告発も今以上に真実味があったことだろう。

                   

                  障害者基本法・第三章障害の予防関連 「不幸な子どもの生まれない県民運動」についての資料

                  http://www.j-il.jp/antisongenshi/onouesiryou01.pdf

                  ★『不幸な子どもの生まれない施策  通ちょう集(第一輯改訂版)』1967年より

                  しあわせを求めて(当時の兵庫県知事) 

                  ひとりで食べることも 

                  歩くこともできない 

                  しあわせうすい子どもが 

                  さみしく毎日を送っています 

                  「不幸な子どもだけは生まれないでほしい」 

                  母親の素朴な祈りそれはしあわせを求める 

                  みんなの願いでもあるのです 

                  あすの明るい暮らしを創造するために

                  「不幸な子どもの生まれない施策」を/みんなで真剣に/進めてまいりましょう

                   

                  ★『不幸な子どもの生まれない施策  2カ年間の歩み』1968年より

                  はじめに(当時の兵庫県衛生部長) 

                  次代を背負う子どもたちが心身ともに健やかに生まれ、かつ、育てられることは、すべての“しあわせ”の根元であり、みんなの切なる願いであります。

                  しかし、このような願いにもかかわらず、知恵おくれや身体障害など薄幸な子どもの生まれる率は案外に多い現状です

                   

                  このように、障害=不幸、あるいは「あってはならない存在」とする障害者観がまかり通っていた時代の中で、心身障害者対策基本法 第二章・障害の発生予防の章が設けられたことは、紛れもない事実である。

                  また、自治体レベルでのキャンペーンだけではなく、国レベルでは1973年には優生保護法の改悪(反対運動にあい廃案)も進められようとしたことも。忘れてはならない歴史的な経過である。

                   

                  「不幸な子どもの生まれない運動」は兵庫県において1966年から1972年にかけ出生前診断を奨励した。上のニュース画像で判別できる限りでは血友病、ダウン症、軟骨異栄養症、フェニルケトン尿症などの病名が読みとれる。

                  ポリオ撲滅に尽力した上田哲の動画でも「ポリオはなくなりましたがサリドマイドベビーや脳性小児まひ、奇形の子どもが生まれています」「子どもの不幸をなくす努力をしなければなりません」と言ってた。1960年代まではお子さんに障害があることがわかったら中絶しましょうって大ぴらに推奨されてたのだろうし、病気が遺伝するって可能性があったとき「不幸な子ども」が生まれてこないよう不妊手術もしてた。

                  出生前診断は障害者運動はもちろんのこと自然なお産や胎内記憶にも「命の選別」を批判しているふしがあるが、いっぽう母に中絶の権利もあるので今でも議論になってるようだ。後者の不妊手術のほうはハンセン病はじめたぶんここ10年ぐらいでクローズアップされるようになってて、勝手に手術させられた人が国を相手どって裁判したりしてる。

                   

                  『バイオ時代に共生を問う――反優生の論理』

                  http://www.arsvi.com/b1900/8802fs.htm

                  ◆山田 真 19880210 「われらの内なる優生思想を問う」
                  古川他編[1988:137-165]
                  「自分の体内に宿した胎児の染色体に異常があると告げられた親は、そうした世の中の固定観念の中で将来を思いえがくのだ。そこでは「障害児と共に歩む不幸な人生、周囲から迷惑がられ邪魔にされながら生きてゆく人生」といった悲しい未来像しか見えてこないだろう。そして目の前にいる医者は、たとえはっきり口に出しては言わなくとも、やはり同様の考え方を持ち、「このような不幸な子どもは生れてくるべきではない」と無言のうちに語りかけている。そのような状況にあって多くの親は結局胎児の生を絶つことを選ぶだろう。それはとりもなおさず「障害を持った胎児は殺せ」という、社会の要請にこたえていることになるのだが。
                  親たちがそのような選択をする時、優生思想は貫徹されるのであり、胎児診断に当った医師たちも「社会にとってお荷物になる人間」が一人増えることを阻止できたという点において犢饉雖瓩箸靴討稜ぬ海鯀瓦Δ靴燭海箸砲覆襪里澄」(山田[1988:161-162])


                  日テレっ子

                  0

                    24時間テレビほとんど見たことないけど、よく偽善とか障害者を見せ者にしてるとかで批判されてる。そういうのを読むかぎり、障害者に登山とかチャレンジさしてお涙ちょうだいな内容らしい。

                    何年か前ペットボトルのふたをリサイクルに回しポリオワクチン寄付するエコキャップ運動とやらがワクチンに使ってなかったと一部の新聞やテレビがあたかも詐欺事件のように報じ炎上したことがあって、ポリオってほぼこの世から滅亡してるし別に使い道ぐらい変えてもよくねぇか。と、エコキャップには同情したのだが、それよりペットボトルのふただけ集めるって手法に、缶ジュースのプルタブ集めてそのリサイクルで車いす買うっていう私が小中学生ぐらいのとき(30年ぐらい前)やってたエコ運動を思い出さずにはいられなかった。昔は缶ジュースのふたが缶詰みたいに切り離すタイプだったので、プルタブがそのへんに捨てられていたのだ。

                    プルタブと車いすとのあいだには何の関連性もなく、きっと道に落ちてるゴミをそんな素敵な用途に換金できたら良いよねという思いつきだったのが、その後プルタブが缶と一体化したにもかかわらずわざわざプルタブが引きちぎられることとなったうえに、いつのまにかペットボトルのフタに進化していたのだ。そしてなぜ車いすだったのかってのを考えたときにたぶん24時間テレビの影響だろうと調べてみると、やはり初回時のテーマが「寝たきり老人にお風呂を!身障者にリフト付きバスと車椅子を!」だった。

                     

                    24時間テレビ(1978[第1回])

                    https://www.youtube.com/watch?v=murnopbnUmQ

                    竹下景子「では、ご説明いたします。現在、日本全国にはねたきりのお年寄りや体の不自由な人が大勢いらっしゃいます。そのためにわたくしたちがこの番組をとおして何ができるか、ちょっとこちらをごらんください。まずこれは巡回お風呂カーです。ねたきりのお年寄りはなかなかお風呂にはいれないのだそうです。1,2年も入れない方はざらで、なかには10年も20年も入れない方もいらっしゃるそうです。このチャリティで集まったお金で巡回お風呂カーをプレゼントしたいと思います」

                    このときは障害者だけではなく寝たきり老人も救済対象だったらしい。さすがに寝たきり老人に登山や遠泳チャレンジ企画はないようで専用車でお風呂に入れてあげるとか言ってるのだけど、もはや20年風呂入ってないレベルだと皮膚の常在菌も風呂入らない状態に適応してる気がした。

                    湯船には毎日つかってたかもしれんけどこの時代ならシャンプーは普通の人でも週1,2回とかだろう。明菜ちゃんも花王ヘアケアまつりで「信じられる?ティーンの2人に1人は毎日シャンプーしてるって!」て言ってた。

                    「つぎにこれは電池で動く車いすで、体の不自由な子どもたちにプレゼントしたいと思っています。それからつぎにこれは車いすのまま乗り降りできるリフトつきバスです。このバスがありますと、いちいちこうして背負って乗り込む苦労がなく、体の不自由な方たちも気がねなく学校や仕事に行けるわけですね」

                    そういえばこれが放送されたのは青い芝の会の川崎バス闘争と同じ時期だった。脳性麻痺の人たちが家やコロニーに閉じ込められるのはもうごめんだとばかりに街へくり出そうとするも、移動手段であるバスに乗車拒否されたので抗議のため籠城して窓やハンドルを叩き割るなどした。

                    寄付の電話番号が「風呂に皆入る」。1をイルって読ますんかい。

                    今の24時間テレビにはたぶん出てこないだろう寝たきり老人って、有吉佐和子の小説「恍惚の人」(1972)の影響な気がする。Wikipediaを見るとその後も老人にくわえて途上国とか難民支援などのテーマが1991年にわたって続いてるのだけど、ダウンタウンがパーソナリティーの1992年にリニューアルされてて、この年に新喜劇やファンキーモンキーティーチャーなどで人気のあった間寛平のチャレンジをきっかけにマラソンが始まった。

                    私は24時間テレビ昭和と最近のは全然わからないがこのリニューアル時は覚えてて、赤井英和がマラソンしてた1996年あたりまではちょこちょこ見てたと思う。マラソンだけでなく「サライ」唄い出したのも1992年以降で、このリニューアルをさかいに「寝たきり老人にお風呂」「ストップ!ニッポン姥捨て時代!」とかいってたのが「夢」「愛」「絆」「勇気」「出会い」「キセキ」「チャレンジ」などとキラキラ化し、また2000年代からジャニーズがねじこまれだしてる。

                    くしゅくしゅソックス時代はバブルの狂騒をひきつぐいっぽう「夢」「愛」「絆」「勇気」「出会い」「キセキ」「チャレンジ」みたいな平成キラキラ自己啓発も始まっており、1991年大事マンブラザーズバンドの「それが大事」1993年ZARD「負けないで」などそれこそ24時間テレビで唄われてそうな応援ソングも人気爆発した。それが1995年にいろんな大事件でさまざまの不謹慎が自粛された結果、誰も傷つけないキラキラだけが生き残り環境問題や度重なる災害で注目されてくるボランティアという善行(の一部)もキラキラな24時間テレビ的チャレンジ精神に毒されてしまった。

                     

                    【HD・720p】世界ビックリ大賞 総集編 1989,12,31 OA 読売TV(YouTube)

                    https://www.youtube.com/watch?v=pA0YNErgIWM

                    私が子どもの頃すごいのっぽやら首長族などの奇習やら物珍しい人たちを世界中から集めた番組があった。この風船おじさんイズム詰まりまくったセット素敵すぎる。

                    どことなく世界残酷物語とか秘宝館の世界を彷彿とさせる。こういう昭和のセンスはルーズソックス時代をさかいに淘汰されたのではないだろうか。

                    シンディーローパーみたいな白人女性が全裸で男湯に乱入ドッキリ。風呂に皆入る。

                     

                    【HD・720p】木曜スペシャル 世界ビックリ大賞 PART 22 1993,10,07 OA(YouTube)

                    https://www.youtube.com/watch?v=FPKFTP1Y9dA

                    お下劣すぎ白人デカパイコーナー。ゴールデンタイムだろうに乳輪や尻うつってて古き良き時代。

                    1993年放送分になるとアナウンサーだいたいわかるし、松たか子の前にヤマザキパンの顔だった中村あずさ懐かしい。この字の感じと全身毛むくじゃら少年を局アナがたずねていくスタイルに特ホウ王国の原点をみた。

                     

                    日本一バストの大きい中学生(YouTube)

                    https://www.youtube.com/watch?v=1H5qKI6FzeY

                    投稿!特ホウ王国は世界ではなく日本国内のびっくりさんを投稿する番組で、やはりエロコーナーが存在した。毎週おなかがよじれるほど笑いまくってたのだけど超魔術とかいってたせいかルーズソックス時代のオカルト規制で見かけなくなってた手品師のマリックがくりまたすみ(←回文)名義で出演するころになるとつまらなくなってていつのまにか終わってた。

                     

                    特報王国 日本一大胆な水着で泳ぐ美女(YouTube)

                    https://www.youtube.com/watch?v=QSahBpelLZI

                     

                    お宝 【投稿!特ホウ王国】日本一短いスカートで通勤するOL パンチラ&お尻もチラリ!(YouTube)

                    https://www.youtube.com/watch?v=C2w2K6kIsWA

                     

                    投稿!特ホウ王国 「超大胆!オッパイで拍手をする女の子」(YouTube)

                    https://www.youtube.com/watch?v=DTeHTOZK04o

                     

                    特ホウ 日本一バストの大きい看護婦(YouTube)

                    https://www.youtube.com/watch?v=5tWd4AgKugs

                     

                    その後「世界びっくり大賞」は「世界仰天ニュース」として、スタジオに招いて見世物にするのから海外のドキュメンタリー流すことで、すごいのっぽやすごいデブだけでなく、整形失敗や事故で顔がめちゃくちゃになった人や拒食症、奇病など本来笑えない人までもがほとんどびっくり人間のノリで紹介されてる。昔はテレビっ子でいろんな番組みてたが平成最後は世界仰天ニュースの扇風機おばさん特集でしめくくった。

                     

                    2019年4月30日 ON AIR 扇風機おばさん死の真相に迫る(世界仰天ニュース)

                    http://www.ntv.co.jp/gyoten/backnumber/article/20190430_06.html


                    強いって何

                    0

                      昭和44年 武田薬品コマーシャル タケダ CM 1969(YouTube)

                      https://www.youtube.com/watch?v=HuethGrINfk

                      一社提供の「タケダアワー」があったせいか、昔の武田薬品はビタミン剤やいの一番など子供がターゲットではない商品にまでウルトラマンが使われてたりしてやや違和感がある。強力フローミンとやらは40代から飲む薬だそうで、この当時(1969年)はオバタリアン世代よりまだひとまわり上の大正生まれがターゲットだったらしい。

                      それにしても昭和においてはフローミンにかぎらず、強力パンビタン、強力チオクタン、強力メタボリン、強力ベンザ、強力パブロン、強力ルルゴールドというぐわいにビタミン剤や風邪薬などがやけに「強力」「ききめの強い」をうたっており、カルピスまでもが「強力ビタミン飲料」ていってるのだがいったいビタミンの何が強いというんだろうか。ベンザではないけど風邪薬の強力は死者が出たこともあった。


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