水に流してた

0

    1950年代に熊本県水俣市で発生した公害「水俣病」は、チッソの工場排水にメチル水銀が混じったことで魚が汚染された。ということを調べていてふと、水銀に限らず有毒な物いろいろと垂れ流していたであろうわが国の歴史に思いをはせずにはいられなかった。戦後すぐぐらいまでなら江戸時代とそこまで変わらなかったので、ゴミとか川に流したり土に埋めても自然に帰っていたのかもしれない。

    だから高度経済成長期に入っても人類がそんな便利なライフスタイル送った前例がないばかりにしばらくはとりあえず流しとけば今までどうり分解され消えると思われ、その結果が水俣病はじめとする深刻な水質汚染だったと考えられる。水俣病の原因となったメチル水銀はプラスチック作る原料を製造する過程でできてたそうだが、石炭からのエネルギー革命もあったし50-60年代は石油の依存度うなぎのぼって廃棄物は自然界で循環しなくなった。

     

    し尿のゆくえ(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=hlcgEajh1Qs

    1960年ごろの映像らしい。これ人気動画なのかニュース映画見てるとけっこうな頻度でサジェスト表示されて鬱。

    「ずらり並んだ、汲みとり桶の異様。旧態依然たる屎尿の処理です。まさに屎尿の臭いに満ちたにっぽん的風景とでも言いましょうか」

    このカットのあと桶の中身がアップになりバシャァァッてひしゃくですくったり、狭い路地をチャプチャプ♪って跳ねてきそうな足どりで天秤棒に担がれてた。おらが村には下水などというオシャな物はないのでヴォットン便所やバキューム車はなじみ深いが、汲みとり桶(こえたご)と天秤棒はさすがに見たことない。

    カラー映像だったら、どんなだっただろうか。しかしにっぽん的風景=臭い、非衛生、遅れてるって嫌味がいかにも戦後ぽいし、そんな時代だからこそ米食や産婆や添い寝がバカにされていたのにちがいない。

    「その屎尿も昔はお百姓さんが桶を担いで屎尿を買い歩き、馬や船で農村に運んで農作物の貴重な肥料としました。それ以来ずーっと屎尿は肥料資源として大切にされてきました。しかし屎尿にとってのいわゆる黄金時代も終わりを告げるときがきました」

    ひしゃくでバシャアアッて下肥をやるにっぽん的風景と化学肥料を撒く近代的な農法が対比される。この時代が下肥の衰退期でこえだめに行き場のない熟成う○こがあふれかえっていた模様。

    「農村還元がさっぱりとなると、あとからあとから出てくる屎尿の始末はさてどうすればいいのか。全国の市町村は頭の痛いところ。やむをえず野原に穴を掘って捨てています。穴というよりまるで沼のようです。やがて屎尿は土にしみこみ地下水に流れ込んで、近くの井戸や川の水を汚染するおそれは十分です」

    地下水汚染ほのめかし、からの井戸水で念入りに米といだり野菜洗うカットにやめろぉぉぁ。てなった。それにしても、1960年は米炊くのにこんな釜や井戸水使っていたんだね。

    「ある大都会。その膨大な量の屎尿がだるま船に積まれて大川を下っていきます。われわれはそのあとを追ってみましょう。さて行きついたところはもう一段と大きい船。屎尿が積みかえられています。今度は屎尿を積んだ大型船が、岬の灯台を超えて沖へ沖へと走ります。やがて船は遠く黒潮流れる外海に出ました。バルブがゆるめられました。船底が開いて屎尿が海面に流れ出します。な〜るほど。すべてを水に流してしまおうというわけなのでしょうか」※白い帯状は屎尿

    海洋投棄からのお子さんがた海水浴シーンにやめろぉぉぁ。てなった。無数の浣腸がプカプカ浮いてるし海の底に汚泥がたまって魚も寄りつかないとか言ってて怖すぎる。

    「調べてみると屎尿を投棄した近くでは、魚や貝などのエラや内臓に寄生虫の卵やおびただしい大腸菌の群れが認められます。こうして汚染された魚や貝を食べたり不潔な流れや井戸の水を飲んだことから毎年数えきれぬ人びとが赤痢、腸チフスなど伝染病の犠牲となって倒れていきます」

    ちょうどこのころ産婆→病院出産っていうのも、下肥→化学肥料みたいな感じで切り替わっていったのだと思われる。たまにこういう高度成長期の悪によって「昔はよかった」を否定しようとする人がいるのだが、時間的には昔であってもマーブルやエールチョコなどと気取った横文字使い、古き良き日本を非衛生、非科学、遅れてる、米食べると馬鹿になるとしてことごとく否定していた時期なので引用するのにふさわしくないっていうかむしろこの時期の汚染ぷりを嘆いているからこそロハスは経済成長を否定し自然なお産や有機農業に回帰しようとするのである。

     

    し尿のゆくえ(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=7s9yoQHeVac

    まったく同じタイトルの浜松市版「し尿のゆくえ」。白黒なのかカラーなのかよくわからん色の薄い動画で、上の「し尿のゆくえ」に比べると内容もかなりマイルドになっている。

    1968年と上の「し尿のゆくえ」の8年後なだけあってそのぶん下水もだいぶ整備された模様。この感じだと農家の自家処理およびこえだめは1970年代を通じてほぼ滅亡したことであろう。

    こえだめと衛生的な化学肥料が対比される畑の風景は、上の「し尿のゆくえ」と全く同じ構成である。大量の余剰う○こを川や海や山に捨てるのも汚いけど、下肥使ってたらまた虫ついてるから汚いと野菜をライポンで洗うっていうポイズンぶりなのでさすが水俣病発生してた時期なだけあると思った。

    ライポンといえば最近人気爆発している袋に入ったサラダ、洗わずにそのままドレッシングかけるもので、私はああいうの絶対ライポンで洗ってるよな。と思って、かっては食べたくなかった。でも何かのできごころで安売りしてたのを食べてみたところ、細かく切れてるし野菜が何種類か入ってるし、洗う必要ないから水も完全に切れててドレッシングがよくからむので自分が野菜洗って切るサラダよりおいしかった。

    すると先日、ナメクジの寄生虫だか菌だかが脳に入って障害が残り、死に至った人のニュースを見てびっくりした。野菜から出てきたらナメクジさんが食べるくらいだから安全なんだね♪と思ってたロハス脳だったけど、前述のニュースで、ナメクジきっっったねーーーーーー。てなって、もはやライポンで洗った野菜しか食べたくない。

     

    昭和31年05月16日 皆さんのあと始末 0067(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=X6TzamUDgOs

    「みなさんが毎日捨てるごみや体内から排出する汚物はたいへんな量に達します。まず人口が増加するいっぽうでは今までの手押し車のような非科学的なものではそれを処理することができなくなってきました」

    これは川崎市っていうか神奈川県の動画。1956年とかなり古く上の両「し尿のゆくえ」ほどではないとはいえ、経済成長期の初期にはすでに屎尿処理が社会問題になっていたことがわかる。

    出た。くみとり桶。

    「こうして集められた汚物は一部農村に肥料として配給されますが、半分以上は川崎市の持つ屎尿運搬船2隻で絶えず遠く海の彼方へと捨てられます。嫌われながらも毎日たゆまず続けられる仕事。これに従事している人々のたいへんな努力があるのを私たちは忘れてはなりません」

     

    昭和51年04月27日 ごくろうさん清川丸 0351(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=EKEeC0q7hkE

    「川崎市では海の汚れを防ぐためにこれまで行っていた屎尿の海洋投棄を廃止。さる3月31日、川崎区夜光町でその終幕記念式を行いました」

    これなぜか白黒なのですごい古い映像に見えるけど、昭和51年なのでじつはそこまででもない。上の「みなさんの後始末」からちょうど20年、毎日たゆまず川崎市の屎尿運搬してた清川丸はここでようやく引退した。

     

    昭和38年 衛生プラント(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=KqwaKnho9DI

    「やーどうもくさくってかないませんよ。しかしこれはぼくのことではなくて人間さまの屎尿のことなんですよ♪」by馬

    「毎日毎日生産される屎尿。くさいとか不衛生だとかいわれながらも、昔は農家の大切な肥料として重宝がられてきました。ところが化学肥料が大量に生産されている現在、屎尿はどこへ行ってもじゃま者扱いされまさにふんづまりといったところです」

    桶とひしゃくを使った前時代的な下肥と衛生的な化学肥料を対比させるお約束の演出。この静岡県の動画は昭和38年だそうで東京オリンピックと同時期だ。

    「そうかといって嫌われもののこの汚物、なんとか処理しなければなりません。まさか川や野原には捨てられず、その処理はどこでも頭痛のタネ。焼津市では遠く海上へ運んでいるありさまです。1日でも休めばため池があふれるとあって日に2,3回の定期便です」

    まさか川や野原には捨てられず、て言うけど、そのまさかで1960年版「し尿のゆくえ」では川や野原におもっきしう○こ捨ててた。それでも海に捨てるっていうのは当時の常識だ。

     

    漁業者からみた屎尿の海洋投棄

    http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo033.htm

    汲み取り屎尿を海洋に投棄する処分法は,昭和の初めから一部の大都市で行われていました。戦後,屎尿の農地への還元が行き詰まりみせた昭和25年頃からは全国的な広がりをみせ,沿岸の多くの都市で実施するようになりました。当初は内湾部へのほんの少量の投棄でしたが,その量が増えてくるとともに,「アサリやハマグリへの病原菌汚染」や「海苔養殖への被害」が起こり,次第に外洋域への投棄に移っていきました。
    屎尿の海洋投棄に対する漁業関係の学者の考え方は,当初,「海は潮の流れが強く自浄作用も大きいので,少しぐらいの屎尿投棄で海が汚濁されることはない。外洋を流れている黒潮は,栄養分の小さい海域なので,屎尿投棄により栄養分が補給され,魚の餌さとなるプランクトンの繁殖が助長される」というのが主流でした。しかし,瀬戸内海や東京湾の水質汚濁が社会問題化した昭和45年頃になると,「海の自浄作用を超える無計画な屎尿投棄は,漁場の荒廃を招く。海をゴミ溜めにすべきではない」という考え方の方が正論化されてきました。

     

    海洋投入(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E6%8A%95%E5%85%A5

    一般廃棄物
    日本

    人口集中が下水道整備を超過した1950年代、都市部の収集屎尿は船舶による海洋投入処分が主流となっていた。当時、東京湾外の青い海原に広がる屎尿の黄色い帯が、「黄河」と評されたという。

    その後、下水道の普及や屎尿処理の高度化により、屎尿や下水道・浄化槽汚泥の(施設の建て替えなどによる)一時的な処分や、ボーキサイトからアルミニウムを精製する工程で発生する赤泥(せきでい)を処分する手段として、小規模に継続していた。

    やがて、ロンドン条約の1996年議定書を批准して国内法規を整備し、2002年の廃棄物処理法施行令の改正と2007年までの猶予期間の終了により、海洋投入は原則として廃止された。

    現在では、海底の浚渫土砂などごく限られたものだけが、海洋投入を認められている。
    韓国

    1988年から、汚泥や家畜糞尿、浚渫土砂などの日本海と黄海への海洋投入を開始し、実績は1990年には107万トン、2005年には993万トンとなっている。しかし、廃棄物からの重金属検出による投棄反対運動や、輸出した魚介類の回収要請[3]により、海洋水産部が削減計画を発表した。韓国では漁船が海にゴミを全て捨てることが一般的となっているため、苦言を呈す者もいる[4]。
    韓国海軍
    韓国海軍でも軍艦で出る生活ごみを全部海に捨てていることが判明している[4]。

     

    言うてもう○こ自体は自然だし海もなるべく遠くまで捨てに逝ってるけど、水俣病は湾に水銀を流し地元民が魚ばっかり食べたたらしいので毒性もしゃれなってない。また公害問題にとりくんだ宇井純と中西準子は下水の専門だった。

    よくニセ科学批判においてロハス野郎は放射能や添加物をゼロにしたい「ゼロリスク」と形容されてるのを聞いたことある方もいるかもしれない。ゼロリスク概念の元ネタはおそらく中西氏のリスク評価なのだが、ロハス野郎がゼロにしたいのはあくまで放射能や添加物なのに何でリスクをゼロにしたいって設定にされたのか私の中で謎が深まっている。

     

    「リスク」という概念を知らない日本人 - 『リスクと向きあう』(2012年12月9日 アゴラ)

    http://agora-web.jp/archives/1505977.html

    著者は日本の反公害運動の草分けだ。宇井純の弟子で、高木仁三郎などと同じ第2世代である。私も取材したことがあるが、70年代の反公害運動は今よりはるかに困難だった。そもそも公害というのがよく知られていない上に、情報が出てこない。役所も企業をかばうし、民放はスポンサーに遠慮してほとんど伝えなかった。NHKは公害問題にもっとも積極的に取り組み、高い評価を得た。

    参議院議員までつとめた共産党員の子として生まれ、マルクス主義の影響を受けた著者は、東大の助手時代に反公害運動に身を投じ、その結果として23年間、助手を続ける(小出裕章氏みたいなものだ)。しかし著者は反対だけでは何も変わらないと気づき、流域下水道に代わって小規模な「いい下水道」を提案する。これが藤沢市などに採用されて、日本の下水道は大きく変わる。

    しかし小規模な下水道でも、ごく微量の発癌物質は残る。それをどうしようか思い悩んでいるとき、著者は1987年にアメリカの議会図書館で「発癌リスクの許容度」のデータを見てショックを受ける。それまでの「安全管理」は、死者をゼロにすることが目的で、一定の死亡率を許容することはありえなかったが、これを機に彼女は「リスク」という概念を日本で広めようとする。

    しかし反対派は彼女を「体制側に転向した裏切り者」と批判し、離れていった。彼女はその後、横浜国立大学や産業技術総合研究所で、日本で初めて「リスク」と名のついた研究組織をつくり、さまざまなリスクを定量的に調査する。チェルノブイリ事故の現場も調査し、最大のリスクは強制退去による生活破壊だったことを知る。福島についても、放射線障害のリスクはないが、「ゼロリスク」を求める人々が被災者の生活を破壊している。

    ・・・


    スポンサーサイト

    0
      • 2018.12.10 Monday
      • -
      • 00:23
      • -
      • -
      • -
      • -
      • by スポンサードリンク

      コメント
      コメントする








         
      この記事のトラックバックURL
      トラックバック

      profile

      calendar

      S M T W T F S
            1
      2345678
      9101112131415
      16171819202122
      23242526272829
      3031     
      << December 2018 >>

      selected entries

      categories

      archives

      recent comment

      recent trackback

      search this site.

      links

      others

      mobile

      qrcode

      PR

       

       

      powered

      無料ブログ作成サービス JUGEM