ビタミン

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    下のサイトを読むとビタミン剤やドリンク剤がブームになったのは東京オリンピックがきっかけとあるけど、日本人は米ばかり食べてるから欧米人のようにりっぱになれないっていう米オワコン説は戦後すぐぐらいからあるはずで、YouTubeで見た「今日からでも」っていうパンをゴリ押す茨城県映画が1952年だったし、「頭脳―才能をひきだす処方箋」の米を食べたらバカになる説が1958年、60年代にはキッチンカーが奥さまがたにフライパンを使った栄養ゆたかな料理を伝道しどっさりめしの弊害を説いた。ポポンやアリナミンの発売時から1964オリンピックの10年間ほどのあいだにチョコラ、QPコーワ、グロンサン、アスパラ、エスカップ、リポビタン、チオビタなど主要どころはだいたい出そろっている。

     

    ビタミン剤は体にいいことは何もない!(2017年1月24日 論座)

    https://webronza.asahi.com/science/articles/2017012000001.html

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    この論文は2013年12月にAnnals of Internal Medicine(内科紀要)という医学雑誌に掲載された 。これまで何年間もビタミン剤を飲み続けた人たちと飲んでいなかった人たちの健康状態を比較した多くの論文を集めて、その内容を検証したもので、科学的な信頼度は高い。あらためて考えてみると「ビタミンは体にいいから毎日飲んだ方がいい」という「ビタミン神話」には科学的根拠が不足していた。

    そもそもビタミンは病気の治療薬だった。ビタミンBは脚気の、ビタミンCは壊血病の特効薬であることはよく知られている。医薬品であるビタミンが処方箋なしに誰でも薬局で購入できる大衆薬に変身したきっかけは、1953年と54年に発売された総合ビタミン剤「ポポンS」ビタミンB1製剤「アリナミン」だった。これらはビタミン不足を解消して病気を予防することが目的だったのだが、次第に疲労回復や体力増進などに有効と信じられるようになり、病人ではなく健康な人が飲むようになった。その後、1957年にアンプル入りのビタミン剤がドリンク剤として発売され、1960年にはボトル入りのドリンク剤が売り出されて薬品が清涼飲料水感覚で飲まれるようになり、現在は健康食品としても販売されている。

    ビタミン剤とドリンク剤がブームになったのは1964年の東京オリンピックの影響といわれる。当時の日本人に比べて背が高く、立派な体格の米国選手が次々と金メダルを獲得し、日本人は米ばかり食べているから体力がつかないという説が広がって、子どもに「ご飯は残してもいいからおかずは全部食べなさい」という教育が行われたことを筆者も覚えている。また米国選手はビタミン剤を飲んでいるから健康で体力があるといううわさも広まった。こうして「ビタミンは体にいい」という神話が出来上がり、多くの健康な人が本来医薬品であるビタミンを日常的に飲むようになった。

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    わが国では一般人が白米を食べるようになった江戸以来より脚気に苦しめられ、国民病として年間1,2万人の死者を出していたにもかかわらず長らくその原因もわからないでいた。19世紀後半にはドイツで細菌学が勃興していたこともあってか伝染病説が幅をきかしていたようだが、明治末にはビタミンB1が脚気の原因と特定されこれがビタミンの発見となった。

    白米ではビタミンB1が欠乏するので、主食としてパンや麦、玄米などの優位性が説かれ、戦後にはビタミンB1を添加した「頭脳粉」を使った頭脳パンも各社から発売、袋には「頭脳―才能をひきだす処方箋」の著者である大脳生理学者・林髞博士の絵がえがかれた。今の時代、白米だけでごはん食べててもそうそう脚気にはならないと思うのだけども、昔の日本人はたぶん十分なおかずを食べていなかったのだろうし、それがアメリカ小麦戦略の入りこむ余地となったであろう。

    当初は脚気の特効薬だったはずのビタミンB1が脚気の患者が年間1000人を下回る1950年代後半より、頭が良くなる、パンのほうが偉い、また働きざかりなモーレツ社員の疲労回復・・てなぐわいに万能薬化している。それが今にいたるまで、タウリンとかアルギニンとかなんか有効成分にもいろいろあるけど結局のところビタミン剤や栄養ドリンクの栄養とはビタミンB群なのであり、しかもビタミンB自体そんなありがたがるような栄養素でもない。

    たとえばDHCのビタミンBサプリは一ヶ月分で250円であり、公式サイトによれば一日あたりではビタミンB1で40mgと一日の推奨量のおよそ40倍、ビタミンB2は30mgで30倍、ビタミンB6は水溶性ビタミンながら過剰摂取の弊害が報告されているそうで30mgと上限量こそ下回っているが、ともかくお手頃価格だからといってケチっているわけでもなく、むしろ現代人ってビタミンB欠乏してるんか?ということを考えたら入れすぎだろう。Wikipediaの脚気のページ読んでたら1970年代にジャンクフードばっかり食べて脚気になる奴がいた・・って書いてるけど、そのときに問題になったのか即席めんはビタミンBが添加されていることが多く、今私が買っておいてるカップヌードル肉だしうどんとチキンラーメンミニのパッケージの原材料と栄養成分表示みたところやはりいづれもビタミンB1とB2が0.2mg程度にカルシウムなど各種栄養が強化されているし、韓国のラーメンもビタミンB2はいってるのかたまにおしっこ黄色くなる。

    ただビタミンB2は栄養ってより黄色の着色料として添加されてるかもしれない。とりあえずよほどどっさりめしか妊婦でもないかぎりビタミンBの欠乏は心配しなくてよさげだし、またビタミンBは体に吸収される以上に摂取したとしてもおしっこになって排出されるだろうからいっぱい食べても意味なく逆にそれで健康を損なうってこともないと思われる。

    ビタミンBのありがたさは脚気患者の多かったビタミン黎明期および戦後の栄養全盛期の名残りでしかないというのがわが歴史観であり、ではなぜそのうえで今の時代にビタミン剤が好まれる根拠になってるかというと、ビタミンBは水に溶けやすくて体内に吸収されずらいから欠乏してるっていう前提があるらしい。ビタミンB1剤の代名詞的存在である武田薬品「アリナミン」はすべての商品にビタミンB1の吸収を助けるビタミンB1誘導体「フルスルチアミン」を配合している。

    ビタミンB1誘導体はニンニク由来であり、ニンニク注射というアリナミンの点滴?もあるそうだ。もともとニンニクでスタミナというイメージ自体はアリナミンが登場する前からあった。

     

    1960-70年代の保健薬批判―高橋晄正らの批判を中心に―

    https://www.r-gscefs.jp/pdf/ce09/ma01.pdf

    このような研究をしていた高橋が、保健薬の一つであるアリナミンの薬効に疑問をいだき、科学的に検証しようと思った契機は、著書『アリナミン―この危険な薬』(1971)のなかで次のように語られている。

     

    わたくしが毎日のように処方しているアリナミンについて、改めて系統的に勉強しなおして見ようと思い立ったのは、昭和40年(筆者注 1965年)のことだった。それが売り出されたのは昭和29年(筆者注 1954年)のことだから、10年以上のあいだ、わたくしは製薬会社の広告やパンフレットによって与えられてきた印象のままにアリナミンを処方してきたことになる。

    それは何もアリナミンに限ったことではなかったが、戦前には0.5ミリや1ミリのB1を大切に使用してきたのに、昭和29年ごろからアリナミンの5ミリ錠を1日3錠というように大量に使うようになり、それが37年(筆者注 1962年)ごろからアリナミンの大量療法といって1錠25ミリとか50ミリとかいう大量錠を1日に3錠も使うのが普通になってみると、そんなに大量に使って大丈夫なのかとふと心配になることがあった。わたくしのいた物療内科には神経痛、運動まひ、リウマチなどを患っている人が多く集まってきていたので、アリナミンの処方されない人はまれであるといっていいくらいであった。

    どの病気も、ときには治り、ときには治らなかったが、ビタミンB1は神経の栄養と関係があるのだという生理学上の常識を背景に踏まえて、誰ひとりそれを処方することの妥当性を疑う人はいなかった。(高橋1971b: 5-6)

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    高橋の主張によれば、唯一アリナミンが有効であるのは、ビタミンB1欠乏症の治療のみであるという。ビタミンB1欠乏症とは脚気のことを指し、明治から大正にかけては疲れが脚気を引き起こし、それはビタミンB1欠乏に起因するという常識があった。しかし、60年代にはビタミンB1欠乏という症状自体がほとんどなかった。ニンニクには強壮作用があるという印象が国民の間にあったため、アリナミンのニンニクを彷彿させるイメージが、人気に拍車をかけたといえるという。

    ビタミンB1誘導体の特徴は、高橋によれば次のようなものだという。ビタミンB1は生体の必要度に応じて吸収されるという性質をもつが、ビタミンB1誘導体は、ビタミンB1と比較して腸壁から吸収されやすく、体内に大量に吸収されて高い血中濃度を保つ。ビタミンB1誘導体は無限に生体内に「異常浸透」する危険な性質をもつと批判した(高橋ほか編1968; 高橋1971b)。これがアリナミンは有害だとされる科学的根拠の一つである。

    さらに高橋はアリナミンの大量療法を問題にする。アリナミンの経口投与による安全性は、人間で1日30mg弱までしか保障しえていない。しかし、60年代の医療機関では、1日150mg、300mgという大量のアリナミンが錠剤や注射で患者に投与されていた。10mg以上は吸収されにくいビタミンB1をアリナミンとして生体内に大量に取り入れるのは、人体にとって有害であるという。アリナミンの大量摂取は、ニンニク・タンパク質に対するアレルギーから、アナフィラキシーなどのショックや発疹を起こす危険がある。また、ニンニクの連用は貧血をおこすことが過去の研究で明らかにされているため、ニンニクと同じ成分が含まれたアリナミンにもその危険があるという。

    さきのグラフからも明らかなように、医療保険制度が導入された61年頃から、錠剤、注射液ともにビタミンB1誘導体の生産高は増加しており、医療機関では大量療法がおこなわれていた。製薬企業は、医療機関にはアリナミンの大量療法の効果を宣伝し、一般に向けては、健康維持のための連用を広告で呼びかけていた。

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    疲れをはねかえし タフなからだをつくる アリナミン! タフに活躍する世界のミフネ! 効果を強め治療期間を短縮する 大量療法を!

     

    ビタミンB自体は過剰摂取ぶんは体外に排出されていくけども、高橋晄正の批判によればアリナミン=ビタミンB1誘導体は無限に生体内に異常浸透し、くわえて大量療法といってかっては医療機関で大量に処方されていたのだという。二重盲検はもちろんやってないし過剰摂取て概念もなさそうなので、栄養はとればとるほど体にいいぐらいに思われてそうだ。

    アリナミンが健康被害を出したという話は知らないけど、この時代に特定の物質の過剰摂取でアレルギーを引き起こす危険性や二重盲検法の必要性をうったえていた高橋氏の主張はかなり先駆的だったのではないだろうか。なお高度経済成長期は薬害がよく起こっててアンプル入りの風邪薬で死亡者も出てた。

    昔は風邪薬やドリンク剤がアンプルで錠剤よりよく効くイメージがあったのだのだろうし、モーレツ社員であれば風邪なんかひいてる場合じゃないと大量に飲んでいたにちがいない。若人にはどっちかというと薬よりもライトなイメージのサプリメントやエナジードリンクの人気あるけど、アンプル世代の爺や婆はサプリだけではなくビタミン剤、ドリンク剤、点滴、注射といった「栄養」「薬」信仰が厚いってイメージだ。

    いづれにせよダルオモの原因は休息不足であって、ビタミンBの欠乏ではないはずだ。脚気が過去の病気となった現代社会において、ビタミンごときでや元気がみなぎったりお肌が美しくなるのか私はかなり懐疑的である。

    それでも飲むとすれば錠剤よりドリンクのほうがよい。なぜならヤクルトとかオロナミンCと同じで、薬効なくてもジュースとして楽しめるし飲んだときのリフレッシュされた感やカフェインによって偽薬効果が倍増するからである。

    あの茶色い瓶や量の少なさもありがたみの演出に寄与しているだろう。デカビタCがペットボトルで売られていることを考えると、ドリンク剤やオロナミンCの瓶ってアンプルの名残りなだけでじつは意味ないんじゃないかとも思ってるのだが。

     

    アンプル風邪薬事件

    https://www.cool-susan.com/2015/10/24/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E9%A2%A8%E9%82%AA%E8%96%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6/

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    日本各地でアンプル入り風邪薬を飲んで急死する事件が続発し、アンプル入り風邪薬による事件は連日のようにマスコミをにぎわした。新聞が報道しただけで3月4日までに死亡11人、累積死亡数は50人をこえた。大阪府医師会の調査では、アンプル入り風邪薬で異常をきたした患者は半年間で702人、そのうち62人が意識混濁、失神、呼吸困難、痙攣などの症状を示し、死に至らなくても多数の重症例がいた。

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    当時は、科学や医学の進歩を過信し、風邪は風邪薬で、しかも効きそうなアンプル入り風邪薬で治ると思い込んでいた。そのため各製薬会社は、粉末や錠剤の風邪薬をアンプル剤に変更した。アンプル風邪薬がより効果的との証拠は何もなかったが、注射を思わせるアンプルの首を割ってチュッと飲むと、何となく早く効きそうなイメージがあった。これは日本人の注射信仰を利用したものである。

    当時、「モーレツ社員」「ファイトで行こう」が流行語になっていて、風邪をひいたら注射ですぐに治してもらおうとした。高度経済成長の気分の中で「風邪などひいている場合ではない」という雰囲気であった。風邪でも何でも病院に行き、患者は「あの医者の注射はよく効く」、あるいは「注射を1本打ってください」と医師に注文するほどだった。

    アンプル風邪薬事件は、患者の特異体質と簡単に報じられていた。個人的な不幸な出来事ととされていたが、1カ月に11人の被害者が出たことから、マスコミが連日のように事件を報じるようになり、厚生省は重い腰を上げることになった。昭和30年2月19日、厚生省は大正製薬にアンプル入り風邪薬の広告と販売の自粛を要請。だが大正製薬の広報課長は「アンプル入り風邪薬は当社だけで9000万本を製造し、10年の実績をもっている。このような死亡事故は偶然が重なったせいで、厚生省の基準に従って製造したのだから問題はない」とコメントを述べ、厚生省の要請に難色を示した。

    この広報課長の難色発言がマスコミで大きく取り上げられ、アンプル入り風邪薬は社会問題へと発展していった。厚生省は責任が自分たちに及ぶことを恐れ、大正製薬、エスエス製薬に販売中止を再度要請、両社はこれを受け入れることになった。大正製薬は「強力パブロン・強力テルミック」、エスエス製薬は「エスピレチン」などのアンプル入り風邪薬を販売中止とした。

    アンプル風邪薬は販売停止となったが、薬局に置いてあるアンプル風邪薬を回収しなかったため、その後もアンプル風邪薬による死亡例が続発することになる。在庫を抱えた薬局が「在庫一掃大売り出し」を行っていたのだった。

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    風邪薬の副作用の大部分はピリンが原因とされているが、厚生省は「患者の体力が弱っている時に、早く治りたい一心から多く飲み過ぎたこと、他の薬剤との併用が原因ではないか」と述べ、悪いのは患者本人であるかのような発言をした。中央薬事審議会は「水溶性のアンプル剤は吸収速度が早いため、血中濃度が急速に上昇し、毒性が強く出たのであろう」と述べ、さらにショック死は「使用者の特異体質も原因」とコメントした。

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    厚生省の対応はかつてないほどの英断と評価されているが、製薬会社は大損害を被ることになった。そのため厚生省は回収が終えた時点で製薬会社を集め、今回の経緯について説明するとともに、損害を与えたことを陳謝している。この製薬会社への遠慮が、後に続くクロロキン網膜症の対応の遅れを作ったとされている。

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    60年代

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      パラリンピックって名称が使われ定例化しだした1964年の東京大会にあたっては高度経済成長期に所得倍増計画を打ち出したので有名な当時の池田勇人首相に車いすの選手をつれていって直訴するなどリハビリの先駆者であるストークマンデビル病院のグットマン医師や別府病院の中村裕医師が中心となって奔走し開催にいたったという経緯がある。そして東京オリンピック・パラリンピックと同じ1964年には障害のある娘を持つベストセラー作家の水上勉が「中央公論」誌で「拝啓池田総理大臣殿」と題した長い手記を発表してた。

       

      島田療育センター(Wikipedia)

      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%99%82%E8%82%B2%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

      東京の南多摩郡多摩村落合中沢というところに、島田療育園という重症心身障害児の収容施設があります。ここには約50人の盲、オシ、ツンボ、精薄、脳性マヒ、テンカン、奇形などの障害を、一身でいくつも背負っているかわいそうでみじめな子供が収容されています。こうした子供さんたちは、ダブル・ハンディキャップといわれて、人一ばい手がかかるために、一般の児童福祉施設や精薄児や盲、ロウアの施設などからしめだしをくったのです。ところが、ひとりの篤志家の決意によって設けられたこの施設に収容されることになったのです。「世の中には、重症心身障害の子を家にかくしてひそかに育てている人たちが、何万人いるだろう。むかしのように座敷牢に入れたり、まるで飼い殺しにするような状態から、何とかしてその子たちを救いたい」念願からこの療育園は出発したのだと園長はいっています。(略)

      ところがこの島田療育園に、現在まで政府が、どのような援助をなされたか、私が調べたところによりますとだいたい、次のようになります。昭和35年度4百万円。37年度6百万円。それだけであります。現在この療育園で、一児につき実費36万円かかるそうです。現在では合計2千7百万円の実費のかかる収容児をもっていますが、政府補助は、わずかに全費用の2割にしかなりません。療育園ではこの不足分をどうしておられるかというと、募金などに頼っているとの返答です。(略)

      総理大臣。私は、あなたに私の泣きごとをかいてみたかったのではありません。私は重症身体障害者を収容する島田療育園に、政府が、たったの2割しか補助を行っていないことに激怒したからです。政府が、今日までに、あのオシヤ、ツンボや、盲やかわいそうな子供たちが、施設からしめ出しをくって、収容されている療育園に、これまで助成した金は、2年間にわたってたったの1千万円でした。36年度に4百万円、翌年に6百万円でした。しかも、これは研究費というめいもくです。私が本年1年におさめる税金の1千百万円よりも少ないのです。私は、私の働いた金が、この島田療育園の子らにそそがれるのであったら、どんなに嬉しいかしれません。私ひとりの子でなく、私の子とおなじように歩けない子らの上に、そそがれる金であったら、私はどんなに嬉しいかわかりません。(略)
      — 水上勉「拝啓、池田総理大臣殿、」 [4][5]

       

      島田療育園は国に認可された初の重症心身障害児施設である。上記引用にある「ひとりの篤志家」とはパチンコ経営者の島田伊三郎であり、島田氏の息子は重い障害を抱えていたために夫人が介護に忙殺されていた。

      慶応病院の小林提樹の助言で重度障碍児をあずける施設の構想が芽生えて当初千葉県の土地を買おうとしたけど、現地住民の反対に会って多摩市になった。計画が進む中で島田氏の息子が事故で亡くなったり経営悪化で建設費が捻出できなくなるなど度重なる苦難のすえ、財界からの支援もあって島田療育園は1961年小林提樹を園長とし開設にこぎつける。

      しかし当時の児童福祉法では重症児が対象外だったために、社会福祉法人ではなく財団法人になった。財団法人は補助金が受けられず寄付にも税金がかかるため財政難となり、水上勉による告発「拝啓池田総理大臣殿」にいたっている。

      同じころ秋田県で島田療育園への入園を希望する17人ほどの重症心身障害児が人手不足のため受け入れを断られたのを秋田魁新報が報じたことで、同県の若い女性15人ぐらいが島田療育園に集団就職し彼女たちは「おばこ天使」と呼ばれた。おばことは秋田の方言で嫁入り前の娘さんみたいな意味らしい。

       

      https://www.amazon.co.jp/dp/B000JA7IKQ

       

      水上氏の告発が反響を呼んで、1967年から補助金が拠出されるようになった。その翌年には島田療育園に続き重症心身障害児施設の先駆けであるびわこ学園のドキュメンタリー映画「夜明け前の子どもたち」が制作されている。

      1968年は群馬県で国立コロニーのぞみ園の起工式だった。「拝啓池田総理大臣殿」「おばこ天使」で島田療育園の厳しい状況が知れわたるなかで重症心身障害者の終生保護を目的とする大規模なコロニー建設が具体的に検討されるようになり、1965年に厚生大臣の私的諮問機関として学識経験者17人からなる心身障害者コロニー懇談会が設置され、委員に島田療育園初代園長の小林提樹やびわこ学園の糸賀一雄、ソニーの井深大などが就任している。

       

      知的障害者の施設をめぐって 第8回 終生保護のための大規模施設コロニー(NHKハートネット)

      https://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/choryu/261753.html

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      障害者が暮らす村、コロニーの歴史は古く、欧米では19世紀末には、すでに千人を超える規模のコロニーが建設されていました。日本の施設のほとんどが自立生活の指導訓練のための100人にも満たない小規模な施設だったのに対して、コロニーは敷地内に、住宅、病院、学校、商店、農場、作業所などを備えた小さな町であり、終生保護を想定した大規模なものでした。一方、日本は、大規模施設どころか、終生保護を目的とする施設そのものが存在しませんでした。それだけに親亡き後の子どもの生活に不安をもつ重症児者の親たちは、欧米のコロニーにあこがれを抱いていました。

      しかし、欧米のコロニーは、障害者が一生安心して暮らせる居場所を確保する目的がある反面、障害者を一般社会から隔離収容するという負の側面ももっていました。この「保護」と「隔離」という二面性は、施設福祉の関係者の間でつねに論議となる問題です。とくにコロニーは「終生保護」を目的とするので、隔離の意図がなかった場合でも、結果として一般社会から隔絶した生活に陥ることが予想されます。日本でコロニー建設が検討されることになった1960年代、世界ではコロニー政策は人権の観点からすでに否定される傾向にありました。そして、施設は小規模化にすべきであり、できれば施設よりも地域で暮らすのが理想であるという考え方が広がっていました。

      日本のコロニー懇談会の委員たちも、そのような欧米の施設福祉の潮流は知っていました。そのために懇談会では、重症児者の親たちの終生保護を求める声に応えながらも、もう一方で障害者が一般社会から隔離されないように慎重に話し合いを進め、欧米の模倣ではなく、日本独自のコロニー建設をめざしました。

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      1968年(昭和43)には、群馬県高崎市で日本初の国立心身障害者コロニーの起工式が行われ、2年後の1970年(昭和45)に工事が完了し、翌年から入所が開始されました。名称は「国立のぞみの園」とされました。この国立コロニーの開園に前後して全国の自治体でもコロニー設置の計画が進み、さらに民間施設のコロニー化もはかられ、障害者福祉の世界ではコロニーブームと呼ばれました。

       

      コロニー建設の背景としては介護におわれる親への同情があったと思われ、人いちばい手がかかるのでどこも引きとってくれない「かわいそうでみじめな子ども」を早く施設に送ってあげないといけないし、1970年に親が脳性麻痺の子どもを殺害する事件が起こったときも減刑運動が起こっている。このような風潮に対する青い芝の会の反発はもちろんのこと、70年代も半ばになると施設職員の労働争議で島津療育園の小林提樹やのぞみ園の菅修が園長や理事長をしりぞくなど重症心身障害児の福祉政策は早くも岐路にたたされていたようだ。


      元テレビっ子

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        このブログの懐かしいカテゴリ生まれる前の話がほとんどなのであんまり懐かしくないのだが、今回はひさしぶりに懐かしいくしゅくしゅソックス時代を思い出すことにした。くしゅくしゅソックス時代とは1989〜1994年にJKがルーズソックスの原型みたいな靴下を履きだしたってことで私が勝手にそう呼んでおり、80年代と90年代もしくは昭和と平成の過渡期というつかみどこのない時代でジュリアナ東京やヘアヌード写真集など一時的に狂騒的なノリが支配してたのが、1995年のサリンやら震災やらで日本が鬱で謹慎ムードに転換するやいなや人々から瞬時に忘れられてしまった。

         

        はなきんデータランド 1993/12/3 名古屋テレビ放送分(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=TzM0fMr8XxM

        かってギャル雑誌にランズキってのがあってもともとはランキング大好きって誌名だったらしい。ギャルとランキングに何の関連性があるのかよくわからないのだけど、たぶんJKの流行がマスコミのお仕着せからストリートやクチコミへ移行するにあたって売れ筋ランキングっていうのが消費生活における重要な指針となっていったのではないだろうか。

        テレビ朝日系「はなきんデータランド」は1989年4月から1996年3月までと放送期間からくしゅくしゅソックス時代を象徴する番組だ。わがくしゅ時代の毎週金曜日は19時からドラえもん見てはなきんデータランド見てミュージックステーション(司会がタモリと生島ヒロシと有賀さつきの三人体制&ジャニーズ低迷期)と、前半戦はテレ朝2時間見てからいったん風呂入って22時からTBSドラマ(冬彦さんとか高校教師とか)からもぎたてバナナ大使てな流れだったと思うのだが途中から発明将軍ダウンタウンにくらがえしてはなきん見なくなった。

        しかし冬彦さんとか高校教師ってドラマのラインナップもだけど、書籍売り上げの第2位が完全自殺マニュアルってのもいかにもくしゅくしゅソックス時代らしい不謹慎さだし入水は嫌すぎる。当時は人権うるさくなりつつあったいっぽうでやけにエロだサイコだオカルトだと暴走してる部分もあり浅ヤンのヒッピーからヤッピーもちょうどこの頃だった。

         

        1993年11月17日 「ヒッピーはヤッピーになれるか」を考える会各位

        http://www.npokama.org/kamamat/bunsitu/kaze/hansei.htm

         

        「SOS」大雪山遭難事件 不倫女性焼身自殺テープ(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=18xRDnaOWew

        SOSってでっかい丸太で文字作ってそこに「SOS−崖の上で身動きとれずーー」って大声とミンキーモモの歌が入ったテープと声の主の遺体が発見された1989年の怪事件。9の字事件とかミステリーサークルとかもあったので、空からしか見えないでっかい文字ってのが不気味に感じられナスカの地上絵にまでガクブルだった。

        遺体は1984年から山で遭難してた当時25歳の会社員だそうで、もうその頃から成人男性ミンキーモモみたいな幼女アニメ見てたってことだ。1984-89年とちょうど私の中でオタクおよびロリの市場が巨大化してくると位置づけてるバブル時代のあいだ行方しれずで、ぐうぜんにも史上最悪のロリ事件を引き起こしたほぼ同世代の宮崎勤が逮捕されたのと1日違いで発見されたってのが今思うと平成幕開け感ある。

        幼女アニメといえば1992年3月からセーラームーンが始まってて、私はもうマンガとか読んでも白鳥麗子とかだったんで世代じゃないんだがむしろ男子が見てた。だからミンキーモモといいセーラームーンといいエロではなくもともと幼女向けに作られたようなかわいらしいアニメキャラがオタクの心わしずかんでた部分もあるのもしれない。

         

        風船おじさん Part(1992年4月20日)

        https://www.youtube.com/watch?v=yh2KXz6Io2w

        風船を気球みたいにして飛び立ったおっさんがいてけっきょくそのまま行方不明になった。SOSやミステリーサークルのような空からしか見えないでっかい模様・・が怖かったいっぽうで風船おじさんや伝書鳩のような空へ飛び立っていくものにはなみなみならぬ憧れを抱いており、手紙つけて飛ばした風船に返事が来た人とかがすごいうらやましかったし、昔ギリシャのイカロスがロウで固めた羽で飛び立ったけど太陽熱でロウ溶けて墜落したっていうよくわからん歌も好きだった。

         

        キラキラネームのはしり 悪魔ちゃん命名騒動(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=d0be3gr8m3Y

        自分の子どもに悪魔って名前つけようとした人がいてすごいニュースになってた。1993年なので前述の完全自殺マニュアルやヒッピーからヤッピーとかと同じ年だ。

        なぜかこのニュースのバックに「ぼくたちの失敗」が流れてるのだが、ドラマ「高校教師」がヒットしたのも1993年であり、ついでにいうとジュラシックパークに端を発する恐竜ブームやジュリアナのTバックギャルもこの時期だった。それにしても昔のワイドショーていかにもおばはんが見る番組って感じで、東海林のりこや福岡翼などオバタリアン世代の芸能レポーター(当時50代ぐらいか?)が活躍してたのだが、この年に2時のワイドショーがTHEワイドになったあたりから有田芳生を筆頭にコメンテーターが多くなってきて、「おはようナイスデイ」も「ルックルックこんにちは」もオバタリアン世代の高島夫妻がなんにでも味の素かける「ごちそうさま」もなくなりさまざまな健康食品を世におくり出した午後はまるまる思いっきりテレビというオバタリアン番組までいつのまにかヒルナンデスになって、オバタリアン絶滅期に入った今なおオバタリアンのノリでがんばってるのはテレ朝ぐらいになった。

         

        本木雅弘 「東へ西へ」  【1992年 紅白歌合戦】(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=_CSCrcQ5A0s

        パートナーシップ条例が始まった頃ぐらいだったろうかジェンダーレス男子やGENKINGを人気者に仕立て上げようとするなど今にいたるまでマスコミがLGBTって概念を謎に激推し続けてるのだけど、くしゅくしゅソックス時代にもゲイとか女になった男が頻繁にとりあげられており、そのきっかけになったのが1988年に「笑っていいとも」でやってた「Mr.レディー&Mr.タモキンの輪」だったらしい。まだ当時は今ほど人権意識高くなく保毛尾田保毛男の例もあるようにホモとかおかまとか呼ばれて、くしゅくしゅソックス時代特有の呼称としてミスターレディてのもあったのである。

        ボディコンギャル顔負けの美貌を誇ったミスターレディたちも、1995年以降はコギャルの勢いの前にかすんでしまったのかルーズソックス時代はそこまででもなかったのだが。またゲイ、セックス感染のイメージが強かったエイズも、川田龍平が1995年3月実名公表して以降は薬害事件として話題になることのほうが多くなっていった。

        くしゅくしゅソックス時代は治療法がなかったのでキース・ヘリングやフレディー・マーキュリーなど著名人も亡くなり死亡不可避なゲイの病ってイメージが強かった。バブル時代は日本人の患者が判明するなどエイズのパニック期だったのが、90年代初頭にはコンドームでセックス感染予防しようという啓蒙がさかんに行われ1993年にコンドマニアっていうコンドーム専門店がオープンし同じ年にアクトアゲインストAIDSっていうコンサートが始まる。

        しぶがき隊が解散し「シコ踏んじゃった」って映画に出るなど俳優業で売れっ子になっていったくしゅくしゅ時代の本木雅弘も、1992年末の紅白歌合戦に出演したとき白い汁の入ったコンドームを首のまわりにいっぱいつけた衣装と巨大コンドームを手にエイズ撲滅をアッピールした。化粧し尻も見せていたので、ゲイを意識したパフォーマンスだった気がする。

         

        「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>(2014年04月7日 地球人スピリットジャーナル2.0)

        http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/osho19927-9a87.html

        ・・・

        帰国後、OSHO著作の装丁も手掛ける女性画家Maミーラが来仙して「アート・グループ」のワークショップが行なわれ、また7年振りに新譜「ニライカナイ・パラダイス」を出したSwウパニシャッド(喜納昌吉)のコンサートが仙台生年文化センターで行なわれ、静かな北日本でもOSHOのムーブメントは深くその渦を広げて行った。

        ・・・

        その後Swウパニシャッドは、芸能人の国民歌手としてのステータスである91年歳末NHK紅白歌合戦にOSHOの大きなサインを胸につけて登場し、ヒット曲「花」を歌い上げ、最後に世界に向けて「ヤフー!」とOSHO流の挨拶を送って新しい年と新しい時代の幕開けを宣言した。

         

        くしゅくしゅ時代の紅白といえばもっくんの前の年に喜納昌吉も出てたらしいのだけどこれは全然覚えてない。もうこのころJ-POPの脱歌謡曲化が著しいしジャニーズなどアイドルもパッとしなかったので紅白は低迷期に入ってると思う。

         

        MJ 井上陽水特集(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=PE5sKkKkkLQ

        遠恋発祥やチャゲアス「YAH YAH YAH」で殴りに逝くって歌われたフジテレビ系の歌番組MJ(ミュージックジャーナル)司会は夜のヒットスタジオと同じ古館伊知郎のほかに加山雄三と田中律子もいた。動画は井上陽水特集でバックに1972年発表の「東へ西へ」が流れてたけどこの曲は栄養ドリンク「リゲイン」CMで24時間戦えますかの次にやってた本木雅弘バージョンにてカバーされててさっき書いたように紅白にも出た。

        MJは短命番組ながらけっこう印象に残ってるので電光掲示板とかFAXガールとか懐かしいすぎる。くしゅくしゅソックス時代の毎週水曜日はドラゴンボールZやらんま2分の1のアニメにやまかつ、木曜日はクイズ年の差なんてと世にも奇妙な物語にみなさんのおかげですと水・木にかけてフジテレビ率高かった。

         

        アニメ 「YAWARA」 - 第1話 & 第2話(YouTube)

        https://www.youtube.com/watch?v=-aHF3IQsShs

        1989から1992年にかけ日テレ系で柔道のアニメ「YAWARA!」が放送され主題歌のミラクルガールもヒットした。主人公の猪熊やわらという女の子がおかっぱ頭だったために、当時の有力選手だった田村(谷)亮子がモデルなのかと思っててじっさい田村選手もやわらちゃんって呼ばれてたのだけど、いくらマンガとはいえ顔違いすぎて戸惑った。

        しかし今しがたWikipedia見たところマンガのYAWARAが先にあって田村氏のあだ名がやわらちゃんになったと書いててようやく事情がのみこめた。同じころにあったちょっとエロい漫画ぷりんせすARMYの主人公もおかっぱの柔道少女で、つまるところ1992バルセロナオリンピック時のやわらちゃんブームはすごかったのである。

         

        これは動画じゃないのだけどくしゅくしゅソックス時代はレンタルビデオ全盛期だったように思う。くしゅくしゅソックス元年でもある平成元年、昭和天皇崩御で幕開けたためにテレビが自主規制し人々は見るもんなさすぎてレンタルビデオに押し寄せたってな話もよく語られるところである。

        邦ちゃんと西田ひかるの「山田ババアに花束を」、同時上映だった野島伸司脚本で島崎和歌子と大江千里「スキ!」いづれも映画ではなくビデオレンタルで見て好きな作品だった。しかし邦ちゃん「年の差なんて」「必撮ビデオあんたが主役」「もぎたてバナナ大使」など司会業をはじめお笑いに歌にと活躍しマクドナルドのカレーライスのCMもやってたのがルーズソックス時代をさかいにテレビから姿を消した。


        日本アイドル史

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          評価:
          南沙織
          Sony Music Direct
          ¥ 1,750
          (2013-04-10)

          けっこう前に思いつきで1984年ごろの世相をまとめた記事を書いてて、当時「投稿写真」など投稿系雑誌があいついで創刊されたこともふまえてカメコ全盛期な気がしたのだけど、もしかするとアマチュアエロ写真文化が出てきた背景に篠山紀信のアイドル写真の存在があったのかもしれない。1974年に創刊されたゴローって雑誌があり創刊翌年から「激写」ていう篠山紀信がアイドルとか撮ったシリーズやってたらしい。

          Wikipediaによると激写の第一号が山口百恵であり、1979年には「激写・山口百恵」てNHK特集も放送されてたと書いてて、あゝその番組NHKアーカイブスで見たことあるな・・って思い出した。激写の人気を受け1980年に篠山氏をメインとした写真雑誌「写楽」もあったとのことだが、こちらは1985年末に発売された号をもって休刊している。

          激写が今の激安とか激ウマみたいな激○の元祖らしいのだが、激写というと何かスキャンダル写真みたいな感じがするし、私の世代だと篠山紀信はサンタフェなど狂乱の平成初期におけるヘヤヌード写真集のイメージなのだった。しかし少なくとも1970年代すでに芸能人のお色気グラビアで篠山氏は他の追随を許さぬ地位を築いていたとみえる。

          男は60年代からジャニーズとかグループサウンズとか団体いたけど、女は今イメージするところのミニスカートで可愛い系みたいなアイドルが出てきたのって、1971デビューの天地真理、小柳ルミ子、南沙織、1972デビューの麻丘めぐみ、アグネスチャン・・など、高度経済成長終了後の話ではなかろうか。前述の山口百恵は1973年に歌手デビューしてて、日テレ「スター誕生」で合格した森昌子と桜田淳子の3人で「花の中三トリオ」って呼ばれてたらしく、団体としてはキャンディーズも同年デビューだった。

          GORO誌が創刊された1974年とは、そうした女アイドルが出そろったタイミングである。雑誌グラビア自体はそれまでもあっただろうけど、激写が今に通じるアイドル文化を形成していた部分は大きかったにちがいない。

          昭和における水着グラビアとしては東レやユニチカなど化学繊維メーカー、水専用ファンデーションやサンオイルといった化粧品キャンペーン、あとクラリオンガール、JALなど夏や海に関する広告のイメージが強いが、グラビアアイドルの元祖的存在は激写シリーズが始まった同じ年、エメロンのCMをきっかけに爆発的な人気を博したハワイ出身のアグネスラムとみられる。その顔立ちを見る限り、もう70年代も半ばになると欧米への憧れもひと段落してるのか外国人モデルでもめっちゃ掘り深いって感じでもなく、少女漫画でもお目目キラッキラにしなくなってきて、前田美波里がサンオイルのモデルやってた時代に比べたら美形な欧米人顔やつけまつげバチバチのデカ目メイクよりさっぱりとしてかわいい顔が好まれるようになってきたのではないだろうか。

          またアイドル歌手、グラビアアイドルのほかにも古い日本映画とか見てたら秋吉久美子、原田美枝子、森下愛子、風吹ジュン・・あたり脱ぎまくってるイメージがある。時期的にそういう若手女優が激写の被写体になることもあったはず。

           

          大場久美子 オリンパス OM10 CM 1979年(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=uRDsv53kaBY

          大場久美子は静止画のようにじーとこちらを見据えているのだが、おもむろに首からかけてたタオルをとるとビキニ着ててドキっとした。この1979年のオリンパスのCMは、俺も激写みたいに可愛い(のにおっぱいでかい)女をちょっとエロいい感じに撮ってみてぇというアマチュアカメラのロマンが醸成されつつあったてことなのかもしれない。

           

          【懐かしいCM】ミノルタ X-7 - 宮崎美子 YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=LgKc-oJc1R0

          翌1980年にはミノルタのCMで宮崎美子が人気爆発。大場久美子と同様ちょっとミュージックビデオっぽい構成である。

           

          早見優 PENTAX CM 1980年代(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=aziNa2GzV5w

          1982年ペンタックス早見優。テクノ時代のカメラCMはいづれも水着のおなごの可愛い一瞬をカメラマンきどりな男が撮っているって点でどこか激写的なのだけど、もういっぽうで盗撮の機運も高まりつつあった。

          冒頭でも書いたように1980年代半ば投稿系雑誌の創刊が相次ぎミノルタα7000が発売されてることをふまえ、バブル時代(1984-88年)はカメコ全盛期ってブログにまとめてたけど、下記サイト読んで私の歴史観も意外と正しいと思った。文中に出てくるセクシーアクションって固有名詞を画像検索すると80年代の盗撮文化がかいま見える。

           

          『投稿写真』のあったころ 第1回(WEB本の雑誌)

          http://www.webdoku.jp/column/ohashi/20091015_122539.html

          ・・・

          読み物の内容もさることながら、「投稿」雑誌を「投稿」で成り立たせるためには、当然、多くの質のいい投稿者が存在しなければならない。今でこそ、携帯電話についているカメラでさえ、誰でもプロ並みの写真が気軽に撮れるようになったが、'80年代の頃の一眼レフカメラは、専門知識を持っているプロかマニアの使う高価な機材で、一般人の使うカメラといえばコンパクトカメラが主流。しかし、コンパクトカメラで撮った画像では、大伸ばし(ちなみに「セクシーアクション」はA4判、「投稿写真」はA5判)に耐えるだけの解像度が足りなかった。

          コンパクトカメラを使ってネガフィルムで撮られた写真は、せいぜいキャビネ判までが限界で、見開き大で使用するには、一眼レフで撮った画像でなくてはならない。幸い、アクション写真を撮る投稿者達は、セミプロ並みのマニアもいて、一眼レフで撮った作品を投稿してくれていた。(今だから書けるが、犯罪的な盗撮写真のほとんどは実はヤラセで、プロのカメラマンが撮っていた。1ページ大、もしくは見開きで掲載されるスクープ的盗撮写真は、99.9%プロの作品だ。残りの0.1%が本物だったことでいろいろなトラブルも起きるのだが、それは本題に譲る)
          だが、写真を送ってくる投稿者の多くがアイドルファンもしくはマニアであるアイドル写真ともなるとそうそう簡単にはいかない。彼らが好きなのはアイドルであって、写真を撮ることではないのだ。投稿料目当てで、通常のアクション写真よりアイドルを被写体にした方が掲載率が高くなるからと、鞍替えするセミプロの投稿者もいるにはいたが、アイドルマニア達は、カメラ技術となるとシロウト並みがほとんどだった。

           

          『投稿写真』のあったころ 第2回(WEB本の雑誌)

          http://www.webdoku.jp/column/ohashi/20091022_123910.html

          そんな状況の中、ハード面からの追い風が吹く。'85年に発売された世界初のオートフォーカス(AF)一眼レフカメラ「ミノルタα-7000」だ。この本でカメラの歴史を語るつもりはないので、スペック的な解説は省くが、このカメラの出現はアマチュアカメラマン業界に産業革命的な衝撃を与え、その後、大手メーカーのニコン、キヤノンもAF市場に参入し、一般人への一眼レフカメラの普及は、一気にドカーンと広がった。アイドルファン達も例外ではなく、カメラ小僧(「投稿写真」では"カメラBOY")と呼ばれるアイドル写真マニアを大量に生み出す原動力となった。

          同じ'85年4月、CX系で「夕焼けニャンニャン」が放送開始、スタート直後はそれほどパッとしなかったものの、デビューシングル「セーラー服を脱がさないで」がヒットするや瞬く間に空前のおニャン子ブームを巻き起こす。その裏で「あざとい」と称される秋元康のプロデュース法が、82年組ではなしえなかった多くのファンとマニアとオタクとカメラ小僧達を大量に生み出すこととなった。

          ・・・

           

          今ショッピングモールで唄ってるアイドルだと至近距離で見れるしスマホの画質いいのだけど、昔のアイドル営業はけっこう距離もあって一眼レフでないときれいに撮れなかったようだ。そしてアイドルは見せパンではなくガチのパンツはいてたのと、パンチラ写真が雑誌に掲載されると報酬が出るため読者はそれ目当てで投稿してたてことでα7000以前はアクション写真(盗撮)とアイドル写真は別ジャンルだったらしいこともわかった。

          昭和50年代グラビアアイドルというジャンルと水着のかわいこちゃんを篠山気取りの男が撮るって設定のカメラCMだが、水着といえば1960年代からあったらしいアイドル水泳大会もまたカメコの標的になっていった。しかしWikipediaによるとアイドル水泳大会は1998年に終わってて、これはギルガメッシュナイトやA女E女の終了時期と同じなので鬱で自主規制なルーズソックス時代さえなんとか生きながらえていたお色気番組もこの時点でいったん滅亡してる。

           

          火曜ワイドスペシャル 第12回 オールスター寒中水泳大会(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=fgR87VpTU9s


          90年代はアイドルと歌謡曲の低迷期で、途中SMAPやTOKIOや近畿が頭角あらわしてジャニーズすごい盛り返したけどそれもどっちかというとアイドルの型を破るという方向性なので80年代に比べるとバラエティや俳優業に重心置きだしたのであり、女にいたってはアイドル感あった売れっ子て広末ぐらいだろう。だが2000年代に入るとサラ金のCMやイエローキャブや真鍋かおりといった水着だけでなくバラエティもこなすルーズソックス世代のグラビアアイドルが次々と出てきたうえ、モーニング娘が後藤真希加入で路線変更して以降アイドル文化が復活してきて今に至る。

          ロリもおそらく宮崎勤の時代から自粛傾向にあったろうしそもそも90年代においてトレンドではなかったと思うのだが(12歳とかでデビューしていた島袋寛子や福田明日香は高校生ぐらいにしか見えなかったし加護ちゃんもやはりデビュー当時はヤンキー娘って感じだった)、2000年代初頭ミニモニや小倉優子が出てきたり昭和歌謡が再評価されてくるあたりが契機となってオタク文化が80年代の様相に戻ってきた気がする。その頃になるとインターネットもだいぶ充実してきたのでパンチラどころかヌード写真の顔部分だけアイドルに挿げ替えたアイコラ画像もよく見かけた。

          いきなりK-POPの話になるのだけど、少女時代が日本に伝来してきたとき日本人から見ていろいろとアクが強く衣装としては股上の深いショートパンツをはいていることが多かったのだが、Apinkという可愛い系ガールズグループの「NoNoNo」(2013)や「Mr.Chu」(2014)あたりからまるで日本のJKみたいなミニ丈のプリーツスカートをはきだし、2015年に日本人メンバーも在籍しているTWICEがデビューしてからは日本ぽさはより顕著なものとなった。K-POPといえばダンスなのでプリーツミニスカートをはいていればパンチラ(実際はズボンだろうが)は必然であり、また日本風グラビアを撮るのでロリコンきめぇと議論をかもしているロタというカメラマンもいた。

          幼い顔に爆乳なグラビアアイドルの篠崎愛が人気出たし、おニャン子クラブでカメコ文化に一役買った秋元が韓国アイドルプロデュースしTWICEやIZONEの日本人メンバーによってK-POPが一部アニメ声で唄われてることもあり、今じゃすっかりセクシー路線が下火な韓国もだんだんロリ・水着・パンチラ・セーラー服といった奥ゆかしい日本的エロが優勢になってくるような気がしてならない。カメコってことでいえば女アイドルに限らず韓国は肖像権(というかアイドルの人権自体が)すごいゆるいらしく今時点でも移動中やら歌唱中に撮られまくってて歌番組で客席が写るとスマホはもちろんすごいレンズで撮ってる人もいる。

           

          韓国のマスターの意味や特権は何?どうしたらKpopアイドルに認知される?(ヨネマルの韓国大好き!)

          https://yonekorea.com/1299.html

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          でも機会があれば見てほしいのがマスターさんの撮影テク!!!!良席になった時に周りに黒色&袖ゆるめのワンピースがいたら、恐らくマスターさんですwマスターさんは画質にこだわるので、一眼レフを構えていることが多く、更にレンズの長さがハンパない。スタッフの目をかいくぐって撮影→即座に服に隠すという神業を持っています。ちなみにでっかいカメラが大砲のように見えることから、大砲ヌナ(大砲お姉さん)とかバズーカーヌナ(バズーカーお姉さん)と呼ばれますwww

          見た目は…そう、ジブリのカオナシ的な感じ(笑)え、そのカメラどこから出てきて、どこに消えたの!?と目を疑いたくなります。


          スポーツ

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            ワクチン忌避運動とも関係ある障害児を普通学級へ全国連絡会のサイト見てたらオリンピックおよびパラリンピックに否定的な記述があった。東京オリンピック協賛してる何かの企業CMで障害者スポーツがうつってインクルーシブがどうのこうの言ってるのも見かけたけど、障害児運動の急先鋒としては障碍者どうし戦わすより健常者が配慮し皆いっしょに楽しくスポーツできるようにするのがインクルーシブじゃないのかい。ということなのかもしれない。

             

            悩み相談 Q & A(障害児を普通学校へ・全国連絡会ホームページ)

            http://zenkokuren.com/soudan.html

            No.8 プールに入れてもらえません
            ■ 質問

            ,むつをしているからとプールに入れてもらえません。
            ⊆屬い垢了劼蓮危険だからプールに入れないと言われました。
            ■ 答え

            今年もプールに入れてもらえないという相談がいくつかきていて、まだ日本の教育はこんな程度かとがっかりします。パラリンピックの成功を言う前に、プールに入れない子を入れるようにすることのほうが、よほど大事な行政の役目だと思うのですが…。

            学校は、教育をするのが仕事で、教育を受けさせないということはあってはいけません。障害者権利条約では他の子(人)と違う扱いを受けることが「障害」であり、その「障害」を除去するための配慮が「合理的配慮」であると言っています。つまり、この場合、子どもがみんなと一緒に入れるようにすることが「合理的配慮」なのです。入れさせないことではなく、入れ させることが管理者の責任です。

            おむつをしている子は水をよごすというのであれば、おしっこも汗と同じ成分ですから、汗をかく子も入れさせられません。うんちは、確かに大腸菌に問題がありますが、実はどの子にもおしりにうんちはついているわけで、その子だけが拒否される理由にはなりません。つまり、おむつをしている子がプールに入ってはいけない理由は何もないのです。

            「車いすの子は危険」についても同じです。危険は、どの子にもあるわけで、すべての子について、どういう危険があり、そのためにどういう手立てをしようとしているかを学校は明らかにしなければなりません。車いすの子だけ手立てができないというなら、それは明らかな障害による差別です。

            ・・・
            No.9 宿泊行事に親が付き添うように言われそうなのですが
            ■ 質問

            中学生です。近く、宿泊行事があります。今、学校に呼び出されています。宿泊行事で付き添うように言われそうです。親としては付き添いたくないのですが、どう返事をしたら良いでしょうか。
            ■ 答え

            「行きません」と、はっきりことわりましょう。

            宿泊行事も、学校教育の中の一つです。何らかの事情で手助けが必要な子もいます。かりに「障害」があって手がかかる、安全上心配、医療的ケアが必要であるなどの子もいるかと思いますが、それは、親がすることではありません。学校や行政が、人手を増やす、看護師を配置するなど工夫してその子がみんなと同じように参加できるように配慮しなければなりません。ですから、もし、その手立てができなくて親に頼むとするなら「大変申し訳ありませんが、今度の宿泊行事にどうしても人手を増やすことができないので、おうちの方に行っていただけないでしょうか」と、頭を下げてお願いする話です。

            もっとも、予算がないとか人手がないというのは、親に付き添わせるための口実でしかありません。オリンピック、パラリンピックにどれだけのお金を使っているかということを考えれば、子ども一人の宿泊行事に対応するぐらい、やる気さえあればできることです。子どもの権利条約(2条・23 条)にも、障害者権利条約(24条ほか)にも、そして憲法にも障害児(すべての子に)に対して教育、学習参加は保障されなければならないと書いてあります。それをしないのは、行政の怠慢でしかありません。他の子には親の付き添いを要求しないで、障害のある子だけに付き添いを要求してくる、これはあきらかな「障害による差別」です。

            ・・・

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/4880496537

             

            もともと国を背負ってるってとこから障害者運動に限らず、左翼はオリンピックやパラリンピックに対して否定的な傾向が強いように見受けられる。上の本ちょっとだけ読んだことがあって、オリンピック・パラリンピックという健常者と障害者の分けについては、だんだん義足とかの能力が上がってきてるので将来的にオリンピックの記録を超えるかもしれなく、健常な足を持った人がわざと足を切り落とすこともなくはないと指摘されてた。

            さすがに足切り落とした人はいないと思うけど、スポーツの世界において国や性を変え違う枠から出たために論争になった例は聞いたことある。だからスポーツって本来楽しいからやるのであって、競争や成果主義を持ち込んだとたんドーピングやパワハラといった体や精神をむしばんだりライバルけおとしたり国と国で憎しみあったり、そうやってアスリートが神経すりへらすなか一部の人間だけが儲かってる矛盾をかかえた国家イベントなのだと解釈した。

            またプロじゃなく走るの遅い子とかでも大人になってかけっこがなくなったら走るの嫌だって思う機会もほぼないしダイエットや気分転換など自分のために体を動かすのであればむしろ楽しいという例は多々あると思われる。能力を可視化させ運動できない子に劣等感を抱かせてるのも競争がスポーツにとって害しかないといわれるゆえんのようだ。

             

            「障害者を見せ物にするのか」 難産だった東京パラ(2018年1月9日 NIKKEI STYLE)

            https://style.nikkei.com/article/DGXMZO25253410Z21C17A2000000/

            時計の針を東京パラリンピックの3年前に戻す。1961年10月22日、大分県で「大分県身体障害者体育大会」が開かれた。レクリエーションではない、障害者による本格的なスポーツ競技会は日本で初めて。まだ東京パラリンピックの開催は決まっておらず、そうした大会の存在さえほとんど知られていなかった。

            推し進めたのは国立別府病院整形外科医長だった中村裕だ。当時、脊髄損傷の治療法といえば温泉入浴やマッサージで、通常の社会生活に戻るのは難しいとされていた。中村はパラリンピック発祥の地の英国で、スポーツを治療に生かす方法を勉強。自分の病院に戻って実践しようとしたところ、猛烈な批判にさらされた。

            「日本の病院が全てそうであったように、別府の職場や周りの関係者は、患者にスポーツをやらせることにこぞって反対した。『それはむちゃですよ。せっかくよくなりかけたものを悪くするようなものです』と言い、『あなたは医者のくせに、身障者を公衆の前に引きだして、サーカスのような見せ物をやろうというのですか。医者の考えることではないですよ』と、無謀視する者ばかりであった」(『中村裕伝』水上勉、井深大、秋山ちえ子ら編)

            中村に寄せられた批判は、治療の方法にとどまらなかった。「見せ物にするのか」という言葉が象徴するように、当時は「障害は隠しておくべきだ」「障害者はできるだけ表に出ないほうがいい」といった社会通念があった。障害者のための施設は各地に作られていたが、そこで一生を終えるのが当たり前だった。

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            そんな遅れた日本にとって、パラリンピックは突然降ってきた隕石(いんせき)のようなものだった。実は中村は英国に留学中、パラリンピック創始者であるルードイッヒ・グットマン博士から、あるメッセージを預かっていた。「64年の東京五輪の直後、その施設を利用してパラリンピックを開いてほしい」

            ・・・

            今でこそ五輪とパラリンピックは当たり前のように同時に開かれているが、もとはまったくの別物だ。パラリンピックはグットマンが所長を務める施設の名前から「ストーク・マンデビル大会」として、ロンドンで毎年開かれていた。五輪との同時開催は60年のローマ大会が最初。博士が64年の東京にこだわったのは、同時開催を定例化したかったためとみられる。ちなみにパラリンピックという呼称になったのは64年の東京大会からだ。

            ・・・

            中村は政官界にもパラリンピック開催を働きかけた。知己の無かった中村が頼ったのがマスコミだ。朝日新聞社で厚生文化事業団の事務局長をしていた寺田宗義は、こう回想する。

            「(62年の5月ごろ、中村が)突然私を訪ねていわく(中略)グットマン博士はかねて我が国に開催を呼びかけているが、厚生省(現厚労省)はじめ関係方面ではいっこうに腰をあげてくれない(中略)こんな始末ではとうてい開催が難しいと思うので(中略)各方面に呼びかけ実現してほしい(中略)東京五輪のあとに東京パラを開催できないとすれば、福祉国家ニッポンの看板は国際的にみて偽りになるであろうと強い口調で訴えたのである」(『創立20年史』日本身体障害者スポーツ協会)

            寺田は中村の意を受けて、7月に当時首相だった池田勇人に面会する。これからロンドンのストーク・マンデビル大会に出場する車いすの選手を2人連れていた。

            「閣議を終えて駆けつけた故池田勇人首相は(車いすに乗った選手を)チラリとみて驚きの眼を見張った。『これはどうしたことなんか…』と不審の面もちである。私の懸命な説明に大きくうなずいた池田さんは『身体障害者のオリンピックを催すという話は初耳だ、まったくすばらしい、国際親善と、身障者諸君の社会復帰に役立つという企画には政府も協力を惜しまない。1億たらずの金で開けるというのなら、君たちの手で民間の資金が集まらないときには、いつでも言ってこいよ、なあに全額国費で賄ってもよいよ』(中略)この首相のひと言にその瞬間、『しめたっ、これで東京パラは完全にスタートできるぞー』との確信と期待に胸の高鳴りを覚えたのであった」(同上)

            ・・・

             

            パラリンピックの起源は1948年ロンドンオリンピック開会式と同日に行われたストークマンデビル競技大会とされており、第二次世界大戦からすぐなこともあって傷痍軍人のリハビリという側面が強い。このストークマンデビル病院でリハビリやってたのがドイツから亡命してきたユダヤ人のグットマン医師であり、1960年にオリンピックやってたローマで開催しグットマン医師が会長をつとめた第9回ストークマンデビル競技大会がパラリンピックの第一回にカウントされてて、1964は第2回てことだがパラリンピックという呼称が使われるようになったのは東京大会以降である。

            オリンピックとセットで定例化するためリハビリおよびパラリンピックの先駆者であるグットマン医師、また別府病院の中村裕医師らが中心に開催にむけて奔走しストークマンデビル大会の選手を連れて池田勇人首相にも直訴した。この当時は障害者は外に出さないしリハビリって概念もなかったのでスポーツなんかさせたらよけい悪くなると言われていたらしい。

             

            パラリンピックと傷痍軍人:米国のケース

            http://para.tokyo/11-AmikoNOBORI.pdf

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/4260010042

            内容紹介

            痛いのは困る。気持ちいいのがいい。

            現役の小児科医にして脳性まひ当事者である著者は、あるとき「健常な動き」を目指すリハビリを諦めた。
            そして、《他者》や《モノ》との身体接触をたよりに「官能的」にみずからの運動を立ち上げてきた。
            リハビリキャンプでの過酷で耽美な体験、初めて電動車いすに乗ったときのめくるめく感覚などを、全身全霊で語り尽くした驚愕の書。


            阻止連

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              かって子どもの障害者は「異常児」だったそうで、たしかに「異常」「遅れ」「薄弱」「痴」みたいな言い方にはネガティブなイメージがつきまとう。だからこそ「異常」「遅れ」を医療や訓練で「普通」に近づけたりなくしたりすることが目指されていたのだろうが、そうやって障害者ががんばっても限界があるし、そもそも障害をなくそうとすること自体が差別的な優生思想であり本当はエレベーターなりトイレなり整備して障害者が街に出れるよう健常者が配慮すればいい話なのだ。てことになったのは青い芝とかの闘争の結果なのだと考えられる。

              70年代からバス闘争や養護学校義務化反対など障害者の運動がさかんになっており、障害を持つお子さんを特殊学級ではなくみんなと同じ学校で共生する旨の「障害児を普通学級へ全国連絡会」が結成されたのは国際障害者年と同じ1981年でこの立ち上げには山田真、毛利子来、石川憲彦など「ちお」誌でよく見る医師が関わっている。どうも定員割れの高校入る運動はけっこう落とされているようだけども、障害児が普通学級に入るのは今べつだん珍しい話ではないようで有名人だと奥山佳恵がダウン症のお子さんを普通学級に入れてたかと思う。

              知的障害だと勉強ついていけないのわかってるし重い体の障害だと介助を必要としてたりするにもかかわらず、みんなと同じに過ごせるよう学校が配慮しなくてはならずそれを怠るのは差別だという点についてはかなり強硬であるため、そうやって教師や同級生の手をわずらわす前提で普通学級入れるのは子どもが障害があるの認めたくない親の見栄やエゴであり周囲はもちろんのこと本人のためにもなってないという批判も根強い。しかしその背景にはかって障害者が家に閉じ込められてたり、人里離れたコロニーに住まわされてたりと健常者から隔離されてた歴史があるのだった。

              前述の「障害児を普通学級へ全国連絡会」のサイトを見ると山田真の妻(夫婦別姓)の「梅村こども診療所相談室」とか「SOSHIREN・女のからだから」のリンクがはられてた。SOSHIRENは障害者っていうかもともとウーマンリブで有名な団体でポリオの障害を持つ中心人物の米津知子はかってモナリザ展でモナリザの絵にスプレーかけようとしたり、このまえテレビで見かけた優生手術を受けさせられた人が国に謝罪と補償を求めた会見を報じるニュースでもうつってた。

               

              「人生返して」「人権救済の第一歩に」 救済法成立で原告ら訴え(4月24日 産経新聞)

              https://www.sankei.com/life/news/190424/lif1904240053-n1.html

              旧優生保護法関連救済法成立を受け被害者・家族会らが会見。左から、米津知子氏(優生手術に対する謝罪を求める会)、北三郎さん(仮名)、新里宏二氏(全国優生保護法被害弁護団)、東二郎さん(仮名)ら =24日午後、衆議院第1議員会館(植村光貴撮影)

               

              SOSHIRENとは

              http://www.soshiren.org/soshiren_toha.html

              私たちは、刑法・堕胎罪の撤廃を求めているグループです。

              子どもを産むか、産まないかを、自分で選べることをめざしています。
              国が法律や制度を通して、女性に「産めよ、増やせよ」と強制することや、女性に「母性」を押し付けることには反対です。

              逆に、「あなたには子どもを産んで育てる資格はない」と決めつけられて、妊娠できないように手術されたり、中絶を強要されたりする世の中も、いやです。

              でも、日本の歴史をふりかえると、100年以上も前から、刑法に「堕胎罪」が規定されていて、今でも堕胎(人工妊娠中絶)した女性は罰せられることになっているのです。
              そして、戦後の1948年にできた「優生保護法」に定められた条件にあてはまる場合にかぎって、中絶できるというのが日本の人口政策なのです。

              優生保護法の目的には、「不良な子孫の出生を防止する」とあります。国家が「不良な子孫」と決めつけた病気や障害の人は、子どもを産むべきではないとされていたのです。
              でも、この優生保護法のなかの中絶許可条件に「経済的理由」ができたおかげで、予期しない妊娠をした女性が「人工妊娠中絶」を、安全な医療のもとで合法的に受けることができたのも事実です。
              予期せぬ妊娠をしないですむように、避妊をすることは大切ですが、避妊に失敗してしまうときもあります。

              それでも堕胎罪はちゃんと存在しているので、優生保護法の許可条件がせばまると、堕胎罪はまた生きてきます。
              1982年にも、優生保護法から「経済的理由」を削除しようという動きが国会でありました。
              私たちは、この動きに反対して生まれたグループです。
              ですから最初は、「82優生保護法改悪阻止連絡会」(略称「ソシレン」)という名前でした。

              1996年に、優生保護法から「不良な子孫の出生を防止する」という目的や、特定の障害者や病気の人への不妊手術、中絶手術の条項は削除されて、「母体保護法」という名前に変わりました。

              ・・・

               

              戦前生まれって兄弟多すぎんか。と長年不思議だったのだが、どうも戦後になるまで避妊(産児調節)や堕胎が禁止されていたらしい。なので望まぬ妊娠をしたばあい男は何もないいっぽうで女はヤミ中絶や自傷で自分の体を傷つけてしまったり、ときには命を絶つこともあったし多産もまた負担でしかなかった。

              なのでピル(経口避妊薬)解禁など基本的に女性運動は避妊や中絶の権利を勝ちとる側面が強く、今でも堕胎罪はあるらしいのだが戦後は優生保護法で子供を育てるのが経済的にきついって理屈で合法的に中絶できるようになった。しかし60年代ぐらいになると出生率の低下がさけばれるようになり、保守系の宗教団体である生長の家が経済的理由を削除すなわち中絶を再び違法化しようと運動しウーマンリブと対立するようになる。

              胎児だって命なのだから中絶って人殺し。という宗教的な倫理で優生保護法の改正を働きかける生長の家に対し、産む産まないは国家でなく女に決める権利があるというわけなのだが、これは同時に母親によって命を選別されかねない障害者にとっては脅威だった。森永ヒ素ミルクの被害者による「元の身体を返せ」、また石けん運動の「合成洗剤で奇形児」といった反公害運動に障害者側が疑問を呈したように、優生保護法改正の話もちょっと複雑になってくる。

               

              女性運動と障害者運動(「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2012年8月号)

              http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/prdl/jsrd/norma/n373/n373011.html

              米津知子

              1972(昭和47)年は、優生保護法の改悪案が国会に提出された忘れられない年だ。女性の生殖を支配して障害者の出生を阻むというこの法律の強化に、障害者と女性の反対運動がはじまった。3歳になる少し前にポリオで右足に障害をもった私は、そのとき、東京のウーマン・リブ運動の拠点の一つ「リブ新宿センター」にいて、この改悪を知った。女であり障害をもっている自分を縛ってきた問題二つが、そこに重なっていた。社会的な問題とつなげて、ようやく自分の障害に向き合うことができた年でもあったと思う。

              ・・・

              女性の運動は早くから改悪の動きを知って、「中絶禁止法」という言葉で中絶の規制に反対を表明した。障害者の運動は、胎児条項の導入に強い危機感をもって立ち上がり、改悪に反対する運動の場で両者が出合うことになった。東京のリブ運動にいた私は、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会と接する機会が多かった。デモや集会を重ねる中で、女性が掲げるスローガン「子宮の国家管理を許すな」「産むも産まぬも女が決める」に対して、障害者は厳しく迫った。「女が決める」とは、障害のある胎児なら中絶することも含むのか?ならばそれは女のエゴ。我々は安易に連帯しない…。そんな発言が、集会のたびに投げかけられた。

              ・・・

              障害者からの問いかけは厳しかったが、女性たちがこれを受けとめて、優生政策への認識を深めたことが当時のビラに現れている。74年まで続いた改悪反対運動の過程で、胎児条項への批判が大きくなり、スローガンも変わっていった。「中絶禁止法」の表現は使われなくなり、それに代わって、パンフレットのタイトルにもなった「産める社会を産みたい社会を!」が現れる。


              すこやかな成長

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                韓国でも5月5日はオリニナルとかいって子どもの日なのだが、もしかして端午の節句って韓国起源なのだろうか。昭和の時代には子どもの日に丸丸とふとったお子さんの日本一を表彰していたらしい。

                 

                技術と産業公害(「日本の経験」を伝える)

                https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/book_unu_jpe5_d04.html

                1948(昭和23)年7月,空前のベビーブームを背景に,人口対策を含む優性保護法が制定され,翌8月,妊産婦および乳幼児保健指導要領にもとづいて,戦前の課題を引き継ぐ新しい母子衛生対策が定められた.そして悪化した食糧事情のもとで,ユニセフ無糖粉乳などが配給された.また占領軍によって煉・粉乳が緊急放出され,1947(昭和22)年からアメリカの脱脂粉乳による学童給食が実施されていった.1949〜50(昭和24〜25)年のアメリカの経済恐慌に際し,余剰脱脂粉乳の輸入が強制され,これらの輸入品は国内の乳製品市場を圧迫しつつ,日本の乳製品食習慣を拡大していった.
                そして1949(昭和24)年から,育児衛生・育児教育の普及を目的として,厚生省・読売新聞社による“赤ちゃんコンクール”が,全国衛生行政組織を動員して実施された.それは前年3月に出生の1歳児のうちから,市町村・保健所・都道府県ごとの検診・審査で男女各1名を選び,5月5日の子どもの日に,全国一・都道府県一を表彰するものであった.
                ・・・
                母乳は,乳児の泣き声などの精神的刺激と,乳首を吸う際の刺激,いわゆる吸啜(せつ)刺激によって分泌される.出産時,母乳は分泌準備状態にあり,新生児の吸う力が弱いことと重なり,しばらくは十分に分泌されない.新生児の体重が出産時より減少する生理的な体重減は,普通のことである.
                この乳児に人工乳を与えると,瓶の乳首から乳汁がほとばしり,乳児は楽に満足できる.このため乳児は瓶をほしがり,母の乳首を本気で吸わなくなる.病・産院でも授乳指導はさて措いて,人工乳で太らせ,1日も早く送り出し,つぎの分娩を扱えば営業成績もあがる.
                また病・産院の新生児管理は,母子別室が多く,乳児が泣くと口封じに人工乳を与える.しかも人工栄養児は生理的体重減もなく,かた肥えの母乳栄養児よりも健康そうに見える.コンクールで入選したまるまると太った赤ちゃんの宣伝写真は,母親を母乳から人工乳に傾斜させてゆく.
                こうして小児医学界の権威歴々の推薦と,病・産院,小児科・産科医を動員した人工乳の包囲網は,赤ちゃんコンクールによって,母たちを積極的な人工乳の受容に向かわせた.1951(昭和26)年,森永乳業が開始した8カ月児のベビーコンクールは,乳業資本が赤ちゃんコンクールによって利益を享受していたことを表現していたといえるだろう.1953(昭和28)年以降のNHKテレビの赤ちゃんコンクール(関東圏)は,人工乳受容の度合の高さを示していた.そしてこれらは,さらに母乳の駆逐をおし進めていった.
                また戦後復興による婦人就業者の増加(表3−2)は,哺育制度の貧困なわが国において,簡便な人工乳の浸透に一層の拍車をかけた.1920年代,混合栄養を合わせて10%にすぎなかった人工栄養児は,1970年代に70%にも達するのである.
                 

                 

                世界的に悪名高い粉ミルクといえばネスレなのかもしれないが、わが国においてはやはり森永ヒ素ミルクである。ヒ素もさることながら高度経済成長期に自宅出産から病院出産へ切り替わる中で乳業と病院との癒着、また森永が開催してた「赤ちゃんコンクール」で栄養ゆたかなミルク飲み丸丸と太ったといわんばかりに体格の良いお子さんが表彰されてた。

                 

                『富山県ニュース』第4号(昭和28年)(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=YXWXfm_17rE

                赤ちゃんコンクールのニュース動画があった。昭和28年なので始まって2年だか4年だかのはずなのだがもう第8回て書いてて1年に何回もやってんのかい。と思ったし、第とか回の漢字もなんかおかしい。

                「第二次予選でみごとに通過した丸丸ふとった赤ちゃんと坊やたち。先生がたの手で体重、胸囲、身長とおとなしく審査を受ける赤ちゃん」

                べつにミスコンとかは変に思わないけど、先天的要素しかないであろうこんな小さなお子さんの体格や健康を競わせるってのは今の時代では考えられないような感覚だ。そしてこれ赤ちゃんコンクールとはいえ、ナレーションで赤ちゃんと坊や・・と言ってるようにどうも幼稚園児部門みたいなのもあった模様。

                たしかに森永がスポンサーになっている。上の引用では読売新聞が主催て書いてたがこれは富山のローカル新聞だ。

                 

                浜松市政ニュース 昭和34年12月(YouTube)

                https://www.youtube.com/watch?v=KKAmdKM55Bo

                さっきのは富山だったけどこの浜松市の動画は昭和34年なのでけっこう後のニュースだ。

                乳幼児の児の漢字がなんかおかしい。

                これ米俵とか量る奴に見えるのだが体重計測する機能あるのだろうか。

                「最後の総合審査の結果、丸丸とふとったりっぱな赤ちゃん36名が入選し11月3日晴れの県大会へ進みました」

                このころの小児科医はお子さんの「健康」「発達」を「審査」するいっぽう、予防接種の副反応やヒ素ミルクで苦しむお子さんには異常体質とかいって切り捨ててきた。「ちお」みたいな小児科医からワクチン忌避や障害児の運動が出てきたのも、そんな高度経済成長期における企業および小児科の犯罪性が背景にあったのだと考えられる。

                これ↑はYouTubeの画面ではなく私が昭和館っていう館に逝ったときニュース映画上映してたのを撮った。昭和13年「優良赤ちゃん審査会」となっているので戦前の映像である。

                すなわち赤ちゃんコンクールは戦前からあったということだ。当時人工乳あげるお母さまがたそんなにいたとも思えないしGHQどころか戦時体制に入る頃ぐらいなのでミルクの宣伝ではなく産めよ増やせよみたいな軍国主義のノリと思われるが、この後戦争始まって食べ物あんまりなくなってくるとお子さんが丸丸ふとるのも難しかったのではないだろうか。

                 

                健康優良児(Wikipedia)

                https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%A5%E5%BA%B7%E5%84%AA%E8%89%AF%E5%85%90

                健康優良児(けんこうゆうりょうじ)とは、身長・体重が平均以上で、学習成績・運動能力共に優れ、性格明朗な青少年として、朝日新聞社・文部省・都道府県教育委員会の合同で表彰された者を指す。以上の条件を満たす小学校6年生男女1名ずつを、各学校が推薦し、陸上競技場で徒競走などの運動能力テストを課した上、医師による健康診断・教師による面接を経て該当者が確定した。

                概要

                1930年、「日本一の桃太郎を探す」との触れ込みで開始された。戦前・戦中は強い兵隊の育成、戦後は食糧事情の改善の指標として、毎年文化の日の恒例行事とされた。

                昭和11年に選ばれた北方松方は北方謙三の父親で、謙三は今でも当時のメダルを持っている。
                批判と廃止

                しかし、後に不要な優越感や劣等感を生むとの批判が強まり、個人単位の表彰は1978年で廃止。学校単位の表彰も、1996年に廃止された。

                ・・・

                 

                小学生を審査する健康優良児てのも新聞社主催だし戦前に強い兵隊の育成、戦後は食糧事情の改善の指標というあたりもやはり赤ちゃんコンクール(優良赤ちゃん審査会)とまったく同じ趣旨であろう。ヒ素ミルクは赤ちゃんコンクールが最初に開催された岡山県で多くの被害者が出た・・・てのがよく因縁な感じで書かれているのだけど、もしかして「日本一の桃太郎」だから岡山だったのだろうか。

                桃太郎はすこやかに育ち鬼を成敗してきたので戦時体制下の教育によかった。健康優良児の個人の表彰が廃止された1978年は青い芝の会のバス闘争やら障害児を普通学級など障害者解放の闘争が激化していたのと同時期でもある。

                 

                https://www.amazon.co.jp/dp/4787232878

                内容(「BOOK」データベースより)

                スポーツ万能、学業成績優秀、すぐれた体格のスーパーチルドレン…。戦前から、敗戦を挟んで1990年代まで続けられた健康優良児表彰事業と健康優良学校表彰事業。朝日新聞社主導で進められ、健康優良日本一を競ったこのイベントの歴史を、高度経済成長などの社会的背景にも目配りしながらあぶり出す。健康優良児をめぐる言説に現れる都市―農村間の地域格差や性差、障害観を照らし出し、「健康」の背面に立ち上がる「不健全」「不健康」の歴史のありようをも明らかにする。「健康」という基準をめぐって排除と包摂が相互的におこなわれるなかで、児童を絶えず「健康」へと駆り立てる力学を浮き彫りにする。


                平成元年

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                  新札のニュースで聖徳太子から福沢諭吉になったの1984年と聞き、もうちょっと早く言ってくれればこの前のバブルの記事で書いたのに。とくやしがった。その記事でも一瞬だけふれたピエール瀧なのだが、コカインで逮捕されたときいつのまに大ニュースになるほど大物俳優になってて驚いた。

                  私の電気グルーヴの記憶シャングリラから更新されてない・・・ていうか正直シャングリラもそんなに覚えてなく(歌は知ってるけど歌番組で見た記憶がない)、くしゅくしゅソックス時代にピエール氏が出演していたフジテレビ系の子供番組「ポンキッキーズ」で曲が使われてたのと「PATIPATI」に出てた印象が強い。PATIPATIはソニー系の音楽雑誌だったのでソニー所属の電気グルーヴの扱いも大きかったのだと思う。

                  くしゅくしゅソックス時代(1989-94年)こういうPATIPATIみたいな文字をすごいよく見かけた。真ん中のまりんて人がかっこいいと思ってたけど途中からいなくなってた模様。

                  電気グルーヴの前身はナゴムレコード所属の「人生」だった。バブル時代のインディーズ人気でナゴムレコードの追っかけ「ナゴムギャル」もいて、人生のファンクラブからマサ子さんというガールズバンドも出てきたりとバンドブームだったのだが、私はこのバンドブームをほぼ覚えていない。

                  ゆいいつたま「さよなら人類」(1990)は覚えてるけども、私がJ-POPを聴き始めた1991年だか92年だかぐらいはすでにバンド人気ない時期に入ってたはずで、ドリカムかドラマのタイアップ、米米クラブにしてもバンドって文脈ではなくあくまでドラマの主題歌としての人気で、チェッカーズもレベッカもBOOWYも解散してみんなソロで唄ってた。1988年にナゴムレコードの筋肉少女帯がメジャーデビューしているのだが、くしゅくしゅ時代においてはボーカルの大槻ケンヂをタレントとして頻繁にテレビで見かけたし、また1989年に人生が解散して電気グルーヴがソニーからデビューし画像を見てのとうりPATIPATIでアイドル扱いされるにいたってる。

                  てことは昭和バブル終焉から平成くしゅくしゅソックス時代にかけて「いかすバンド天国」およびごくひと握りの人気バンドのメジャー化でインディーズ市場が完全に骨抜きにされた時期なのだろう。なお1989年のJ-POPといえば音楽専門チャンネルのスペースシャワーTVが開局し、1曲目に流れたのはその後セブンイレブンのテーマソングと化すザ・タイマーズ「デイドリーム・ビリーバー」だった。

                  テクノ時代(80年代初頭)においてはロックバンドRCサクセションが若人に人気を集め、ボーカルの忌野清志郎はYMOの坂本龍一と組んで資生堂のキャンペーンソングを唄ったりしていた。その忌野氏がチェルノブイリ原発事故を受け1988年にグループサウンズのタイガースをもじったタイマーズという覆面バンドで反原発の内容を含んだアルバムを発表し物議をかもしていたのだが、初期のスペースシャワーTVにいとうせいこうが関わってたのをふまえても、宝島誌やインディーズが失いつつあった先鋭的な部分を受け継いでいた部分があったのかもしれない。

                   

                  COVERS (RCサクセションのアルバム)

                  https://ja.wikipedia.org/wiki/COVERS_(RC%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)

                  『COVERS』(カバーズ)は、RCサクセションが1988年(昭和63年)8月15日に発表したカヴァーアルバムである。

                  ・・・

                  洋楽のカバーアルバムとして釘打たれ、全曲、洋楽のヒット曲に日本語詞をつけた内容。ゲストとして山口冨士夫、三浦友和、泉谷しげる、更に桑竹居助の偽名にてサザンオールスターズの桑田佳祐らが参加している。 本来は、所属レコード会社の東芝EMI(現・ユニバーサルミュージック EMIレコーズ・ジャパン)から1988年8月6日(広島平和記念日)に発売される予定だった。しかし、「ラヴ・ミー・テンダー」と「サマータイム・ブルース」で核問題と原子力発電の問題が歌われており、特に後者は日本の原子炉サプライヤーでもある親会社の東芝からの圧力がかかった[1][2]。先行シングル「ラヴ・ミー・テンダー」(6月25日発売予定)ともども、「素晴らしすぎて発売できません」という新聞広告(1988年6月22日付全国紙)と共に発売中止となる。

                   

                  タイマーズ 生放送事故(YouTube)

                  https://www.youtube.com/watch?v=4AlYVqbyWwU

                   

                  Wikipediaによれば宝島誌は最初はヒッピー雑誌だったけどテクノ時代に忌野清志郎やYMOなどのサブカル的なミュージシャンをとりあげており、80年代半ばにはインディーズなどバンドブームの一翼をになってたけど1987年に反戦反核路線が明確になったとのことでその流れはまちがいなく2000年代のロハスブームに通じている。ただ90年代初頭にはもうすでにイカ天バンドや反原発といった昭和末期におけるサブカルの狂騒は過去のものになってたと思われ、宝島誌もアダルト雑誌にリニューアルし一般雑誌で初めてヘアヌードを掲載したとのことである。

                  その変遷が示唆するように確かにくしゅくしゅソックス時代は陰毛をはじめ巨乳やらTバックやらアダルトビデオやらとハレンチな女たちが脚光をあび、それとリンクするかのように女学生までもがみずからの性を商品化しだした、そんな時代だったように記憶している。なおインディーズおよびバンドブームの記述は山崎まどか著「オリーブ少女ライフ」と「町山智浩、『宝島』ゴールデンエイジを大いに語る(津田大介の「メディアの現場」vol.44より)」ってサイトを参照したのだが、町山氏が宝島誌を離れたのも1989年のことだったという。

                  同じ1989年に宝島社から「CUTIE」が創刊されてて、平成と同時にサブカルといれかわるように現在のファッション出版社としての歴史が始まってる。マサ子さんがイカ天に出演してる動画を見たとき「ナゴムギャル」など宝島がとりあげてたようなバンドの追っかけの装いがCUTIEの起源だ。と思ったのだけど、その後ルーズソックス時代にいたりソニーからデビューした電気グルーヴプロデュースの篠原ともえが平成のナゴムギャルって言われてたらしい。

                  吉田豪とピエール瀧 篠原ともえを語る

                  https://miyearnzzlabo.com/archives/28062

                  (小島慶子)篠原さん、だから15ぐらいでデビューしたってことですか?16とか?

                  (吉田豪)16ですね。95年に16才でデビューということですね。

                  (小島慶子)よく覚えてます。すごい衝撃的でしたね。

                  (吉田豪)すごかったですよね。なんだろう?たしかに新しいキャラクターが出てきたっていうか。ナゴムギャルが暴走しておかしなことになっている状態っていうか。

                  (ピエール瀧)まあルックスはナゴムギャルっぽかったですけどね。まあ、ナゴムギャルって言ってもおわかりにならない方も。まあ、インディーのナゴムっていうレーベルがあって。

                  (吉田豪)かつて瀧さんも所属していた。

                  (ピエール瀧)僕らもいましたけど。そこに、追っかけというかファンの子たちがみんなお団子つけたりして、独特の装飾具をつけたナゴムギャルっていうのがいたんですけど。

                  (小島慶子)ねえ。だから篠原さんは元気で。ちょっとあの、クルクルって変わった歌を歌っていて。ファッションも自作ですっごい奇抜でね。なんか、すごい人が出てきたなって思いました。


                  1984

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                    ブログによく書いてるくしゅくしゅソックス時代とかルーズソックス時代って時代区分決めた「世代別JK」という、かれこれ4〜5年ぐらい前の記事で1985〜90年(バブル時代)の女子高生をオリーブ少女世代と制定してたのを1年前にずらし1984年〜に変更したくなってきた。1995年ほどの転換点ではなかったと思うのだが、1984年で区切りしたほうが何かとつじつま合わしやすい気がする。

                    バブルの前段階はたぶん1979〜83年ぐらいの区切りで、ちょうどYMOの活動時期がそのぐらいなのでテクノ時代とでもしておこう。テクノ時代は70年代と比べ髪が短くネアカで軽チャーな感じを前面に出しており、資料映像はインベーターゲーム(1978)ウォークマン(1979)竹の子族(1980)あたりがよく使われているイメージだ。

                    オリーブって雑誌がリセエンヌというフランス女学生を打ち出して人気爆発したのだが、男性雑誌ポパイの別冊だっただけあって1982年の創刊当初はアメリカだったらしい。山崎まどか(1970生まれ)著「オリーブ少女ライフ」て本読んだ記憶だと、オリーブが米西海岸からフランス化したのが1983年の9月号、翌1984年のショートカット特集で若花田の奥さんだった栗尾美恵子が読者モデルとして人気急上昇した・・・って話だった気がする。

                    そのショートカット今見たらめちゃくちゃださい奴なんだろうなー。と検索したらやっぱり想像したとうりの髪型が出てきた。私はオリーブ世代ではないので若花田の結婚会見で初めて見たのだけど、栗尾さんすごいかわいいと思ってたし、読者モデル時代にもにわかに注目が集まりファンがテレビ出演してオリーブの切り抜き見せてたのもなんとなく覚えている。

                    著者がオリーブを読んでたのもちょうどバブル時代であり、部数的にも1990年ごろはかなり落ちていたそうだ。なので過渡期であるくしゅくしゅ時代、渋谷系とか言ってたけどすでに若い娘さんたちはマガジンハウスみたいな業界人のおしきせや海外憧れではなくコギャルもしくはCUTIE的なストリートファッションに関心がうつりつつあったことだろう。

                    というか西海岸文化紹介だったはずのポパイがデートマニュアルやハウツーセックスの記事でホットドッグプレス誌と競合してたとかいう話ももしかしたら同じぐらいなのかもしれない。と思って検索したけど、Wikipediaとか読んでも1980年代からそうなったとしか書いてないので1984年ごろかどうかは不明だった。とりあえずサブカルチャーにおける西海岸離れの時期ではある気がする。

                    オリーブ言うても具体的に服とか何着てたのか全く分からぬ。ただ去年西城秀樹死去のニュース見てたら70年代はかっこういいのに80年代の映像になると服とか髪型ダッサて感じになるのがちょっと気になってた。

                    たぶん一般にイメージされる80年代のだささ決定ずけたのが1984〜88年で、「なめ猫」「欽ドン」わるおの画像などを参照する限りテクノ時代に長ラン・ドカンだったとみられる不良の学ランが短ラン・ボンタンに変化してくるのがこの頃だったのではないだろうか。もちろん1984年をさかいにいきなり学ラン短くなったりズボンがふくらんだりしたわけではないと思うのだが、とりあえず資生堂メンズムースのロゴしかりバブル時代って顔ちっちゃ肩デカからの足首きゅってなってる男の絵が多いしリアルにそういう逆三角形シルエット実現したいのか肩パット入れてる人も多かった。

                    大映ドラマは70年代も赤いシリーズとかあったけど、ストーリーやセリフがムチャクチャになりだしたのはスチュワーデス物語(1983年10月18日ー1984年3月27日)からではないだろうか。たぶん一番ヒットしたのが川浜高校ラグビー部の奇跡をえがいた1984年放送のスクール☆ウォーズでこれTBS系で夜9時なので全員集合の後だったようだ。

                    ホイチョイプロダクションは1984年2月に設立されている。1983年11月に出版された「見栄講座」を画像検索で読んだところ、1984年の本「金魂巻」って本も同じテイストだった気がした。

                    いづれも当時の消費文化がマニュアル化されたような内容なのだが、おもしろさがまったくわからない。80年代のイケイケ女子大生やトレンディな固有名詞が出まくるらしい田中康夫著「なんとなくクリスタル」あたり組合わしたら解読できるだろうか。

                    それより1985年の「OTV」のほうが気になった。表紙に「読むだけでTVがめきめき面白くなる」って書いてるあたりからテレビの斜めよみをレクチャーしているのだろう。

                    スチュワーデス物語以降の大映ドラマあれたぶん最初からクサいとか言われるのを想定して作ってると思うし、事実バブル時代に限りヒットを連発している。嘉門達夫の「ゆけゆけ川口浩」も1984年であり、テレビの演出を俯瞰で見るリテラシーが求められた時代なのかもしれない。

                    もともと真面目な放送局だったらしいフジテレビが横澤彪プロデューサー「ザマンザイ」で漫才ブームを牽引し、またテクノ時代の軽チャー気分に呼応して「楽しくなければテレビじゃない」と現在にも続くバラエティ路線に転換、漫才ブーム終了してからはビートたけしや島田紳助など漫才師がコント番組「おれたちひょうきん族」に活躍の場を移した。

                    70年代を通して土曜日の夜は8時からTBSでドリフターズ「全員集合」がお子さんがたに人気爆発だったけど、裏番組のひょうきん族が追い上げ1984年には視聴率競争で敗れ翌1985年に終了することとなる。しかし1986年ドリフの加藤茶と志村けんによる「カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ」によって逆転し今度は1989年にひょきん族が終わった。

                    というわけでバブル時代はザマンザイ系のひょうきん族(フジ)とドリフ系のカトケン(TBS)がしのぎをけずっていたのだが、私は完全にカトケン派だった。当時新宗教ブームだったせいもあってか志村けんがだいじょうぶだぁ教の教祖さまって設定、今見てもそこまで荒唐無稽でもないというかおふでさきみたいな書を持ってたり太鼓たたきながら町を練り歩くとことか神道系にこんなのリアルにありそうだ。

                    志村けんもビートたけしもすでに確固たる人気だったが、1984年当時の若手だととんねるずやたけし軍団あたりだろうか。とんねるずは笑いの質が基本的にバブルでくしゅくしゅ時代の途中ぐらいまで若人から圧倒的な支持を得ていた。

                    Wikipediaを参照すると1982年すでに日本テレビ系「お笑いスター誕生」で浮上してたらしいが一度干されており、人気を確実にしたのは1983年末から起用されたフジテレビの深夜番組「オールナイトフジ」からだった。テクノ時代は女子大生が脚光浴びてたのか川島なお美がやってたミスDJリクエストパレードやオールナイトフジは女子大生を前面に出しており、オールナイトフジの名物コーナーとしては「女子大生初体験レポート」番組から発生した楽曲として「女子大生にさせといて」「女子大生にまかせなさい」などがあげられている。

                    そんなオールナイトフジのJK版として派生したのが夕方の番組「夕ニャン」こと「夕焼けニャンニャン」で、秋元康じこみのアイドルグループ「おニャン子クラブ」(1985-1987)も同番組から生まれた企画だった。ニャンニャンといういかがわしい響きもさることながらセーラー服脱がさないでと唄ってるし、同時期に森伸之著「東京女子高制服図鑑」(1985)という書物が出ていることもふまえると、このへんで女子大生から素人JKと制服が男にハァハァされる時代到来しブルセラなくしゅくしゅ時代の片鱗が見え始めた気がする。

                    またデパートとかに営業きたアイドルのパンチラ撮りだしたのもこの頃かもしれない。テクノ時代にもアクションカメラや宮崎美子の着替えを盗撮するCMなど片鱗はかなりあったのだが、1980年代初頭まではカメラ小僧という言葉にはカメラに詳しい少年ぐらいの意味しかなかったので鉄道や飛行機撮る奴まで呼ばれてたとWikipediaに書いてるし、1984年「投稿写真」「スーパー写真塾」1985年「熱烈投稿」「写真少年」など投稿系雑誌のあいつぐ創刊、1985年2月にミノルタα7000発売などをふまえバブル時代はカメコ全盛期とみた。

                    私はおニャン子は記憶にない。ただハイスクール奇面組やあんみつ姫などフジテレビ系のアニメで歌が使われてたし、くしゅくしゅ時代にはゆうゆや渡辺満里奈、渡辺美奈代などおニャン子の残党がこれまたフジテレビのバラエティ番組を中心にバラドルとして活躍していたのでまったく分からないわけではないのだが。

                    おニャン子クラブが着てたセーラーズってブランドは1984年にオープンした。検索したところによると創業者は高齢出産した娘が脳性麻痺で2017年いろいろと障害児の政策をうったえて都議選にも出てたらしい。

                    テクノ時代は聖子ちゃんはじめとするいかにもなアイドルが隆盛を極め、もともと団塊のロックミュージシャン畑だった松本隆などの歌謡曲がさかんに歌われてたのが、秋元康および素人JK集団たるおニャン子が頭角を現す頃になると小泉今日子が刈り上げの髪型にしたり秋元作詞「なんたってアイドル」を唄うなどアイドルの型が破られていくし、1984年にデビューし正統派アイドルでがんばってた聖子ちゃんの後輩である岡田有希子は恋に破れみずから命を絶った。1984年デビューといえば故・本田美奈子も秋元作詞「1986年のマリリン」がセクシーとロック路線だったので、アイドルの型破るにあたり当時レベッカやBOOWYなどロックバンド人気なのを反映していたのかもしれない。

                    100%男女交際のジャケットに写ってる衣装はたぶんヒステリックグラマーで同ブランドが設立されたのも1984年だった。そういえば1990年代ファッション振り返るにあたってCUTIE系も重要だったと思いつつまだ調べてない。

                    ロックバンドや非正統派アイドルとともにヒップホップが若人の人気を集め出し、欽ちゃんファミリーはテクノ時代ハイスクールララバイ唄ってたが1984年には早くも「涙のtake a chance」で風見しんごがブレイクダンスの伝道者となった。しかしオリビア・ニュートンジョンしかり井森美幸しかり、なぜ80年代のおなごはレオタードなのだろうか。

                    「涙のtake a chance」の一か月前に出たのが「俺ら東京さ行ぐだ」で、風見しんごがブレイクダンスに対し吉幾三はラップの先駆者だった。歌詞の中にレーザーディスクとは何。ってくだりがあるのだが、CDみたいな映像ソフトで確かEPやLPのレコードとおんなじぐらいの大小サイズあり、コンテナ時代のカラオケボックスもレーザーディスクだった。

                    バブル時代女子中高生にキャー言われてそうなのはチェッカーズや少年隊や吉川晃司あたりかなと思うのだけど、ちょっと違う路線としては高校在学中の尾崎豊が1983年12月にデビューしている。夜の校舎の窓ガラス壊したり盗んだバイクで行先も分からないのに走りだしたりと凶暴な歌詞なのでヤンキーが聴いてそうだ。

                    テクノ時代はアイドルやテクノポップなど歌謡曲志向が強くてその担い手も団塊世代だった気がするけど、バブル時代は60年代生まれのロックバンドに人気が集まってるように思う。BOOWYやレベッカ、あとは米米CLUB、聖飢魔供爆風スランプなどソニー所属のコミックバンドあたりがメジャーどころのイメージがあり、CBSソニー出版(のちのソニーマガジンズ)から「PATIPATI」が創刊されたのも1984年のことだった。

                    それとは別にインディーズ市場も盛り上がっており、前述した山崎まどか著「オリーブ少女ライフ」にナゴムレコードのミュージシャンの追っかけ「ナゴムギャル」の友人が活動してたバンドが人気番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(イカ天)に出演したエピソードがあった。検索したところによるとそのバンドは「マサ子さん」といって、YouTubeでイカ天の動画を見たところ女版「たま」という印象を抱いたのだが、マサ子さんもたまもナゴムレコード所属だったらしい。

                    Wikipediaによるとナゴムレコードと音楽雑誌「宝島」のキャプテンレコード、あとトランスレコードが当時の代表的なレーベル、そしてザ・ウィラード、有頂天、ラフィン・ノーズというバンドがインディーズ御三家と呼ばれこのインディーズ御三家というネーミングが「インディーズ」という語を世に知らしめることになったとあり、1985年にはNHKで「インディーズの襲来」という特集番組も放送されている。

                    ラフィン・ノーズは1983年末に自らのレーベルAA RECORDSからファーストシングルをリリースした。1985年にソノシートを新宿アルタ前で無料配布するといったらファンが1300人も集まってちょっとした騒ぎになるなど人気バンドだったけど、1987年にライブでファンが将棋倒しになって3名もの死者を出す事件が起きた。

                    その将棋倒し事件でバンドブームが冷め、その後「イカ天」によって売れ線になったことでぎゃくにダメになったらしい。確かに「イカ天」自体は1989年から1990年と私の歴史観ではバブルではなくくしゅくしゅソックス時代なのであるが、イカ天バンドはどっちかというと80年代の総決算的な趣きであり、くしゅくしゅ時代も初期こそバブルの名残りでプリプリやら米米といったバンドが人気あったかもしれんけど早いうちからドリカム的価値観に淘汰されたと思われる。

                    それよりマサ子さんのイカ天動画見て、CUTIE系の原型を見た気がした。90年代ファッションというとコギャルのイメージが強くこのブログでも90年代の話題はほとんどコギャルなのだが、個性派のCUTIEもまた一大勢力であったのである。

                    そのことについても回顧したく思い史料として古いCUTIEも買ってあったのだが、80年代をリアルタイムで覚えていないこともあって今ひとつ系統の起源がよく分からないでいた。それがマサ子さんの動画を見てCUTIEはたぶんナゴムギャルなどバブル時代においてインディーズの追っかけしてるようなおなごだったのではないか。と思うにいたっている。

                    それならCUTIE誌が1989年、インディーズブームの一端をになった宝島社から創刊したというのもつじつまがあう。そして個性派女子の受け皿だったオリーブがくしゅくしゅ時代における脱少女化(90年代は女が女の子ぽくするのがダサくて粗暴になってくる傾向があった)によりCUTIEにその座を受け渡してしまったのではないか、と。

                    また「オリーブ少女ライフ」でマサ子さんに在籍していた友人がその後水中出産するというエピソードも気になった。日本において自然なお産ブームを牽引した1人の河合蘭も「宝島」のカメラマンだし、そもそも宝島は創刊当初ホールアースカタログぱくったようなヒッピー雑誌だったのである。

                    それにしてもマサ子さんのボーカルはポンッキキーで流れてたトイレの花子さん唄ってたらしく、あーあの歌の人なんだ。と思った。コカイン中毒のピエール瀧も同番組に出演しており、電気グルーヴの前身である人生というバンド(1985結成)もナゴムレコードだったらしい。

                    雑誌といえば写真週刊誌の全盛期がこの頃である。ここ数年ほど著名人の裏の顔とかスクープする過激なゴシップ誌といえばゲス不倫などに代表されるように週刊文春か週刊新潮って感じになってきてるけど昔は写真週刊誌だった。

                    先鞭をつけたのは新潮社「フォーカス」でこれ1981年なのだが、後発の「フライデー」「フラッシュ」「タッチ」「エンマ」などの創刊があいついだのが1984〜1986年ごろである。1985年にはフォーカス誌が豊田商事の会長が殺されてる写真を掲載したり、1986年にはビートたけしがたけし軍団とフライデー襲撃して逮捕されるなどお騒がせだった。やっぱりそうなると文春誌の不倫記事が早々になりをひそめたのと同じく芸能人への同情や記者のモラルが問われてくるのか写真週刊誌の隆盛は長くは続かなく90年代には精彩を欠きフォーカスも早々に廃刊、今残ってるのはフライデーとフラッシュぐらいらしい。私は週刊誌の字ー読むのかったるいのでいつも飲食店で写真週刊誌読んでたけど、たださえ薄ぺらいのにいつからかAKBゴリ押し記事みたいなの多かったし最近置いてさえないような気がしてきた。

                    1985年電電公社がNTT、日本専売公社がJT、1987年に国鉄がJRなど、公社の民営化およびアルファベット化があいついだ。J-WAVEやJ-POP、Jリーグ、Jビーフなど日本のものをJなんちゃら言うのはしりだったのかもしれぬ。

                    NTTといえばテレホンカード(テレカ)とテレカがかけれる緑の公衆電話が普及し出したのこの頃な気がして検索してみたところ、いづれも1982年でありテレカは1982年も12月からということで厳密には1983年だとしても1984年ぐらいから普及しただろうという私の見立てはそんなに間違ってないはずだ。再放送だかYouTubeだかの古い映像でそれ以前のは黄色ってイメージがあるけど、黄色の前に水色と赤もあったそうである。

                    私は公衆電話は緑とその次の黒しか知らない。ポケベルやテレクラの時代にバブルがあったけどルーズソックス期にはPHSとか携帯が普及してきたので、緑電話とテレカの需要って長かったようでよく考えたら10余年程度だ。

                    ていうかこのときの聖子ちゃんの髪型や化粧めちゃくちゃださくないか。西城秀樹の訃報のときも80年代初頭まではまだ70年代の余韻残ってるし聖子ちゃんカットも長めなのだが1984-88年ごろは人類みんなもれなください。

                    テクノ時代にはインベーターゲームが人気爆発だったらしいのだが、これはゲームセンター、バッティングセンター、喫茶店の机(が、ゲーム機になってる)あたりだった推察される。しかし1983年7月に任天堂からファミリーコンピューターが売られ出したので本格的なゲームが家でもできるようになった。

                    マッキントッシュの発売も1984年だ。IBMをビッグブラザーとするリドリー・スコット監督のCMが制作された。

                    テクノ時代の資料映像でローラースケートに乗りながらウォークマン聴いてるお子さんよく見かけるのだが、ソニーはウォークマンと同じ頃なにげにベータマックスっていうビデオも作っていた。普及期のビデオテープには2つの規格があって最初はベータマックスの方が売れてたのが途中でVHSに逆転されたのである。

                    その原因としては1984年の「ベータマックスはなくなるの?」って広告が逆効果になったともいわれるし、VHSがエロに強かったて話もどっかで見たことがある。ビデオのVHS化や公衆電話の緑化だけではなく、レコードからCD、手打ちのレジがバーコードの切り替えもこの頃ぐらいじゃないかと思うのだけど検索したかぎりではよくわからなかった。

                    アダルトアニメの先駆けらしい「くりいむレモン」てロリコンアニメが1984年より人気爆発しシリーズ化したそうだ。投稿写真やおニャン子クラブの隆盛もふまえると、アニメ、アイドル、ロリコンなど現在イメージするところとさほど変わらないオタクのエロ文化が成熟しその後の宮崎勤事件におけるバッシングに結実していったのかもしれない。

                    現在エロ漫画にえがかれる女は女子高生あるいはそれ以下とロリの傾向が強いし絵柄もアニメぽく感ずるが、それもこの時期からの傾向のように思える。原作が微妙に劇画タッチなうえ別にロリでもなかっただろうに80年代のオタク文化と化した「うる星やつら」あたりが分岐点と仮説しておこう。

                    いっぽう女のオタクのあいだではやおいという既存のマンガのキャラを同性愛設定するような二次創作が人気があったそうだ。Wikipediaによれば同性愛描写はその前から少女漫画などで見られた傾向らしいのだが、1984年ごろから「キャプテン翼」の同人誌が大量発生し市場拡大、やおいの概念も整理されたとある。

                    テクノ時代に広告業界が脚光を浴びており、糸井重里はじめとするコピーライターやまた糸井氏もかかわっていたセゾングループ(西武百貨店、パルコ)の広告がその代名詞的存在だったと思われる。セゾン文化や広告業界が当時のサブカルチャー与えた影響をかなり前に調べててその調べた大半は今これ書いてる時点で覚えてないが、ゆいいつセゾングループの代表である故・堤清二が、「うれしいねさっちゃん」のキャンペーン以降その手の広告の反響がなくなってきた。みたいなこと何かの本で言ってた記憶があり、それが1984年だった気がして検索したところやはり1984年「うれしいね、さっちゃん」という西武百貨店の広告は実在した。

                    だからこの時期あたりをさかいにセゾンや糸井重里やYMOやらが演出してたようないかにもテクノ時代ぽいサブカルチャーが斜陽となったのち好景気により消費文化だけが残っていった、その結果が渋谷の若者文化でありオリーブ少女なんだろう。その後サブカルの残党がチェルノブイリ原発事故を機に野草社みたいなノリと融合していった結果か、2000年代のロハスブームの中心人物も坂本龍一はじめ広告業界やミュージシャンがほとんどだった・・・という趣旨の記事を当ブログのロハス史振り返るシリーズで書こうと思ってたがこのシリーズは途中でめんどくさくなって中止した。

                    セゾンでは「六本木WAVE」「つかしん」「リブロ」がバブルだと思う。こうした店も初期こそ注目を集めたけどそんなに長くは続かなかったであろう。

                    ミヒャエル・エンデ原作「ネバーエンディングストーリー」(1984)「モモ」(1986)、宮崎駿監督「風の谷のナウシカ」(1984)宮沢賢治原作「銀河鉄道の夜」(1985)など、バブル時代にロハスっぽい映画が多い気がする。きわめつけは宮田雪監督「ホピの予言」(1987)だろうか。

                    1984年に麻原彰晃がその後オウム真理教となるヨガ教室「オウムの会」を開いた。オウムが犯罪や選挙で暴走していたのは宗教法人化した1989年以降なのでバブル時代のあいだはまだそこまでカルトではなかったかもしれない。

                    ところでバブル時代のオカルトといえば前世ブームでド田舎の本屋にも「ぼくの地球を守って」てマンガ平積みになってたけど個人的に前世はまったくピンとこなかった。おばけのようなガクブルもなければ恋占いのドキドキがあるわけでもない、YESかNOで答え、あなたの前世は○○よ!て診断するテストやっても子供心に「・・・だったら何なんだい?」て感じだったので、テレビで退行催眠して前世に帰ってる奴とか胎内記憶見てもいまいちよくわからん。

                    私がオカルト好きだったくしゅ時代は噂とか心霊写真のが人気だったので、前世はオリーブ少女世代とかちょっと上なのかもしれない。チャネリングブームもバブル時代で1987年にはダリル・アンカが来日している。

                    1984年はロス五輪。このころはまだ夏季と冬季をおんなじ年にやってたので、冬季はサラエボである。

                    サラエボってやばい国ではなかったけ。とWikipedia読んでみたところ、冬季オリンピックとしては初の共産圏の開催で、確かにボスニアヘルツェゴビナ紛争があったらしいのだがそれは大会後のことらしい。共産圏の五輪といえばモスクワ五輪はソ聯のアフガニスタン侵攻に抗議し資本主義のアメリカや日本や韓国やら西側の国々がボイコットしたので、ロス五輪では東側がボイコットしたそうで4年間練習してきた選手かわいそすぐる。

                    その次の1988がソウル(夏)とカルガリー(冬)で、前年には北朝鮮がソウル五輪妨害しようと飛行機爆破したので多くの韓国人が亡くなり、また生き残った爆破犯の金賢姫によって田口八重子さんの拉致が明るみになりだしたし、北朝鮮も独自でオリンピックみたいなことやってたりした。そんなわけで80年代の五輪は冷戦が暗い影落としてるけど、ロス五輪はけっこう楽しかったのではないだろうか。

                    金メダリストでは森末慎二、山下泰裕やカール・ルイスなどがいたらしい。ふと、宗兄弟とはなんだったのか。と思って検索したところ、弟の宗猛選手が4位とあとひと息でメダルに届かなかったようだ。

                    1959年末から始まった帰国事業は最初みんな北に期待して帰っってったけど、実態が知れ渡るにつれ帰る者もいなくなり1984年に終了した。同じ年「朝鮮研究」誌がのちの慰安婦問題や拉致問題にもかかわってくる「現代コリア」となって方針転換し、また現代コリアの本を多く出す亜紀書房「凍土の共和国」で北朝鮮の貧しさがあばかれた。

                    逆にそれまでは韓国が軍事独裁の恐ろしい国でテクノ時代には光州事件とか盛り上がったけど、北朝鮮が批判されることはなかったと思われる。しかしソウル五輪を前に韓国は民主化運動やキーセン観光だけでなく文化的な面にも注目されてきてたし、1984年は関川夏央著「ソウルの練習問題」が出た年でもあった。

                    韓国と北朝鮮の明暗が決定的になったのがこの時期だったのではないだろうか。そしてソウル五輪を前に大韓航空機爆破し、この事件をもって爆破犯「蜂谷真由美」に日本語を教えてた日本人「李恩恵先生」の存在が判明する。

                    よくロハスの本とかマクドナルドはおまけで子どもを魅了しハンバーガーの味を覚えさせている・・・とか言うのだけど、私はマクドナルドのおまけ全然わからん。唯一ディズニーのおもちゃがあったのは覚えてるけど、今Wikipediaでハッピーセット確認したら日本では1987年からて書いてるのでちょっと下の世代からな気がした。

                    おまけはどっちかというとミスタードーナッツのほうがなじみ深い。ハッピーセットと違い子供向けのおもちゃじゃなく弁当箱、バッグ、手帳など実用的で頑丈だったこともあって中学生ごろまでよくスクラッチけずってもらっていた。
                    ミスタードーナッツの「なつかしオリジナルグッズ」のページを参照すると、代名詞的存在であるオサムグッズは1984年に登場しており、体感ではバブル〜くしゅくしゅソックス時代の10年ぐらいがミスドおまけ全盛期だったと思う。原田治だけではなくペーター佐藤のリアルな白人の絵も古き良きミスドって感じだ。

                    その点マクドナルドはドナルドはじめとするアメリカンなノリの妖怪を前面に押し出しててあんまりかわいくはなかった。しかし80年代だとマクドナルドもミスタードーナツも繁華街を中心に店舗があったし、ドーナツはセルフでなくショーケースから店員さんにとってもらう方式が多く、繁華街がシャッター街となり古いインテリアや間取りのマクドナルドが完全に滅亡した感のある今ではかっての姿が懐かしく思い出される。

                    1985年ごろウーパールーパーという頭悪そな名前の生物が人気爆発したのだが、これは日清やきそばUFOが勝手に名ずけたもので正式名称はアホロートルらしい。CMではポプパポパ・・・とパ行だけでしゃべったりUFOからやってきたと唄ってるのでエイリアンやコスモ星丸みたいなイメージなのだろう。

                    またラベル2枚で当たる目覚まし時計ダンシングウーパーに起こされたウーパールーパーはブレイクダンスを踊っていた。ブームから35年をへてブレイクダンスもこのたびパリ五輪の正式種目になるそうで日本人の活躍が期待される。

                    今みたいに毎日シャンプーとリンスしはじめたのって絶対そんなに昔じゃないし、たぶんバブル時代ぐらいからのならわしだと思う。リンスは70年代からあっただろうけど今みたいにクリーム状のをなじませてすすぐんじゃなくて湯張った洗面器に溶かしたのに髪を浸すんだかかぶるんだかという使い方が一般的だったはずだ。

                    ボディソープも、1984年に花王から発売されたビオレUあたりが草分けだったのではないだろうか。もともとビオレは中性の洗顔料だったのだが、いづれもアルカリ性の石鹸と違って突っ張らないのを売りにしてたとみられ、ビオレ専用スポンジにチキンラーメンの卵ポケットならぬビオレポケットがあってその中にビオレ注入して泡立てるようである。

                    バブルといえば朝シャンやリンスインシャンプーってイメージもあるのだが、資生堂リンプーが1988年、ライオンのちゃんりんしゃん「ソフトインワン」の発売が1989年らしいのでバブルってよりはくしゅくしゅソックス時代なのだと思う。1984年というとフルーつぶっていうフルーツのつぶつぶ入りシャンプーがライオンから発売され若い娘さんたちのあいだで人気爆発したそうだ。


                    海外

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                      わが国において高度経済成長期に猛威をふるいソ聯から緊急輸入された生ワクチンで根絶されたウイルス性の伝染病である小児麻痺(ポリオ)子どもが熱出した後に足悪くなる。て認識しかなかったので、昔のニュース見てポリオで亡くなったり呼吸中枢をおかし鉄の肺が必要となるケースもあることを初めて知った。日本ではやはり足や母親の介護(と指圧や宗教に走る)がクローズアップされることが多く鉄の肺はチラっとしか写ってなかったが、海外のポリオ動画はむしろポリオといえば鉄の肺って感じだ。

                       

                      The Last Few Polio Survivors – Last of the Iron Lungs(YouTube)

                      https://www.youtube.com/watch?v=gplA6pq9cOs

                      日本でポリオ根絶したのは1961年だけどアメリカではそれよりちょっと早いようで、それもソークワクチンのほうで制圧したらしい。おそらく当時は生ワクチンの安全性にそこまで確信もててなかったと思われる。

                      この動画の人はアメリカで大流行した1952年に6歳でポリオに罹患し、以来ずっとこんな狭い鉄の肺の中で一生をすごさなければならなかった。ワクチンで抑えれるまで夏にはちょくちょく流行して母親を恐れさせていたらしい。

                       

                      Polio Revisited part 1(YouTube)

                      https://www.youtube.com/watch?v=D71ptDmRhVA

                      アメリカでまたポリオの人出てきてるみたいな話になってるけどウィキペディア見たらやはり2015年時点で野生種の感染者はパキスタンとアフガニスタンだけって書いててよくわからん。同じ頁によると全世界で野生種での感染が71人、ワクチン由来が27人てことで、ポリオビールスなきあとは生ワクチンがけっこうな感染源になっている。

                      きっと鉄の肺はアメリカ製なのだろう。日本のポリオ動画ではお子さん鉄の肺を見ることもなく亡くなり〜とか言ってたし、じゅうぶんに行きわたってない感じだった。

                      あと英米のポリオ動画見てたら、鉄の肺とソーク博士とあとは太平洋戦争のとき大統領だったルーズベルトもよくポリオ罹患者として登場している。大人になってから感染したのだが、1938年ポリオの子どもの国営基金「マーチ・オブ・ダイムズ」を設立したことで10セント硬貨(1ダイム)にルーズベルトの肖像が刻まれることになったのだという。

                      しかしこういう英米の伝染病動画見てて気づいたのだが、むこうでワクチン反対する者はアンタイ(アンチ)ヴァクサーっていう名前がつけられており、対するワクチン推進派は支持を意味する接頭語のプロでプロヴァクサーって言うらしい。英語が心もとないためカタカナ表記でアンチヴァクサーと検索したところゆいいつ町山智浩の記述がヒットした。

                      それによると1998年イギリスの医師がワクチン自閉症説を唱えたのがきっかけでロハス野郎がアンチヴァクサーになったてことで、この医師はアンドリュー・ウェイクフィールドといい「MMRワクチン告発」って映画を撮ってそれを昔クリック募金やってたユナイテッドピープルが配給しようとしたけど、日本では1994年からMRワクチンが打たれるようになって自閉症増えたとか言ってるくだりもあったりして公開は中止になったらしい。私もワクチン自閉症説って聞いたことはあるのだが、これ比較的最近になって英米から輸入された概念なのだと思う。

                      一部の左翼がワクチンを忌避してるのは以前から認識してて、雑誌「ちお」や山田真、母里啓子の著書などを参照してたけどそういうジャパンマシニスト社の書籍でワクチンが自閉症の原因になってるってのはたぶん聞いたことない。自閉症説の医師がMMRのうちM(おたふく)の副反応が問題になってMRの個別接種になったっていう、わが国のワクチン史でもっとも重要であろう事件をMRが開始されたって勘違いしてるとこからもまったく別の系統だと考えられる。

                       

                      Anti-Vaxxer (アンチ・ヴァクサー=反ワクチン運動家)

                      https://aoikotori7.exblog.jp/24175468/

                      ・・・

                      彼らをアンチ・ヴァクサーAnti-Vaxxerと呼ぶ。2000年代に入り反ワクチン運動は急激に拡大した。
                      きっかけは1998年、イギリスの医者が「はしかなどの予防接種が始まってから自閉症が増えた。ワクチンの副作用だ」と言う論文を発表。それで英国連邦の親たちが予防接種を拒否しだした。
                      ・・・
                      アンチ・ヴァクサーが多いのはうちの近所、北カリフォルニア。特に、サンフランシスコから金門橋を渡った対岸のマリン郡はワクチン拒否率が州内でもっとも高い。
                      マリン郡は、最近の『猿の惑星』シリーズで類人猿たちが暮らす美しい森がある土地で、住民の平均年収は900万円以上。馬やヨットを持つくらい当たり前、自家用ジェットも珍しくない大金持ちばかりだが、他とちょっと違うのは、ベンツよりもプリウスに乗っている人が多いこと。みんなエコでナチュラル指向でヨガが大好き。ヒッピーでリベラルで、ニューエイジで、ほとんど白人だ。
                      彼らは体に入るものに気をつかう。野菜は有機農法、牛肉は牧草、チキンは平飼いで育てられたものに限る。化学調味料は絶対ダメ。最近はグルテンなしのパンしか食べないのが流行っている。免疫を作るためとはいえ、弱らせた菌を注射するワクチンなんてもってのほかだ。

                      ・・・

                       

                      Pesticides - DDT - Rachel Carson - Silent Spring(YouTube)

                      https://www.youtube.com/watch?v=Ipbc-6IvMQI

                      DDTは小児麻痺と戦った。ちょうど日本やアメリカでポリオはやってたときぐらいに使われてたのが殺虫剤のDDTで、ポリオビールスが糞便中に排出されることを考えるとハエが媒介してた面もあったと考えられる。

                      だけど基本的に予防としてはワクチンしかない。もうちょっとワクチンがんばったら天然痘みたいにこの世からガチ滅亡ってことになり、最終的には予防接種自体しなくてよくなるのだろう。

                      お子さんがたサンドイッチ食べてるとこにDDTが噴霧されてる。すごい体に悪そうだけどもレイチェル・カーソンが「沈黙の春」でDDTの使いすぎやめなはれと警告するまでみんな体に悪いどころか病原菌媒介する蚊やハエをみなごろしにしたら伝染病に苦しむ「不幸な子ども」もいなくなり衛生的で明るい未来待ってるぐらいのノリにちがいない。

                      1947年の広告。だから現代人が沈黙の春読んでも殺虫剤めっちゃ体に悪い。環境に悪い。虫が耐性つけちゃう。て今では当たり前のことしか書いてないのでそこまでおもしろくないけど、1962年当時は味の素ばりに何にでもかけてたのでアメリカ人たちきいてないよーーーー!!!てなったはず。

                       

                      味の素のDDT。味の素とかチッソてロハスに好かれる要素皆無すぎる。

                       

                      DDT Let's Put It Everywhere 1946(YouTube)

                      https://www.youtube.com/watch?v=-UiCSvQvVys

                      これは日本の殺虫動画でもよく見かける空気入れみたいな殺虫剤。スプレー缶出てくるまでこれがメインだと思う。

                      はけで塗るペンキみたいなDDT、本でしか見たことないのでじっさい塗ってるとこ見てちょっと感動した。あと粉タイプもあって使い方はイスやペットにかけたりとのみとり粉みたいな感じだった。

                       

                      終戦直後は人間のノミやシラミを駆除するためにGHQがDDTを日本にもたらし空気入れみたいな奴で頭にぶっかけた。もともとDDTは第二次世界大戦で除虫菊の供給が途絶えたのでアメリカで実用化されたらしい。

                      そういわれてみるとキンチョールって「大日本除虫菊」だし、かなり前に逝った瀬戸内国際芸術祭にてかって除虫菊で栄えた高見島の古い家で蚊取り線香展示してた「除虫菊の家」という作品もあった。そんな除虫菊が戦後、化学的に合成されたDDTやらBHCやらに切り替わったのも、下肥→化学肥料や自宅出産→病院などと同様GHQの陰謀だったようである。

                      大日本除虫菊株式会社の公式サイト「金鳥のあゆみ」で参照すると1945年「防疫除虫菊乳剤および化学合成殺虫剤DDTを進駐軍の命を受けて製造開始」とあるのを皮切りに1946年以降は各種BHC、1954年には自殺によく使われた農薬ホリドールを製造など終戦直後より害虫および殺虫剤全盛期にかけ体に悪そうな製品をつぎつぎと発売している。さすがにホリドールは自殺に使われてただけあってガスマスク必須だし農作物もライポンで洗ってただろうが、DDTは兵隊とか捕虜にかけてもなんともなかった(沈黙の春でも粉末状のDDTは皮膚から吸収されずらいとある)ので人畜無害と思われてたし、終戦後の日本においてもシラミが媒介してた発疹チフスはDDTによって制圧された。

                      しかしそれにしても鉄の肺動画見たく思い、アイロンラングでYouTube検索したらアイロンラングって名前のバンドばっかり出てきてきさま誰やねんとなった。DDTというバンドも日本各地に存在する模様。

                       

                      【新宿】DDTってバンド知ってる?【渋谷】

                      https://music2.5ch.net/test/read.cgi/minor/1068147737/

                      1 :1:03/11/07 04:42
                          新宿・渋谷辺りで活動してるDDTってバンド知ってる人居ますか?
                          新宿アンチ、渋谷ギグアン、下北沢シェルターなんかでよく見かけます。
                          千葉だとK's、LOOKなんかもたまに出てるみたい。

                          情報有れば教えて欲しい〜です。ってか語れ。

                      3 :おっと:03/11/07 04:51
                          っていうか、↑の1とスレタイ「スペシャル」が抜けてるし。

                      4 :1 ◆eBVw/7wtzc :03/11/07 04:59
                          >>3
                          DDT SPECIAL は大阪のバンドですよね?
                          それじゃなく東京の DDT ってバンドです。

                      5 :無名さん:03/11/07 05:41
                          DDTってバンドは九州にもいるぞ
                          DDTって名前は多いのなw

                      15 :無名さん:03/11/08 03:09
                          漏れも九州かとオモタw

                      16 :無名さん:03/11/08 03:12
                          四国と長野にもいるよ。DDT


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