高度子供文化成長期

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    「ロッキンオン」「まんがコミュニケーション」の創刊にかかわってた橘川幸夫の文章を読んでたら、よく「子ども調査研究所」の話が出てくる。下の引用文によると、「週刊読書人」という書評新聞にマンガにかんする投稿したところ同研究所の高山英男から連絡がありそこから接点ができた。

     

    追悼・高山英男さん(8月15日 note)

    https://note.com/metakit/n/n7fe5f4b11756

    ・・・

    高山さんは、僕を最初に見つけてくれた人である。あれは1969年ぐらいであったか、読書人という書評新聞に、当時、僕が熱中して追いかけていたマンガ家の真崎・守と宮谷一彦の批判的なマンガ評が掲載され、愛するものをけがされた怒りから、激烈な反論文を書いて、読者欄に投稿した。その原稿を読んで、高山さんが面白がってくれて、読書人の編集部に電話をして、僕の連絡先を聞いて、連絡をくれた。

    高山「君の文章、面白かったですよ。子ども調査研究所というのをやってるのですが、一度、遊びにきませんか」
    橘川「飲ましてくれるなら、行きますよ」

    これが最初の会話だった。子ども調査研究所は、神宮前にあり、当時、僕は広尾の国学院大学に通っていたので、わりとすぐに研究所に行ったと思う。研究所には、高山さんはじめ、斎藤次郎さん、近藤純夫さん、富岡千恵子さんら、それぞれ雰囲気のある人たちがいて、会社だし、忙しそうにしているのだが、なんだか、ゆったりとした空気が流れていた。僕は、この場所で、メディアの人生をスタートしたのだ。

    ・・・

    実際、子ども調査研究所は、ビジネスにえげつない企業や代理店との付き合いの中で商品開発をする仕事だったので、本当は、僕の感性に近い高山さんも、相当、苦労してきたのだと思う。戦後の代表的な子ども商品の大半の新商品開発に、高山さんたちは関わっていた。リカちゃん人形も、人生ゲームも、チョロQも、大半の玩具メーカーは子ども調査研究所と一緒に商品開発をした。グリコでは30年以上も、毎月大阪のグリコ本社で子どもや若者の最新情報を学ぶ勉強会を行っていた。グリコのおまけは、ほとんどこの会議から生まれたのだと思う。高度成長の頃、メーカーが民間の調査会社と一緒に新しい市場や商品を開発していた、ものづくりの幸福な時代があったのだ。

    僕は単行本の「企画書」を出すことによって、今までとは違う広い世界での友人たちと多く出会ったが、この本の僕の誇りは、推薦文を書いてくれた人が「林雄二郎、高山英男、渋谷陽一」の三人だということだ。僕の人生の3つの極である。最初の本、つまり社会的には無名の僕を、三人が推薦してくれた。

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    マーケティングの復興を(2010年6月1日 デジタルメディア研究所)

    http://www.demeken.co.jp/dmkn/2010/06/post-17.html

    ◇先日、子ども調査研究所に行って、近藤純夫さんとおしゃべりした。子ども調査研究所は、僕の心の故郷。1969年、19才の時に週刊読書人に投稿した僕の原稿を読んで連絡をくれたのが所長の高山英男さん。高山さんは、僕の一番最初のメディアを通して知り合った読者であり。僕を発見してくれた人。以来、40年間、僕は何かあれば神宮前の事務所を訪れて、高山さんや富岡さんとおしゃべりをしてきた。

    ◇高山さんは、もともと出版社の編集者で、横浜の学校の先生だった阿部進さんを発見し「現代っ子」というネーミングを考え、カバゴンを世の中に送り出した。編集者としては、松本俊夫さんの「映像の発見」という書名も高山さんがつけた。高山さんは、大島渚、寺山修司さんら当時の第一線の人間たちと付き合い、手塚治虫さんをはじめとするあらゆるマンガ家と交流していた。そして、編集者の嗅覚で、若い無名の人材を発見することについても天才的であった。学生時代に子ども調査研究所に集まっていただけでも、僕の他に、ジブリの鈴木敏夫さんや、マンガ評論家の村上知彦くんらがいた。僕らの下の世代でも、あらゆる領域で活躍している人たちがいる。僕は日本のアップルハウスだと思っていた。

    ◇僕が、二十歳の頃に最大の影響を受けたマンガ家の真崎・守さんと出会ったのも、この事務所だった。「闇縛り」は、このマンションの4階の部屋でやった。少年マガジンの編集長だった内田勝さんと高山さんは親友であり、内田さんが「ホッドドッグプレスを創刊する時に、僕を紹介してくれたのも高山さんである。

    ◇子ども調査研究所はマーケティングの会社だが、組織的な拡大はいっさい目指さず、高山さん、近藤さんをはじめ、玉造さん、渡辺くんなど、一騎当千の人材が、あらゆる子ども関連企業の商品開発の仕事を受けていた。まるで「同人雑誌みたいな会社だな」と思ったことがある。僕がデメ研を作った時のイメージも、ここに借りている。面白いことを考えたり実行してる奴ならば、いつでもどこでもアポなしで訪れることの出来る空間だった。

    ◇本業であるマーケティングの仕事でも、戦後の子ども産業の中心を走ってきた。「リカちゃん人形」の登場も「人生ゲーム」の登場も、高山さんたちの力が大きい。僕が「ポンプ」をやめて独立した時、高山さんの紹介でバンダイのコンサルに入ったこともあった。

    ◇そういう経緯なので、ぼくは 学生時代から、子ども調査研究所の活動に触れていたから、企業のマーケティング調査の意味を分かっている。実際、子どもたちのグループインタビューやアンケート調査の集計などを手伝ったこともある。

    ◇「子ども手当」のプロジェクトが始まったので、久しぶりに、最近の子どもたちの現況について教えてもらおうと、近藤さんに会った。すると、驚くべきことを言われた。「橘川くん、企業はもうマーケティング調査なんかしてないんだよ。電通だって、マーケティング局なんかないし」と。

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    「読書人」への投稿は真崎守のマンガに関してであり、子ども調査研究所には真崎氏、また「共犯幻想」で真崎氏との共作もある教育評論家の斎藤次郎も出入りしてたので、そこから橘川氏と「まんがコミュニケーション」がつながってくるのだろう。子ども調査研究所は子ども商品の開発にかかわっており、引用文によればリカちゃん人形やチョロQ、人生ゲーム、グリコのおまけなど多くの日本人が幼き日に慣れ親しんだおもちゃの数々が同研究所の会議から生まれたそうだ。

    所長の高山英男が横浜の教師だったカバゴンこと阿部進を見出して「現代っ子」というネーミングを考えた。っての読み、60年代半ばに鉄腕アトムのテレビシリーズが明治製菓一社提供で始まってマーブルチョコレートのおまけでアトムのシールついてたが、その広告の画像に「ニギヤカ好きの現代っ子向き」て書いてるのふと思い出した。だからもしかするとマーブルのアトムシールも子ども調査研究所が開発したのかもしれない。

    そもそも子ども調査研究所に出入りしてた真崎守が虫プロ出身で、虫プロの漫画雑誌「COM」で漫画批評してたのがコミックマーケットにつながってたりする。なので1960年代半ばに子どもの頃から手塚治虫をはじめとするテレビアニメ、また子ども調査研究所のマーケティングから生まれたおもちゃに慣れ親しんだ「現代っ子」(オバタリアンJr)が10年後おたく第一世代になったのかもしれない。

    私も幼き頃からアニメのシールやリカちゃん人形すでにあった世代なこともあって、「現代っ子」以前の子どもが何で遊んでたのかイメージわきずらいのだけど、たぶんコマとか竹馬とかめんことか、あとちゃんばらごっことかそんなとこじゃないだろうか。でもちゃんばら・・ってのもたぶん戦後マントつけたり変身したり空飛んだりなスーパーマン的ヒーローにうつりかわってて、タケダアワーで月光仮面が人気爆発したときは子どもが真似して高いとこから飛び降りてケガや死亡して社会問題になってたらしい。

    だから昭和30年代のプレ現代っ子が月光仮面みたいな実写ヒーローと貸本、菓子もせえぜい飴やキャラメルのたぐいしかなさそうだけど、現代っ子からもう週刊マンガ雑誌からテレビアニメ化やチョコレート、おもちゃなど戦後の消費スタイル完成されててそれには虫プロや子ども調査研究所の影響が大きいと思った。今となってはスマホやタブレットで何でもできそうだし、先日は国民的アニメのドラえもんやしんちゃんがしょぼい時間帯に移動しもはやゴールデンでアニメやってないって聞きかじったのでテレビや紙の漫画がお子さんにとってどうなのかはけっこう微妙なとこがあるけども、昭和40年代のお子さんならば新しい娯楽であるマンガやテレビに夢中になり、それに対して子どもの頃そんなんなかった教育ママ(オバタリアン、PTA)からしたら低俗だし勉強しないから悪書追放するざますって対立構造はあっただろう。

    「手塚マンガあの日あの時 第11回ハレンチ漫画旋風の中で」てサイト読んだら、それでも昭和40年代初頭はマンガが市民権えだしてたって書いてる。しかし1968年に創刊した新興の漫画雑誌である週刊少年ジャンプで永井豪「ハレンチ学園」(1968-72)の連載が始まるやスカートめくりが人気大爆発してまたぞろ悪書追放の大論争に発展してたそうだ。

     

    虫ん坊 2010年7月号

    https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201007/column.html

     

    新評論の編集者で生活綴り方など民間教育運動を取材してた子ども調査研究所の高山英男に見いだされ、「現代子ども気質」などかねてより「現代っ子」という概念を推し出してた教師カバゴン(阿部進)は昭和40年代中盤のハレンチ論争においてハレンチ学園擁護の中心人物だった。「オーモーレツ」言うてミニスカートめくれてパンツ見える丸善石油のCMが人気爆発したおりにお子さんがスカートめくりやりだした旨カバゴンが報告するのをテレビで見た永井豪によりハレンチ学園にとりいれられた・・というのが一連のなりゆきだそうで、若手がどんどんハレンチ漫画に参入するなか1970年ベテラン手塚治虫までもが「やけっぱちのマリア」「アポロの歌」「ふしぎのメルモ」などエッチな作品をいくつか発表してた。

     

    マンガや本で「性」を学んだ昭和の男子たち(2017年7月29日 exiciteニュース)

    https://www.excite.co.jp/news/article/Myjitsu_026795/

    ・・・

    1969年4月ごろから丸善ガソリンのテレビCM『Oh! モーレツ』での女性のスカートがまくれ上がる表現が全国のお茶の間に流れ、センセーショナルな話題に。名古屋の小学校で“スカートめくり遊び”が流行中という報道(名古屋テレビの番組『やあ!やあ!ガキ大将』内で教育評論家の阿部進氏が報告)がされる騒動になります。

    永井氏はその現象にインスピレーションを受け、さっそく7月10日発売の『少年ジャンプ/創刊1周年記念号』の巻頭で『ハレンチ学園/モーレツごっこの巻』を発表しました。

    それが火に油を注いだのか、児童たちのスカートめくり遊びは全国に飛び火。その原因の一端を担った永井氏は幾度もテレビ番組に呼ばれ、PTAや教師たちに糾弾されたのです。

    そんな『ハレンチ学園』と永井氏、そしてチビッコたちを身を挺して擁護したのも、阿部氏でした。そのユーモラスな容貌と親しみやすさからいつしか“カバゴン”先生とあだ名された阿部氏は、テレビや雑誌に引っ張りだことなります。そして、怪獣のごときパワーで日本人の性意識に変革をもたらしたのでした。

    ・・・

     

    「現代っ子」の親にあたるオバタリアン世代は戦争知ってるけど戦争には行ってないみたいな、戦前世代とも戦後世代ともいえないとこがあって、軍国少年だったのにGHQの戦後政策のせいで急激に左翼な思想に傾倒してたりするので私的にはよく老害とかいわれてる団塊より注目に値する。昭和40年代はまだ戦前世代が多く残ってて、戦後のチャラチャラした文化に毒された「現代っ子」にまったく近ごろの子どもは〜・・みたいなこと言う文化がまだ強くあったと思うのだが、そういう「現代っ子」を「子ども目線」で見つめよき理解者のようにふるまってたのがマンガやテレビ(アニメ、特撮)の供給側であるオバタリアン世代の一部でそれが子ども研究所でありカバゴンだったのだろう。

    だからよくネトウヨがテレビが左翼なのはGHQとかWGIPのせいとかいうけど、じゃなくてテレビ業界作ってきたオバタリアン世代の影響だと思う。そういえば「ちお」「おは」といったジャパンマシニストの子育て雑誌読んでても子どもを管理しようとする大人に対しての「子ども目線」みたいなノリはかなり強く感じられ、数は少ないとはいえ高山英男や斎藤次郎もそういう雑誌に寄稿してたし、斎藤次郎や真崎守が常連だった野草社の「80年代」誌の編集委員に毛利子来がいた。

    またウルトラマンの脚本などタケダアワーはじめ子ども番組で活躍した佐々木守は、Wikipediaを読むと1962年にカバゴンと「現代こども研究会」(後の「こどもセンター」)を創立したとあるのだが、高山英男が子ども調査研究所の前身は1962年の「現代子どもセンター」だと言っているのでこれ子ども調査研究所のことなのだろうか。 佐々木氏のテレビデビューは1963年のドラマ「現代っ子」の脚本だったという。

     

    佐々木守(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E5%AE%88

    ・・・

    1955年、大学2年の際に「砂川闘争」に参加する。大学4年の時から教育映画作家協会 (現:日本記録映画作家協会)の機関誌「記録映画」の編集者をつとめ、大島渚、松本俊夫らと知り合う。1958年に大学を卒業するが就職はせず。米軍統治下の沖縄に行き、人形劇を上演する。

    ・・・

    1964年には、松竹を退社し大島が結成していた、独立系映画製作プロダクション「創造社」に参加。『絞死刑』など、大島監督映画の脚本を手がけるようになる。

    ・・・

    漫画の原作でも水島新司の作画による『男どアホウ甲子園』などのヒット作がある[2]。

    一方、鈴木清順の日活解雇反対運動に参加する中で、やはりこの運動に加わっていた映画評論家の松田政男、映画監督の足立正生と1968年に映画『略称・連続射殺魔』を制作。1970年には、この3人にジャズ評論家の平岡正明、相倉久人を加えて「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊した。

    日米安保条約成立後の1960年に日本共産党に入党し、数ヶ月で離党した経験から、政治思想的には新左翼のスタンスであり、後年のインタビューなどでも「今でも機動隊のバスを見かけると怒りがこみ上げて体が熱くなってくるんですよ」「なぜ今の若者は国に怒りを持たないのだろう」等と述懐しているほか、「今の日本の諸悪の根元は天皇制にあります」などと反天皇制思想を明確に表明していた。実際に佐々木の代表作『お荷物小荷物』、『アイアンキング』には佐々木の反天皇制思想が垣間見える[4](前者は琉球王国やアイヌ民族による逆襲、後者は熊襲の子孫による逆襲)。1960年代後半においてはアイヌ民族解放や琉球独立運動にも支持を寄せていた。また、日本赤軍を支援し[5]、最高幹部重信房子の著書『わが愛わが革命』のゴーストライターをつとめている[6]。脚本においては、ごく初期に『ウルトラマン』の劇場用オリジナル長編を天皇制の悪性を主張した内容で描くなど(製作中止)、自己の思想を絡めたものを執筆したものの、それ以降はこれらの思想をドラマ設定の背景に使用することはあっても、劇作家という作品における管理者的立場を利用して自分の思想を振りかざすことはなかった。この点について佐々木は、岩佐陽一のインタビュー[7]に答えて「テレビじゃ反体制の側を主人公にはできないよ。そんな企画書いても通らないし」と述べるとともに、そのような立場の人々に対する個人的な共感を込めた、と語っている。

    熱心なミステリーファンでもあり、推理ものの脚本も多い。特に横溝正史作品の造詣が深く、2時間ドラマなどでは横溝作品を独自の視点でアレンジした脚本を多数執筆している。

    ・・・

     

    佐々木守は子供番組だけでなく大島渚作品でも脚本を手がけており、子ども調査研究所の高山英男所長もまた大島監督とつきあいがあったと橘川幸夫は書いている。それによると高山所長は1965年から71年にかけ全盛期の少年マガジン編集長だった内田勝と親友で、内田氏が青年誌「ホットドッグプレス」を創刊したさいに橘川氏を紹介したそうだ。

    内田勝が編集長になる前はスパイ疑惑で手塚治虫がマガジンから降りたり、桑田次郎が銃刀法違反で逮捕されて「8マン」が連載中止になったりといろいろあってサンデーに大差をつけられてた。でも1965年から新しく就任した内田編集長がさいとう・たかをや梶原一騎を起用し劇画路線推し出したことでマガジンは黄金時代を迎え、ぎゃくに手塚治虫が劇画時代にあっては絵柄古っと思われだし低迷期に入った・・と、ネットで検索したかぎりではそういう流れのようである。

    だからおそらく手塚治虫には自分には描けない劇画にコンプレックス抱いてたと思われ、「COM」「アポロの歌」もまた対抗心のあらわれだったであろう。少年マガジン最盛期の1968年に創刊された少年ジャンプはというと、後発ゆえ人気作家が確保できないので新人漫画家を多く起用した。

    最初期に人気爆発したのが「ハレンチ学園」(1968-72)で、作者の永井豪が他誌でも連載しようとしたことにジャンプが危機感をおぼえ専属制度を採用し、それで「○○先生の作品が読めるのはジャンプだけ」て言うてたらしい。確かにトキワ荘的な漫画家はいろんな雑誌に連載もっててなんなら少女マンガも描いてるのに、私が子どものとき読んだ集英社の漫画はみんな専属だったよな?と、このあいだふと疑問に思ってたのだがジャンプのせいだったということで今納得いった。

    かくして四畳半ムードはなやかなりし1973年、全共闘必携の少年マガジンは少年ジャンプに抜かされる。V9時代も終わってマガジン全盛に寄与した「巨人の星」原作者の梶原一騎はジャンプで「侍ジャイアンツ」を手がけていた。

     

    昭和44年 現代っ子(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=bhza8HX0tb0

    静岡県制作の「現代っ子」動画があった。

    「よく遊び、よく学ぶ。いつの時代にも変わらない元気な子どもたち。しかしこの子どもたちをとりまく環境はたえず移り変わっていきます。一歩外へ出るとそこには交通戦争があります」

    「無神経な大人の世界があります」

    「すさまじい勢いですすむ都市化の波に遊び場を奪われた子どもたちは駐車場まで進出。危険と同居しながらも子どもたちは元気にはねまわっています」

    このあと出てくる現代っ子のお母さまは看護婦で昼間家にいないのでカギっ子ぷりがやけに強調されてる。今はお子さんが帰宅時に自分でカギ開けて独りで過ごすのも別に珍しくないだろうが、高度経済成長期は核家族や団地のはしりでしかも専業主婦多い時代なのでカギっ子とかいかにも都会のお子さんって感じだ。

    いやカギや家族だけでない。この動画でロボットのおもちゃや交通戦争(交通事故で戦争に匹敵する死者)うつってるけども、テレビ、アニメ、チョコ、おもちゃといった子どもの娯楽や車社会、「現代っ子」という言葉が示唆するのはそんなめまぐるしい時代の変化の中で子どもの在り方が今に近い姿に激変してたということであろう。

     

    カギっ子(Wikipedia)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AE%E3%81%A3%E5%AD%90

    カギっ子の問題点

    昭和30年代から昭和40年代にかけての日本の経済成長、社会構造の変化の一つの現象として、カギっ子の増加は児童教育の危機であると捉えられていた。

        子供の教育についての問題点

            家庭内に親(保護者)が不在であり、核家族化、集合住宅等の増加なども相まって、子供が学校から帰宅後に大人の目が届かない状況で放置される時間の増加は、情操教育、社会教育の機会を失わせるものであると考えられていた。また、同時にカギっ子の家庭は、保護者の学校教育への参加や対話に時間的困難が伴うことから、学校における教育と、家庭における教育の乖離が起こりやすい家庭であると考えられていた。

        子供の安全についての問題点

            子供が鍵を所持していることから、鍵が奪われることや、子供の帰宅時を狙った犯罪(窃盗、わいせつ等)が発生した。


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      • 2020.01.29 Wednesday
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