ロリコンとJK
評価:
押切 もえ 扶桑社 ¥ 1,512 (2011-11-02) |
現代のJKとルーズソックス時代(20年前)のコギャルでは、チヤホヤされる理由にかなりの隔たりがあるように思う。前者はその若さゆえ、青春を謳歌する姿が大人にうらやましがられたり、またはロリコン的な意味で男たちの性的欲望を喚起するのに対し、コギャルは既存のモラルに対する破壊者としての役割を期待されていた。
私の記憶の中でコギャルらしき存在が最初に注目された契機は、くしゅくしゅソックス時代における「ブルセラショップ」(使用済みのブルマーやセーラー服の店)であり、日本男性特有とおぼしき高校の制服にハァハァする風習は80年代あたりから形成されてきたと思うのだが、当時「ギャル」という語が高校生ではなく20歳前後を指していたことからもうかがえるように、コギャル自体は今のように子どもっぽくはなかったのである。ルーズソックス時代から20年を経た現在ではJKが学校で携帯を使ったり、多少メイクしてようと何とも思われないが、当時の基準からするとポケベルを持ち歩き、茶髪と糸のように細く整えられた眉毛、パンツ見えそうな丈のスカートで学校に通うというのはよくも悪くも高校生らしからぬ、そしてまったく新しい現象であった。
↑近年は女子力あふれる知的キャラで売ろうとしている押切もえ。だがあぐらをかいて本を読む写真があるように、ルーズソックス世代らしく校内外で傍若無人にふるまっていたようだ。
当時は今ほど晩婚化も進んでいなく、またお姉ギャル(20歳前後のギャル)が出てくる前なのでルーズソックス世代より上は25くらいですでに見た目にも精神的にもオバサンくさかった。そしてバブルの置き土産である不景気で大企業さえも倒産し世間がどよーんとしていたので、大人を信じることも憧れることもできず、今のうちに仲間たちと若さを謳歌しておかないとすぐに婆になっちまう!という焦りがコギャルたちの爆発的なエネルギーになっていたと思われる。
それから20年を経た今もJKブランドがあるとすれば、新しい流行の担い手たる理解不能な女子高生像というルーズソックス世代以来のステレオタイプを引きづっているか、もしくはロリコン的見地から制服少女を搾取しようという、いづれも大人たちのハレンチな事情が働いているのではないか。そのへん大人の価値観を最大限無視して我が道を開拓してきたコギャルとは対照的に感ずる。
もちろんコギャルも「ブルセラ」「援助交際」と結びつけられていたという点でロリ的に搾取されていた面も否定できないが、先ほども述べたように今のJKほど幼い容姿ではなかった。日本の男は子供っぽい顔の女の子が好きとも言われるがそれはここ15年くらいの傾向であって、2000年代初頭にモーニング娘。とか小倉優子といった歌やグラビアのアイドルが出てくるまで、長らくそれらしいアイドルもいなかったのである。
そのモーニング娘。も12歳のメンバーがいたとはいえデビュー当時(90年代)は大人っぽくしていたのであり、露骨に子供やロリコンに受ける仕様になったのは2000年代に入ってからであろう。2005年になるとマスゴミが電車男とか秋葉原とかのまネコとかブログとか中川翔子とか言ってそれまで日陰者として無視してきたネットやオタクの世界に急に光を当て出し、同じころ(おそらくモー娘。を意識したであろう)AKB48が出てきた。
この2005年頃というのがアイドルのロリコン的な売り出し方とオタクが結びついておおっぴらに商業化される転換期で、ちょうどルーズソックスはいた女子高生を見かけなくなった時期でもあった。コギャルが否定してきた可愛くてファンシーな「少女文化」的なものが復権してきて、2010年代に入るとルーズソックス時代は時流に乗れてなかった秋元康がAKBのプロデューサーとしておニャン子クラブ以来再び表舞台に返り咲き、ギャル文化は死んだ。
- 2016.08.11 Thursday
- ギャル・JK今昔
- 00:09
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- by 悩み
個人的に最初に違和感を感じたのは2008年頃で、
AKBがちょうど表にで始めのころで当時下は小学生から上は20前半くらいのメンバーがひとまとめで制服着て出てきたのと、当時デビューした女子高生バンドSCANDALが制服来て歌番組出てたのが違和感の始まりでした。そっからが早かった。世の中というか日本のあらゆる文化のなかでJKてきなアイコンの要請が一気に高まったと感じた。