やっぱりGHQだね

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    美健ガイド社のマンガに感化されて以降、GHQの恐ろしい陰謀に関心を寄せるようになった私はてはじめにYouTubeでそれらしい動画を視聴したり、本屋で参考になりそうな文献を探してみたりなどしたものの、右翼による「GHQが日本人をお馬鹿にした」的な内容ばっかりで、もしかしてGHQの陰謀についての研究はわが国ではあまり進んでいないのではないか。と、しょっぱなからくじけそうになった次第である。もちろんGHQが日本をお馬鹿にした説というのもじつは良いこと書いてあるのかもしれないが、私が知りたい陰謀とは微妙に違う気がしてあんまり読む気しなかった。

     

    【高橋史朗】あらためて『GHQ洗脳政策』を考える[桜H27/6/23]

    https://www.youtube.com/watch?v=js4nFGkuwcE

    【高橋史朗】ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの源流を暴く![桜H27/8/4]

    https://www.youtube.com/watch?v=5UCx742_KrM

     

    たとえばこの高橋史朗という人なのだが、上のチャンネル桜の動画聞いてたらいきなり江戸しぐさとか言い出したのでオヨヨとなった。GHQとか戦後けしからぬ、と、教育勅語など明治しぐさに逝くならまだ意味わかるとして、昨今の朝鮮通信使や春画フィーバーなどを見ても平和でエコでエッチな江戸までさかのぼったらむしろ左翼というのが私の中の定説だ。

    それは戦後民主主義が悪って奴が戦前を美化するのと同様、戦前の日本(教育勅語、江戸っ子大虐殺等)を悪って考える奴はやはりその前の江戸を美化するということであろう。いっぽうのチャンネル桜や高橋氏は、今の日本人がGHQのせいでお馬鹿になったことをふまえれば逆に昔の日本人もてはやしたら右翼的で格好良い。ってなノリで公共広告機構CM以降既成事実化してた江戸しぐさを取り入れたのかもしれぬが、江戸しぐさの正体って本に江戸しぐさはGHQでのバイト歴アピってた芝とかいう爺さんが考えた嘘っぱちの歴史って書いてたよ。

     

    越川氏の『商人道』119頁には、明治以来の「江戸しぐさ」禁止を憂えた芝が、GHQの女性将校に「江戸しぐさ」認可を請願したという話がある。芝の「江戸しぐさ」を見たニューヨーカーが、帰国後に世界の流行の中心ともいうべき五番街でそれを実演し、米軍の機関誌でとりあげられたともいう。また、同書162頁には次のようにある。

     

    師は戦後、GHQ(連合国軍総司令部)でアルバイトをしていたことがあった。そのとき、こともあろうに、アメリカ軍の教育係のGI(アメリカ兵の俗称)から「江戸の考え方」の素晴らしさを再認識させられたという。

     

    戦前、アメリカは江戸を徹底的に調査、分析、研究して知恵のエキスを集めていた。とくに「江戸しぐさ」の販売戦略、考え方、方法などをヒントにして、対日戦略を立て、結果はアメリカの大勝利に終わった。

     

    これと同じ話と思われるものが、「NPO法人江戸しぐさ」ウェブサイトにおける桐山氏の解説にある。そこでは、芝は戦後、GHQで雑誌・新聞などの検閲の仕事をしながら「江戸しぐさ」の占領政策への活用を女性将校に進言した、という話になっている。

    (江戸しぐさの正体124〜125ページより)

    江戸っ子を解放し江戸しぐさを占領政策に活用するぜ。byマッカーサー

    1986年に、「江戸の良さを見なおす会」名義で出版された最初の「江戸しぐさ」関連書籍『今こそ江戸しぐさ第一歩』の234頁には、つぎのような呼びかけが掲載されている。

     

    マッカサー元帥の功績を顕彰し感謝の記念碑を建てましょう。そう呼びかけられた“江戸っ子wさん”の親類の方を探しています。昭和20〜1年ごろのことです。東京・日比谷のGHQ(連合国軍総司令部)を表敬訪問されたwさん(当時)の言い分は、明治以来80年の長きにわたって、江戸(東京)を占領し続けた軍人どもを打ち破り見事に東京を解放して、江戸っ子に返してくれたマッカサー閣下は、私どもにとっては永遠の恩人です。この大恩人に感謝し、再び弓をひく(戦争をする)ことのないように、子孫のために遺言を刻んだ顕彰碑を建たいということだったと思います。wさんの御親類か、ご存じの方がいらしたらご一報くださいませ。

     

    この「江戸っ子wさん」という人物については不詳だが、当時「江戸の良さを見なおす会」を主宰していた芝がこの人物に共感し、マッカーサーを江戸っ子の恩人とみなしていたことがうかがえる。

    (132〜133ページより)

    マッカーサー顕彰運動への共感に見られるように、芝は戦前の軍国主義的風潮、ひいてはそれを準備した明治政府の政策を嫌っていた。その心情が彼を「江戸」への回帰に導いたわけである(たとえその空想上の「江戸」が、現実の江戸と比べてそんなに珍妙なものだったにしろ)。

    こうした心情は門下の越川氏に受け継がれていた。みやわき心太郎「江戸しぐさ残すべし」は越川氏による内容チェックがされており、越川自身も狂言回し的な登場人物として登場する。その1コマには「戦後レジームからの脱却!」「憲法改正!」を怒号する安倍晋三元首相(当時)の似顔絵と、その前で次のような会話を交わす黒子(みやわき)と越川氏の姿が描かれている。

     

    みやわき「オヤ?あんたまだ長州藩ナノ?」

    越川「日本を戦争の出来る国にしないで!」

    (150〜151ページより)

     

    高橋氏の提唱する親学(おやがく)というのもググてみたのだが・・・

     

    親学とは(ニコニコ大百科)

    http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A6%AA%E5%AD%A6

        赤ん坊には子守唄を聞かせ、母乳で育てなければならない。粉ミルクは使わない。
        授乳中はテレビをつけてはいけない。子供にテレビやビデオはなるべく見せない。
        子供には早寝早起きさせ、朝食を必ず食べさせる。
        インターネットのフィルタリングを徹底し、有害情報から子供を守る。
        テレビやゲームなどのバーチャルから子供を遠ざけ、親子で演劇などを見る。
        PTAに父親も参加する、また教科書もチェックする。
        遊び場確保のため、一般道路を解放。
        企業は授乳休憩を設け母親を守る。
        乳幼児健診などの機会に自治体が「親学」講座を実施。
        幼児段階で基本的な道徳、思春期到来前に社会性を身につけさせる。
        思春期以降は自尊心が低下しないように講じる。
        発達障碍やアスペルガー、自閉症は親の愛情不足が原因で、伝統的子育てでは発生しない。

     

    PTAって名前からしてGHQの民主化政策ぽくないか。と思ってウィキペディアを読んでみた。

     

    PTA(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/PTA

    1946年(昭和21年)の春、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の要請によりアメリカ合衆国から派遣された教育使節団が作成した報告書、アメリカ教育使節団報告書(第一次報告書)が発表された。同報告書では、PTAに直接言及はないものの、いくつかの箇所でPTAの理念に及ぶ考え方が示された[13]。また、1947年(昭和22年)4月には、極東委員会も「日本教育制度改革に関する指令」を定め、PTAが民主主義教育推進のために積極的な役割を果たすことを期待し、勧奨した[13]。GHQは、これらの基本方針を元に、総司令部の民間情報教育局(CIE)と地方軍政部が担当して、全国の学校へのPTA(父母と先生の会)の設置を奨励・推進した。実際の事務を担った文部省は省内に「父母と先生の会委員会」を設置して審議研究を進め、同委員会は「父母と先生の会‐教育民主化のために‐」と題するPTA結成の手引き書[14]を作成した。

     

    PTA的なものは「後援会」「保護者会」「母の会」の名前で戦前から存在したと書いてるけど、とりあえずPTAと江戸しぐさがGHQの民主化政策と考えれば、GHQの洗脳政策をうったえてる高橋氏までもがGHQ洗脳されているのであり、あらためてGHQの陰謀の根深さに驚きを禁じ得ない。というか江戸しぐさってのがGHQアルバイト(自称)の爺さんが考え出したようにウォーギルトインフォメーションプログラムも江藤淳という人がオリジナルだし、最近では西岡力と慰安婦の活動もやっているようで、それらを見るかぎり高橋氏の研究て基本的にすでに存在する「昔はよかった」をつぎはぎしたために、左翼とかGHQとかロハスが混じっててよくわからんことになってるのかなと思った。

    そもそも親学のいう伝統的子育てってじつはあんまり伝統的じゃない気がするが、そういえばこのまえ戦時中の主婦雑誌見てたらずっとGHQがゴリ押ししたと思ってた(し、一般的にもひろくそう言われている)抱き癖理論や3時間授乳が普通に出てきたので、GHQの陰謀だけでなく昔の子育ては良かったけど今は間違いっていう美健ガイドや親学や助産院などなどの歴史観を検証するためにも、もうちょっと戦前と戦後を比較調査する必要があると感じた。母乳育児にしても、戦時中お乳が出ない場合は牛乳に果汁を加えたものや粉ミルクを与えていたようだ。

    違うとすれば戦後のように人工栄養の方が優れてるということではなく、どうしても母乳が出ない場合だけに限って推奨していたという点だろうか。それも冷蔵庫のない時代なので夏場は牛乳がすぐ痛むとか、粉ミルクの質が良くないとかのしかるべき理由があったと思われる。


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