ヒッピー祭り

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    評価:
    南正人
    キングレコード
    ¥ 1,050
    (2012-10-03)

    「木を植えましょう」著者の正木高志も出演していた反原発イベント「いのちの祭り」がヒッピー大集合だった。もともと1988年に開催されたのが最初で、諏訪之瀬島や無我利道場のコミューンにいた山田塊也も実行委員だったらしい。

     

    いのちの祭り2012ーNO NUKES ONE LOVEー

    https://clubberia.com/ja/events/198163-2012-NO-NUKES-ONE-LOVE/

    【いのちのフォーラム】
    「いのちの宣言」メインミーティング9月16日(日)11:00 @RAINBOW STAGE
    「いのちの宣言」発表9月17日(月/祝)15:00 @RAINBOW STAGE 発表人:おおえまさのり
    経産省前テントひろばから 9月17日(月/祝)@RAINBOW STAGE
    呼びかけ人:原発いらない福島の女たち
    子どもの命と健康を守る「福島診療所建設基金」への呼びかけ
    「いのちの文明」トークセッション @NO NUKES ONE LOVE CAFE
    ナビゲーター:谷崎テトラ
    ゲスト:9月14日(金)辻 信一
    9月15日(土)鎌田陽司
    9月15日(土)田中優
    9月16日(日)正木高志

    ・・・

    『いのちの祭り2012』

    富士山麓の豊かな自然の中で、カウンターカルチャーを体現する、
    すべての若者が集まる4日間のキャンプイン・フェスティバル

    『いのちの祭り2012』が開催されます。

    『いのちの祭り』は、1988年に八ヶ岳に約1万人を集め、当時のマスコミから和製ウッドストックなどと呼ばれた野外フェスの元祖です。1969年の『ウッドストック音楽祭』は、1960年代の意識革命で目覚め、オルタナティブな生き方を探して都市を脱出し、全米各地や世界中に散った人々の同窓会でもありました。同様に、チェルノブイリ原発事故を受けて「No Nukes One Love」をテーマに掲げた『いのちの祭り1988』は、1960?70年代、都市を離れてコミューンをつくり、ヒッピーやニューエイジと呼ばれ、オーガニックなライフスタイルを模索した日本のカウンターカルチャーの担い手たちが、一堂に会した「フェス=お祭り」でした。

    その12年後のミレニアムには、『いのちの祭り2000』が開催され、長野県鹿島槍に約7,000人が集まりました。このときは、ロック世代からトランス世代への継承のお祭りでもありました。『いのちの祭り1988』の関係者や参加者が、1990年代のレイブシーンや野外フェスブームの中心だったこともあります。音楽ジャンルの違いは問題ではありません。そこで継承されたのは、近代合理主義を越えた、ポストモダンで、ニューエイジな、水瓶座の時代の意識であり、感性であり、生き方でした。

    そして、2000年からさらに12年後の今年、富士山の麓で『いのちの祭り2012』の開催されます。テーマは再び、「No Nukes One Love」。日本が、そして世界がアフター・フクシマの時代に突入した今、24年前から引き継ぐこのテーマが、ますます重みと輝きを増し始めています。『いのちの祭り』で会いましょう!

     

    いのちの祭り(1988)

    http://www.champloose.co.jp/champloose02/1220.html

    今でも語り継がれる、80年代ニューエイジムーブメントの大きな山といえるイベント「いのちの祭り」も実は昌吉の提唱によるものである。
    昌吉は八八年をとても重要な年と位置付け、70年代後半から88年8月8日に祭りを興すことを目標に、保坂展人氏や友人たちとともに早くから動いていた。
    その昌吉の念願の祭りの会場が長野県八ケ岳に決定し、祭りのタイトルも「八ケ岳、いのちの祭り」に決まった。88年8月8日に八ケ岳の8も加わり五つの八の祭りになったのだ。
    「NO NUKES ONE LOVE」を掲げて実行委員会が結成され「自然と生命の尊さを考える」という主題のもとに八月一日から八日間にわたって行われた。
    出演者も、喜多郎、カルメン・マキ、山口富士夫、上々颱風、吉田日出子、星川淳、広瀬隆、ナナオサカキや、科学者、住民運動家から役人まで多岐にわたった。アメリカインディアン・ホピ族のトーマス・バニヤッカも参加し、ホピの予言、原爆、原発についてのメッセージを送った。チェルノブイリの原発事故以降、危機感を募らせていた人々の思いも集中し、全国から8888人(主催者発表)といわれる観客動員があった。

     

    1979年アメリカのスリーマイル島で事故が起き、野草社の雑誌「80年代」で広瀬隆や中尾ハジメが原発の記事書いてたくらいが反原発運動で主流なロハスのはしりで、その後1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて広瀬隆が著した「危険な話」(1987)が一部で話題沸騰し、運動の規模もこのときに相当大きくなったと思われる。いしだ壱成が少年時代に伊方原発の出力調整実験に抗議してほびっと村の人とかと四国電力の座り込みしてたってブログで回想してたのも、いのちの祭りと同じ1988年でこれまた「80年代」の執筆陣だったミュージシャン喜納昌吉も参加していた。

    1988年のチェルノブイリに対し、2012年のいのちの祭りは福島の原発事故を受けての開催だったのだろう。辻信一や正木高志が出演するトークのナビゲーターが谷崎テトラとなっているが、この人は安倍昭恵さんのスピ友達だったかと思う。

     

    谷崎テトラ(Twitter)

    https://twitter.com/tetra_/status/617628942501941248 ‏

    安倍昭恵 総理夫人が日本古来の伝統文化である麻づくりを鳥取県の認可のもとすすめている智頭町を訪ねました。以下は智頭町の取材記事です。 60年ぶりに麻栽培が復活。伝統的な麻づくりの現場

    http://colocal.jp/topics/think-japan/tsukuru/20140902_36143.html …
    2:39 - 2015年7月5日

     

    森永自然シリーズ

     

    10年ぐらい前に谷崎氏がTOKYO FM出演してしゃべってたのがニューエイジすぎて、その番組名思い出したいけど全然出てこないのでWikipedia見てみたところ、構成しているTOKYO FMの番組「アース」「ピース」「キャンドルナイト」「apバンク」「木を植えましょう」みたいなのオンパレード、音楽関連では「PBC名義でティモシー・リアリーとの共作による『バルドソドル〜チベット死者の書ジョン・C・リリーのREMIX作品『ECCO』(サンフランシスコ/サイレントレコード)をリリース」とかよくわからないけどとりあえずニューエイジすぎて昭恵さん大麻畑で微笑むのも無理ないと思った。そういえば初めて服部みれいの存在知ったのも谷崎氏が構成してたTOKYO FMの番組である。

     

    野外フェスの元祖「いのちの祭り」:脱原発と日本のカウンターカルチャーのクロニクル(2012年11月30日 WIRED)

    https://wired.jp/2012/11/30/inochinomatsuri/

    ・・・

    88年8月1日から8日の8日間、八ヶ岳のスキー場で開かれた「いのちの祭り」には、述べ約1万人が、キャンプインで集まった。それだけの数の人間が、野外でキャンプしながらひとつの場所で、1週間以上も生活するなんていうイヴェントはそれまでなかった。

    しかも、単なる音楽フェスティヴァルではなかった。祭りが掲げたテーマが、「No Nukes One Love」。2年前の86年に世界を震撼させた、チェルノブイリ原発事故をきっかけに激化する反原発運動の、それは新しいひとつのかたちでもあった。

    会場では、環境汚染や自然農法が語られ、「No Nukes」な社会を目指すためのシンポジウムが連日行われた。気功や瞑想、マクロビや自然エネルギーに関するワークショップが開かれ、『ホピの予言』のようなメジャーが配給しない映画が上映された。パスポートを持たずに来日したネイティヴアメリカンのメディシンマンがステージで祈りを捧げ、オープニングセレモニーでは神道の大地の神が降ろされ、神楽が奉納された。

    それは、破滅へと突き進む持続不可能な消費文明とは別の、新しいライフスタイルの実験場であり、ショールームであり、束の間に現れた「ONE LOVE」の理想郷であり、日本のカウンターカルチャーにとっては、歴史的なギャザリングであった。

    ・・・

     

    このホピの予言って映画見たことないけどけっこう有名なので何を予言してたのかなど今しがた検索してみたところ、ホピ族っていうのはネイティブアメリカン、つまり白人が入植する前からアメリカに住んでいた先住民のインディアンであり、彼らの住んでいたフォーコーナーズは長らく不毛の地とみなされていた。やがてウラン鉱脈が見つかってそこで採掘されたウランで広島長崎の原爆も作られたのだが、ウランについて「母なる大地から心臓をえぐり出してはいけない」、原爆について「灰のつまったひょうたん」だとかいって、すでに核の汚染がホピ族のあいだで予言されていたのだという。

    ノストラダムスの1999年人類滅びるみたいで懐かしい。ていうか、ホピの予言の監督である宮田雪(きよし)の関わった水木しげるの漫画に「ノストラダムス大予言」もある。

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4886411061/

     

    宮田雪(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E7%94%B0%E9%9B%AA

    大学卒業後、映画監督鈴木清順に師事し助監督の道へと進むも、その後大和屋竺の薦めで脚本家に転じる。1987年ごろまで数多くのドラマ、アニメ、劇画などの脚本を手がける。一方でブーム前夜にあったニューエイジ・スピリチュアルの世界にも身を置き、1973年のインド旅行をきっかけに、日本山妙法寺の活動に加わるようになる。

    1978年からアメリカインディアンのホピ族に接触し、ホピ族らの文化に傾倒。8年がかりで1986年に記録映画を完成させるなど、彼らの文化の紹介に務める他、反原発運動などにも関わる。水木しげるとは1970年頃から師弟関係にあり、漫画原作の提供や、水木をホピ族の村に招くなどしている。

     

    上の引用記事にある日本山妙法寺、コミューン時代の1975年にヒッピー大集合の「花祭り」が開催されていたようで、13年後のいのちの祭りと山田塊也や南正人など関係者もかぶってる。記録映画「花まつり」監督の藤枝静樹は同時期に上野圭一が部族(っていうコミューン)を撮った「スワノセ・第四世界」(1976)のスタッフで、YMO、甲斐バンド、りんけんバンド、鼓童などおもにミュージシャンの映画に関わっていたらしい。

     

    花祭り1975  final cut(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=AITgGWOcLZ8

    (1975年04月20日 御殿場・日本山妙法寺)「ミルキーウェイ・キャラバン75・花まつりコンサート」

    演奏­:アケト、ジョン、タシ、アシッド・セブン・ファミリー・バンド、久保田麻琴と夕焼け楽団、CCCマントラバンド、ジュゴン、裸のラリーズ、南正人グループほか。

    この日の模様は「花まつり」(藤枝静樹監督、16ミリ、約75分 1975)という記録映画に。以下は監督の 藤枝静樹氏談。

    1. 約60分の上映時間のうち、ラリーズの演奏場面(「The Last One」)は2、3分。

    2. 照明なしで、ステージのストロボだけで撮影しているため、姿はストロボが光った時にち­らちらと見えるだけ。

    「裸のラリーズと言えば1曲30分以上で延々と続く演奏がすごいが、ここでの収録はご­く短い。ラリーズだけを期待すると、飽きてしまうかも」との話。 この映画はプリントが3本あるが、

    (1)1本は会場の日本山妙法寺にある仏舎利塔の中(「入れっぱなしのため、とっくに­色などが飛んでおり、見れないだろう」)

    (2)もう1本はオランダに渡った

    (3)残りの1本は藤枝監督自身が持っている 藤枝監督所有分は、日本のコミューン周辺などの要請で数年に1度上映してきたという。

    今のところ次の上映予定は決まっていないが、そのうち何らかの形で上映するようだ。

    具体的にこのフィルムが現在どこにあるのか藤枝監督自身はっきりしないが、「おそらく­自宅のどこかにあるのでは」とのこと。 ビデオ化の予定は今のところない。

     

    確かこの花まつりと同じころの雑誌で宮田雪がラム・ダス「ビーヒアナウ」を解説していたのを見たことがある。当時の宮田氏はいのちの祭りの実行委員長でもあるおおえまさのりとオーム・ファウンデーションとかいう団体?を設立していた。

     

    おおえまさのり(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%88%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%AE%E3%82%8A

    おおえ まさのり(1942年 - )は、日本の作家、翻訳者、映像作家。

    来歴

    徳島県鳴門市に人形製作者大江巳之助の長男として生まれる[1]。京都学芸大学(現・京都教育大学)特修美術学科卒業。

    1965年より1969年まで、ニューヨークで映画を制作する。1971年、インドを旅しチベット仏教を知り、「チベットの死者の書」を翻訳し出版する[2]。以後、精神世界やニューエイジに関わる様々な企画・出版・学塾に従事する。

    1988年8月に八ヶ岳で開催された「いのちの祭り」[3]、2000年8月に長野県大町市で開催された「いのちの祭り2000」の実行委員長を務めた[4]。いちえんそう主宰。

     

    「ホピの予言」宮田雪監督と関係ある漫画家は水木しげるのほかに真崎守がいて、真崎氏は野草社のコミューン雑誌「80年代」で表紙や山尾三省の詩にイラストをつけていた。「ホピの予言」についての書籍「ホピの太陽の下」も野草社から出ており、宮田氏が「80年代」誌に寄稿していたこともあったそうだ。

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4787705814

     

    未来へ続く道 2018(3)製作ノートより

    https://www.landandlife.org/2018/02/21/%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%B8%E7%B6%9A%E3%81%8F%E9%81%93-2018-3-%E8%A3%BD%E4%BD%9C%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88/

    2月11日に行われた「未来へ続く道 2018」イベントでは、記録映画『ホピの予言」製作ノートのごく一部をみなさんにご紹介しました。

    これは宮田雪が書き記し、1982年11月1日発行で、、当時隔月誌だった『80年代』No.18に寄稿した文章です。

    ここで第1章の一部をあらためて。全体は5,000〜6,000字。

    当時、宮田37歳。
    ちなみに、No.18のタイトルは「文明の光と影」
    表紙は、漫画家真崎 守氏。

    ・・・

     

    映画「ホピの予言」(監督・宮田雪 ランド・アンド・ライフ)をめぐって

    http://d.hatena.ne.jp/siniaimacoco/20100505/1273025643

    「・・・再び宮田雪に出会ったのは73年、71年にインドを旅してきて、

    『チベットの死者の書』の翻訳・出版作業をしているときだった。

    そして74年、東京都国立市に、彼と共に『オームファンデーション』を開いた。

    時代の中には、自己の変容を賭けながら、新しい文化の潮流を花咲かせたいという激しい胎動があった。

    心や魂や精神、あるいは霊性といったもの源流から、

    再びホリスティック(包括的)な生命の潮流を汲みだし、

    自己と社会の変容を実現してゆこうとする多様な運動、

    今日ニューエイジとも呼ばれる潮流の、その胎動である。

    オーム・ファンデーションもまた、そうした人と時代の欲求の中で生まれてきた。

    精神世界の開示と、それを生きることの作業として。

    そして次第に、アメリカ西海岸でニューエイジを体験してきたり、

    インドから帰ってきた人たちの、コンミューン的な出会いの場となっていった」


    そこでの活動の中で、

    宮田は部族の山田塊也や後に屋久島に移り住む詩人の山尾三省などと知り合った。

    この時のつながりは、映画「ホピの予言」の全国上映の時に生きる事となる。

    宮田は同時期平行して、青年誌で売れっ子だった漫画家、真崎守の原作を数多く手がける。

    真崎は宮田にとって、仕事を越えた関係だったらしい。

    真崎の仏教への傾倒は、かなり宮田にも影響を与えたようだ。

    その頃のことを宮田は「真崎守選集13環妖の系譜」(ブロンズ社・刊)の後書きでふれている。

    「長い間シナリオを書く仕事をしてきた私の旅が、

    真崎さんとの出会いと仕事を通して印度という世界観、具体的には印度の、

    その底流に保ち続ける仏教の世界観に向かって旅をし始めた時期だったと記憶している」

    ・・・

    映画「ホピの予言」の上映で初めて出会った時に、

    インド行きのことを宮田は私にこう語った。

    「インドへ行ったら、パスポートとお金を盗まれてしまった。

    三日食事ができなくてやっと日本山妙法寺にたどり着くことが出来、

    ああこれでやっと飯が食えると思ったら、その日から一週間断食が始まった。」

    インドへ旅立って、宮田を待っていたのは「日本山妙法寺」の「藤井日達上人」だった。

    宮田は日達上人を通じて法華経の世界と深く出会う。

    ・・・

    後に、映画「ホピの予言」の中の「ホピ平和宣言」の翻訳を縁に

    宮田と「ランド・アンド・ライフ」を立ち上げる北山耕平(注36)は、当時のことを振り返る。

    吉福伸逸さんが主宰していたC+Fコミュニケーションズというグループがあって、

    アメリカで起こり始めたいろいろな運動とか勉強する会で、

    宮田さんに会ったことがあるというくらいだった。

    宮田さんはその頃既に、シナリオライターとしてかなり実績があった。

    僕は「宝島」というシティボーイのための雑誌を作っていた。

    そういう雑誌を作るというのが面白かった時期もあっただけど、

    76年、ほとんど逃げるみたいに日本から出ていった先がロサンゼルスだった。

    放浪している間にたまたまローリングサンダーという人に出会って、

    アメリカインディアンの事を学ばされた。

    76年から82年頃まで、ちょうどアルカトラ島の事件が起こった直後で、

    アメリカインディアンの権利回復運動が起きた期間にたまたまアメリカにいたから、

    そのことを日本に伝えなければ・・・と思ったことがたくさんあり、

    吉福さんに相談に行ったりしていたんですよ。

    あれは熱海に住んでいた頃、

    映画「ホピの予言」ができる一年半前頃、宮田さんの方から電話してきた。

    「ホピ平和宣言」の翻訳をしてほしいということだった。

    僕はその頃、ローリングサンダーの本を出した頃だった。

    宮田さんもそれを読まれたんだと思う。

    インディアンの人達について伝えるという仕事だったら、なんであれ引き受けるつもりだったし。

    その時にはもう、フィルムは取り終わって編集段階だった。」

    ・・・


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