古市憲寿氏「日本の漫画の歴史変えた」と急逝の鳥山明さん追悼 漫画を「日本のステキなカルチャーにした功績めちゃくちゃ大きい」(3月10日 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/3811fc2e1ae0ee8844701795f08f1678b4471811
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番組冒頭で1日に急性硬膜下血腫のため死去した鳥山さんの訃報について取り上げた。古市氏は「日本の漫画の歴史をある意味変えたといっってもいいんですね」と話し始めた。続けて「『Dr.スランプ』が始まる前の少年ジャンプって、劇画が多かった時代なんです。手塚治虫先生のちょっとアンチというか、そういう劇画が多かった時代に、鳥山さんがすごいポップですごい可愛らしくて、ああいう絵の作品を始めたんですね。漫画のイメージを変わったっていうか」と鳥山さんが漫画の新たな扉を開いたと説明。「それまで漫画はオタクが読むようなものみたいなイメージがあったんですけど、今我々が漫画のこと、誰も恥ずかしくない、誰もが日本のステキなカルチャーだと思えるのは、鳥山先生の功績ってめちゃくちゃ大きいと思うんですね」と分析した。
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でも謎なことには「『Dr.スランプ』が始まる前の少年ジャンプって、劇画が多かった時代なんです。手塚治虫先生のちょっとアンチというか、そういう劇画が多かった時代に、鳥山さんがすごいポップですごい可愛らしくて、ああいう絵の作品を始めたんですね。漫画のイメージを変わったっていうか」まではわりと合ってる。ひととうり追悼コメントと秘蔵の鳥山グッツや世界の鳥山大先生が描いてくだすった似顔絵の天下一自慢大会が出尽くしたのちにドクタースランプが生まれた背景がXでもさかんにポストされるよになったのを歴史観の参考にしようと思って読んでたんだけどそこに引用されてた平松伸二の実話劇画でマシリトこと鳥嶋和彦がドーベルマン刑事のラブコメ描けってだめ出汁してて平松氏のアシスタントだった猿渡哲也にも「あだち充みたいなラブコメ」書かせようとしてたらしい。
https://twitter.com/yuuraku/status/1767237613868720318
鳥嶋和彦「例えばさあドーベルマンのラブコメ♡なんてのもいんじゃない!?」
平松伸二「ラ…ラブコメ〜〜〜〜〜〜!?」
飛鳥天平@漫画バカ(3月11日 X)
https://twitter.com/Tempei_Asuka/status/1767157928442945629
猿先生曰く、マシリトはDr.スランプ当てた事で天狗になっていたらしく
打ち合わせでの遅刻は当たり前、新人漫画家に対して横暴な態度を取り
挙句、猿先生に「あだち充みたいなラブコメ描け!」と命じ
作風に合わない漫画を無理矢理描かせていたっス
猿先生はそんなマシリトの事を本気で恨んでいたっス
個人的には鳥山明きっかけってよりもマシリトのよなプロデューサー巻きしたお調子者によるラブコメ感覚が80年代以後の少年漫画をポップにしたのだという歴史認識である。ドクタースランプはラブコメじゃないけどそのタイトルから主人公は則巻せんべいのつもりだったろうにマシリトの助言であられちゃんをメインにすえるよになった。
少年漫画(ギャグ、ハレンチ、スポーツ)の少女漫画化(女の子、可愛い絵、恋愛=特に秀でてない主人公が複数の異性から言い寄られる)をラブコメ感覚とするならば野球漫画の新時代を牽引してたのはあだち充なのだろう。こうした軟派なラブコメ感覚と「巨人の星」「あしたのジョー」「タイガーマスク」など梶原一騎劇画とのあいだに水島新司の時代があって「ナイン」(1978)以前のあだち氏も「男どあほう甲子園」(1970)同様に佐々木守原作で野球漫画描いてた。
キタトシオ(2020年4月1日 X)
https://twitter.com/kitatoshio1982/status/1245314485792866304
水島新司先生の『野球狂の詩』を読んでいると、やけに場違いな、可憐なタッチの少女が出てくることがありますが、その絵を描いているのは里中満智子先生です。
水島新司の野球漫画は里中満智子によってすでに少女漫画テイストがぶっこまれてる。こうした漫画家カップルでは本宮ひろ志作品でもりたじゅんが女のキャラクターを描いていた例もあった。
少なくとも高度経済成長期までは少年漫画と少女漫画をかけもちする男の作家はめずらしくなかったはずで集英社全盛期においては私含め女子にもジャンプ作品は普通に読まれてたがそのはざまにあたる劇画時代にかぎって少年漫画は男が描いて少女漫画は女が描くジェンダーがかなり強固に存在してはいやしないか。なお鳥山明もその作風があんまり漫画漫画してないとはいへ奥さんが少女漫画家なのは何らかの影響を受けてそうだ。
「ドカベン」里中智のモデル、里中満智子さん 水島さんとの合作秘話(2022年1月18日 朝日新聞)
https://www.asahi.com/articles/ASQ1L63MPQ1KUCVL026.html
「ドカベン」「あぶさん」「野球狂の詩(うた)」など野球漫画の名作を残した水島新司さんが10日、82歳で亡くなった。「ドカベン」で主人公山田太郎とバッテリーを組む里中智(さとる)投手のモデルとなり、「野球狂の詩」の中の名編を合作したこともある漫画家の里中満智子さんが、思い出を語った。
「水島先生に『今度、少女のようなキャラクターを出すけど名前を使っていい?』と聞かれ『どうぞどうぞ。かわいく描いてね』。名を『満』にすると『巨人の星』の花形満とかぶるから、『満智子』の『智』を使ったそうです」
「女の子にもっと読んでもらいたいから、とおっしゃっていました。狙い通り里中くんは人気が出て、バレンタインには信じられない数のチョコレートが編集部に届いたと聞きました。長く愛され活躍する選手になって、よかったです」
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野球狂の詩(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E7%8B%82%E3%81%AE%E8%A9%A9
『野球狂の詩』(やきゅうきょうのうた)は、1972年から1977年に『週刊少年マガジン』に掲載された、水島新司の野球漫画。1997年に『ミスターマガジン』で『野球狂の詩 平成編』として復活、廃刊後は『コミックモーニング』に移籍、『野球狂の詩2000』、『新・野球狂の詩』として掲載された。
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月次連載へ移ると色々な個性的な選手たち、たとえば女形のプロ野球選手(『スラッガー藤娘』)や「よっぱらい投手」などを列伝形式で描いていく中、レギュラー選手の数が増えていく。岩田は繰り返し主役作品が描かれてゆく。そんな中で里中満智子との合作となる、リリーフ要員の背番号&無骨な男と彼を慕う女の恋愛を絡めて描く異色作『ウォッス10番』『ガッツ10番』『スラッガー10番』の10番3部作と、捨てられた双子が運命の糸に操られプロ野球の舞台で対決する『北の狼・南の虎』がある。なお『任侠三重殺』など現在の視点で見ると「犯罪容認」と受け取られかねないものもある。
人気の上昇による週刊連載への移行に合わせて生まれた新しい主人公が、史上初の女性投手水原勇気である。いわゆる『勇気シリーズ』はいかにして女性投手が誕生し、プロ野球の選手として通用するにはどうするのかが物語の中心となる。その答えがドリームボールという「魔球」であり、「魔球」野球漫画へと回帰している。万年2軍暮らしの武藤は、夢の中で水原が特殊な変化球で空振りを取るのを見て、水原に新魔球の開発を課す。しかし間もなく広島カープにトレードされた武藤は後に、ドリームボールを打つことに選手生命をかけるようになる。
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https://www.pinterest.jp/pin/297096906648637621/
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%9C%A8%E4%B9%8B%E5%86%85%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A-%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%BD%B0_000000000206005/item_%E9%87%8E%E7%90%83%E7%8B%82%E3%81%AE%E8%A9%A9_877770
TOKI(2019年1月16日 X)
https://twitter.com/TOKI_darna/status/1085196684995420162
木之内みどり様の日活映画『野球狂の詩』は『前略おふくろ様』(第2シリーズ)と同時期に撮影されていたようだ。
それにしても水島新司先生、原作者とはいえ…(以下略)😡
出はじめの漫画批評においては少女漫画のほうが格上で篠山紀信の激写した可愛い子ちゃんアイドルのピンナップも大ハヤリしてたのだから少年漫画の少女漫画化は70年代にすでにその萌芽が芽生え始めてる。またラブコメ時代においてはいしいひさいちの「がんばれタブチくん」(1978)も野球漫画をポップにしたことだろう。
いしいひさいち(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%B2%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%A1
実在人のパロディ
いしいが実在の人物をもとに創作した「タブチくん」などのキャラクターは、しばしばモデルとなった人物の枠を越えて自律し、モデルの人物とは直接関係のないキャラクターとして他の作品に登場するスターシステムとして使われている。 広岡達朗を例にあげると、「わたしはネコである」ではバイトくんのキャラクターの何人かとともに、安田猛を編集者とする高慢な作家「広岡達三」として、時代劇ものでは「大山田藩(10万石)の筆頭家老、広岡刑部」として登場し、江戸屋敷の家老である野村(野村克也)とは勢力争いを展開している[28]。
鳥山明がドクタースランプ時代に自身をガスマスク姿に描いたりマシリトを漫画に出してたけどこうした実在の人物(もしくは既存の作品)をおもちゃにするパロディ感覚はコント、二次創作、ものまね、タレントショップ、珍プレー好プレーなど80年代にかけて隆盛をきわめておりフジテレビで映画化された江本孟紀著「プロ野球を10倍楽しく見る法」(1982)がまさしくいしいひさいちのアニメと珍プレー好プレーとで構成されてた。それにしてもドクタースランプがネタ切れにおちいったさい編集部がマシリトよろしく「恋愛モンにすればけっこうもつ」とアドバイスしてるのには当時の少年漫画がいかに安易なラブコメ頼みだったかがうかゞえる。
https://twitter.com/uraniwamoviecom/status/1766816919754256703
編集長「なるほど、なるほど…うーむ…えーとなんといったかのう主人公の…」
鳥山明「則巻アラレですか」
編集長「おうそれそれ!」「そいつにガールフレンドができたっちゅう話にすればええ!」「恋愛モンにすればけっこうもつぞ!」
経済のバブルと時同じくしてラブコメの読者層だった団塊ジュニア世代が成人すると恋愛のバブルもさぞはなはだしかったことだろう。ドクタースランプ当時オタクにしろラブコメ感覚にしろ幼くして子供部屋を与えられ漫画やレコードやピンナップなど自分好みのサブカルチャーに耽溺してきた目新しいモラトリアム文化だった点をふまえれば古市氏の「鳥山明登場以前の漫画はオタクが読むものと思われてた」はやはり何から何まで正しくない。
池川佳宏(3月12日 X)
https://twitter.com/saikifumiyoshi/status/1767511307039969658
「DRAGON BALL」最終回掲載の『週刊少年ジャンプ』1995年6/5号(25号)。唐突の最終回をお詫びする鳥山明のコメント。編集部からは最終ページや編集後記コメントはなく寂しい。1995年3・4号で最高部数653万部を更新した同誌は急速に勢いを失くし、2年後には『週刊少年マガジン』にトップの座を受け渡す。
上記引用ポストによれば同誌が最高部数を記録したのちに失速しドラゴンボールまでも訳のわからぬまゝに終わったのが1995年とは連載開始が1984年だったこともふまえるとバブルの強制終了といったとこである。むしろそれ以降ではないだろうか漫画とオタクが強く結びつくようになる平成感覚の到来は。
しかし集英社全盛期においては買ったことないのにもかゝわらず男子の家逝ったときとかゴミ捨て場から拾って読めてたぐらいそのへんに転がってたジャンプに比べて雑誌も単行本もいっぺんも見たことがないマガジンが首位におどりでてたとは私が漫画やアニメから離れた90年代初頭からのたった何年かで状況が激変してる。あれから30年はたして令和の少年少女はアナログ漫画の読者たりえるのだろうかと昨今の雑誌没落ぷりに思うけど2020年の記事によればコロコロだけはお子ちゃま向けに全振りしてネットの楽しさと競合せずにすんでるらしい。
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コンバットREC(3月9日 X)
https://twitter.com/combat_rec/status/1766147160998027292
鳥山明が現れたときの衝撃というのは、物心ついた時にはすでに鳥山明がいた世代の方には想像しづらいかもしれないが『Dr.スランプ』の連載がはじまる前週の少年ジャンプ表紙を見れば、当時のジャンプキッズが受けた衝撃をわかっていただけるのではないだろうか。
ちびまるこちゃんはアニメ化された最初の日が冬休みの最終日だったと覚えてるけど鳥山明はものごころついたときにはすでに大物だった。約15000000回にもばづってたあられちゃんが世に出てくる直前の少年ジャンプの表紙画像を見ると「悪たれ巨人」「進めパイレーツ」「ダイヤモンドスター」が野球「GOシュート」がサッカー「テニスボーイ」がテニス「きん肉マン」「リッキー台風」がプロレス「リングにかけろ」がボクシングとほとんどがスポーツ漫画である。
これで「日本新記録達成300万部突破」してるって書いてるから70年代の少年漫画はスポーツって感じだったんだろうか。そのなかで「いずみちゃんグラフィティ」はあらすじを読むかぎり高校生がハレンチ女と同居するラブコメらしいけど80年代感覚を先どりしてたというよりは少年マガジン「翔んだカップル」(1978)の二番煎じとみられる。
いずみちゃんグラフィティー(まんが王国)
https://comic.k-manga.jp/title/80089/pv
「いずみちゃんグラフィティー」のあらすじ | ストーリー
両親が外国住まいになった関係で恭兵の家へ居候することになった泉。初日からお風呂の火がつかないと裸でやってきて恭兵はドキドキ。そして同じ高校に通う泉を男子学生達から守るお目付役にされてしまった恭兵は……!?
翔んだカップル(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%94%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AB
主人公・田代勇介(たしろゆうすけ)は、共学の私立高校・北条高校に入学し、上京してきた。外国に行っているおじ夫婦宅の一軒家に独りで住むことになり、不動産屋に男性の同居人探しを依頼した。ところが、不動産屋の手違いから、可愛く無邪気ながらも気の強い少女・山葉圭(やまばけい)と同じ屋根の下で共同生活を送る羽目になる。勇介は圭に好意を抱くが、自分の気持ちに素直になれず、顔を合わせれば口ゲンカの日々。そんな勇介にクラスの才女・杉村秋美(すぎむらあきみ)が興味をもち急接近。勇介は秋美との仲を深める一方で圭への想いも捨てられず、2人の間で揺れ動くことになる。圭は次第に勇介への想いを自覚するようになるが、秋美への嫉妬が障壁となって想いを素直に伝えることができない。大学受験が迫る中、勇介は圭と秋美との関係、そして将来の進路に答えを出していく。
同居ラブコメといえばサンデー「うる星やつら」も「翔んだカップル」と同年に始まりその後のあだち充「みゆき」(1980)ともどもフジテレビ(≒岡正)とキティフィルム(≒多賀英典、落合茂一)によって映像化されてる。キティレコードの小林泉美は超有名な「ラムのラブソング」だけでなく「さすがの猿飛」「ストップひばりくん」の主題歌も手がけるなど80年代感覚を決定ずけた。
みゆき (漫画)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%82%86%E3%81%8D_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)
高校1年生の夏休みに、若松真人は友達と一緒に泊まりがけで海辺の民宿にアルバイトに出かける。真人が憧れを抱く同級生の鹿島みゆきも同じバイトに来ており、彼女が自分に気があることを偶然知り、デートの約束にこぎつける。しかし、その直後ある出来事でフラレてしまう。友人たちは落胆する真人に、海で見かけた美少女を誘うようにそそのかす。いい雰囲気になり、デートの約束もした2人だったが、実は彼女は6年ぶりに海外から日本に帰国した血の繋がらない1つ年下の妹の若松みゆきだった。
家に帰ると、妹のみゆきとの2人きりの生活が始まる。真人は若松みゆきはあくまで妹であると、惹かれていく心を制しながら、鹿島みゆきとの関係も良好に続き、2人のみゆきの間で心は揺れつつも高校生活の日々は流れていく。元気な妹みゆきも真人に一途な想いを寄せながらも、真人(と鹿島みゆき)の幸せを最優先に考え、一人の女性・妹という狭間に揺れながら自らの想いを心の中に留めている。
真人は鹿島みゆきとの関係を進展させていこうとするが、男にモテる妹みゆきには、喧嘩は強いが落ちこぼれの間崎竜一や教師の中田虎夫などが寄ってきて、妹みゆきが他の男と付き合うことを許容出来ないでいることもあり、中々思い通りにもならない。2人のみゆきには男からのアプローチが幾度となくあるので、気が抜けない日々を送る。そんな一進一退を繰り返し、色々な出来事もあり成長し、高校卒業、受験浪人を経て大学生となる。
サンデーはラブコメのイメージ強いけどWikipediaで始まった時期を見てもハレンチ女との同居や1人の男が複数の女とのあいだで揺れ動くなど「みゆき」「うる星やつら」ともども「翔んだカップル」の影響下にあったとみられる。重厚長大な作風で知られる大映もスチュワーデス物語の前の「高校聖夫婦」(1983)では伊藤麻衣子が鶴見辰吾と同居するドラマやってたっていうんだからこれまた薬師丸ひろ子の初主演映画「翔んだカップル」(1980)を意識してたことだろう。
https://twitter.com/bunkenandrock/status/1329733366753624064
高校聖夫婦(TBSチャンネル)
https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/item/d0045/
【ストーリー】
桜台高校3年生の安西俊(鶴見辰吾)は、親代わりの姉・泰子(五十嵐めぐみ)とアメリカへ渡ることになった。泰子の結婚相手・チャールズ(テリー・オブライエン)と3人で同居するためだった。姉夫婦の都合でアメリカ留学などしたくない俊は、偶然に出会った同じ桜台高校3年生・上条典子(伊藤麻衣子)と“カムフラージュ恋愛”を計画する。恋愛関係をでっち上げれば泰子は自分のアメリカ行きをあきらめるかもしれないと考えたのだ。
2人が急に「愛し合っている」と言い出したので、お互いの家族は「高校生のくせに」と猛反対。典子の父・隼雄(名古屋章)は2人の関係をあきらめさせようと「そんなに好きならちゃんと結婚しろ」と怒鳴ってしまう。これが裏目に出て、俊と典子は本当に結婚することになってしまった。2人の関係がお互いの利益のための“カムフラージュ結婚”だと知らない周囲は動揺するが…。
いとうまい子(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%84%E5%AD%90
歌手活動では、主演ドラマ『婦警候補生物語』(日本テレビ)の主題歌となった「見えない翼」が自身初となる10万枚超えを記録し、『ザ・ベストテン』のスポットライトでも歌唱された[20]。薬師丸ひろ子(いとうと同い年である)に似ていることが話題となり、衣裳も薬師丸がザ・ベストテンに初出演したときと似た衣裳であった。また、同時期に出演した『徹子の部屋』では、黒柳徹子に促されて薬師丸の笑い顔のモノマネを披露した。
https://www.amazon.co.jp/dp/425303439X
柳沢きみおが翔んだカップルの前に少年マガジンではなく少年チャンピオンに連載してた「月とスッポン」(1976)。「ふたりと5人」(1972)「銀河鉄道999」(1977)「さすがの猿飛」(1980)などハレンチ時代からラブコメ時代にかけて散見される美女とチビ男の組み合わせは「かぼちゃワイン」(1981)でその集大成をみた。
ジャンプ世代としては「ウイングマン」「気まぐれオレンジロード」が印象深くて担当が鳥嶋和彦だった桂正和は鳥山明との親交もあつくおたがいに画力を讃えあってた記憶があり確かに集英社全盛期における美少女系ではこの2人が突出してた。少年漫画で同居といえば忍者や未来人やロボットの特殊能力によりさえない主人公が学校生活で無双する藤子不二雄作品も80年代にテレビ朝日でさかんにアニメ化されてたが勉強部屋で週刊漫画を読んで育った少年は精通をへて自分に言い寄ってくるハレンチ女との同居(ドラえもん女体化)をあんなことできたらいいなと夢見るよになったにちがいない。
https://twitter.com/jammyAO/status/929264555930169345
ウイングマン(桂正和)のネタバレ解説・考察まとめ(2023年2月14日 RENOTE)
https://renote.net/articles/112212
マライ・メントライン@職業はドイツ人(2017年12月16日 X)
https://twitter.com/marei_de_pon/status/941860784899887104
電影少女の出現シーンが『リング』の貞子出現シーンの原型である、という説を聞いたのだが本当だろうか? 個人的には、「反証が難しく、かつ、微妙なもっともらしさに満ちた大ウソ」であるように思えてならない。
#電影少女
「すけべで、可愛くて、毒舌で、謙虚」鳥山明さん死去で旧友の漫画家、桂正和さん追悼全文(3月8日 産経新聞)
https://www.sankei.com/article/20240308-UJ3FGTKNPVDK5GDVODBQFEJI24/
70年代には心が男なのに髪を肩まで伸ばしたよなTシャツGパンの団塊世代が四畳半や米軍ハウスでハレンチ共同生活するのが最先端だったために赤色エレジーや同棲時代が大ハヤリした。こうした同棲劇画がハレンチ女との同居そしてさえない主人公が可愛い女たちから追い回される恋愛模様は少女漫画がその下地にあったのではなかろうか。
そしてハレンチ女をそっくりハレンチトランスジェンダーに置き換えた同居ラブコメが「ストップひばりくん」だった。親と死別してヤクザとかいってるけど意外にも連載開始はセーラー服と機関銃の映画化よりもちょっと早い。
ストップ!! ひばりくん!(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97!!_%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A%E3%81%8F%E3%82%93!
連載までの経緯
本作は『ひのまる劇場』の次に当たる江口3作目となる連載作品である。
江口が『ひのまる劇場』を連載際していた当時は、少年誌でラブコメディが流行していた。江口は元々あだち充や柳沢きみおの作品を好いていたものの、これらの作品の二番煎じといえるほど程度が低い作品が連載されていることに不満を抱いていた[6]。そこで、江口は「惚れた美少女が実は男で、主人公が困ってしまう」という漫画を描こうと考え、ヒロインをかわいく描けば描くほど周囲がパニックに陥り、物語が動くだろうと見込む[6]。女装への認知度は低かった当時であったが、連載開始にあたり障害となったものはなかった[7]。主人公の名前だけは変えてくれと言われ、「美空ひばり」であったものが「大空ひばり」になったという[7][注 1]。タイトルは関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』に由来する[8]。また、連載当時江口は『イラストレーション』という雑誌を読んでいたが、イラストの手法は躍動感のあるギャグ漫画には不向きだったため、扉絵で同誌から学んだ手法などを試していた[9]。ひばりの容姿服装についてはファッション誌『エムシーシスター』を参考にしていた[7]。
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あらすじ
母を亡くし天涯孤独の身となった少年耕作は、遺言に従い、母の古い友人・大空いばりの家に身を寄せる事になる。しかし事もあろうに大空家は「関東極道連盟・関東大空組」、つまり弱小団体とはいえ暴力団であり、いばりはその組長だった。
身の危険を感じて逃げようとする耕作の前にとびきりの美少女が現れ、にっこりと微笑みかける。彼女に一目惚れしてしまった耕作は大空家で生活する決心をしたが、それが運の尽きだった。つばめ・つぐみ・すずめと美人ぞろいの大空家の姉妹の中で、耕作が最初に会った一番の美少女・ひばりは実は男だった。
ひばりは学校では女で通しており、ごく一部の者以外はその秘密を知らない。その上ひばりは耕作を好きになったそぶりを見せ、積極的にアタックしてくる。ひばりの引き起こす騒動に巻き込まれて耕作の気の休まる暇もない日々が続く。
ひばりの秘密に気づいた高円寺さゆりが口外しない代償として、耕作に自分とデートするよう要求した結果、他の者に目撃され、翌日学校で噂になるところでストーリーは一旦終わっている[注 6]。
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80年代初頭の同居ラブコメ量産ぷりを見れば「翔んだカップル」がその後に与えたインパクトは「ハレンチ学園」レベルだったはずでキティフィルムと薬師丸ひろ子ではロリコン映画「セーラー服と機関銃」も大ハヤリした。片やあられちゃんはハレンチ要素が皆無などラブコメとは設定が違いすぎ絵がうますぎるせいか画風を寄せた後続の作品もぱぷわくんぐらいしか思いつかないので鳥山明が1980年の少年漫画を変革したきっかけとする歴史観には懐疑的である。
元「YURIMARI」中村ゆり、鳥山明さんに感謝「私達の青春」…「ドクタースランプ」主題歌担当(3月10日 スポーツ報知)
https://hochi.news/articles/20240309-OHT1T51355.html
アイドルユニット「YURIMARI」のYURIとして活動していた女優の中村ゆりが、9日までに自身のインスタグラムを更新。3月1日に急性硬膜下血腫のため死去した漫画家の鳥山明さん(享年68)を悼んだ。
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私は子供のときも漫画やアニメを熱心には見てなくクレヨンしんちゃん、セーラームーン、幽遊白書、スラムダンクあたりの時代には卒業してたのでドラゴンボールもZまでしかわからない。ちょうどそのぐらいからアニメソングがJ-POPになったり集英社やフジテレビが全盛期でなくなってアニメ=オタク、テレ東みたいなイメージになってきた希ガス。
それでもGTのあとにかなりの鳴り物入りだったあられちゃんは妙に覚えてる。ドラゴンボールタッチなうえ黒ぶちメガネやフィフティーズ、テクノカットなどの80年代ファッションが満載すぎて90年代にリメイクするには無理がありすぎデジタルがまだ出はじめだったせいか線がなめらかじゃなかったり色が鮮やかすぎたりと画質にも違和感しかなかった。
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くましあん(2015年2月26日 X)
https://twitter.com/s2no/status/570914953290330112
ロフトプラスワンが出来た次の月から出演していた松尾監督。リリーフランキーとナンシー関のイベントにバクシーシ山下監督が出た事からお店との関わりが出来たとの事。 ( #loftradio live at http://ustre.am/1kI38)
ロフトプラスワン(2015年3月23日)
https://twitter.com/LOFTPLUSONE/status/579906775182237696
明日開催!予約〆切ましたが、当日券も若干ありますので是非!
19:30開演
お蔵出し映像祭’15〜空いたからこそやるんだよ!「ロフトプラスワンという面白くない舞台」へようこそ!スペシャル〜 ゲスト:吉田豪、久田将義、杉作J太郎、倉田真由美、カンパニー松尾、バクシーシ山下
いづれの会場になってるロストプラスワンはXのプロフィール画像をリリーフランキーが描いてるようだ。2001年のスケジュールを見るとリリーフランキー「スナック・リリーEXTRA3!」バクシーシ山下「スカトロナイト」V&R「V&Rの服従学園 淫虐女闘編!」といったキツそうな企画にまじってこんな昔からレインボーがTのイベントやってた。
2001.1/1〜2/11
https://www.loft-prj.co.jp/PLUSONE/lposchedule/lpo0101.html
TSとTGを支える人々の会公開新年会&トーク
「トランスジェンダーが語る:恋愛とその先の深〜いハナシ」
<性同一性障害と同性愛の関係>から<トランスジェンダー(性別越境者)にとっての恋愛とエロス>まで、多彩なゲストで送る第3弾!
【出演】嶋田啓子、野宮亜紀、森野ほのほ、ほか
【ゲスト】斎藤綾子(作家)、砂川秀樹(東京レズビアン&ゲイ・パレード2000実行委員長)、鉄村夏芽(劇団風琴工房・俳優)
※朝まで遊べます
あらためて確認してみると畑野とまとの女湯侵入発言などサブカル村の狂気として語り継がれてるトークイベントはことごとくロフトプラスワンではあるまいか。石坂啓がでかした山上様で安倍銃撃を礼讃してたさいのゲストは宮台真司とダースレイダーだった。
マキタスポーツ「10年目の結婚式」の謎(2011年7月7日 日刊SPA!)
https://nikkan-spa.jp/21186
お笑い芸人・マキタスポーツ(オフィス北野所属)の「10年目の結婚式」を祝うため、ダンカン、グレート義太夫、水道橋博士などの芸人から、さらには大槻ケンヂ、サンボマスターなどミュージシャンまでが大結集!
去る7月3日、東京・新宿ロフトプラスワンにて「あくまでプライベート」に謎の「結婚式」が行われた。当日の主役の一人である「新郎」は作詞作曲モノマネや、自身のバンド「マキタ学級」など音楽とお笑いを融合した芸風で、その才能を高く評価されているマキタスポーツ。だが、彼はすでに結婚して10年目。なぜ、今、結婚式なのか? そしてなぜ、ロフトプラスワンなのか?
実はロフトプラスワンは、マキタと妻の希さんが「初めて出会った場所」。当時、希さんはロフトプラスワンでバイトをしており、出演者であったマキタスポーツと交際がスタート。だが、すぐに「できちゃった結婚」となったため、結婚式ができなかった。
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NHKの虹番組でコンドームだったマキタスポーツにいたってはロフトプラスワンのアルバイトと結婚してたけし軍団総出で式まであげてる。またターフ情報で知ってたTのち○こ食べるイベントも系列店だったらしい。
吉田光雄(2019年12月10日 X)
https://twitter.com/WORLDJAPAN/status/1204079717206282240
ちなみにロフトプラスワンの系列店、阿佐ヶ谷ロフトAは、こういう過去のある店です!
切除した男性器をフライパンで調理 杉並区の「猟奇イベント」、世界的なニュースに https://j-cast.com/2012/06/06134758.html @jcast_newsさんから
切除した男性器をフライパンで調理 杉並区の「猟奇イベント」、世界的なニュースに(2012年6月6日 J-CASTニュース)
https://www.j-cast.com/2012/06/06134758.html
切除された人間の男性器を食べるというイベントが東京、杉並区で行われ、国内外に衝撃を与えている。区は警察と協議して何らかの対応をする構えだが、過去に前例のない「事件」だけに頭を抱えている。
イベントは2012年5月13日夜、杉並区阿佐谷のライブハウスで行われた。これまで出ている報道などをまとめると「性器を食す世紀のイベント」という触れ込みで、芸術家の男性(22歳)が性器を提供。事前に切除し、冷凍保存していた自分の性器を会場で調理し、観客が食べるというものだ。
「固い!ぶ厚いゴムを噛んでるみたい」男性は「絵描き」で、ゴシックな雰囲気の前衛的な作風が特徴。2年前から「(性別が)男性であるということが、私の人格や意志、思想、人生の目的において必要なのかどうか」と疑問を抱くようになったという。
その後、徐々に性器を食べるべきだと思うようになった。当初は自分で食べる考えだったが、術後の医療費を捻出するため、2012年4月、ツイッターに「私の男性器(完全陰茎+睾丸+陰嚢)の料理を10万円で提供します」と投稿してイベント実現に至った。
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参加者のブログには調理され、輪切りにされた男性器の写真が掲載されている。「断面を見ると、軟骨組織があり、その部分は白く、それ以外はピンク味がかった赤色です」「固い!ぶ厚いゴムを噛んでるみたい」と感想を綴っている。
人体の一部を目の前で調理してみんなで食べるというイベントは開催前から話題になっていたが、5月下旬には、ハフィントン・ポストやAFP通信、ロイター通信を始めとした英語メディアのほか、仏語や中国語圏など世界中のメディアも相次いで報道した。
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ち○こ食べるくらいなのだからコオロギも当然たしなんでるちがいないと思って検索したらやっぱりロフトグループで何べんか昆虫のイベントやっており出演者が連合軍総出のmessyやWEZZYで記事書いてもいる。虫や虹や膣や大麻といったここんとこのキツイSDGS商機はすべて悪趣味系なのだろう。
オスの性器を食らいながらピンク映画を鑑賞する、女の宴レポ【性器料理レストランガイド付き!】(2017年3月11日 messy)
https://mess-y.com/archives/42810
久しぶりに〈性器料理〉を食べました。ピンク映画を鑑賞しながら牛豚の〈サオ〉や〈タマ〉を食べるという、猟奇なんだかエロスなんだかよくわからない謎の女子限定イベントへ参加したのです。
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系列店の「米とサーカス」(高田馬場)は最近昆虫食推しなので(筆者も時々ご協力させていただいてます)、今回のイベントにも虫料理が登場。これも〈パンとサーカス〉の近未来間にベストマッチ!
形成された雑穀+ひき肉の上に、アリの卵をトッピング。ドレッシングの爽やかな味付けが、コクのあるアリの卵を口当たりよく仕上げていて、虫食い初心者にもお勧めできる味わいでした。コオロギパスタは、パスタにコオロギの粉末が練りこんである、昆虫食界でも新しいアイテム。ノーマルなパスタよりも、風味が豊かです。
以前エレキやフォークといった戦後生まれ感覚の音楽について調べたことありロフトはジャズ喫茶からライブハウスにいたるパイオニアと認識してたけど途中で調べをやめたためにその後の悪趣味化はまだ知らなんだ。おそらくライブハウスの隆盛がインディーズバンドの土壌にもなっててバンドブーム完全終了後の1995年にオープンしたトーク版のロフトプラスワンが80年代にはぐくまれたゲロう○こ文化の集大成だったとみられる。
「ロフト」事件簿 異臭ライブでスタッフ全員「やめます」(2020年9月21日 NEWSポストセブン)
https://www.news-postseven.com/archives/20200921_1596121.html?DETAIL
新型コロナウイルス感染拡大のなかで、“3密の元凶”としてバッシングを受けたのがライブハウス。“日本のロック”誕生の立役者である、老舗ライブハウス「ロフト」も窮地に追いやられた。
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◆1971年 ジャズ喫茶・烏山ロフト開店
レコード枚数の少なさに呆れた客が自分のレコードを持ち寄るうちに、あらゆるジャンルの音楽が流れる空間となった。常連に、東京藝術大学の大学院生だった坂本龍一がおり(近所に住んでいた)、水割り1杯と引き換えに、女子大生のレポートを代筆していたという逸話が残る。
◆1973年 西荻窪ロフト開店
生ライブのできる店を目指し、西荻窪ロフト開店。楽屋もなくトイレも観客と共用だったが、当時演奏する場のなかった多くのミュージシャンは喜んで出演した。オープニングの10日間ライブには山下洋輔トリオ、頭脳警察、鈴木慶一、桑名正博、南佳孝、なぎら健壱など錚々たる顔ぶれが登場。山下洋輔の演奏中、隣の魚屋の主人が出刃包丁をもって「うるさい!」と殴り込んできたことも。
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◆1995年 ロフトプラスワン開店
ジャンル制限なし、タブーなしのトークハウスライブ。日々想定外のハプニングが……。席亭は平野さん。
◆毎日がカオス! ロフト事件簿
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【6】全員やめます!
ノイズバンド・非常階段が納豆、嘔吐物、尿、ミミズなどをまき散らした過激ライブの翌日、平野さんは、異臭たちこめる新宿ロフトのスタッフ全員に呼び出され、こう告げられた。その後、非常階段は出入り禁止となった。
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上記引用に出てくる納豆と嘔吐物と尿とミミズをまきちらした悪趣味というか悪臭ノイズバンド非常階段と関係あるしばき隊も2018年だけで2度にもわたりロフトグループでサブカル総括やってるのは吉田豪やロマン優光と同じ臭いがする。しばき隊がしばく対象は身内やネトウヨなど多岐にわたってるみたいだけど個人的にはレイン棒での女しばきでなじみ深い。
『実録・レイシストをしばき隊』発売記念トーク・ショー 結局サブカルでよかったのか悪かったのか?(ロフトプラスワンウエスト)
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/west/83769
しばき隊リンチ事件の真実を野間易通が語りまくる。
そして、80年代関西パンク、ニューウェイブから現在のサブカルまで考察する豪華2本立。・・・
LOFT BOOKS presents「サブカル」に決着をつける(ネイキッドロフト)
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/naked/85624
【出演】宮沢章夫(『ニッポン戦後サブカルチャー史』)、野間易通(『実録・レイシストをしばき隊』)
ネトウヨ、レイシズム、ヘイトスピーチの蔓延は、「サブカル」の末路ではないのか? サブカルチャーから「サブカル」が分岐してから四半世紀をすぎた今、そろそろ総括と決着が必要ではないか? そんなことをテーマにしたトーク・セッション。戦後サブカルチャーの歴史を追ってきた宮沢章夫と、ヘイトへのカウンター行動を牽引してきた野間易通が徹底的に語り合う。
しかしサブカルの末路にネトウヨでレイシズムでヘイトスピーチのイメージがわかない。サブカルの末路とは市民団体であり統一教会とジャニーズしばきであり悪趣味当事者のロフトやコアマガジンによるサブカル総括(小山田圭吾帰還プロジェクト)であり反原発や自然なお産や森のようちえんや膣に塗るオーガニックといったロハスでありNHKや未成年にまでテンガとセックスワークぶっこんでくるプレジャー教育でありサイゾーと太田出版と集英社新書とTBSラジオとバズフィードとイーストプレスとソフトオンデマンドでありネトウヨとは対極の存在ではあるまいか。
私がレインボーの存在を認識するよになったのはバクシーシ山下でおなじみのよりみちパンセシリーズからカップル本も出してたLの増原裕子と東小雪が長谷部健の渋谷区パートナーシップの第一号で報じられた2015年なんだけどそれより全然前の2010年の時点でNHKの虹番組が小山田圭吾でおなじみの太田出版で書籍化されててリリー氏のほかはGID学会の針間先生とかやはり長谷部健とのかかわりが深いFtMの杉山文野もすでに出演してた。このころテンガでおなじみの「あさイチ」が始まり電通左翼がロハス(地球温暖化、生物多様性)からピルや膣トレや胎内記憶のジョイセフ連合軍に移行してるなかでレインボー連合軍もまたロフトプラスワンといった悪趣味界からNHKへと進出していったとみられる。
https://www.amazon.co.jp/dp/4778312287
レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー......。NHK教育テレビの番組「ハートをつなごう」が送る、多様な性をポップに学べる一冊! 【内容】 まえがき 石田衣良 〈巻頭対談〉 ソニン × 杉山文野 「問うことで見えてくる『人』」 杉山文野 僕のややこしい性別・凸凹ストーリー STORIES STORY_1 私たち、同性で結婚式を挙げました STORY_2 島で暮らす STORY_3 お菓子とカミングアウトのいい関係 STORY_4 中学1 年生 「怖い。」 STORY_5 オトコらしさ? オンナらしさ? ジブンらしさ? STORY_6 クラインフェルター症候群 STORY_7 学生生活、楽しんでる? STORY_8 セクシュアルマイノリティーの子どもを持つ親たちの気持ち コラム 「制服変更後のまりあさん」 コラム 「今、海外のクィア・カルチャーシーンがホット!」 カイザー雪 VOICES 番組に来たお便り MESSAGE_1 少数派と創造性。 茂木健一郎 MESSAGE_2 セクシュアルマイノリティーの皆さんへ リリー・フランキー MESSAGE_3 ゲイであること ピーコ 書き下ろし短篇小説「 カミング・アウト・トゥ・マイ・マム」 石田衣良 漫画 女の子どうしのラブ・カップル ハニー&ハニー[ロンリー篇] 竹内佐千子 〈対談 〉 針間克己× 平田俊明 「精神科医が語る『LGBTが抱えるメンタルヘルスの問題』」 LGBT 用語辞典 LGBT に関する相談窓口や自助グループなど
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登録情報
出版社 : 太田出版 (2010/7/30)
発売日 : 2010/7/30
バリバラ〜障害者情報バラエティー〜(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%A9%E3%80%9C%E9%9A%9C%E5%AE%B3%E8%80%85%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%83%90%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%80%9C
「日本初の障害者のためのバラエティ番組」と銘打ち、障害者自身が(時には自らの障害をネタにして)笑わせることを目指した番組である。
この番組の始まりは、NHK Eテレにて毎週金曜日に放送されていた、障害者向け福祉情報番組『きらっといきる』の2010年(平成22年)4月30日放送分から毎月最終週に放送されていた『バリバラ〜バリアフリーバラエティー〜』と題した企画である。現在の番組名はサブタイトルにもあった「バリアフリーバラエティ」の略。
そもそもは、2009年(平成21年)春の『きらっといきる』のスペシャルにおいて、報道機関やマスメディアでの障害者の描かれ方が、「一生懸命頑張っている障害者の部分を一面に強調しすぎて画一的である」という障害を抱えている視聴者からの苦情を、テーマとして取り上げたことがきっかけになっている。
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元々『きらっといきる』のスタッフは、ドキュメンタリー畑のスタッフが中心で(通常回は障害者に関する密着ドキュメンタリーのVTRが中心)、バラエティ番組の制作は、初めてのため、試行錯誤の連続であった[1]。2010年(平成22年)12月4日には『ETVワイド ともに生きる』の枠で、2時間の特別番組『笑っていいかも!?』(フジテレビ『笑っていいとも!』のパロディ)が制作(後に『Eテレアーカイブス』で再放送)され、2011年(平成23年)も12月2日と9日の通常放送の枠内ではあったが、2週にわたって放送された。障害者をメインに据えたバラエティ番組の制作については「障害者を見せ物にしている」などの批判もあったものの、『笑っていいかも!?』には約300件の反響が寄せられ、9割近くを好意的な声が占めた[2]。
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初期の番組コーナーとして、テレビ朝日『ナニコレ珍百景』のパロディで、障害者にとって全く役に立たなかったり、かえって使いづらかったりする、変なバリアフリー設備を取り上げる『バリバラ珍百景』を放送していた[3]。
2015年(平成27年)4月から番組改編に当たり、放送時間を日曜日の19時に移動。2016年(平成28年)4月には「みんなちがって、みんないい」を新しいテーマに据え、対象を障害者だけではなく「生きづらさを抱えるすべてのマイノリティー」に広げ、セクシャル・マイノリティなども題材として取り上げるなどリニューアル。
2016年(平成28年)8月28日の放送(生放送)では『検証!「障害者×感動」の方程式』と題して、障害者の頑張っている姿を「感動の対象にする」番組制作の手法を、ステラ・ヤングのTEDで述べた「感動ポルノ」という言葉を用いて[4][5]、その是非を問う番組を放送したが、当日の民放は同時間帯に日本テレビ(NNN)系列で『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』が放送されていたこともあり[注 1]、Twitterなどで反響を呼んだ[6]。NHKには116件の問い合わせが寄せられた[7]。
生放送時は「笑いは地球を救う」という番組のロゴ等や、出演者が黄色いTシャツを着るなど[6]、敢えて『24時間テレビのパロディ』と取られる様な演出も行われた(2017年(平成29年)以降も、『24時間テレビ』の裏番組として放送する際は同様の体裁が取られる[8])が、これについてNHK大阪放送局の角英夫局長は「このテーマに関心を持っていただくための演出上の工夫」「他局の番組内容についてどうというわけではなく、あくまで通常通りの放送」と[9]、日本テレビ放送網もこの件について「一切コメントしない」と述べている[10]。2019年(令和元年)は同年春の改編で番組枠が木曜20時台に移動したこともあり、特別番組として8月25日(日曜日)0時[注 2]から2時間24分間[11][12]、2020年(令和2年)は8月23日(日曜日)0時から24分間[13]、2021年(令和3年)は8月22日(日曜日)0時から2時間24分間[14]、2022年(令和4年)は8月28日(日曜日)15時から2時間[注 3][15][16]、それぞれ生放送で行った。
バリバラが24時間テレビを「感動ポルノ」であると示唆してるがリリーフランキーがテンガに紹介された脳性麻痺患者を演ずる映画「パーフェクトレボリューション」(2017)もサイゾーのインタビューで同様なことを言ってる。サブカル村では芸名にプロレスラーの名前を引用してることがかなり多いようだがリリーフランキーの由来は小人プロレスの選手であり同じ障碍者が体張るのでも目の不自由な方が登山にチャレンジする感動ポルノはぬるいから偽善ないっぽうキツいポルノやプロレスはオシャっていう悪趣味感覚を反映してるのだろう。
障害者も健常者も関係ない! リリー・フランキーと清野菜名が不器用に愛を叫ぶ!!(2017年9月28日 サイゾー)
https://www.cyzo.com/2017/09/post_34640_entry.html
――それは松本監督ご自身が、熊篠さんと接するうちに、熊篠さんのことを障害者ではなくて、一人の友人として接するようになったからということでしょうか?
松本 そうですね。世間一般には、障害者というと、『24時間テレビ』(日本テレビ系)で目にするような障害者像を思い描かれるかもしれません。聖人君子的で、言い方は悪いかもしれないけれど、感動ポルノ的に理解しているケースも多いと思います。でも、モデルとなった熊篠さん自身は「障害者だってセックスをしたい」と、障害者の性問題を世間に訴えている。こうしたことから考えても、この映画を作るに当たっては、障害者と健常者を分け隔てちゃダメなんです。そこで、友人がじかに体験した恋愛物語をベースにして、その目線で話を作って撮りました。
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■第7回『豪さんのポッド』用語解説(2006年2月19日 豪さんのポッド)
http://gosan.cocolog-nifty.com/pod/2006/02/post_43ae.html
★「リトル・フランキー」 【11分15秒頃】
1975年に全日本女子のミゼットプロレス(小人プロレス)に入門し、身長112cmの“小さな巨人”と呼ばれ、WWWA世界ミゼット、初代WMA世界統一ミゼットチャンピオンなど数々のタイトルに輝くほか、Little Army Rockers名義のシングル『ポ・ケ・バ・イ・ブ・ギ』(作曲は後藤次利)など幅広い分野で活躍。2002年に他界。享年44。
リリーさんのペンネームは、この方の名前を「日本人か外国人か、男か女かわからないように」もじって付けたもの。
2人は石井輝男監督の『盲獣VS一寸法師』にて共演を果たしている。
リリーフランキーやプチ鹿島の参加してたスカパーの「エロは地球を救う」でも寄付の見返りにプライベートパーツをもみもみできてこきこきしてもらえるのが攻めたパロディだったようでチャリティTシャツのデザインに永井豪やまいっちんぐといった昭和漫画を起用してることからもボインタッチやモーレツごっこやカバゴン性教育の洗礼を受けゲロう○こをもエンタメとしてたしなんできた爺さんのハレンチリテラシーが一目瞭然である(そもそも本家の24時間のほうも深夜はハレンチじゃなかったけか)。おっぱい募金にたいする玉もみ募金とかいう毎度の見当違いなジェンダー平等を見てるかぎりロフトプラスワンたちは障碍者の性よろしくタブーをとりのぞいてAVや風俗やもみもみなど助平男と同んなじハレンチをそっくりそのまゝご婦人がたにもさせてあげるのがまことの人権だとでも考えてるのでしょうけどふつうは寄付どころかむしろ金を払ってもらわなきゃかれぴ以外のプライベートパーツなんて視界にもアポロの泉にも入れたくない。
24時間テレビ エロは地球を救う(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/24%E6%99%82%E9%96%93%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93_%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%81%AF%E5%9C%B0%E7%90%83%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%86
『24時間テレビ エロは地球を救う』(にじゅうよじかんテレビ エロはちきゅうをすくう)は、2003年から2015年まで毎年生放送されていた、日本のチャリティー番組・お色気番組である。通称『24時間テレビ』、『24HTV』。
正式番組タイトルは『STOP!AIDSチャリティー 24時間テレビ エロは地球を救う! ○○○○』となる(○○には西暦が入る)。
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2008年にはスカパー!アダルト放送大賞の「作品賞」を受賞した。
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2021年は前年に引き続きオークションを中心とした2時間番組『エロは地球を救う2021チャリティーオークション〜人気セクシー女優のお宝グッズ&激レアパンティー大放出!〜』として12月4日に放送した[4]。
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おっぱい募金「おっぱい募金」は募金イベント会場で行われる看板企画である。これは本家の「愛は地球を救う」の募金会場でアナウンサーやタレントと握手することに倣い、チャリティー募金を行った参加者は、アダルト女優もしくは男優(2016年より追加)の胸を揉む事ができる。第1回(2003年)から現在まで続く恒例行事である。1回の募金額はあくまでも任意ではあるが、主催者側は「出来れば1回につき1,000円以上の募金」をお願いしている[8]。
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「玉もみ募金」
おっぱい募金の女性版として、男性の局部に触れることが出来る「玉もみ募金」が、第3回(2005年)[13] から第5回(2007年)に開催された。会場では若手アダルト男優が募金担当となり、寄付金は1円以上・時間は無制限・男女性別問わず参加可能など、参加のハードルは低めに設定された。しかし、第3回の参加者はスタッフ曰く「触れるまでもない」、第4回は参加者が2名[14]・第5回も参加者少数で、あえなく企画は打ち切りとなった。
「おしり募金」
基本的な形式は「おっぱい募金」と同様で、チャリティー募金を行った参加者は、アダルト女優のおしりを揉む事ができる。
「手コキ神社」
第1回(2003年から)から始まった企画。チャリティー募金への寄付を行った参加者は、アダルト女優から「手コキ」を受けることができた。制限時間は3分、1回の募金額はあくまでも任意ではあるが、主催者側は「出来れば1回につき3,000円以上の募金」をお願いしていた。番組第1回から行われた企画であり、多くの参加者が集まったが、様々な事情により、第5回(2007年)をもって終了となった。
性感エステ募金
女性限定。プロの手による性感エステを体験でき、その快感度に応じて寄付を募っていた。寄付金は「出来れば1円以上」と設定されていた。
その他、「女子アナと混浴募金」「おしっこビアガーデン」など多彩な募金活動を行ってきた。
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歴史
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2005年(第3回)
放送日時:8月27日 19:00 - 8月28日 20:55
番組MCはノンキー山崎。
チャリティーパーソナリティは紅音ほたる。
出演者が着用するTシャツのデザインを、イラストレーターのリリー・フランキーが担当。「NO CONDOM,NO LIFE.」のロゴ入りTシャツは、チャリティー企画としてYahoo!オークションに出品され、高値をつけた(なお当時、チャリティーTシャツの一般向け販売は行われていなかった)。
24時間テーマソングとして、ジョニー大倉による「Paradise Forever」が制作された。
2006年(第4回)
放送日時:8月26日 19:00 - 8月27日 21:00
メインMCは西野健一・穂花(東京会場)、ノンキー山崎・夏井亜美(大阪会場)。
イベント会場は東京・新宿のパラダイステレビ本社に加え、大阪・梅田のショーパブ「Jail-OSAKA」を大阪会場とし、東京・大阪同時開催となった。
番組のチャリティーTシャツのデザインは、漫画家の永井豪が担当。番組の視聴者やイベント会場来場者にプレゼントされた。
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2008年(第6回)
放送日時:8月30日 20:00 - 8月31日 21:00
メインMCは松丘慎吾。
Tシャツのデザインをえびはら武司が担当。『まいっちんぐマチコ先生』がキャラクターとして登場した。
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2011年(第9回)
放送日時:8月20日 19:00 - 8月21日 20:00
メインMCはDJ急行、プチ鹿島。メインパーソナリティーはPTV女子アナウンサー(眞木あずさ、鈴木ありす、新城美稀、加藤梓)。
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2012年(第10回)
放送日時:8月25日 20:00 - 8月26日 20:00
Tシャツのデザインは7年ぶりにリリー・フランキーが担当。メインデザインにはパンダの図柄が起用された。
来場者が2011年から倍増し4,000人を超えた上、おっぱい募金だけで420万円を集めた。
2013年(第11回)
放送日時:8月24日 20:00 - 8月25日 20:00
メインMCはプチ鹿島。DJ急行はおっぱい募金会場の特設ブースでDJを担当。
Tシャツのデザインは2年連続でリリー・フランキーが担当。メインデザインにはウーパールーパーの図柄が起用された。
2014年(第12回)
配信日時:8月30日 20:00 - 8月31日 20:00
メインMCは天津木村、初美沙希。Tシャツデザインは3年連続でリリー・フランキー。
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2015年(第13回)
配信日時:12月5日 20:00 - 12月6日 20:00
配信開始の12月5日20時はスカパー!アダルト放送大賞の投票開始時間である。24時間テレビと言いながらメインMCなどは置かず、おっぱい募金会場中継、サイマル放送の「生でパイパイもませて」以外は各チャンネルからのスカパー!アダルト放送大賞ノミネート関連作品を流す番組構成となっている。
Tシャツデザインは4年連続でリリー・フランキーで、従来のイラストタッチとは異なり、盗作疑惑で騒動になった東京オリンピックエンブレムを模したデザイン。協賛企業・団体
スカパーJSAT
公益財団法人エイズ予防財団
オカモト株式会社
TENGAほか
こんなんに協賛してるテンガやオカモトが今や学生さんに人権を包括した性教育してるってんだからやはり悪趣味は過去の黒歴史なんかじゃなく現代完了進行形の虹歴史だった。キツメのAVを愛好するリリーフランキーは東京タワーの前からバッキーにとゞまらず東スポとソフトオンデマンドのアダルトビデオ日本一決定戦でも名誉総裁なうえに近年では全裸監督にも出演しててリリー氏以外もテリー伊藤やケンドーコバヤシなど既視の面々である。
AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/AV_OPEN%E3%80%9C%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%8C%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%82%8B!%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E6%88%A6%E3%80%9C
AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜(エーブイオープン・あなたがきめるセルアダルトビデオにほんいちけっていせん)は、アダルトビデオに関するコンテスト。2006年創設。現在の正式タイトルは、AV OPEN あなたが決める、アダルトビデオ日本一決定戦。公式略称はAVOP[1]。
・・・
2006年
主催は東京スポーツとソフト・オン・デマンド。 参加するアダルトビデオメーカーがそれぞれ1作品ずつ作品をエントリー。コンテスト協力店舗における開催期間中のビデオの実売本数をカウントし、最も売り上げ本数の多かった作品が優勝となる。優勝したメーカーには1000万円、2位500万円、3位300万円の賞金が与えられる。 またこれとは別に、若手のAV監督の育成を目的とした「チャレンジステージ」も開催している。こちらは監督ごとに一作品ずつをエントリーし(同一メーカーから複数の監督がエントリーしてもよい)、やはり協力店舗における実売本数により優勝を競う。こちらは優勝賞金は100万円、2位50万円、3位30万円。 AV OPEN・チャレンジステージともに、名誉総裁を務めるリリー・フランキーの審査により与えられる「リリー・フランキー名誉総裁賞」が用意されており、選ばれた作品にはそれぞれ賞金100万円(複数作品が選ばれた場合は賞金を等分)が与えられる。
開催期間は、5月1日から6月30日。
・・・2014年
7年ぶりの開催、主催は知的財産振興協会(以後、IPPA)。メインサポーターにテリー伊藤、特別審査員にリリー・フランキー。制作費別に3クラス制(スーパーヘビー級・ヘビー級・ミドル級)で販売実数により順位を決めることなど大幅にシステムが変更される[5]。 11月14日、ディファ有明で行われたJapan Adult Expoで結果発表が行われた[6]。
開催期間は、5月30日から11月14日(販売期間は、スーパーヘビー級・ミドル級が7月1日から10月7日、ヘビー級が(8月1日から10月7日)。
2015年
メインサポーターにケンドーコバヤシを迎え、前年のクラス制ではなく、すべてのタイトルをWeb投票により順位付けする総合部門、7つのジャンルを部門として売り上げ金額により争う部門賞、DMMでの動画配信売り上げによる特別表彰部門、主催者であるIPPAが選出するIPPA部門の4つの部門で争う形式となった。
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東京スポーツ映画大賞(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%A4%A7%E8%B3%9E
東京スポーツ映画大賞(とうきょうスポーツえいがたいしょう)は、1992年に設立された日本の映画の賞。主催は東京スポーツ新聞社。
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授賞式では「エンターテインメント賞・主演AV女優賞」を受賞したAV女優がその場でヌードを披露することが恒例となっていた。2007年の授賞式には就任間もない東国原英夫宮崎県知事(当時)が出席したことから、多くのマスコミが授賞式の模様を取り上げていた。
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ビートたけしのエンターテインメント賞
2001年からは、第8回(1999年)に追加された「主演AV男優賞」「主演AV女優賞」を発展させた形で、「東京スポーツ映画大賞」の他に「ビートたけしのエンターテインメント賞」が設けられ、その年話題になった著名人に賞を授与している。以前は活躍の著しかったAV男優やAV女優、さらにはユニークなタイトルが付けられたアダルトビデオにも賞を授与していた。アダルトビデオ関連の受賞者・作品は、実際には東スポ記者達からの推薦を追認している場合が多かったが、2008年は北野の「たまに何かよ、目立ったのがあったときだけ選べばいいんじゃないの?」[2]という発言から「主演AV男優賞」「主演AV女優賞」「タイトル賞」の3賞が「該当なし」とされ(「主演AV男優賞」に至っては第4回(2004年)からずっと「該当なし」の状態が続いていた)、第9回(2009年)からは完全に賞自体が消滅した。
備考
東京スポーツは本賞のほか、過去にソフト・オン・デマンドと共催した「AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜」(2007年 - 2008年)や、スカパー!アダルト放送大賞・東京スポーツ賞(2011年、2013年 - )などAV関連の賞を複数企画している。
サブカル村では令和六年三月六日時点においてもホモ(笑)24時間テレビ(笑)いじりと同様にパロディとかボインタッチで大爆笑してた。ほんらいロフトみたいな僻地にゾーニングされてたであろうテンガや連合軍といった高橋がなりチルドレンは令和期になるとNHKにまで進出して吉本興業のコントどころではない虐待映像を性被害者属性の女子供にまでフィクションプロフェッショナルとしてリテラシー教育しようとしてるのだから悪趣味を総括するにはまだ早い。
Z李 🇺🇦 NO WAR 🕊(3月5日 X)
https://twitter.com/ShinjukuSokai/status/1764992288374304802
DJ SODAのパロディAVが出てると思ったらまたSODだった。SODやSODクリエイトはパロディ元を嫌な気持ちにさせるAVを定期的に作るんだよな。 で、クレームの連絡をしても一生無視してくる。ちなみに俺は集団レイプ犯にされた。 こんなやつらがAV新法改正の署名やってるの笑える。パロディ新法を作れよ。
nyn3ma(3月6日 X)
https://twitter.com/nyn3ma/status/1765198983620944235
]]>日本に来て性被害に遭ったDJ SODAさんをネタにして名誉を著しく毀損するパロディAVを作って金儲けするSODには倫理観の欠片もない。
#AV新法を考え直す と言って、AV新法改正の署名活動を主導するSOD自ら、AV業界は自浄作用の働かない業界であることを露呈している以上、AV新法による一定の規制は必要。
流し雛(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E6%B5%81%E3%81%97%E9%9B%9B-587769#:~:text=%E6%B5%81%E3%81%97%E9%9B%9B%20(%E3%81%AA%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%B3%E3%81%AA),%E4%BC%9D%E3%81%88%E3%82%8B%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E3%81%A8%E6%80%9D%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
三月節供に川や海へ流し送る雛人形。鳥取市周辺では竹骨に貼(は)った小型の一対の紙人形を、三月節供(雛祭)に飾り祭ったうえ、3日の夕方供物の苞(つと)ともども、桟俵にのせて川へ流す。現在は郷土玩具(がんぐ)として流布もするが、なお、罪穢(つみけがれ)を移して流す「祓(はらえ)」の形代(かたしろ)の古意をとどめるもので、岐阜県などにも粗製の土人形を流し送る風習が残っている。また関東・中部の各地には、三月節供に子供たちが野外に雛人形を据えて祭り、名残(なごり)を惜しみつつ「雛送り」をする風習がかなりみられた。さらには古びた雛人形を神社や辻(つじ)に送り納める習俗も広くみられ、流し雛と一脈のつながりを示している。
江戸時代以来、雛人形が美術工芸品と化して保存愛玩されるようになると、「祓の人形(ひとがた)」としての古意は失われるが、なお一部には古い「流し雛」の風習が残存した。「上巳(じょうし)の祓」と習合した三月節供の原義は、むしろこうした「流し雛」の遺風によくその跡をとどめているといえる。
[竹内利美]
ひな人形が現代人が思い浮かべるとこの工芸品となって嫁入りと関連ずけられるよになったのは江戸時代以降のようだ。しかし大川目(岩手県久慈市)の節句こよみだとひな祭りなんか祝ってたのはいいとこの子だけみたいなこと書いてる。
大川目の節句こよみ(大川目の風)
https://bizennosato.lsv.jp/sekku.html
節句こよみ
※月日は全て旧暦です
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2月3日 節分
鉄鍋で豆を煎り、一升枡に入れて神棚に供え、戸口に向かって「鬼は外福は内」とまき、最後に鬼を追い出す意味で玄関からまいて、残った豆を年の数ほど食べるとその一年が健康であると言う。まいた豆を拾って食べるとシラミがつくと言って食べないところもあったという。
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3月3日 ひな祭り
旧家で、いいところではひな祭りをしたところもあるが、全戸とまではいかなかったようである。
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5月5日 端午の節句
この日は、遠くに行っていた人も必ず家に帰って来て、よもぎと菖蒲を戸口毎の屋根にその夕刻に置き、最後に家族全員家の中に入ってから玄関屋根に置き、悪魔払いを行った。よもぎと菖蒲を風呂に入れたり、角結びの冠にしたり、それで体をこすると病気にならないとか、病気が治るとかと言われている。赤飯や草餅・煮しめなどを作って全員で祝う。鯉のぼりを立てる風習はほとんどなかった。
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7月7日 七日盆
七日盆と称し、赤飯や小豆ばっとう(手打ちうどん風のもので小麦粉で作る幅広のもの)を作って仏前に供し、各々の家庭では祖先の墓を掃除したり道路の草刈りを盆払いと言って行ったりしてお盆の準備をした。子供たちはこの日7回ご飯を食べ7回水遊びをした。
七夕は一般的ではなかった。
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端午の節句も東北では節分のヤッカガシみたいによもぎや菖蒲で魔除けしてるなど昔の行事は魔とか厄とか鳥(害獣)を追い払ってくれるよう神頼む側面が強く鯉のぼりなんか祝ってたのはいいとこの子だけだったろう。同じく五節供である7月7日も岩手においては七夕より「七日盆」とするのが一般的でぜんざいのうどんみたいな小豆ばっとうをこしらえてたが全国的にも痩せ馬や半夏生だんごなど小麦や小豆でできた料理を食べる例が多いとみえる。
岩手県 小豆ばっとう(あずきばっとう)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/28_20_iwate.html
歴史・由来・関連行事
「小豆ばっとう」は、甘みをつけた小豆汁に幅広で短めのうどんを入れて煮込んだ料理であり、主に三陸沿岸地域で食される。「ばっとう」の名前の由来は「ほうとう」がなまったものと言われる。 建前(上棟式)や庭じまい(秋じまい)などお祝いの時のごちそうとして、また農作業時のおやつ、冬に人が集まるときに振る舞うことが多い。その際はどんぶりに盛り分け、吸い物と漬物、酢の物等と組み合わせて食べる。三陸沿岸地域では、8月7日(盆の七日目としている地域もある)の「七日日(なのかび)」に「7回水浴びをし7回小豆ばっとうを食べると、その年は無病息災で過ごせる」という風習があり、夏の風物詩となっている。
長野県 たなばたほうとう
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/tanabata_houtou_nagano.html
歴史・由来・関連行事
西に北アルプス、東に美ヶ原高原が望める松本市は、長野県のほぼ真ん中に位置する山岳都市。松本城の城下町として栄え、歴史を感じる風情ある街並みは、「松本市景観百選」にも選ばれている。街と田舎がほど良く共存する松本市は、街中から少し離れればのどかな田畑が広がる。山を見つめ、自然のうつろいを感じながら暮らす長野県では、年間行事が月遅れや旧暦でおこなわれることが多い。松本地域では、七夕行事は月遅れの8月7日におこなわれており、厄払いを意味する紙や着物でつくられた七夕人形を縁側に吊るし、ほうとうやまんじゅうを供える風習が江戸時代頃から続いている。松本地域周辺では、以前はどこの農家でも小麦をつくっていたもので、原料の小麦がとれる時期がちょうど七夕と重なっていたことから、七夕につくって供えるようになったといわれている。「七夕ほうとう」は、ほうとうと呼ばれる小麦粉でつくった太い麺に小豆あんやきなこを和えたもので、松本地域では、この時だけの特別な料理として食べられている。また、「七夕まんじゅう」は、月遅れの七夕に供える風習が安曇野地域でも残っており、小豆あんを包んだ新小麦でつくった七夕まんじゅうをつくって神様に供える。
七夕 (日本)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%95_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
七夕(たなばた)は、中国の七夕に端を発する日本のお祭り。織姫と彦星(それぞれこと座の「ベガ」とわし座の「アルタイル」)の出会いを祝う。伝説によると、天の川はこれらの恋人たちを引き離し、彼らは年に一度、太陰太陽暦の7太陰月の7日だけ会うことが許されている。お祝いは7月から8月までのさまざまな日に開催される。
元来、旧暦7月7日の夜のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦(日本におけるグレゴリオ暦導入)以降、お盆が新暦月遅れの8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。
日本の七夕祭りは、新暦または旧暦の7月7日や、その前後の時期に開催されている。
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地域によっては半夏生のように農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承[14]していたり、雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。
七日盆(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%83%E6%97%A5%E7%9B%86-589347
なぬか‐ぼん【七日盆】
7月7日をいう。この日に墓掃除・井戸替え・女の髪洗いなどをする。盆はじめ。なぬかび。《季 秋》
旧暦は日付がそのまゝに1カ月ぐらいずれてくる奴と二十四節気みたいに時期がそのまゝで日付が変わる奴とがある。桃の節供や端午の節供や七夕といった五節供は前者で盆が後者なので七夕と盆が同じ月(旧暦の7月=8月)になってた。
七夕が一般的でなかったのは盆の準備で忙しい時期もあったと思われるのだが大川目の節句ごよみは旧暦でありながら節分が2月3日になってたり半夏生(夏至の10日後ぐらい)にしても旧暦で6月になるはずなのに旧暦の7月で新暦の8月である七夕とかぶるなど何か今ひとつつじつまが合ってない。その件にかんしてはいづれあらためて整理するとして下記引用によれば7月7日や9月9日など桃以外の節供でひな人形を飾る例もあるようだ。
01. 様々な素材の雛たち (各地)(ふるさとの玩具)
https://www.asahi-net.or.jp/~vc3k-nrm/gang/gang_hina.html
雛まつりが現在の形態になったのは江戸時代といわれる。しかし豪華な衣装を纏った雛人形は高価でもあり、都会の裕福な町人層で飾られるに過ぎなかった。これに対し地方では土人形(土雛)をはじめとして、反古紙が豊富に手に入る城下町では張子製、建具職人の町では鋸屑に糊を混ぜた練り物製というように、その土地の材料を使って作られる素朴な「郷土雛」が飾られていた。前列左は三春(福島県)で作られる張子の起き上がり雛。三春は梅、桃、桜が一斉に花開くことに名が由来する美しい城下町である。前列右は漆塗りの大内人形(山口市)。伝統の大内塗りは、木地師が削った丸い白木の人形に塗り師が漆を何度も塗り重ねて作られる。後列左は薩摩糸雛(鹿児島市)。半割の竹を芯棒にした紙の立ち雛。竹の尖端に付けた麻糸を後ろへ垂らして髪に見立てている。衣装の絵柄は義経千本桜の静御前と狐忠信で木版刷り。後列右は土人形の立ち雛(岡山県津山市)。この地方では男子誕生の祝いに泥天神(練り天神)を、女子誕生の祝いに立ち雛を贈る慣わしがあった。また、雛まつりにも女児は内裏雛を、男児は泥天神を飾って共に祝うという。薩摩糸雛の高さ16cm。(H16.2.13)
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実はお雛様を飾るのは桃の節句ばかりではない。七夕(7月7日)、重陽(9月9日)の節句や八朔(8月1日)にも雛人形を飾って豊作や豊漁を祈る風習が各地に残っている。重陽の節句に飾る雛人形を「後の雛」とか「菊雛」というが、日本語の美しさを改めて感じさせる呼び名だ。ここに紹介したのは松本(長野県)の七夕雛(高さ40cm)。顔は木製、衣装は千代紙で作られた紙雛の一種である。また、松本には立派な押絵雛の伝統も生きている。(H16.3.2)
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なぜ、雛人形は雛祭りが済んだらすぐ片付けるのだろうか(表紙34)。もともと、雛人形は娘の代わりに災いを一身に引き受ける「人形(ひとがた)」・「形代(かたしろ)」だから、川や海へ流したり燃やしたりして捨て去るべきものである。現在でも鳥取(雛07)や粉河(和歌山03)などに残る「流し雛」の習俗は、雛人形本来の姿をよく表している。しかし、古くは紙や土で簡素に作られていた雛人形も、江戸期以降は次第に豪華で高価なものになったため、毎年人形を破棄するわけにもいかなくなった。そこで、さっさと仕舞うようになったのである。災いを託された人形を何時までも家に飾っておけば娘に累が及ぶ。それが婚期を逃すことなのだろう。佐土原(さどわら)人形の創始は安政年間と古く、伏見人形と類似の型も多いが、この雛人形は新作ものである。高さ9?。(H26.3.8)
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たった何十年かさかのぼっただけの世界線で人類はひな祭りよりも小正月にホガホガやシネシネをがんばっておりひなを祭ってたとしてその日付から人形の姿かたちから各地でさまざまにバリエーションが存在してた。庶民的な郷土雛の素朴ぷりは久月みたいな華美で精巧な今日の人形とはまったくの別物である。
かって農村の子どもは白めしさへおいそれと食べれないほどに貧しく行事といっても近所の家々に集団で押しかけて餅を乞食したり幼くして奉公に出されてたレベルなので男児はおろか女児の成長を祝って高額な人形を買い与えるなんて親はまづなかったはずだ。現金、玩具、書籍、勉強部屋、ファンシーケースみたいなわが子だけにたんと金を使う市場が大衆化したのはモーレツサラリーマンとオバタリアンの夫婦がよそいきで現代っ子をデパートにつれてった高度経済成長期の核家族なのでわれわれの知るひな祭りの歴史もそっから始まったぐらいに思っといたほうがいい。
第二章 農民生活変遷の各説(農民生活変遷中心の滝沢村誌)
https://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/page04_chapter2.html
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雛菓子をつくる農家の婦人たち(三月行事)
三月は雛の節句、または桃の節句といい、年間の節句中最も節句らしい節句である。一日には節句用の糯米の精白や製粉をすべて終り準備をする。二日には、女性や子供ら全家族で「雛菓子」を拵える。この雛菓子には(一)型おこし、(二)切り菓子、(三)きりしぇんしょ等がつくられ外に饅頭も白餅もつくった。
(一)型おこし。厚板に動物・山水・草花その他各種の模様をほった型に、白米粉をねったものを詰めて、その型を浮きぼりにしたものをいくつも作る。まんじゅう型のものにはあずきを入れ後に蒸す。
(二)切り菓子。米の粉に五色等の色彩を入れてしめし、それを利用して各種の模様を入れる。うずまき、いち松、稲たば、梅の花、松葉等、その人の技巧をつくす。蒸して翌朝輪切とする。
(三)切りしぇんしょ。米の粉にクルミを入れたりする。横長く、扁平につくり、上に箸形を押す市場販売品と殆ど同じ、蒸して、翌朝切って供える。型菓子は子供にもできたが、切り菓子は出来なかった。色彩を入れて湿した塊りを色々組合せて、径二寸前後、長さ八・九寸位の棒状につくり上げるが、人により家により技術に差があった。二日はこうして餅菓子をつくり、大鍋で蒸して煮るのである。また型菓子も切りしぇんしょも蒸し煮とする。
この外、白米餅をつき、のし餅につくられ、小型のまんじゅうもつくられる。すなわち白米粉利用の餅菓子の粋をつくしておひな様を祭るのである。
三日の朝は前日の夜おそくまでかかって蒸したものを、この朝ヒナ壇に陳列するが、切り菓子はこのときうすく輪切りにされ、その切断面に、色々の模様が色彩あざやかに顕れる。美しい色彩の切り菓子・型菓子・切りしぇんしょ・三角の白い切り餅・小さな饅頭、それらが膳に陳列され、その外海苔寿し、甘酒、白酒等をおヒナ様に供えられるので、おヒナ様と共にその家族も喜びに浸るのである。
こうして作られたヒナ菓子は、三日の朝食後、隣家に配られるので、この菓子作りは、自然競争の気持ちになり、技術の練磨ともなった。また若い女性は婚家から三日の休日に生家を訪れるにも手土産として持参することもあり、家の趣向、部落の技術の交換ともなった。
この節句には、三月朔日の朝、ヒナ壇をつくり、ヒナをならべるが、ヒナは花巻産の土人形で、江戸ものや京人形は、豪商豪農以外には殆ど見られなかった。朔日の朝、正月から乾燥してあったアラレを大豆位の大きさに砕き、それを鍋で煎り、餅花にふくらませ、煎り大豆共に、おヒナ様に供える。また木版色刷の絵紙(えがみ)を後に吊って飾り、朔日の朝から三日の朝まで、おヒナ様の食膳は女の子が精をつくして供えるものとされていた。
この日近所隣りの子供らを互いに招き合って一日を楽しく過し、休日としていた。
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ひな祭りの食べ物も今は菱餅、白酒、ひなあられあたりで全国統一されてる感もあるけど、ひなあられは明らかに関西のとよすや植垣米菓あたりから始まっており新潟はあんだけ米菓会社あってほとんど作ってない。越後製菓のマヨネーズひなあられももともと提携してた岐阜の日東あられの商品を引き継いだまでである。
たゞ上記引用した滝沢村(岩手県)の記録を読むとあられを炒ってるので東日本が必ずしもうるち米文化ってわけでもなさそうだ。繭玉をひなあられに作る例もあるようだが雛菓子を「おいり」と呼ぶ地もあるなど「煎り」は「嫁入り」に引っかけてることもあり今市販されてる餅菓子がほとんど油で揚げてるのにたいしひなあられは素焼きが基本だった。
愛知県 おしもん/おこしもん
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/oshimon_aichi.html
食習の機会や時季
桃の節句にお雛様に供えられる。お雛様にお供えしたあと、焼いて砂糖醤油などを付けて食べられてきた。
おこし型(じゃらん)
https://www.jalan.net/omiyage/omi_0000000441/
佐渡の伝統的お菓子であるおこし型。半分もち粉の入った団子生地と佐渡産の小豆餡が素朴ながらも絶妙。
「おいり」のほかには「おこし」も縁起のいい動詞(動名詞)のようで飴でつくねたよなポン菓子がひなおこしの名で販売されてたりする。いっぽう岩手の「型おこし」は滝沢村の記録を読むかぎり同じうるち米でもしんこの生地をかわゆい型に抜いたものらしく佐渡で「おこし型」愛知で「おこしもの」といった同様の菓子が分布してた。
「きりせんしょ」は岩手固有の菓子として残る「切り菓子」は花の模様を作って輪切りにするとあるからおそらく佐渡や長野において涅槃団子の一種だった痩せ馬(やせごま、やしょうま)と同じ物だろう。涅槃会とひな祭りは時期が近いことから菓子が融合してることもありそうだ。
松山に代々伝わる節句菓子「りんまん」って知ってる?(2019年4月3日 DO?GO!愛媛)
https://dogoehime.com/foodsweets/rinman/
「桃の節句」と言えば、3月3日ですが、松山地域では月遅れで行われるため、今日4月3日がひな祭りなんです!
今回はそんな松山市で古くから親しまれている節句菓子をご紹介します。
広島県 いが餅(いがもち)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/42_29_hiroshima.html
食習の機会や時季
亀山神社の例大祭と小祭りといった、呉市内の秋祭りの際に食される、秋の風物詩。
愛知県 いがまんじゅう
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/igamanju_aichi.html
食習の機会や時季
「菱餅」などと同様にお雛様にお供えした後、3月3日の雛祭りに食べる。また田植えが始まる前の豊作祈願の際や、稲刈りが終わる秋の彼岸の頃などの農耕儀礼の際などに食べる地域もある。
西三河地域では、1月中旬くらいから店頭に並び始める。
必ずしもひな祭りとは限らないものの「いがもち」「いがまんじゅう」など「いが○○」と名前のつく菓子(愛媛ではなぜか「りんまん」)は西日本を中心に散見される。だいたいが米粉生地の表面にタール色素鮮やかなもち米の粒粒を散らしてるかわゆい菓子なのに埼玉のいがまんじゅうは小麦粉生地のまんじゅうが赤飯に包まれててさほどかわいくはない。
埼玉県 いがまんじゅう
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/33_4_saitama.html
これをひな祭りではなく七夕や田植え上がりに食べるというのだからタール色素鮮やかな米粉のかわゆい菓子がところ変われば同じ名前でさほどかわいくはない半夏生だんごの一種となるのは「ねじ」「痩せ馬」と同じだった。また愛知あたりでは駄菓子製造の本場でかつ関東と関西と信越のいづれの文化も入ってくる土地柄なこともあってか、おこしもの、いがまんじゅう、マヨネーズひなあられのみならずでんぷんあられの「花あられ」など雛菓子の種類は多岐にわたってる。
]]>ブルボンさんお得意のプチプラを感じさせぬ優雅な味わいは定番のルマンドとかホワイトロリヰタより推せる。公式で見た目が特徴的ていわれてるだけあるこの風変わりな姿かたちはセーヌ川の流れを表現したのやもしれぬ。
同じシリーズのセブーレもバター率の6%から2.5%に減らされてるのにけっしてプチプラを感じさせぬ優雅な味わいだ。これはきっとショートニングの功績で表面にちりばめられた砂糖のつぶつぶも良きアクセントになってる。
プチプラクッキー界でブルボンと双璧をなすミスターイトウが本気出したコンフェッティシリーズ。けっこう良い値段するが見切りコーナーでもけっこう見かけててガレットブルトンヌは半額ぐらいだった。
私にとってガレットブルトンヌは業務スーパーにて購入した本場フランス直輸入が初体験である。そのときにホームパイのようなバタークッキーのような未知の味わいにいたく感銘を受けたんだけどこれは味も見た目も違ふ。
業務スーパーではこういう分厚いクッキーはガレットブルトンヌと同じシリーズからパレットブルトンという名前で少し安く売ってたのである。何が違うのか食べ比べようと思ってたがガレットパレットともども取り扱いがなくなってしまった。
ミスターイトウのガレットブルトンヌもバター15%使用してるだけありバタークッキーの生地を極限までリッチにブルターニュ地方の名産が塩なだけあって極限まで塩ぱくしたクッキーである。そんな塩バターみとざっくざくの食感はプチプラではなしえない優雅な味わいだがこれはガレットブルトンヌではなくパレットブルトンではないのだろうか。
ホームパイから冬に限定発売されたジェンダーブレッドパーソンならぬジンジャーブレッド味は見切コーナーに流れ着いた。別にからいわけじゃないんだけど、しょうがというよりカレーみたいな味する。
チョコだらけはチョココーティングのみならず本体のホームパイまでもチョコ生地のWチョコ仕立てだった。おいしいけどくどいので冬だけで良いかなって感じだ。
しかしカントリーマアムのチョコまみれ、じわるバター、チョコにタジタジとかに描かれてる絵が全部同じに見える。わかりずらいは可愛くもないはで菓子の画像を大きく乗せたほうがよほどおいしそうに見えるのにといつも思うのだが。
皆様方の意に添う様にたゆまぬ研究を致して居る味覚の王様「美味あんこ飴」は100均でしか見たことなくこれもダイソーで買った。ミルキーからミルク味をとり除いたよなソフトキャンディーでかんじんのあんこがよくわからない。
いっぽういっしょに買ってた姉妹品のきな粉飴はミルキー化したきなこそのものだった。甘すぎなく歯が悪い私でも不思議としみたりくっついたりしなくってこれだけストレスなく楽しめるネチネチは珍しい。
画像検索するとあんこ飴にはこういう紙をねじって包んだソフトキャンディのほか何にも包まれてないぶっきりタイプとピロー包装の飴玉(ハードキャンディー)タイプがあるようだ。基本的にはぶっきりがもっとも古くソフトキャンディが戦後で飴玉がさらに新しいというのがわが飴史観で美味あんこ飴の埼玉の丸屋製菓以外に茨城の押坂製菓も同様の商品「押坂のソフトあんこ飴」を製造してるから関東ではヌガーみたいにかってはよく作られてたのかもしれない。
埼玉には古くより伝わる銘菓の御家宝(ごかぼう)もある。これまたきなこ棒とかきなこねじりとかげんこつあめとかと同系統のネチネチきなこ飴なんだけどもライスパフが包まれてるぶんエアリーで軽い。
見た目と歴史の長さによらぬ不思議食感には若人や外国人にも大いに受け入れられそうなポテンシャルを感ずる。自然のまゝのきなこ色のほか緑色ヴァージョンもありそっちは抹茶味かと思ったけどどうもタール色素で着色してるだけぽい。
金の生もちきなこはレギュラーのきなこもちチロル同様にきなこチョコの中にネチネチした物体が入ってる。原材料の最初が水あめなのでこの餅もいわば飴の一種なのだろう。
きなこ感がかなり濃厚とはいへ餅ときなこの値段考えたら50カロリーぽっちのチョコが2ケ100円とは高級すぎる。そもそもダイソーでクリームチーズ味のチロルを見かけその抱き合わせで買ったんだけどもクリームチーズもコスパ極悪なチョコを迂回せずにまことのクリームチーズ食べたほうがよくないか?と自問自答せずにはおれなかった。
ブラックモンブランでも有名な竹下製菓のきなこもちマシュマロはダイソーではない100均にて見かけた。同社とチロルはかねてからコラボしてたりアイスの製造を引き継いでたりと九州どうしで縁が深い。
中にジャムやクリームの入ったマシュマロといえばエイワなのできなこもちマシュマロのキューブ型はちょっと様子が違ふ。食感もムッチムチのエイワにたいして竹下製菓のマシュマロは乾燥肌でハリもないので今ひとつ餅感に欠ける。
フルタもチロルきなこもちとコラボしてた。同社はこの個包装クッキーのフォーマットでカントリーマアムもどきのセコイヤクッキーも製造してるので袋の画像からはきなこ味のカントリーマアムのように見えなくもない。
じっさいはチロルというよりも昔からあるマコロンっていうナッツ味のクッキーがしけたみたいな感じだった。マコロン好きだから普通においしいんだけどきなこでもちでチョコかと言われるとどうなんでしょうか。
「しっとりもちっと」って書いてるとこから水あめネチネチ系なのは想定内としてあんまりきなこの味がしないのが想定外だったブルボンのわらびもちクッキーはけっこう甘いせいか歯にしみた。なまじ和風なだけに南信州あたりで製造されてる「栗しぐれ」みたいな仏壇御用達の半生菓子の趣がありきなこでもちでクッキーかと言われるとどうなんでしょうか。
アメリカのおばたんが焼いたかのよなクッキー界の新星と思われたソフィリナはかって旅するお菓子屋さんチューミー名義での下積み時代を経験してた過去が箱の画像の使いまわしぷりからもうかゞえる。いづれにせよソフトかつチューイーな食感を示唆する商品名になってた。
チューミー時代にはブルボンがかねてから製造するカントリーマアムもどきの巨大化だと思ってたんだけどこのたび初めて食べてみたら思てたんとだいぶ違ふ。サクッと干からびたクッキー部の内側にしっとりしたチョコチップ部が内蔵されてるのではなくしっとりしたクッキー全体に大粒なチョコチップがごろごろとめりこんでる。
そのようにカントリーマアムと違う構造でありながらちゃんとガワだけサクっとしてて食感の面白みでもけして引けをとってない。渋い米菓や優雅なヨーロピアン菓子のイメージが強いブルボンだがアメリカのおばたんが焼いたかのよなクッキーも手ごろな価格で作りこなすのだからそのオールマイティぷりは唯一無二である。
大ぶりなチョコチップとマカダミアナッツがごろごろとめりこんだ袋の画像があんまりおいしそうでかねてより憧れてた6ケ入りのアメリカンソフトクッキーはプチプラクッキー界でブルボンと双璧をなすミスターイトウである。このたび見切り品ばっかり売ってるスーパーで200円切ってたのを契機に買ってみた。
アメリカのおばたんが焼いたかのよなクッキー界の巨匠たるカントリーマアムに比して1ケあたりの熱量は100カロリーと倍ほどありナッツが入ってるからか70カロリーだったソフィリナをもさらに上回ってる。マアムのクッキーがサクっとしっとりの二重構造だったのにたいしイトウおじはひたすらネチネチしててクッキー化した飴ってとこである。
アメリカのおばたんが焼いたかのよなクッキーはどれも水あめは使ってるんだけどたんにしけてるだけだったりしてカントリーマアムがうまいぐわいに外だけ干からびてるのはミルキーのネチネチ技術が生かされてるのだろうか。それにしてもアメリカのおばたんが焼いたかのよなクッキーはパケ写詐欺とまでは言わないにしろ袋の画像が盛れすぎの傾向がある。
1万円超えの異次元なアメリカ式クッキーがヤバすぎるww(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=w2e0kdZdIgs
上の動画ではアメリカ式クッキーについて「ニューヨークスタイルは外がカリカリで中がふわふわチューイーで具材がゴロゴロ」だと言っててマカダミアとチョコチップも食べてる。外がカリカリはマアム、チューイーと具材ゴロゴロはマアムとイトウおじいづれの特徴にも合致してるのだがマアムはニューヨークどころかカントリーをうたってるのであれはアーミッシュのステラおばたんとニューヨークスタイルの折衷だったんだろうか。
動画で温めてたからミスターイトウもトースターでちょっとだけ焼いてみたら焼き立てみたいな良い香りして食感もそのまま食べるよりも好きだった。基本的にクッキーは焼いたらグンニャリと柔らかくなっちまうんだけど前に食べたことあるオリオンのしっとりチョコチップクッキーなど例外的に焼いたほうがおいしいこともある。
クッキークランってどっかで聞いたことある商品名だと思ってたら同じくハッピーポケットの輸入してるマレーシアのオレオもどきがクリームクランだった。カントリーマアムを意識するあまりチョコチップクッキーがしけってるさまはフルタのセコイヤクッキーに似てるけどこっちのほうが高い。
ミルクとダークとホワイトの3味が70円ぐらいで山積みされてたフィリピンのチョコムーチョ。そのなかで普通味と思われるミルクを買ったあとでフィリピンの菓子ってさては激甘かと急にダークにすればよかった氣がしてきたんだけど幸いにもそこまででもなく熱量も150カロリーとは大きさのわりに高くない。
袋の画像からもわかりますよにチョコの部分はほとんどライスパフ(≒空気)混じりで真ん中はウエハースでかさ増しされてるうえナッツや有り難い栄養素を何1つ入れてくだすってないのだから見た目こそエナジーバーに寄せてても実態は駄菓子である。ビックリマンチョコに似たよな味だけど芯のチョコヌガーがちょっと苦手なタイプのネチネチだった。
スモアとは焼いたマシュマロとチョコを挟んだクラッカーで大元はアメリカのサマーキャンプ文化(キャンプファイヤーでマシュマロを焼く)なのだと思われる。わが國にも古くからエンゼルパイがあったとはいへここんとこのチョコマシュマロの人気ぷりは10年前にマックスブレナーのマシュマロピザが伝来して以来ではなかったろうか。
栄屋乳業のアイスモアはアイスの部分がマシュマロのようなふわっと食感って書いてるんだがふわどころかネチネチしてて水あめ感が強くクッキーもよくわからない。以前fluffっていうパンに塗るマシュマロクリームを買ったときもその語感に反しまるきりヌガーのごときアメリカ人好みの激甘ネチネチで使い切るのに一苦労だったのを思い出した。
このアイスは中にあんこの入ったミルク味のアイスバーでどこが「フランス」「ホイップ」「パン香る」なのかはよくわからない。あっさりしてて安っぽいラクトアイスだと思ったのに原材料見たら種類別アイスクリーム(乳脂肪分8%以上)でもしかすると正常な味蕾の人が食べるとちゃんとホイップを感じれてフランスだったりするんだろうか。
スーパーカップは特売で手に入れたくとも私が必要とするバニラと興味深い限定から売り切れていつも私が必要としないチョコと抹茶とたいしたことなさそうな限定だけが残されてる。マロンタルトも興味深いから68円ぐらいで買いたかったんだけどやっぱり売り切れててけっきょく相場としては安くも高くもない100円ぐらいで妥協した。
そんなプチプラでありながら嘘いつわりのないモンブランのアイス化でありまことのモンブランを凍らせるとカチ○コチンになるところラクトアイスは冷凍庫から出したてでもすぐに食べれる柔らかさが嬉しい。しかし菓子パンだと平気な300カロリーもアイスだとなぜか1カップをいちどきではなく100カロリー×3回に分けて食べるあたりに老いを感ずる。
]]>しかし韓国の即席めんは500カロリーあたりが最低ラインと日本よりもひとまわり大きいのだからそんなん作ってたら麺だけで1000カロリーにもなっちまうなどチャパゲティが入ってる時点でリスキーなのに量やカロリーまでリスキーときている。最初から1人ぶんだけで完成されてるカップが出てきても値段が高くて買うまでにはいたらなかったんだがこのたび150円ぐらいに見切られててようやくチャパグリ処女喪失するにいたった。
以前食べたことある韓国の汁なし麺はフタに箸で穴を開けて湯を捨てる方式だったのにたいしチャパグリは湯切り口がついてる。私が湯切り口をめくったときはなぜか穴が出てこなくてけっきょくちょっとだけ開けたすきまから湯を捨てたんだけど本来はちゃんとUFOみたいな穴が出てくるようだ。
湯を切ったあとの麺にチャパゲティ成分とみられる黒い粉とノグリ成分とみられる赤くて辛い油を絡ませると粉がやけにダマになってなかなか混ざらない。チャパゲティ単品だとまるで失敗した焼きそばを食べてるかのようなのにノグリのおかげかチャパゲティの焦げ味がさほど氣にならないうえうまみもあって結果的にチャパゲティとノグリいづれの持ち味もよくわからなくなったつかみどころのない仕上がりになってるけど塩味やソース味の焼きそばとは違った目新しさがあり麺もカップにしてはモチモチして袋で作ればなおのことおいしいのだろう。
ヤンニョムチキンもチャパグリと同じ農心製のカップやきそばである。ノグリは確かああ見えてうどんらしいのでけっこう麺が太くてモチモチしてたんだけどヤンニョムチキンは昔ながらの即席めんって感じの細い麺でこれという特徴はない。
チャパグリで湯切り口をめくるのに失敗したんで今回は慎重をきしたんだがやはりUFOよりもめくりずらかった。というかカップじたいやけに大きく表面もツルツルしてるんで注意しないと手からすべり落としそうになる。
チャパグリのソースは粉末だったんで太麺とダマになってたがヤンニョムチキンは湯を捨てたのちにかやくと液体ソースを混ぜるだけなのでスムーズだった。火薬はチキンではなく天かすみたいなのがいっぱい入ってると思ったらその正体はピーナッツバターに入ってるみたいなつぶつぶピーナッツである。
ソースはまぁまぁ辛いけどお茶なしでも全然食べれるレベルでどっちかというと甘さのほうが印象に残った。酢豚とか東南アジアのスイートチリソースを思わせる味で原材料を見ると一番上が水あめと砂糖でケチャップも使われてる。
この甘辛さや火薬がピーナッツとは日本と違ふセンスなのでもしかすると人を選ぶのかもしれない。私は九州の甘い醤油使ったり麺類につぶつぶのピーナッツバターをぶっこむよな性格なので好きな感じだったが。
たゞ塩分が多いんだか麺にたいしてソースが多いんだか味を妙に濃く感じてた。お湯で薄めるのも違う氣がして途中からマヨネーズぶっこんだんだけど味が濃いのに調味料足すとはわれながら理解に苦しむ。
以前は新大久保とかでしか手に入らなかったよな韓国麺がスーパーのラーメンセクションの一角を占めるよになってかれこれ数年は経つ。毎度おなじみの謎の政治力でぶっこんでるとはいへチャパグリやモッパン動画の人気も背景にありそんなご時世を受けて日清食品もかねてより海鮮チゲみたいな韓国を意識したラーメンを出し始めてた。
日清にかぎらず日本の会社のくせに韓国から輸入したかのよなハングルデザインを採用してることがあるけどポックンミョンがぶっちぎりで日本の製品に見えない。元ネタにあたる三養食品のブルダックは確か最初は激辛しか出てなくその後シリーズ展開しててもかえってどれが何味でどれが辛くないんだか訳がわからず結果いっぺんも食べずにいた。
日清のポックンミョンはこれしか出てなくってしかも日本の会社だからそんな馬鹿みたいに辛くすることはあるまいと邪道ながらパクリ商品でポックンミョン処女喪失することにしたというわけである。なおポックンミョンとは韓国語で「炒め麺」の意味だそうでプルタックも日本版は「プルタック炒め麺」だった。
けっきょく日本語でいうとこの焼きそばなのだよね?と思っててほかならぬポックンミョンもUFOなどと同じく「日清やきそば」ブランドから出てはいるものの「炒め麺」はどんべいを黄色くしてひとまわり太くしたみたいな平麺で焼きそばとは少しばかり様子が違ふ。作り方は日清やきそばと同じくフライパンで火を通して水気が飛んだとこで粉をからませるんだけど作ってる最中からチーズみたいなクサいい香りしてようやく「カルボ」の意味を理解した。
味も激辛カルボナーラといったとこでけっきょく「炒め麺」とは中華麺ではなくスパゲッティをイメージしてたのだろうか。そういえばポックンミョンに先がけて韓国で大ハヤリしてるというこれまたハングルデザインのロゼクリームなるパスタソースを食べたこともある。
ロゼクリームはもともと嫌いなレトルトだったせいか税込み30円とか駄菓子レベルの値段でさへ後悔する(というか投げ売りされて当然)レベルにまずかったんだがポックンミョンは麺もモチモチネチョネチョしててぜひとも定番商品になってほしい。やっぱり焼きそばはカップじゃなくて袋めんに限る。
しかし日本の麺にしてはかなり辛くたまたまあったヨーグルトがヒートアップした口内に安らぎをとり戻してくれた。私は食べるだけならいくら辛くても大丈夫なんだけど胃が荒れてるのか刺激物を消化してるさい背中の痛みなどが生じこういう体質なせいでK-POPもモッパンも輸入食品好きなのに普段は韓国麺を敬遠してる。
ポックンミョンにいたく感銘を受けネットで評判を見たらブルダックのほうが辛くておいしいってみんな言ってる。こんなに辛くてこんなにおいしかったのに本家はさらに辛くっておいしいですって?と、いてもたってもいられなくなり何年もゴリ押しをスルーしてきたブルダックをようやく購入するにいたった。
日清はダイソーに売ってたけどブルダックは袋めんのくせに税込み150円ぐらいしてこれでも安いほうである。私が見た店ではカルボ味とチーズ味を置いており何だかチーズ味のほうが袋が黄色くって心が奪われそうになったんだけどあくまでポックンミョンのオリジナルを知るのが目的なのでピンクのカルボ味を選んだ。
麺はやはり黄色くて太くなったどんべいみたいな平麺でこれは火を通すとさぞプリプリモチモチしてるにちがいないと期待させる見た目だった。公式の作り方では600mlで湯がいていっぺん湯を捨てたまへって書いてたけど無視して水気を飛ばす方式で作ったせいか仕上がりがやけにぬめってたのはいなめない。
水が少なくなってきたとこで三養食品が火薬と称する袋を入れたら全然具なんか入っちゃいなくカルボナーラらしき白い粉末スープだった。もういっこの真っ赤赤なたれがどんだけ辛いのかよくわからないのでまづは入れずに食べてみたんだがカルボナーラってよりはポタージュスープみたいな薄っすらしたクリーミーでまったく物足りない。
すぐにたれも全部入れたんだけどけっきょく韓国によくある辛いだけで今ひとつうまみのないパターンだったため味塩こしょうふってうまみと塩みと辛みを足したほどだった。汗や鼻はちょっと出たし食後にヨーグルトでヒリヒリした口の中をクールダウンさせはしたけどもお茶もほとんど飲まずに完食できた程度の辛さで日清のほうがまだ辛かった氣さへする。
というわけでポックンミョンは日清のほうが氣に入ってたんだけどカップはカルボ感がよくわからなく甘さと唐辛子の辛さだけで塩気やうまみに欠けるとこは日本製なのに悪い意味で韓国ぽい。麺が袋よりも劣るのは想定内とはいへ同じ商品でソースがこれほど違う印象になるものなのだろうか。
ロッテ系の農心ほどはポピュラーじゃないけどそこそこよく見るパルド(八道)はヤクルト系らしい。韓国では巨大なヤクルト売ってたり焼肉屋のレジでガムじゃなくヤクルトが出てきたりひと昔前はヤクルトグッツも大ハヤリしてたこともあったのでたぶんソフトドリンクのブランドとしてはコカコーラぐらいの地位ある。
ホットタッカルビはポックンミョン同様にどんべいが黄色くなったよな平麺の辛いたれのやきそばだった。でも韓国によくある砂糖の甘さ+唐辛子の辛さだけではなくカレーやソースみたいなスパイスやフルーティなうまみやが感じられて日本人にいくぶんか受け入れられやすい味であるよに思われる。
原材料見るとフルーツは使われてなかったけど(そもそも韓国に日本と同じよなソースや焼き肉のたれは存在してない希ガス)だしやカレー粉はやっぱり入ってた。これは公式でもゆで汁を捨てずに水気を飛ばす作り方で麺の食感も良く見切られてたから何となく買ってみただけなのに結果的に一番当りだった。
韓国で初めての即席は辛ではなく三養ラーメンだった。日本人は韓国人ほど辛さを必要としてなかったりといくぶんか味覚の違うものですからそのぶんラーメンも自国製品より当たり外れが大きいけど三養ラーメンは明星の技術供与がベースになってるからかちゃんとうまみもあっておいしかった記憶がある。
このたびダイソーでばら売りしてたので久しぶりに食べてみてやはりいい意味で無難なピリ辛ラーメンだと思った。CMに少女時代の出てた国民的銘柄でもあり日本でいうとチャルメラってとこだろうか。
最初具なしで食べてたのに途中で何かをぶっこみたくなり卵やソーセージとも迷った結果もちをぶっこんだ。わが國のラーメンはアミノ酸でもやしやキャベツを食べたくなるいっぽう韓国のラーメンはそもそもが500カロリーぐらいあるのに卵やソーセージそしてチーズといったカロリー連中で辛さをまろやかにしようという本能が働くためヘルシーにしようがない。
そんなに辛くもないし普通においしかった記憶があったんでダイソーで半額になってたさい小腹満たし用に買っといた韓国のキムチラーメン。賞味期限差し迫ってたのにしばらく小腹だけが減るタイミングもなかったんで結果すさまじく賞味期限切れた状態で食べたんだがもともと何ヶ月も日持ちする食品なのでとくに糸を引くということもなくキムチラーメンの名にたがわぬキムチ鍋にラーメン入れたみたいな味だった。
これは韓国のラーメンではなくまるちゃんのクッタなんだけども韓国ポテトチップの代名詞的存在であるハニーバターチップ=しあわせバタ〜味が出てた。フタを開けると甘い香りのするポタージュのごとき粉がたんとかかっておりポテトチップを再現してるからか具がじゃがいもなのはクッタのサワークリームオニオンと同じパターンである。
コシのある麺によくからむクリーミーなスープはバターってよりはチーズであり好き嫌いが別れそうというか好きな人の方が少なそうなぐらいに甘くて乳臭い。私はサワークリームオニオンにかわってレギュラーにしてほしいぐらいなんだけどカップスープの粉に砂糖ぶっこんで再現できないだろうか。
渋いデザインながらやたらでかすぎる袋で異彩を放ちまくってたデロン菓子。検索すると韓流ドラマではけっこう見られるのだそうで居酒屋のお通しでも出てくるとか書いてる。
見切り品だったせいかとにかく油が酸化したと思われるクレヨンみたいなにおいと味でえぐすぎてこのにおいさへなければおいしいと思うのだが。おかきやかりんとうで同じクレヨン臭に遭遇したことがあるんで透明の袋に入った揚げ菓子だとけっこうあることなのかもしれない。
チーズの粉とかはついてないものの基本的にチーズあられと同じ菓子でかぱえびせんそっくりのセウカンしかり鯛あられとか横綱あられとかでんぷんあられのたぐいはひととうりコピー商品が作られてる。即席めんとかさつまいもをやたら好む国民性も貧しかった時代の名残りな希ガス。
クロワッサンをワッフルの型でペチャンコに焼いたクロッフルはタピオカとかチーズハットクみたいなカテゴリで日本に伝来もしてる。そんなクロッフルをイメージしたスナックはクロワッサン型のキャラメルコーンといったとこだった。
東鳩にもパイクロとかミニクロワサンとかいってクロワッサンの形に焼いたよなバター味のキャラメルコーンがあるけどこれはパイクロよりも1ケ1ケが大きい。食感がさっくさっくからのしゅわっと口どけして甘さもちょうどよくキャラメルコーンそこまで好きじゃない私にもおいしかった。
コブクチップは小麦粉生地なうえに甘いフレーバーばっかり出てるからコーン生地のエアリアルとは似て非なる。バニラは70円ぐらいだったが私が食べてみたいきなこ味は200円前後でしか売ってるの見たことない。
バニラはべつに投げ売りされるよな味でもなく普通においしかった。たゞ甘ったるくはありシリアルみたいに牛乳かけたほうがポテンシャルだった氣もする。
ドーナツ(オールドファッションとかサーターアンダギーのたぐい)を濃縮したよな韓国の伝統菓子ヤックァ(薬菓)。前食べたときは激甘で油果汁じゅわーんとなってたよな記憶があるんだけど業務スーパーのミニヤックァはそこまででもなく1ケが小さいこともあって食べやすい。
なおダイソーにこのヤックァをイメージしたシナモン味のスナック菓子を売ってて誰もが韓国からの輸入だと思う見た目してたけど日清のポックンミョンと同じパターンで日本で製造されてる。そやってこれからはハングルがオシャって電通にふきこまれるまゝ韓国っぽ食品を作ってるよな会社はこれからは昆虫食がオシャって電通にふきこまれて痛い目見てそうだと思って検索してみたら案の定コオロギチップも作ってた。
ロッテのチョコパイは好きなんだが競合品である情はそうでもないのでオリオンのカスタードケーキもロッテの下位互換ぐらいを想定してたら資本ケーキみたいなふわんふわんだった。中のカスタードも私好みのバタークリームでロッテはおろか萩の月より好きまである。
DJソーダが反日疑惑を否定するさい「私はカルピスのために日本に住みたい」と言ってたりヤクルトのポピュラーぷりを見ても韓国人にとってわが國の乳酸菌飲料がさぞおいしいのかもしれない。ロッテのミルキスはその色と名前とソーダからカルピスソーダと同等の商品かと思ったのだが乳酸菌ってよりはスマックゴールドに近かった。
]]>しかし関東になると群馬の鳥追い歌が「唐土の鳥を追いもうせ」と七草囃子に酷似してたり茨城で「かまくら」の唄われる鳥追い行事が成木責めだったりとやゝ趣が異なってくる。七草囃子に出てくるコトコトやバタバタといった擬音語は鳥追い歌や餅もらいするさいのかけ声ともかぶっており西日本でだって正月飾りを燃やす行事を「唐土」と無関係ではなさそうな「とんど焼き」と呼ぶのだから小正月行事のかなりの部分が鳥追いから派生してたとしてもおかしくはない。
年中行事覚書 柳田国男
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
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二月一日を太郎のついたちというのは、やや古い頃からのことであって、これは暦のまだ行き渡らぬ前に正月十五日の満月の晩を、年の境にしていたことを考えると、すなわち一年の最初の朔日というわけで、少しも不思議のない話なのだが、後にはわからぬ人が多くなったか、東京近くの県では次郎の朔日という人が多く、あるいは太郎次郎の日とさえ呼んでおり、これに対して十二月一日を、オトゴの朔日という名も方々に出来、この日は特別に末の子のために、餅を搗いて祝う日だと、いうような言い伝えまでが新たに生まれている。
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犬の子正月(二月朔日)
旧暦二月一日にもまたいろいろの異名がある。太郎の朔日または次郎の朔日、中国地方でヒトヒ正月と称して、この日一日だけ正月の式を繰返し、あるいは送り正月といって半日年神を送るなどというのは、厄年の男女がもう一度年を取り重ねる習俗と、関係がありそうである。越後の中部ではこの日の行事に、米の粉を練って小狗の形をこしらえて戸の棧に飾り、または十二支の形を作り鴨居長押に引掛ける習わしがあり、犬の子正月の名はこれに基づいている。その団子の作り物は、二月の十五日までそっとしておいて、お釈迦様の供をさせるという処もあり、あるいは猫と鼠が喧嘩をして、涅槃の席に間に合わなかった故に、この二種の動物の形だけは作らぬといっている土地もある。
鳥追い歌における「○○どんの鳥追いだ」の○○どんはすずめどんだったり長者殿だったりするんだけど多いのが山形、新潟、長野で確認される「太郎どん」「次郎どん」である。太郎次郎といえば2月1日の「犬の子正月」を太郎もしくは次郎の朔日(ついたち)と呼ぶことから犬の名前と考えるのが自然なように思う。
1/14,21 節季市(チンコロ市)開催(1月9日 十日町市観光協会)
https://www.tokamachishikankou.jp/news/96184/
毎年1月に行われる恒例行事「節季市」(チンコロ市)を開催します。
節季市…農家の人々が、主に冬期間の副業として竹やわら等で作った生活用品、民芸品を持ち寄って始めた市場に由来の節季市。犬や十二支を型どった小さなしんこ細工の「チンコロ」が人気で、別名「チンコロ市」とも呼ばれています。
柏崎の正月飾り いんころ(ちんころ)について(2015年1月31日 かりんごの裏道探検部)
https://echigomiso.net/blog2/?p=111
米山地区では「いんころ」という、しんこ細工(米粉でつくる細工物)を旧暦のお正月に飾る風習があります。
新潟では、十日町に「ちんころ」という、いんころと同じようなしんこ細工を小正月に飾る風習が残っていますが、米山では、干支十二支を作って飾るのが一般的だそうです。^^
・・・
米山地域では、昔から2月1日を「いんのこ(犬の子)朔日(ついたち)」といって、米粉をこねて十二支を作って神棚に飾っていたそうです。
しかし大正期を境にあまり見られなくなり、今は、米山コミュニティーセンターさんで、伝統行事として毎年楽しまれているとのこと。
2月1日は、ひと月遅れの旧暦でいうお正月。
十二支を作るのは、縁起ものというだけでなく、昔は育ちにくかった子供を狐狸妖怪から守るという言い伝えもあったそうです。無病息災、五穀豊穣。
祈りを込めたいんころ作りです。
これを米山町では、山の神の日にあたる2月9日を「インコロシ」といって、神棚に供えたいんころをおろして、あずき粥にいれて今度は山の神に向かって供えたそうです。
あずき粥の他にいろりで焼いて食べたり、みそ汁にいれてもいいと聞きました。
柳田國男が米粉(しんこ)で犬もしくは十二支をこしらえる越後の習わしを報告してるよに新潟では局地的に犬の子正月の名残をとゞめてるとはいへそれでも大正期にはあまり見られなくなってたという。犬のしんこ細工は「インコロ」「チンコロ」と呼ばれてて上記引用によれば米山地区(新潟市)では2月1日に飾って2月9日に「インコロシ」(犬っ子おろし)してるのだけど2月9日といえば奥能登のアエノコトで田の神を送り出す日と同じだった。
犬の子まき(能登の里山里海)
http://noto-satoyamasatoumi.jp/detail.php?tp_no=88
解説
輪島市内の曹洞(そうとう)宗の蓮江寺(れんこうじ)・芳春院(ほうしゅんいん)・總持寺祖院(そうじじそいん)・興禅寺(こうぜんじ)・覚皇院(かくおういん)では、釈迦(しゃか)入滅の日とされる旧暦2月15日から3月15日かけて「涅槃会(ねはんえ)」が開かれ、法要の後に涅槃団子「犬の子」まきが行われます。米粉から作る涅槃団子は、釈迦の骨(舎利<しゃり>)を模した丸い形が一般的ですが、「犬の子」は釈迦の臨終に駆け付けた十二支の動物を形にしてあり、赤や青の彩色で目や鼻を描いています。「犬の子」は魔除けになるとして、小袋に入れてお守り代わりにもされます。
その奥能登では釈迦入滅の2月15日すなわち涅槃会に曹洞宗のお寺で「犬の子」「干支だんご」をまいてる。近隣地域のだんごまきは「涅槃だんご」「釈迦だんご」なのだがおそらく日付が近いせいで犬の子正月のしんこ細工と涅槃会の団子まきが融合しており柳田國男も犬や干支のしんこ細工を2月15日までそっとしといてお釈迦さまのお供をさせるって書いてた。
ホガホガ(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%82%AC%E3%83%9B%E3%82%AC-1414974
小正月には,ヤロクロとかホガホガといって,豆やソバの殻を家の周囲にまきながら魔よけや田の代かきのまねをする風が東北北部で行われ,また岩手県九戸郡山形村では〈ソバ作り〉といって,正月15日晩にそばだんごで犬などの形を作って山桑の枝にさし,犬は害鳥を追うまじないにしたという。
鳥追い歌で「太郎次郎の鳥追いだ」と唄ってるのだから犬は鳥を追う動物なのであって干支は「犬」「鳥」「正月」からどんどん仲間が増えてったってとこではないだろうか。干支同様に秋田の「犬っ子まつり」もまた犬のしんこ細工からエスカレートしてった結果が巨大な雪像だったのだと思う。
小正月に健康願う 少雪負けず犬っこ堂々 湯沢(2月11日 読売新聞)
https://www.yomiuri.co.jp/local/akita/news/20240210-OYTNT50158/
犬やお堂の雪像を作り、無病息災などを願う湯沢市の小正月行事「犬っこまつり」が10日、市総合体育館周辺で始まった。例年はお堂の雪像を15基ほど作り、その両脇に犬の雪像を各2体配置するが、今年は雪不足の影響で3分の1以下に減らした。11日まで。
犬っこまつりは約400年前、盗賊を退治した地元の殿様が、再び悪党が現れないようにと、米粉で作った小さな犬の像を家の入り口や窓に供えて祈念したのが始まりとされる。
・・・
地元の殿さまが再び悪党が現れないようにと米粉で犬を作らせたって犬っ子まつりのいわれが意味不明すぎる(番犬のつもりか?)んだけどしんこ細工を「鳥追い菓子」って呼んでたのだから単純に太郎どん次郎どんが鳥を追ってくれることを祈願したまじないだったことだろう。しかし犬っ子まつりがかまくらとの類似性を指摘されてるよに鳥追いがたいてい小正月つまり満月の行事にもかゝわらず犬の子正月が太郎の朔日と呼ばれ朔(新月)と強く結びつけられてる点は不可解だ。
犬っこまつり(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E3%81%A3%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8A
400年ほど前の江戸時代に起源のある小正月の民俗行事であり、現代では2月の第二土曜日とその翌日に行われている。米粉で作った子犬や鶴亀などの縁起物の細工を盗難魔除けとして家の戸口などに飾り、雪でお堂と「犬っこ」の雪像を作る。
「犬っこ」とは「犬」に愛嬌を込めて呼ぶ接尾語「こ」が付いた秋田弁であり、秋田犬に似た立ち耳で巻き尾の外見で注連縄などを首に巻いた姿で作られる。夕方になるとお堂には蝋燭を灯し、犬っこの細工を餅や甘酒などとともに供え、雪ん子姿の子供たちが遊ぶなど、同じ秋田県内で行われるかまくら行事との類似点もある。また近年では同時に愛犬祈願祭が行われるなど愛犬に関連したイベントも行われている[1]。
この謎を考察しようにも太郎の朔日(太郎次郎の日)が日本海側の寒そうな一部地域でかろうじて名残を感じれるまでで検索してたら南極大陸で南極観測隊の2匹の樺太犬タロとジロの生存が確認されたことにちなんで制定されたタロとジロの日ばっかりヒットしちまう。南極大陸で南極観測隊の2匹の樺太犬タロとジロの生存が確認されたのが小正月と同じ1月14日なうえ樺太だの南極だの寒そうな地名がよけいにまぎらわしい。
聞き書き 岩手の年中行事
https://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/data/kenkyu28/no28p47Kudou.pdf
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2.九戸村伊保内・戸田の年中行事 話者:稲森源右衛門・木村米蔵・村田マツ・岩淵五助 時期:昭和56年3月
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1月15日 小正月の年取り ミズキ団子を神棚のある座敷に飾る。ミズキは12、13日頃伐り、団子は14日に刺しておく。団子のほかに繭や鶏・牛・犬・臼・ 杵などの形を作り、ミズキに刺した。藁に、小さく切った餅を10個位つけたもの(これをイナボという)や、 竹に粟餅をつけたもの(これはアワボ)も、ミズキと一緒に飾った。ミズキ団子は豊作を祈願するものである。
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3.二戸市下斗米の年中行事 話者 : 中村一 時期 : 昭和58年2月
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2月15日 お釈迦様の命日 餅か赤飯で祝うことになっている。寺では和尚さんが米の団子を本堂の前で撒き、子どもたちはそれを拾った。これを食べると病気にならないという。
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奥能登では涅槃団子と融合してた犬のしんこ細工は岩手の聞き書きだとミズキ団子とも呼ばれる繭玉と融合しており涅槃会もふつうの団子まきだった。そばでかさまししてたり繭や犬や鳥のほかに牛や臼や杵が作られてるのは「ソバの皮もホガホガ」「牛コの餅も飛んでこい」と唄われるホガホガ(ヤロクロ)を思い起こさせる。
花供御(はなくそ)販売のご案内(2020年3月19日 東福寺)
https://tofukuji.jp/news/%E8%8A%B1%E4%BE%9B%E5%BE%A1%EF%BC%88%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%9D%EF%BC%89%E8%B2%A9%E5%A3%B2%E3%81%AE%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/
今年はコロナウイルスによって涅槃会は中止となりましたが、毎年涅槃会で販売しておりました「花供御(はなくそ)」は方丈売店にて3月中販売しております。(300円)→売り切れました
《花供御の由来》
正月にご本尊に供えた鏡餅のお下がりを小さく刻み、焼いてあられにしたもの。
これを涅槃会法要の際、参拝者の献花や供物に対するお返しとして配られたと伝えられています。
本来、仏様への献花や供物を『花供御(はなくご)』と言いますが、『はなくご』という音とお返しのあられの見た目が似ていることから「お釈迦様の鼻クソ」と揶揄され、『花供御(はなくそ)』と呼ばれるようになったといわれています。
涅槃会でまく涅槃団子(釈迦団子)はところ変わればお釈迦様の花くそとなる。関西では餅文化のほうが根強く繭玉(ミズキ団子)も餅花というだけあって団子ではなく鏡餅を炒ったあられだった。
食料名彙 柳田國男
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/58443_68516.html
ダゴノモン 加賀の河北郡の農村では米を搗くときに臼の外へ飛び散った分を拾い集め、これを団子のものという。団子の粉に挽くより利用のし方がないからであろうが、注意すべきことには正月七日の株団子のような、式の日の定まった食物もこれでこしらえたことは(風俗画報二二五号)、東北などでいうツツボダンゴも同じであった。なおこの地ではダゴノモンを、またアラモトともいうそうである。
・・・
チチュウコ 土穂すなわち土にまみれた稲の落穂を、発音がむつかしいのでいろいろな言い方をしている。ツツボという土地が最も多く、それでこしらえた団子をツボ団子ともいうが、これでも元の意味がもう不明になって、庭の掃き寄せのすべての屑米までを含むようにも解せられている。越後の三島郡などでチチュウコというのもその一つで、チチュウは稲架場の落穂のことで、それを粉に挽いたのがチチュウコだとはいうが、文字は地中粉などと書いているそうである。昔は寺子屋への附届けは、歳暮の礼に、この地中粉が一袋であった。
それでこの郡の諺にも、
チチュウ粉を運ばなければチチュウを運べ
というのがあるそうで、その意味は「寺子屋に行かぬ者は落穂拾いをする他なし」ということだと語っている(高志路七巻二号)。旧暦二月一日の犬の子ついたちという日に、この粉をもって団子をこしらえる風習は、相応に弘く行われているが、中越ではこれをもチチュウ団子と称し、『北越月令』にはまた土生団子と書いている。岩船郡の方でチジョ団子というのも同じ日の食物で、チジョは落穂米または掃き米のことだという。現在はそればかりで作るわけでもないが、本来はこれを用いるのが恒例であったことは名称からも察せられる。これを茹でるのに十二月という新春の呪い木を焚き、また家に飼っている鳥けものにもこれを食べさせたということである(布部郷土誌)。岩手県上閉伊郡で、秋の稲こきの時に足元に散る残穀から製するというツンジョオダンゴも(遠野方言誌)、土穂の訛語であることは明らかだが、これはいかなる機会に作るのか、まだ確かめられていない。
柳田國男の食料名彙によると臼の外へ飛び散った「ダゴノモン」(団子の物)を粉にひいた「チチュウコ」(地中粉)でだんごをこしらえる犬の子朔日の風習は相応に広く行われてた。呼び方としては「ツボダンゴ」「ツツボダンゴ」「チチュウダンゴ」「チジョダンゴ」「ツンジョオダンゴ」といったバリエーションがあるようだが「ツボ」「ツツボ」「チチュウ」「チジョ」「ツンジョ」はその語感から語源をすべて同じくする可能性がある。
屑米の有効利用とか粉を自分で挽くとかいう生活がなくなったせいかいづれもかなり廃れた呼び方のようで検索してもほとんど情報は出てこない。かろうじて宮城県の「ツボ神様」伝説が引っかかったぐらいである。
ツボ団子(怪異・妖怪伝承データベース)
https://www.nichibun.ac.jp/cgi-bin/YoukaiDB3/youkai_card.cgi?ID=C0410443-000
2月9日、流しの上に鍋蓋を乗せ「ツボ団子」を盛って「ツボ神さま」に供える。昔、家の主人が乞食に物を与えず、代りに女中が自分の食事を乞食に与え、自分は流し口に集まったものを煮て食べた。この女中が亡くなる時は阿弥陀様のようだったといい、この女中を「ツボ神さま」として祀ったという。
この伝承のパターンだと乞食がほんとは神仏の使いで主人に仏罰が下りがちなんだけど女中が神様になっただけだった。乞食と食べ物をわかちあえるかで人間が試されてるのは小正月行事の多くが乞食行為であることとおそらく無関係ではない。
ここでの「流し口に集まったもの」で示唆されてるのがダゴノモンゆえに女中がツボ神様とされてるのだろう。ツボダンゴを供えるのはインコロシ(飾ったインコロをおろす日)やアエノコトと同じ2月9日である。
チュウチュウ団子(2013年11月30日 やまだくんのせかい)
https://yamada.sailog.jp/weblog/2013/11/post-4f07.html
○ツジュウ団子
脱穀の際に足元に落ちた土混じりの稲穂や籾を集めて粉にして作った団子。 天からおりてきた魔物を追い払う魔よけとして、窓や入り口に供えた。※つじゅうは土穂の意味
・・・
コメント子供の頃、秋の行事に「ちゅうちゅうだんご」があり、家々を回り、家の回りにさしてある団子をゲットした記憶があります。この行事の歴史や目的など知りたいなぁ❗
このチュウチュウダンゴ(ツジュウダンゴ)もインコロのよに窓や入口に供えるのだから魔除け(魔≒害鳥)でありカカシ(ヤッカガシ)と用途は同じである。コメントにある秋の行事でゲットしたのは月見泥棒なんだけどそれはそれとしてだんごといいながら丸ではなくギョーザみたいな形に成型してるのは柳田國男が年中行事覚書で言及してる骨ばった馬の背中の骨に似た「痩せ馬」ではなかろうか。
年中行事覚書 柳田国男
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
やせ馬(二月十五日)
二月十五日の涅槃の日に作る食物に、釈迦の頭だの、おしゃか様の鼻くそだのというのがあるのも解しかねるが、それよりもさらに縁がなさそうに思われるのは、信州などに行われるヤセウマという団子である。その名の起りは片手で握った形が、骨張った馬の背なかに似ているからだろうが、それを仏陀の示寂と結び付ける理由はなお不明である。あるいは元はただ二月の祭の日に作る団子で、むしろ馬の神の信仰の方に関係があったのではあるまいか。いわゆる痩馬の名は広く知られ、これをこしらえる日がまちまちであることから、私などはそう想像している。田植終りのさのぼりという祝いの日に、小麦の粉でこれとよく似た形の団子を作る土地がある。私などの在所では、それを「馬のせなか」と呼んでいた。
佐渡や長野の「痩せ馬」(やせごま、やしょうま)は涅槃団子の一種だが犬に細工したインコロと違い馬の形はしてなく女子小学生の消しゴムと見まがうよなかわゆい見た目である。また柳田國男の在所(兵庫県)で「馬の背中」と呼ばれる小麦団子にいたっては田植え終わりに作られるというから時期も違えば米でさへない。
桜やナデシコ、色鮮やかな断面 筑北でやしょうま作り最盛期【動画付き】(2月16日 信濃毎日新聞デジタル)
https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2024021601073
坂井郷土食研究会の「やしょうま」(筑北村おでかけガイド)
http://chikuhoku.jp/yashouma/
商品詳細
お釈迦様が入滅された旧暦2月15日の涅槃会のお供え物からはじまった「やしょうま」。模様もすべて米粉で作られており、色とりどりの部分を組み合わせて、金太郎飴のように作られています。美しい花柄などで目で楽しみ、素朴な味を楽しんでいただける様に心がけています。季節の花等を「やしょうま」で表現し、会員独自の作品も年々数を増やしており、お客様のご期待に添えるように頑張っております。
日本の食生活全集(2017年11月8日 X)
https://twitter.com/imgnbkpro/status/928097841737744384
しんこだんご(やせごま)
『聞き書 新潟の食事』佐渡の食より
大分県の郷土料理 やせうま レシピ・作り方(クラシル)
https://www.kurashiru.com/recipes/35023e5a-4a6e-41bf-8e9c-d3df1dd1c4a2
痩せ馬および馬の背中は各地で田植え終わりに小麦で作られてるという点であんこと組み合わさることの多い七夕ぼうとう(七夕まんじゅう)とか半夏生だんご(はんげだんご、はげだんご)のたぐいだろう。大分の麺もおそらく「だんご汁」と同じ「だんご」で岩手の聞き書きを読んでも痩せ馬と呼んではないにしろ6月中旬や七夕にほうとうを作る事例がある。
長野県 たなばたほうとう
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/tanabata_houtou_nagano.html
岩手県 小豆ばっとう(あずきばっとう)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/28_20_iwate.html
山梨県 小豆ほうとう(あずきほうとう)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/azuki_houtou_yama_nashi.html
食習の機会や時季
正月や盆、村の祭り、田植えの時期などに地域行事の祝いの時に食べられている。あずきと小麦の収穫が7月下旬、一年で最も暑い時期の節目にハレの食として「小豆ほうとう」をふるまった。
愛知県 じょじょきり
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/jojokiri_aichi.html
食習の機会や時季
かつては、農作業の合間に間食として食べられていた。また、農上がり(田植えや稲刈りなど、農作業における節目)にも食べられていた。
麺(ほうとう、ばっとう)をだんご呼びするのは違和感をおぼえるけど本来はボール状かよりも粉をつくねたぐらいの意味しかなくあんこもしくはきなこの和スイーツとしても食べられてる。同じ痩せ馬の実態が各地で異なるのは米と小麦どっちにもとれる「だんご」ゆえなのであり痩せた馬に成型してるかはもはやどうでもよくなってた。
戸沢のねじ行事(文化遺産オンライン)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/204043
選定年月日:19961128
保護団体名:戸沢のねじと馬引き保存会
公開日:毎年2月7・8日(※選択当時・お出掛けの際は該当する市町村教育委員会などにご確認ください)
記録:『戸沢のねじとうまひき行事』(真田町教育委員会・平成13年3月)記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
この行事は、子ども、特に初生子の無事成長を願って行う行事である。7日夜にねじという供物を作り、8日早朝、台車に乗せた藁馬にねじを背負わせ、道祖神にお参りする。道祖神にねじを供えるとともに、集まった家の間でねじを交換する。ねじは持ち帰って食べると風邪をひかないという。最後に藁馬を屋根の上に投げ上げて行事は終わる。(※解説は選択当時のものをもとにしています)
長野県上田市の「ねじ行事」でも2月上旬にやはりかわゆい米粉の菓子作ってるが群馬の「ねじ」はすいとん、埼玉ではほうとうをいう。このよにいっけん不可解な「ねじ」「痩せ馬」も「だんご」と同じ概念と考えれば一貫性はある。
群馬県 あまねじ/あまだんご
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/32_5_gunma.html
埼玉県 ねじ/小豆ぼうとう(ねじ/あずきぼうとう)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/33_10_saitama.html
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山形の奇祭『鳥追い祭り』最上町赤倉温泉の冬の風物詩。雪の中をふんどし姿の男衆が各家々を駆け巡ります。#山形県最上町赤倉温泉 #お柴灯祭り
https://www.youtube.com/watch?v=31o8SpJ2xNE
山形の鳥追い祭りは若者組がたいまつを持って走り回るさいの神とかオーマラとか呼ばれるタイプのとんど焼きである。遠く離れた鳥取では振り回すのがたいまつではなく海草なんだけどかってはふんどし一丁(それより前だと全裸か)だったであろう短パン一丁の子供組がとんど焼きのまわりをグルグル走り回っており日本海側という地域性が浮かびあがってくるのはアマメハギやアマミハギといったヴァージョン違いが東北から山陰にまで広く分布するナマハゲも同様だった。
酒津のトンドウ(鳥取市観光サイト)
https://www.torican.jp/festival/detail_1098.html
鳥取市気高町(けたかちょう)の小さな港町、酒津(さけのつ)に古くから伝わる民俗行事です。
トンドウとは、松や竹で作られた高さ4m余りの円錐型の焼き代にしめ縄などを巻き付けて飾られたものです。毎年正月が終わる頃、海水で身を清めた裸姿の男子たちが海草を振り回しながらトンドウと集落の家々を清めて回ります。翌朝早くにトンドウを燃やして歳神を送り、一年の無病息災や豊漁などを祈願します。
この行事は2007年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
2024年 ※終了しました
1/13(土)
8:00 大人たちが松や竹を使ってトンドウを作製
13:30 子どもたちが家々を清めてまわる〔垢離(こり)取り〕
1/14(日)5:00 トンドウへの火入れ
鳥追いは子供組が餅や祝儀をもらい歩く乞食行事の一種としてのイメージが強く山形のよに若者組のとんど焼きを鳥追いと呼ぶ例はたぶん珍しい。とんど焼きとはおそらく無関係ながら群馬の鳥追い祭りも若者組がやってて太鼓を打ち鳴らすのでもいくぶんか規模が大きいように見受けられた。
そのさいに唄われる「鳥追いだ、鳥追いだ、唐土(とっと)の鳥を追いもうせ、セッセッセ、サーラバよって追いもうせ」という鳥追い歌はとんど焼きの「とんど」の由来が「唐土の鳥」ではないかと思わせるものがある。また「唐土の鳥」という一節は各地で七草粥にも歌われてた。
地域性見られる七草の囃−昔の正月しのぼう(歴史の情報蔵)
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=302
1月6日に女児が七草を摘み、その晩マナ板の上に七草とマナ箸・スリバチ・スリコギ・庖丁・杓子を載せ、合わせて7種として七草をたたく。翌朝、それを粥の中に餅と一緒に入れて食べると記されている。七草をたたくときに、「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、なずな七草あわせてホトト」を7回繰り返し唱えたという。いわゆる七草の囃(はやし)である。意味は、害をもたらす鳥が渡ってくるので、その前に追い払い、五穀豊穣を祈るなどの説もあるが、定説はない。
七草の囃子は三重県内広く見られるが、地域によってバラエティーに富んでいる。たとえば、阿山町槇山では「七草なぐさ、トートの鳥が、日本の土地へ渡らぬ先に、かけよとバタバタ」、伊勢市一宇田では「唐土の鶏と、日本の鶏と、渡らぬ先に、キヤキヤしてホトト、キヤキヤしてホトト」と囃したと記録されている。こうした各地域の囃子の状況を、?「日本の土地(国)」か「日本の鳥」か、?「ホトト(ホトホト)」か「バタバタ」かの2点に注目して、地図に記入してみた。典拠資料の成立や調査時期が不統一で、資料のない地域もあるが、その分布は概ね概略図に示したようになる。?は、「土地」系が北伊勢や伊賀北部に多く、さらに志摩の神島・国崎や東紀州にもある。「鳥」系の分布は県内中央部、伊賀南部と中南勢、志摩の内陸部や答志島などで確認される。次に?は、「ホトト」系が北伊勢や伊勢湾沿岸地域に多く、「バタバタ」系は伊賀と中南勢山間部や東紀州に分布する。ただ、中南勢の内陸部などではこれらが混在し、それに志摩や東紀州も含めた地域では結びの囃子が「トントン(ストトン)」、「ゴトゴト」、「コケコッコ」などと、変化したところもある。
上記引用は三重県の事例なのだが「ホトホト」「コトコト」といえば中国地方の乞食行事で餅をもらい歩くさいのかけ声になってることをふまえればこれらもまた「ホイホイ」「ホンヤラホイ」と同じ鳥追い歌だったのかもしれない。東北のカセドリやコッコドリで鳥(カラス、ニワトリ)の鳴き声を模倣することがある点も七草粥と共通してる。
<雨の木の下で> 悪霊退散 2000.11.1 関富士子
http://www.interq.or.jp/sun/raintree/rain18/kokko.html
それはそれとして、ハロウィーンには、子供たちが仮装をして通りを練り歩き、家々の門口でお菓子をもらうという風習を聞くと、そういうことはわたしだってやった覚えがあるという思いにかられて、それにつながっていつも必ず思い出してしまうことというのがあるのだ。
わたしは福島県の福島市に近い小さな町で育ったが、ここにもちょっと似たような冬の行事があった。「コッコドリ」といったっけ。小正月の1月15日の前日14日である。この日は、いろとりどりの小さな餅を棒に差して玄関や神棚に飾る、豊作祈願の「だんごさし」の日でもあって、これが終わると、夕方、近所の子供たちが手に手に布袋を下げて、いさんで集まってくる。時代は、ベビーブーマーの悪童たちが町や村にあふれかえっていた昭和35年(1960年)前後か。幼児から小学校の高学年まで、「コッコッコッコ」と鶏の鳴き声を大声でまねながら近所を練り歩く。仮装はしなかった。
冬の夕方だからすぐ日は暮れてしまう。年長の子供は蝋燭をともした提灯を持っている。みんなと一緒とはいえ、街灯もない田舎の雪道を歩くのは心細い。でも、暗くなって出歩くなどはもってのほかの時代だから、年に一度許される冒険に昂揚している。お化けが出そうな怖さと、お菓子が貰える嬉しさ。田舎の家は街道沿いでも密集していないから、その窓からもれる、ぼんやりした暖かそうな明かりを頼りに行くのである。門口でわくわくしながら「コッコッコッコ」と呼ばわると、玄関先にはざるに入れたお菓子が用意してあって、家の人がひとりひとりに手渡してくれる。せんべいや飴など、日持ちのする駄菓子や干した柿や芋や蜜柑のたぐいである。だんごさしで余った餅もある。一軒一軒回って自分の家の近くで三々五々別れて、午後7時ぐらいにはみな家に帰るのだ。
福島の母に電話で聞いてみると、この行事は「カセドリ」というのが一般的らしい。辞書を引いたらと言われて「カセドリ」を広辞苑で引いてみると、
「カセドリ」
小正月の夜、鶏の鳴き声などをして各戸を訪れて物を貰う民間習俗。福島県で「カッカドリ」、山形県で「カセイドリ」、岩手県で「カセギドリ」などという。・・・
「コッコドリ」はどのぐらいの範囲での呼称だろう。岩手の「カセギドリ」から「稼ぎ鳥」の意味かなというくらいは想像がつく。「稼ぎ」が鶏の鳴き声のコッコッコに重なって「コッコドリ」となったのかもしれない。雪道で足下は危ない。物をもらって歩くなどコジキみたいだ、あるいは不衛生であるという理由で、学校では先生に参加しないようにと言われたように思う。そんなこんなで、わたしの育った町では、昭和40年代には行われなくなったようだ。わたしのかすかな記憶では、ある家の戸口で「コッコッコ」と声を張り上げると、「うちはなにもねえぞう」と怒鳴る男の人の声を聞いたことがあり、あそこの家はケチだと子供たちと言い合ったものだが、母に聞いてみると、物忌み(喪中)の家では行わない慣わしだから、たまたま喪中だったのだろうということだ。そんな家には行かないようにとあらかじめ言われるのだが、子どもたちは忘れてしまう。水をかけてよこす家もあったとは母の子供のころのコッコドリの思い出だ。
・・・
下記引用も「唐土」という共通項から七草粥と鳥追いの関係性について考察されてた。先に例をあげた三重で「ホトホト」「コトコト」「バタバタ」「コケコッコ」だった七草囃子は茨城だと「トントン」「ストトン」「バサバサ」「バンカバンカ」であったりする。
第5回 茨城の七草のわらべ歌(WEB本の雑誌)
https://www.webdoku.jp/column/warabeuta/2016/0513_221830.html
2015年の秋、鳥取の大山の丘の上でライブがあった。そのとき、鳥取のわらべうたを調べてみると、ちょうど大山町国信というところに伝わる「唐土の鳥が」という歳時歌を見つけたので、持って行って歌った。
唐土の鳥が 日本の土地に
渡らぬさきに
せりやなずなや 七草そろえて
繁盛 ホーイホイという短いものだ。このとき、田畑の害鳥や害虫を追い払うための鳥追いという行事と、正月7日に食べる七草とが密接につながっていることを知った。七草はそもそも、無病息災や五穀豊穣の願いから生まれた風習だ。田の豊作を願うという意味で、鳥追いと七草がつながることは何となく合点がいくが、正月の七草の話は知っていても、東京で育った私には鳥追いという風習はほとんど聞いたことがない。だから歌の中で七草と鳥追いの二つが合わさっていることが不思議だった。「唐土」という言葉が出てくることも、気になった。日本海に面し、大陸の存在を意識することの多かっただろう山陰地方に広がっている歌なのだろうか。
・・・
やがて農村行事としても大人たちが実際に鳥を追っ払う光景は少なくなり、鳥追いは子供たちの祭りになっていった。鳥追棒や祝い棒と言われる棒を手に、音を出しながら、鳥追い歌を歌うという形が多い。これらの棒は、かつては女性の尻をたたいて子宝を願った名残とも言われ、ここも緩やかに人間の繁栄から五穀豊穣へと祈りが繋がっているようだ。鳥追いは今でも子供たちが村をめぐる小さな祭りとして残存している地域や、群馬の中之条のように後に鳥追い太鼓なる太鼓がいくつも作られていき、それらが重要有形文化財となって、太鼓が町内を引き回される大規模な「鳥追い祭り」として保存会までできているところもある。棒で音を出しながら歌う点は七草に通ずる。鳥追い歌から七草歌が生まれたともいわれるが、鳥追いは鳥を追っぱらうための音であり、七草は健康祈願の儀式の中に組み込まれている音だ。七草の歌が面白いのは、「たたく」音の意味するもの、つまり鳥を追い払う音と、七草の儀式で草を打つ音とが歌の中でまざり、せめぎあうところだろう。・・・
コケコッコは鳥の鳴きまねとしてその他はやはり叩いてる擬音語と解釈すべきなのだろうか。七草にしろ鳥追いにしろ嫁叩きにしろ成木責めにしろ叩くことで豊作や子孫繁栄の御利益があると信じられてたというか昔は神頼むのに叩いたりわめいたり裸になったり火を焚いたりしかすべがなく小正月には子供組や若者組こそが神の使いだった。
柳田國男 こども風土記
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53809_49722.html
祝い棒の力
小児は全体に木切れを持って遊ぶを好み、それを持つとかならず少しばかり昂奮する。なんでもないことのように我々は考えがちだが、実は隠れたる由来のあったことかも知れぬのである。ことに目にたつのは正月の十五日前で、これを子どもが持つと、ちょうど神主さんの笏や扇子と同じく、彼らの言葉と行ないに或る威力がある、という風に昔者は今も感じている。単に目に見えぬ害鳥虫をあらかじめ駆逐し、または果樹を叩いてその木を豊産になしえたのみならず、若い女性の腰を打てば、みごとな児を生むとさえ信じていた時代があった。だから、大の子小の子十三人云々
という歌があって、この祝い棒をダイノコと呼ぶ土地もあり、または、
男ぼっこ持ちやがれ
などという悪口に近い詞さえもあった。東部日本ではヨメツツキまたは嫁叩き棒、九州の各地でハラメン棒、対馬でコッパラなどといったのも、すべてこの正月の祝い棒の名で、集めているときりがないが、いずれもこの木切れに女を孕ませる力があると思っていたからの命名である。祝い棒にはいろいろの装飾が施されていた。色紙を貼ったり彩色をしたり、または左巻きと称して樹の皮を巻き、燻して型をつけたものもあるが、最も古風なのは精巧な削り掛けがしてあった。それを手に執ると、実際もう常の心ではおられなかったのかと思う。
・・・
子供組や若者組が餅をもらい歩いたり新婚さんを虐めたりする小正月行事は空が薄暗い(満月なので日没しても多少は明るいはず)ことに意味があるのかたいてい早朝や夕方にやってて東北の鳥追いは「夜鳥ほい、朝鳥ほい」といったふうに唄われてる。早朝がコケコッコで夕方の鳥追いがカラスホイホイならわかるんだけども福島のコッコドリは夕方だった。
上記引用では暗い道を子供だけで歩く高揚感が回想されてるが柳田國男の子ども風土記にも大声でわめきちらしたり子どもだけで生活することの許された鳥追い行事のおもしろさを白髪になるまで忘れられずにいる者が多いって書いてる。とんど焼きにはさいの神の擬人化とおぼしき円錐型や人形型のほかは「かまくら」のよに正月小屋(鳥小屋、さいと小屋)に組まれたりもした。
柳田國男 こども風土記
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53809_49722.html
正月はむしろ子どもには多忙な月であった。食べねばならぬし、遊ばねばならぬし、そのほかにさらに頼まれてする仕事がもとは幾つともなくあったのである。そういう中でももぐら駆除のなまこ引き以上に、もっと子どもが大悦びで引きうけた役目は鳥追いで、その日の面白さは、白髪になるまで忘れずにいる者が多いのである。その理由の一つは、どんな大きな声で耳の割れるほどわめいてもよかったこと、それから今一つは子どもばかりで、二夜も三夜も屋外の仮小屋に、親を離れて寝起き飲食するということであった。ヤナギやヌルデの木を削っていろいろの飾りをつけた祝い棒がこのために銘々に与えられる。それでたんたんと横木をたたいて、心まかせに鳥を追う詞を唱えるのが、いわゆる鳥小屋の生活であった。それ故にこの小屋をまたワアホイ小屋・ホンヤラ堂などという類のおかしな名で呼ぶ土地が多いのである。ワアホイはもちろん鳥を追い散らすおどしの声、ホンヤラも後から駆り立てる声だったとみえて、二月・十二月の風の神送りなどにも、こういう囃しを用いている例がある。ただ正月の雪の中では、まだ駆逐すべき害鳥が眼の前にはいないのだから、当の本人たちがかえって言葉の意味を理解せず、今はもうむやみに興奮して騒ぐだけになっているのである。
村の鳥追いの詞は誰が考えだしたかしらぬが、よほど古くから今あるものが行なわれていた。それを少しずつ子どもはまちがえて歌うのだが、朝鳥ほほほ 夕鳥ほほほ
長者どのゝ垣内は
鳥もないかくちだ
やいほいばたばたこういった文句が東北には広く分布する。そうして現在でもやはり朝早くと、日の暮れ方とにはことに大声でわめくことになっている。山形県の海岸一帯から越後の粟生島あたりにかけて、この「夕鳥」をまたヨンドリほいともうたい、それで小児が手に持つ木の棒を、ヨンドリボウと呼んでいる土地がある。名前は土地ごとにというほども変っているが、日本全国どこの隅に行っても正月はこの棒を持たぬ子どもはなく、しかも鳥追い以外にもこの棒の大きな力は、一般に今なお承認せられており、それで彼らはまた正月の任務を欣々然として引受けていたのである。
・・・
左義長は関西の方ではただ飾り物を焼く行事のようになっているが、それでもまだ少年がこれを自分の事業のように心得ている。中部地方から関東では一般に、大か小か一つの小屋を掛けて、その中には神壇を設け燈明供物を上げ、子どもの仲間がその中で寝ることを「おこもり」といっている。愛知県などでは旧十一月の山神祭に同じ事をするようだが、共に十五日の早暁にその小屋を焼くことをもって、祭典の終りとしていることは一つである。私が今住んでいる多摩川一帯の農村においては、この正月行事をサイト焼というが、藁で作ったサイト小屋はどの村のも八畳敷ほどの大きさであった。そこへ三つの団子を樹の枝の三つ叉にさして、参詣かたがた村の人が焼きに来るのである。
支那事変が始ってから、遠慮をしてやめたものが多いが、ある一つの部落などは子どもが寝ているのを知らずに、その小屋に火をかけて、かわいそうなことをしたので、その翌年からやめてしまった。ともかくも今はもう正月小屋の末期である。
かまくらとは雪洞そのものというより子供組が生活することもある鳥小屋の呼び方のうちの1つであってネットで検索してみても雪洞の出てこない「かまくら」は複数例見いだされる。雪洞タイプととんど焼きで燃やすタイプのうち後者は中で子どもが眠ってるのを知らずに火をつけてしまった事故もあったのだという。
正月小屋(読み)しょうがつごや(コトバンク)
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E6%9C%88%E5%B0%8F%E5%B1%8B-530897
小正月に少年たちが泊まり込み、その後に焼く仮小屋。東日本に多い風習。どんどん小屋。雪小屋。さいと小屋。
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鳥小屋,雪小屋,かまくら,どんどん小屋とも。雪を積んだり,心柱に樹枝をふいた仮小屋。小正月に子どもたちが籠(こも)り寝食を共にし,多くは左義長(さぎちょう)などの火祭で焼き払う。お籠りに付随し,鳥追行事も行われる。→正月
勝平の鳥追い(2019年7月12日 秋田の小さな祭りたち)
https://akitafes.com/2019/07/12/%E5%8B%9D%E5%B9%B3%E3%81%AE%E9%B3%A5%E8%BF%BD%E3%81%84/
・・・
民俗学研究者である後藤麻衣子さんの著書「カマクラと雪室 その歴史的変遷と地域性」によると、鳥追いは「分布地域の北限は秋田県、南限は新潟県である。さらに集中地域を示すと、秋田県では東南部の内陸部、福島県では会津地方の北西部、新潟県では中央部より南にあたる長野県や群馬県寄りに見られるのが特徴である」と記述されていて、特に新潟県では濃い分布を示している。
・・・
昨年か一昨年だかNHKの番組に秋田民俗学の重鎮 齊藤 壽胤先生が出演され、解説されたところによると、本来のカマクラ行事は忌み小屋である雪室(カマクラ)の中に大きな火を焚くものであり、カマクラ行事と火は密接な関係があるとのこと。
この会場中央の篝は、これから行われる鳥追いがカマクラ行事から派生した行事であることを伺わせてくれた。・・・
地元の年配の方によると、子供の頃はこの場所のさらに上方にカマクラを作り、15歳ぐらいの子を長とする子供たちが寝泊りをして過ごしたそうだ。
そして、カマクラの横に焚かれた篝火を出発点として鳥追いが行われたらしい。
勝平の鳥追い行事が正しくカマクラ行事のひとつとして行われたことがよくわかる。
美郷町・六郷のカマクラ(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=Eej3FyuUhJ8
左翼と機動隊の衝突にしか見えないかまくら。ヘルメットのない時代の人がこんな危険きわまりない行事を毎年やってたってんだから驚きに値する。
同じく秋田の「火振りかまくら」もものを燃やすことさへまゝならぬゼロリスク社会なのに子どもの近くでそんなに火を振って大丈夫なのか氣になった。九州でも同じよな行事やってるからかって火振りは全国的に分布してたのかもしれない。
暗闇に「炎の輪」が浮かび上がる 仙北市の小正月行事「火振りかまくら」 秋田(2月15日 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/9f30c5c85bc0dc3f1b51756b54aa011ac9a3da3b
・・・
仙北市の小正月行事「角館の火振りかまくら」が14日夜に行われ、地域住民や観光客など多くの人でにぎわいました。
1メートルほどの縄を付けた炭俵に火をつけたら勢いよく回し無病息災や家内安全などを祈ります。約400年続く伝統行事です。例年は一面、雪景色の中で開催されますが、2024年は会場周辺にほとんど積雪がなくいつもとは違う雰囲気の中で行われました。
「ホンヤラ堂」は雪洞で左翼がやってた同名の喫茶店は鳥追いを描いたつげ義春の漫画「ほんやら洞のべんさん」から引用してる。教育が教師やPTAオバタリアンといった大人の管理下におかれてから通過儀礼は学力試験となり小正月行事を保存したとしてもはや子供組だけで夜道を歩かせたり鳥小屋で生活させることもなくなったのだろう。
ウヒョ助/塚脇永久(2019年5月13日 X)
https://twitter.com/uhyoneko/status/1127924101434109953
先日に歩き旅した、新潟の魚沼〜小千谷は、つげ義春先生の「ほんやら洞のべんさん」の聖地巡礼でもあったわけで。宗教にハマった奥さんの実家から、養殖の錦鯉を盗む宿屋主人と、そこに泊まった漫画家の話。
鳥追い2019 小正月 つげ義春の世界(ほんやら洞のべんさん)
https://www.youtube.com/watch?v=fwTDiGl_WGo
この動画の音声をはっきりとは聞きとれないが「今日はどこの鳥追いだ」「だいろうどんの鳥追いだ」「かしら切って」「佐渡島へホイホイ」など鳥追い歌としては新潟や長野あたりでの王道である。たゞこれも各地で「だいろうどん」が「太郎どん」「次郎太郎」だったり「長者殿」「つばくろどん」になってたりと微妙に違ふ。
ほんやら洞のべんさんは1968年の漫画らしいけど当時すでに女児が鳥追いに混じってる。昔はへんぴなとこにでも人が住んでてしかも1人の母親が5人とか6人とか産んでたのが戦後は兄弟も2人がせえぜいで人口も都市に集中したからほんらい男児だけだったろう子供組に女児とか近隣集落の子を入れないと存続できなくなった。
柳田国男が言及してるワアホイ小屋のワアホイもホイってぐらいなのだからホンヤラ(ホンヤラホイ)と同じく鳥を追うホイホイの一種だろうに茨城のワアホイは成木責めのことを「鳥追い」と呼んでた。下記引用ではヌルデの棒で柿の木をたたく行為が鳥や獣を追い払うとされてるがふつう木を虐めるのは「成るか成らないか?(実が)成らなければこうだぞ?」と責めてるのであり木役の人が「成ります成ります」と答えたりもする。
1月14日 わあほいで五穀豊穣を祈りました −小貫 大和名地区の子どもたち−(行方市)
https://www.city.namegata.ibaraki.jp/page/page001803.html
小貫上区の大和名(おおわな)地区で「わあほい」と呼ばれる伝統行事が行われました。
「わあほい」は「鳥追い」ともいわれ、この地区では、子どもたちがヌルデの木で作った棒で家々の柿の木をたたき、五穀豊穣を祈ります。柿の木をたたく行為は、鳥や獣を追い払うという意味があるようです。
当日は、雪が降るあいにくの天気でしたが、子どもたちは元気いっぱい、大きな声を張り上げていました。
柿の木をたたくとき、地元の子どもたちは、次のようにかけ声をかけます。
「なっか なんねか かーきの木♪
なります なります なりますよ♪
今日は どーこの わあほいだ?
鎌倉様の わあほいだ♪」
秋田の嫁つつきも鳥追いなのに害鳥駆除する要素が入ってなさそうだったが子供組が「今日はどこのわあほいだ」と大声を張り上げるのだから「今日は誰の鳥追いだ」と唄われることの多い鳥追い行事との共通点は見いだせる。そのうえ「鎌倉様のわあほい」と雪洞の文化圏ではない茨城県で「かまくら」も出てきてた。
ホガホガとヨンドリホイの例をもって南部地方周辺でだけ鳥追いを2種類やってると思ってたけどじつは東北にかぎらず子供組や若者組のやる正月行事のほとんどが鳥追いから派生してるのかもしれない。とすればとんど焼きのことを左義長と呼ぶのも鷺に由来する可能性がありそうなものだ。
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ビートたけし、松本人志へ愛あるいじり ビートきよし乱入でツービートが揃い踏み 『第6回 たけしが認めた若手芸人 ビートたけし杯「お笑い日本一」』(2月9日 YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=BWFxWA4DkqA
サブカル村ではゲロう○こをまきちらすAVやインディーズバンドにくわえてプロレス人気も高いよな氣がしてきた。元気が出るテレビのスタッフでもあった高橋がなりでおなじみソフトオンデマンドは2002年から2006年まで「SOD女子格闘技道場」やったり最末期の全日本女子プロレスや同時期の大日本プロレスのリングスポンサーにもなってたって書いてる。
大日本プロレス(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9
デスマッチ団体を標榜しており、派手なデスマッチを特徴としている。旗揚げ当初は試行錯誤を重ねて徐々に、デスマッチへ特化していった。その後、ストロングスタイルへ台頭を経て現在に至る。
・・・
草創期のデスマッチアイテムとしてはFMWなどでも行われていた有刺鉄線(当初、大日本では「バラ線」と称していた)がメインであったが、元W★INGプロモーション所属選手のグレート・ポーゴ(初代ミスター・ポーゴ)、松永光弘、中牧昭二などが参戦する様になってからは過激なデスマッチ路線に拍車がかかり、中牧が所属以前に主戦場としていたI.W.A.JAPANで頻繁に行われていた画鋲やガラスを使用したデスマッチや、松永が考案したサボテン、サソリ、ワニなどを使用した奇抜なデスマッチにファンの注目が集まった。また、若手選手の中から山川や小林、さらにI.W.A.JAPANから移籍した志賀悟(現:シャドウWX)などがデスマッチ路線に投じ、後に中心選手として活躍する素地を築いたと言える。また、社長の小鹿も当時50代後半に差し掛かりながら現役選手としてもデスマッチに出場し、出場時の様々なコスプレも話題になった。
・・・
ソフトオンデマンドがスポンサーだったという全日本女子プロレスの最末期は2005年ごろらしい。このころ後楽園ホールに3000万円でグレート小鹿の邸宅と称する一軒家を建設し家庭内暴力デスマッチを開催してる。
あゝ!一軒家プロレス(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%82%9D!%E4%B8%80%E8%BB%92%E5%AE%B6%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9
『あゝ!一軒家プロレス』(ああ!いっけんやプロレス)は、2004年に公開された映画。
橋本真也とソニンの映画初主演作であり、ソフト・オン・デマンドの劇場映画製作第1弾作品である。この項目では同じくソフト・オン・デマンドが関わった同名のプロレス大会についても記述する。
・・・
テリー伊藤の思いつきで冒頭の一軒家を間違った火薬量で爆発させてしまい、主演の橋本は腕に火傷を負った。・・・
劇場公開前に発売されたサイゾーでは3ページに渡る関係者座談会が開かれ、本作の宣伝を担当していた叶井俊太郎とジャンクハンター吉田の2人も加わり、ソフト・オン・デマンド公認でSODや高橋がなりバッシングが繰り広げられる異質な展開が掲載された。
・・・一軒家プロレスin後楽園ホール
正式大会名は「ソフト・オン・デマンドプレゼンツ 一軒家プロレス 総建築費3000万小鹿邸争奪デスマッチ」。映画公開1年前となる2003年8月21日、後楽園ホールに2階建て一軒家を実際に建設し、屋内で戦うプロレス興行。協力は大日本プロレス。一軒家の各部屋の中で闘い、勝者チームは部屋を強奪、もしくは防衛というルール。部屋内のアイテムはすべて公認凶器となり、当然守り切ったとしても部屋内は破壊される。スクランブルバンクハウス“キッチン”デスマッチ、“個室トイレ”素手殴り捲くりチェーンデスマッチ、家庭内暴力 高低差タッグデスマッチの3試合が行われた。同年に『高橋がなりプロデュース 一軒家プロレスin後楽園ホール』の題でVHSソフト化。2016年発売のDVD『HARDER THAN HARD CORE メインイベンツ 1 これが一軒家破壊プロレスだ!』(日本メディアサプライ)にも収録。媒体によってはこちらが映画の原案、モデルとされることもある[1](ただし映画で原案表記のテリー伊藤は関わっていない)。
ソフトオンデマンドがデスマッチの翌年に制作した同名の映画は浅草キッドが出演してたりテリー伊藤が思いつきで家を爆破してる。この作品を宣伝してた月刊サイゾー(インフォバーン)をWikipediaで読むと現在は町山智浩、過去には宮台真司や荻上チキが連載し連合軍総出で虹やテンガやシルクラボの宣伝してる「messy」「WEZZY」を手がけてるうえ「がなり説法」(2002年)社長の遺言(2005年)と高橋がなりの著書の発売元でもあった。
SOD海の家に“燃える闘魂”アントニオ猪木が降臨!(2008年8月2日 サイゾー)
https://www.cyzo.com/2008/08/post_799_entry.html
こんな歴史なので連合軍がいくら人権を自認したとこでけっきょく若い娘さんがたを裸にむいて吉本興業のハレンチコントと比べ物にならぬほど悪趣味な映像を制作してきた高橋がなりを松本人志のようにはしばけないのだろう。サイゾーはテンガがフェムテックのイロハを発売する前から障碍者の性とかセクシャルウエルネスをすでに記事にしてた。
オナニーで社会を変える!? TENGAが目指す次なる革命とは?(2010年11月1日 サイゾー)
https://www.cyzo.com/2010/11/post_5810_entry.html
アダルトグッズ界に革命と呼べるほどの衝撃を巻き起こし、ケンドーコバヤシやくりぃむしちゅー有田、そして福山雅治まで、その魅力に捉えられた有名人も枚挙に暇がない。
・・・
──今回は世界エイズデーに向けたプロジェクトということですが、この他にTENGAとして取り組まれている社会貢献事業はありますか?
松浦 主には身体障害者の支援と射精障害者のリハビリに対する支援を行っています。
──身体障害者の支援というと?
松浦 具体的にはNPO法人ノアールさんと協力して、障害者の性に対しても支援を進めています。身体障害者の性に対する支援と言えば、セックスボランティアがありますよね。社会に障害者の性に対する問題を知ってもらうことはできましたが、同時にその響きから風俗サービスのようなものという誤解を与えている面もあります。TENGAとしては障害者のオナニーを支援しようとしているんです。
・・・
松浦 ゆくゆくは男性用オナニーグッズだけでなく、セクシャルウェルネス(性的な健康)に携わるトータルメーカーとして性に関するさまざまなプロダクトを展開していきたいですね。
──ゆくゆくは「女性用TENGA」のようなものも開発されるんでしょうか?
松浦 かもしれませんね。男性のオナニーやセックスだけでなく、性に関わるあらゆることを手掛ける企業になり、総合的に性生活向上の役に立つ企業になることを目指しています。性欲は食欲、睡眠欲と並ぶ、人間の3大欲の1つですから、生活していく上で避けては通れない部分なんです。性欲をコントロールするためにオナニーをすることがあります。しかし間違ったやり方を覚えてしまうと射精障害にもつながってしまいます。
しかしケンドーコバヤシやクリームシチューや福山雅治といったテンガ愛好家たちがことごとくプロレス愛好家でもあるのは必然なのか世代的にそんなもんなのか。その芸名をプロレスラーのケンドーナガサキに由来するケンドーコバヤシは連合軍の紗倉まなとともにFM大阪でテンガ一社提供のTENGA茶屋のパーソナリティも務めてる。
「パーフェクト・レボリューション」リリー・フランキーが男としての“上がり”語る(2017年9月7日 映画ナタリー)
https://natalie.mu/eiga/news/247809
「パーフェクト・レボリューション」の完成披露試写会が本日9月7日に東京・TOHOシネマズ 新宿で行われ、キャストのリリー・フランキー、清野菜名、小池栄子、監督の松本准平、企画・原案の熊篠慶彦が登壇した。
障害者の性への理解を訴える活動家・熊篠の実体験をもとにした本作は、幼少期に脳性麻痺を患い車椅子生活を送る主人公・クマと、人格障害を抱える風俗嬢・ミツの恋愛を描くラブストーリー。クマをリリー、ミツを清野が演じた。
もともと友人関係にあったという熊篠とリリー。リリーは熊篠との出会いを「10年ぐらい前にエッチなイベントがあって。そこでTENGAの方々に紹介していただいたのが熊篠くんでした」と淡々と回想する。そして障害者にも性欲や恋愛感情があるという当たり前の事実を声高に叫ばなければならない熊篠の活動に対し「健常者がそう思ってないという、ものすごいズレがあって。それを訴える熊篠くんに共鳴したんです」と語った。
・・・
イベント終盤には、劇中歌「BABY BABY」を提供した銀杏BOYZの峯田和伸がサプライズ登壇し、キャスト陣へ花束を渡すコーナーも。ほかの登壇者は峯田の登場を知らされておらず、驚いた様子だった。
テンガ社が障碍者の性にたいする支援で協力をあおぐNPO法人ノアールは松本人志より2カ月ぐらい年下のリリーフランキー主演で映画化されている。私はリリー氏の出演で「モテキ」(2011年)だけゆいつ見たことあるんだが今思えばサブカル村の恋愛映画でありテンガもぶっこまれてた。
#3 リリー・フランキー×峯田 和伸 イラストレーター/俳優×銀杏BOYZ(TENGA)
https://www.tenga.co.jp/contents/voice/lily/
峯田さんは、リリーさんからよくAVの詰め合わせをもらってるんですよね(笑)。
峯田「そうですね。いっぱい贈っていただいてます!」
リリー「同じ感じのAVばっかりだとあれだから、キツめを半分ぐらい入れてね(笑)」
リリー氏は東京タワーの主題歌を唄いテンガを宣伝してた福山の親友でもあり劇中歌の銀杏BOYZとともに自身もテンガを宣伝してる。詰め合わせの中に半分ぐらい入ってるというキツめのAVとはやはりゲロう○ことかなんだろうか。
吉田光雄(2022年10月6日 X)
https://twitter.com/WORLDJAPAN/status/1577894721774575616
バッキー主催の『国民的AV女優コンテスト』でリリー・フランキー&室井佑月が審査員をしていたことが批判されてるみたいですけど、これはバッキーがまだ凶悪な路線になる前の「メジャー志向の展開をしていたメーカー」だった時代の話ですね。
何がきっかけになったのかはしらんけどXではリリー氏がバッキー主催の国民的AV女優コンテストの審査員してたことが話題になった形跡がある。V&Rとかは虹のルーツを調べてて初めて知ったレベルの私にさへバッキーAVの凶悪ぷりはリアルタイム(20年ぐらい前)で聞き伝わっており当時のかれぴも怖いものみたさでレンタルしてた。
リリー氏を擁護するXの吉田光雄とは集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」の著者である吉田豪が長州力の本名を名乗ってるらしい。Wikipediaによると吉田氏はリリー氏の弟子でプロレス雑誌の出身だった。
弁護士 太田啓子 「これからの男の子たちへ」(大月書店)(2022年10月7日 X)
https://twitter.com/katepanda2/status/1578171674007990272
件のコンテスト前から「強制子宮破壊」シリーズは販売されており、HPで広告もあり、という状況だったのだから、「まだ凶悪な路線になる前」というのは無理があると思います
「強制子宮破壊」知らない方はwikiを(閲覧注意)。こんなこと人間に対してやるの許されないなんて言葉じゃ足りないです
弁護士 太田啓子 「これからの男の子たちへ」(大月書店)(2022年10月7日 X)
https://twitter.com/katepanda2/status/1578180752671264768
「AVだから」「風俗だから」というのは、こんな暴力を実際に加えることを絶対正当化しない。汚物を口や性器にいれるとかもほんとありえない
コンテスト当時すでにバッキーは子宮破壊してたと吉田氏の言いぶんを否定してる太田啓子弁護士はコラボとかと同じく性売買とか慰安婦みたいなこと言ってるわりにフィクションプロフェッショナルのAVリテラシー教育と連合してる謎左翼である。その吉田氏も集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」集英社新書「小山田圭吾のいじめはなぜつくられたのか」を筆頭にサブカル村必読書を多く手がける編集者との関係からか集英社新書「トランスジェンダー入門」刊行記念で著者とトークイベントしてるんだからけっきょく皆んな虹だった。
『トランスジェンダー入門』刊行記念イベントレポートvol.3〜いつまで“洗濯機”の話をしているんだ!?〜(2023年10月18日 集英社新書プラス)
https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/news/24855
なお国民的AV女優コンテストはコアマガジンの主催で審査員はバッキーとつながってたわけではないとするポストもある。この流れ見て思い出したことには吉田氏が出演してたサブカルの呪いって動画を途中まで見たきり忘れてた。
荒井禎雄(専業主夫を志望するフリーライター)(2023年4月23日 X)
https://twitter.com/oharan/status/1649964689764544512
室井さんが何故かバッキー派みたいに言われてるけど、あれってコアマガジン主催のイベントに出ただけだったはずなんですよ。バッキーと結びついてたわけじゃないだろうに。
なんせ私も当時現場にいましたから。室井さん達に挨拶もしてるはず。
https://www.amazon.co.jp/dp/4866532777
問題作『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』の続きが登場!!
90年代サブカルという特殊な過去の遺産を今の価値観で振り返り、怒り狂っているヤバい単細胞が昨今目立ちます。
彼らによる考察ならびに反省は、一見まともでも的を射てないものが実に多く、世間に間違った解釈を広めてしまう害悪でしかないのです。
この負の連鎖を食い止めるべく、誰よりも正しいミュージシャン、そう、ロマン優光が(ぼんやりと)立ち上がった次第であります!
・・・
第四章 暴走するエロ文化 バクシーシ山下全盛期/サブカルにおける特殊AV/平野勝之のAVでわかったこと/バッキー事件/深刻なロリコンブーム/女子高生とのセックスが普通だった/宮台真司の援交擁護
・・・登録情報
出版社 : コアマガジン (2019/3/4)
発売日 : 2019/3/4
言語 : 日本語
新書 : 192ページ
リリーフランキーの国民的AV女優コンテストが話題になってたのはここ1,2年の話とみられるが2019年にコアマガジン「90年代のサブカルの呪い」でバッキーはV&Rとともにすでに言及されてた。なお著者であるロマン優光のコアマガジンはよほど売れすじなのかamazonを見ると何冊にもわたってシリーズになってることがわかる。
下記引用によるとそのうちの「日本人の99.9%はバカ」(2015)では映画にテンガやリリーフランキーが出る「モテキ」をサブカルではないって主張してた。まことのサブカルはゲロう○ことかハレンチ障碍者をぶっこんでこそでテンガやリリーフランキーごときでは仲間と認めてもらえないのかもしれない。
町山智浩を「老害サブカル」と批判したロマン優光をめぐって水道橋博士、春日太一、吉田豪が入り乱れ論戦!(2016年11月12日 リテラ)
https://lite-ra.com/2016/11/post-2693.html
前著『日本人の99.9%はバカ』(コアマガジン)で「『モテキ』はサブカルではない」などの議論を巻き起こす主張をぶちあげ話題となった、ニューウェーブバンド・ロマンポルシェ。のメンバーであるロマン優光。
・・・
〈16年の「したまちコメディ映画祭」で町山さんがやらかした騒ぎ、個人的には本当にがっかりしました。やらかした内容の悪い意味でのバカバカしさ。そしてその後の対応。それ以外にも、ここ数年の町山さんに関しては「何だかな?」と首を捻るようなところを見る機会が多くなっているのです〉
このイベントでは、今年6月に自動車事故により27歳の若さで亡くなった俳優のアントン・イェルチンを追悼する意味で彼が出演した映画『グリーム・ルーム』が上映され、そのトークショーに町山智浩が登壇していた。しかし、そのトークショーには不慮の事故死を遂げた若き俳優を弔う空気がなく、下品な下ネタで茶化したり、一緒に登壇した水道橋博士と男同士でディープキスするといったもので、この内容にアントン・イェルチンのファンは激怒。ネットを中心に大炎上した。
本書ではこの他にも、テレビで放送されたAKB48(現・NGT48)北原里英の自室に雑誌「映画秘宝」があったことをあげて何の根拠もなく「女の子が急にマニアックなこと言い出したらたいてい男の影響」とコメントしたり、やたら公衆の面前でジョークの言葉として「ホモ」という言葉を使ったりといった町山の行動を批判。〈サブカルおじさんの害〉〈町山さんに代表させてしまったサブカルおじさんの問題。その一つが、いい年こいても大人にならないことです〉と断罪していた。
・・・
また、今月5日に出演した『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(TBSラジオ)でも、一言目から「どうも、老害サブカルおじさんです」と自虐ギャグ。そして、「昔、自分で決めてたのは、『大人げなんてものは童貞と一緒に捨てたよ』ってしてたんですけど、『さすがにそれはまずいだろ』って言われてるんですよね。『拾ってこい』って言われてるんです。大人げをね」と、語るなど、まさに「大人げ」を取り戻したような対応をしていた。
・・・ここから二人の間でやり取りが始まるのだが、そのなかで出てきた水道橋博士の以下のツイートがまたもや新たな火種をつくる。
〈「サブカル」は町山智浩さんが作ったものだ。その町山智浩さんが今や老害だ。←「そうだ!俺が注意してやらねば」←ボクはその回路に全くなりません。面と向かって言えないことは書きません。それはただ卑怯だと思うから〉・・・「面と向かって言えない」ことは書くべきではないという意見なのだが、これをめぐって、今度はプロインタビュアーの吉田豪が参戦。こんな批判をツイッターで投稿したのだ。
〈その昔、鈴木庄一という伝説のプロレス記者が「相手の目の前で直接言えない批判は書くべきではない」と言ってたって話があって、一見すごく正論に思えるんですけど、それだと暴力的な相手や圧倒的な権力者に対する批判は相当な根性がないとできなくなっちゃうので、「直接言え」論には懐疑的です〉
・・・ロマン優光は『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』でこのように綴っている。
〈男性サブカル有名人の顔を少し思い出してください。ほとんどがおじさんであることに気づくことと思います。星野源のようなミュージシャンの顔が入ってきている場合もあると思いますが、そういった人を除いた評論家やライターといった面子のほとんどがおじさんです。そして、それぞれの世間的知名度の変化があったり、いなくなった顔などもありますが、基本的に15年ぐらいは顔ぶれは変わっていないのです。そして力関係なども変わっていないのだと思われます。町山さんは20年ぐらいあんな感じでしたし、町山さん自体の世間的な知名度はどんどん上がっていきましたが、特に後進に道を譲るわけでもなく、相変わらずイタズラ小僧のままです〉
・・・
しかし「16年のしたまちコメディ映画祭で町山さんがやらかした騒ぎ」て水野晴郎のホモ(笑)いじりのことかと思いきやそれより全然後の話だった。本の出た時期から考えてロマン氏が小山田う○こや松本人志いじり史観といった昨今の90年代しばきの火つけ役になってそうな感じはあるけど個人的には昔の本にメクラとか知恵遅れとか書いてるよなもんで30年も前の人権意識を令和に引っ張り出してきたらそらいくらでもしばけるだろうって感想でしかない。
そんな昔までさかのぼらなくてもサブカル村(≒浅草)では2016年の最近まで公然とホモ(笑)いじってた。老害サブカルしぐさが今やホモ(笑)いじりから「心の性」「代理出産」といったレイン棒での女しばきにトランスするにあたりレインボービールスの感染源として宇多丸や荻上チキといった顔ぶれからTBSラジオはサイゾーに並ぶ有力な存在である。
なお上記引用で老害サブカルを報じたリテラはサイゾーが配信してるようだ。悪趣味を「老害」「90年代」と過去のアングラに押し込める歴史観はその出どころがサイゾーやコアマガジンであることから老害同士の抗争だってサブカル村の現状がまるで人権にアップデートしたかのよに見せかけたプロレスにすぎぬ。
LITERA(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/LITERA
LITERA(リテラ)は、株式会社ロストニュースが編集制作し、株式会社サイゾーが配信する日本の左派系ニュースサイト[2][3]。
・・・
政治姿勢
極左、左派とされており、日刊ゲンダイ以上に反体制、反権力的とされている。しかし、編集部は反体制、反権力については認めている一方で、左派偏重という批判については反論している。事実、保守派の論客とされている小林よしのり、 田原総一朗、佐藤優に対して、理念的には距離を置きつつも、反体制、反権力の点で好意的だった。
また一部からは政治姿勢によらず、象徴天皇制について容認しているという意見もある。
皇室に対して前身となった「噂の真相」と比べて、皇室に対する批判については控え目な立場を持つ。
「天皇・皇室」は「政府」から独立した立場という見解を持っている。 女系天皇の設置を支持している。
小室眞子(眞子内親王)と小室圭について、支持の論陣を張っている事で知られる。金銭問題に対するワイドショーの報道姿勢を「差別性がありグロテスク」として批判している[9]。
LGBTについてLGBTの権利を支持しており、LGBT法案の可決を主張している。
2020年のNHK紅白歌合戦で、MISIAが掲げたレインボーフラッグについて「国民的番組と呼ばれる『紅白歌合戦』は、その視聴率の高さだけでなく、様々な年齢層、様々な属性を持つ人々の目に触れ、広く話題になる。そんな場所ではっきりとメッセージを込めたことは、社会的に大きな意義がある」と絶賛している[10]。
個人的にコアマガジンは90年代前半にルナティーン、90年代後半にお宝ガールズ、2000年ごろにブブカとかを読んでる。購読とかではなく立ち読みとか回し読みで類似の雑誌もあったので具体的な内容は覚えてないのだが。
お宝発掘と超ヤバネタ情報誌ことブブカは最新号のもくじを見ると野球にプロレスに歌丸に浅草キッドにダースレイダーに吉田豪による小山田圭吾の帰還プロジェクトにと集英社新書みたいなラインナップになってた。読み物はもともとこんな感じだったのかもしれないけど私が多少食いついてたお宝と超ヤバネタの部分はおそらく廃業してる。
BUBKA(ブブカ) 最新号:2024年3月号 (発売日2024年01月31日) の目次
https://www.fujisan.co.jp/product/2325/new/
【スペシャル記事】
・吉田豪インタビュー「What’s 豪ing On」
第十三回 小山田圭吾
「コーネリアスの夜明け、そして現在」・『Rの異常な愛情』特別インタビュー
宇多丸×R-指定
「“キング オブ MC”のつくり方」前編・ダースレイダー インタビュー
「レペゼン“病気”で覚醒! ダース式『イル・コミュニケーション』」・赤味噌インタビュー
「赤味噌が語る『立浪中日冬の陣』」
・『玉袋筋太郎の闘魂伝承座談会』
発売記念対談 第2回
宮戸優光×鈴川真一「リアル“闘魂”スタイルの掟」
ネットで見る日刊サイゾーは日刊SPAとどっちがどっちだかよくわからないんだけれどこれらの雑誌(月刊サイゾー、週刊SPA)もブブカ同様に表紙や巻頭が水着写真だった。しかし表紙こそピチピチギャルでも購買層は同世代の青年などではなく親父ぐらいの年ごろの老害サブカルおじさん(現お爺さん)なのであり現代っ子時代にモーレツごっこやって新人類時代にゲロう○こやって今なお女にレイン棒とか6Pチーズとか進路選択幼少期家族関係人間関係願望水準低下相談などのハレンチをくりひろげてる。
オリジナルのダシダはビーフコンソメぽい牛味スープなんだけどあさりは日本の粉末だしにはない味である。うどんにも中華めんにも合うし野菜炒めの仕上げにふりかけるとちゃんぽんぽくなって何かと使い勝手もよかった。
韓国も魚介系のスープのことはチャンポンって呼んでてチャパグリで有名になったノグリラーメンをはじめ名前に「海鮮」「ちゃんぽん」が入ってる袋めんや豆腐を煮込んだスンドゥブなどイカやアサリの甘みがきいてることが多い。もちろんピリ辛にも合ってるんだけどもうちょっと唐辛子使ってない料理があってもいいんじゃないかとはいつも思う。
最近では買ってなかったあさりダシダだったが業務スーパーで類似品を見つけた。こっちは個包装になってなく袋に顆粒って書いてんのにじっさいは細粒なのでしけりまくって使い勝手はあまりよろしくない。
あさりダシダは湯で溶かしただけであさりスープとして飲めるぐらいだったけど貝だしの素は何の味なのかよくわからないなどまったくの別物である。スープの素(アミノ酸)としては悪くないものの謎にコショウがきいてて味噌汁とかにはあまり使いたくない感じだった。
まるちゃんといえば「クッタ」「まるちゃん正麺」「ホットヌードル」「赤いきつねと緑のたぬき」もしくは生めんの焼きそばなど製麺に定評のある会社だが公式で沿革を読んでみますと「東洋水産」てだけあってルーツは魚肉ソーセージだったようだ。だしの素の多くは味の素社「ほんだし」を元ネタとしてるせいか赤〜オレンジ〜黄を基調に青色でカツオの絵がえがかれてる外箱に紙の個包装が入ってるのにたいしアルミ包装で細粒のまるちゃんは店頭で見た時点ではうどんスープとかんちがいしてたため16袋も入ってて130円ぐらいとやけに安いとは思った。
意外にも塩気やかつおが濃縮されてるって感じではなくそのままお湯に溶かしてスープとして飲めるぐらいやさしいお味である。最初からアルミ包装だったかどうかはさだかではないものの発売は1969年とほんだしより1年先がけておりポスト化学調味料(味の素、ハイミー、いの一番)としてラーメンスープを和風化したかのよな細粒だしの素の時代が一瞬だけ存在したのち70年代の到来と同時に「ほんだし」が濃いかつお味と顆粒の利便性でうまみ市場を席巻して多くのフォロワーを生み出したということなのだろう。
宮島醤油のちゃんぽんスープは白濁してないうえに完全な煮干し味でちゃんぽん性が行方不明すぎる。原材料を見ると4番目にポークパウダーがきてるしラードも入ってるんだけど醤油の次にいわし煮干し粉末が使われてた。
しかしウィキペディアでちゃんぽんを読むと和風で透明なちゃんぽんというのも各地に存在している。彦根にいたっては魚介類さえ入らないのだそうでけっきょくちゃんぽんがごちゃまぜを意味するよに具がいろいろ入ってたらスープや具の内容は何であれちゃんぽんを名乗る資格があるらしい。
丸天醤油のうどんだしは普通のと無添加とがあるんだけど無添加のほうがとくに値段が高いとかやさしいお味だといったことはなくたつの市の薄口醤油会社なだけあって味はいづれもヒガシマルのうどんスープによく似ており物悲しいネギも入れてくだすってる。でもこっちは袋めんの「スープ」と同じ包装でありながら「だし」を名乗ってた。
ミヤジマやヒガシマルなどアルミ個包装のうどんだし粉末を「うどんスープ」っていうのは当時の袋めんの「ラーメンスープ」にならったんでしょうけど粉のことを「の素」っていうのは「味の素」が起源ではなかったろうか。わが「の素」史観によれば「粉」ぐらいな意味しかなかった「の素」が高度経済成長期に隆盛を誇った「ジュースの素」によって「水で希釈して完成させる」の意味になりやがて「麻婆豆腐の素」など液体にも応用されるにいたった。
ジュースの素の代名詞的存在である渡辺製菓のかつおだしは「だし一番」で「だしの素」でないのがやゝ意外だった。発売年は前述のまるちゃんと同じく1969年なので細粒で味も薄かったんじゃないだろうか。
なおスパゲッティ式めん(ナポリタン)の「粉末トマトルー」を見るにカレールーにならって「ルー」が「の素」になろうとした形跡もうかゞえる。ふりかけも「御飯の友」「旅行の友」「遠足の友」「露営の友」「食卓の友」など「ふりかけ」という一般名詞が生まれる前は「の友」だったようだ。
ゆかりで有名な三島はうどんスープも作ってた。こんぶだしとかつおだしまではマルテンやヒガシマルと同じだけどこっちはしいたけだしが入ってて黒ぽい色そのままに味もしょうゆ感が強い。
それにしても広島がいりこ文化圏なイメージで三島だっていりこ味噌を作ってるのにうどんはいりこだしじゃないんだろうか。たつの勢のうどんスープに入ってる物悲しいネギは三島にはなくかわりに最初から唐辛子をわずかに入れてだすってるからちょっとピリっとした。
明治(明治キンケイ)の「おでんの素」は「おでんのもと」かと思いきやよく見ると「の素」と書いて「のだし」「関東煮」と書いて「かんとうだき」とも読ませようとしてた。関東煮もしくは関東炊きとはおそらく西日本の呼び方で、こんぶの濃さにもそれはあらわれてる。
明治の調味料じたいあんまり売ってるとこを見ないのだがネット検索によれば発売されてから50年以上はたってるようで1971年に発売され西日本だけで生き残ってるこんぶかつお味のカール「うすあじ」とどっちが先だったんだろうか。歴史の長さからいうと関東のおでんにうまみをもたらすパイオニヤだった可能性がある。
おでんの素シェアとしてはSBがトップで二番手がハウスなのだろう。明治のおでんの素はそのまま飲むとこぶ茶か?てぐらいこんぶみが強かったけどハウスはこんぶとかつおとしょうゆが無難にまとまっててめんつゆみたいな味だった。
明治とハウスが細粒だったのにたいしSBは顆粒でサラサラしてるから使いやすい。明治といいハウスといいSBといいおでんの素はだしやしょうゆではなくカレーの会社が作るならわしなのだが同じカレーでもレトルトだと丸美屋や永谷園やグリコみたいにふりかけや中華の素の会社が作る系譜もある。
あみ印が製造するトップバリュのおでんの素は細粒で6皿ぶん×4袋はハウスと同じだけど明治に似てこんぶ臭くめんつゆや野菜の味つけとして使うには妙に濃い。しかし本来の用途であるおでんだとだいこんや牛すじやこんにゃくといった具材の臭さに張りあってて味がもっともよくしみこんだ。
1957年と炒飯の素でもっとも古い歴史を誇るあみ印はやさしいお味と1パックの袋の小ささ(6g分包)が前述したマルちゃんの鰹あじだしの素(5g分包)によく似ててこれが関東のスタンダードだったんだろうか。アミノ酸もかつおエキスパウダーでそのせいかあまり中華って感じしない。
なお関東には富士食品工業の「チャーペット」もあり永谷園が炒飯の素に参入するまではあみ印とチャーペットがシェアを二分してたらしい。「チャーペット」って商品名は粉末ジュースの「ジューレット」とその後発の「ジューセット」、アイスの「チューペット」、森永ハイチュウの前身「チューレット」など60年代ごろの菓子にもよくあった語感である。
東のあみ印にたいし西のカモ井食品工業は千鳥、藤井風、水道橋博士、はちみつ二郎、バクシーシ山下を輩出した大都会岡山に本社をかまえる食品製造販売でWikipediaによるとハイトリとマスキングテープでおなじみのカモ井加工紙は養子だそうだ。製造元の広島の味日本は味の素のコピーみたいな商品でよく見る。
こっちは炒飯やオートミール粥の味つけに使うとまるで親子丼食べてるかのよな甘みがあって原材料を見ると一番最初がぶどう糖(国内製造)で砂糖も使われててチキンパウダーも配合されてるから親子丼味はあながち間違ってない。カモ井が9.2g(24カロリー食塩相当量3.0g)が5分包入り、あみ印は6g(11カロリー食塩相当量2.8g)が6分包入りと食塩相当量が同じぐらいなので3g13カロリーの差は糖分と考えられ(ショ糖3gの熱量も12カロリー)カモ井は1袋に1枚ついてくる応募券を7枚1口(チキンライスの素でも可)で新品と交換、あみ印は10枚も送らないと交換してくれないのをふまえて炒飯の東西対決は味、カロリー、応募券すべての点でカモ井に軍配が上がった。
東南アジア料理ってタイとベトナムぐらいしかイメージわかなくこの2国も魚醤(ヌクマム、ナンプラー)以外でどういう味つけしてるのかまでは知らないんだけどさらに珍しいフィリピンの何かの素がドンキに売ってた。味の素社製で袋の写真を見てスープの素かと思いきやギニサは炒めるという意味なのだそうだ。
YouTubeでCM動画を見ると野菜からけっこう水分が出たつゆだくな野菜炒めを作っておりこの汁を最期に白めしとあえて食べるのがたまらないようである。確かに味もにおいも粉の色もサッポロ一番塩ラーメンのスープにかなり似てて甘めな野菜との相性は良くわが國でもサッポロ一番塩ラーメンのスープだけ売ってほしく思った。
前述したよに炭水化物を味なし(何もつけないか塩だけ)で食べるのが好きなために袋めんの麺だけ食べてラーメンスープを料理にまわすことはよくあったんだが野菜みたいな優しいお味にはラーメンスープで塩とアミノ酸の暴力性をくわえるぐらいがちょうどよいのである。それにしても原材料を見ると砂糖や植物油脂が入ってるのにもかかわらず熱量は0カロリーと表記されており「何だろう。嘘つくのやめてもらっていいですか?」てなった。
他にもドンキでベトナムのハイチャウ調味塩も買った。何か黒い粒が混じってるなど見た目からして普通の塩ではないしにんにくの香りもしてたんでクレイジーソルトやマジックソルトのごときシーズニング性を期待したのだが料理に使ってるかぎりふつうの塩と変わらない感じでわざわざこれにする意味が見いだせない。
神戸物産の「うまみ調味料」は中国産でアミノ酸のLグルタミン酸ナトリウム(こんぶ成分)が99%核酸は5'-イノシン酸二ナトリウム(かつお成分)と5'-グアニル酸二ナトリウム(しいたけ成分)が各0.5%となっておりこの構成はおそらく業務用の味の素に相当する。味もさることながら安売りならば値段もそんなに変わらないけど味の素が棒みたいな結晶で少し透明感があるのにたいし神戸物産はたゞの白い粉で見た目は違ふ。
なおスーパーでよく売ってる50gぽっちが100円ぐらいする味の素はハイミーの8%には及ばないにせよ核酸が2.5%も入ってるなど同じ味の素でも業務用の1%とは違う製品である。業務用では初代味の素と同等のグルタミン酸だけの化学調味料もどっかから出てた。
ちっぽけなビンが500円以上もしてて一生縁がないと思ってたハイミーだったが相場の半額以下で安売りされてたのでためしに買ってみた。これじたいに味がないんだから200円程度ででもアホらしいが味の素と比べて値段が2倍うまみが2.5倍なだけあって確かにちょっとふるだけでアミノ感うpしたんで神戸物産のうまみ調味料に100円だけ多く出してハイミーと同等の「ゴールドプラス」にすれば使う量が少なくすむぶんかえってコスパかもしれない。
リュ氏とか何の料理作っても高島忠夫ばりに味の素ぶっこんでるようだけどもたいていの食べ物は塩だけでじゅうぶんにおいしくなることからスープを除いてそんなにアミノ酸が必要なのか?に懐疑的な私には日本人の嗜好がうまみ(甘み)中毒であるように思えてならない。その塩も岩塩みたいなオシャではなく1キロ100円しないようなガチ食塩一筋に生きてる。
]]>しかし一カ月のことを月とは呼べどもほんとに月を基準にしてたら1年が365日にならないとかですごいずれてくるらしく旧正月の日にちも毎年違ふ。正月は日にちが1月1日のまゝなので暦が変わると季節感が変わってくるんだけどぎゃくに二十四節気の立春(春の始まり)の前日である節分は季節感をそのまゝに日にちが変わってる。
旧正月は2月10日の固定ではないにしろとにかくガチの正月より1ヵ月ぐらい遅く来るのだけは間違いない。なので節分は年末か正月の時期だったはずだ。
聞き書き 岩手の年中行事 工藤 紘一
https://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu/data/kenkyu28/no28p47Kudou.pdf
1.種市町横手の年中行事 話者:板橋治右衛門・板橋フミ 時期:昭和58年2月
?年末・正月の行事
12月27日 煤はき 柳の枝を取ってきて箒を 2本作り、適当な長さの柄をつける。煤はきは神棚から始める。カギヅゲ(自在鉤)も早くする。台所の梁の上に結わえて祀っておいた松も下ろす。鍋の底の煤もこの日に落とす。集まった煤は捨て、松はトナガマに入れ燃やす。この日より前に煤はきをする場合は、八戸のマチノヒ(三日町、十三日町、十八日町など)にやればよいという。 この日の晩にはご飯を炊いた鍋を洗わないまま、それで豆を炒る。その豆を一升枡に入れ神棚に供えてから、「福は内、鬼は外」と唱えながら年寄りが撒き、 家族は自分の年齢の数だけ拾って食べる。節分には豆まきはしない。この日は米の飯を食べる。
・・・
1月15日 ホガホガ 夕飯前に、豆の皮とソバの皮をまぜたのを撒きながら、家の周りを3回周った。「豆の皮もホガホガ、ソバの皮もホガホガ、銭コも金コも飛んで来い。馬コも牛コも飛んで来い。ヤーラホラ飛んで来い」と大声で叫んで歩いた。「隣の家に聞こえるように大声を出せ」と言われたものだ。主として子供たちの行事である。
1月15日 ヤッカガシ ハシギ(箸を作る木)を伐って来て、先端を割り、焼き豆腐を挟んで、それをスボド(囲炉裏)で焙って、晩に家の入口や戸ごとに挿した。煮干を挟む家もある。
・・・
2.九戸村伊保内・戸田の年中行事 話者:稲森源右衛門・木村米蔵・村田マツ・岩淵五助 時期:昭和56年3月
?年末・正月の行事
12月25〜28日 煤ばらい 家によって違うが、25日頃から始めるところもある。遅くとも28日までにはする。集めた煤やゴミは焼いてしまうが、それが原因で火事になることがよくあった。川に流してしまう所もある。煤ばらいのための箒は箒草と萩の木を束ねて新しく作った。高い所の煤をはらう時は、それにホゲ (ササゲの手などに使う棒)を結びつけ、柄にした。煤ばらいの日に豆まきをする家もある。この日に豆まきをすれば、節分にはしない。豆まきの豆を炉に12個並べ、12か月の天気を占った。豆にオキをつけ、プープーとなればその月は風が吹き、よく燃えれば天気がよいなどと判断した。
・・・
3.二戸市下斗米の年中行事 話者 : 中村一 時期 : 昭和58年2月
?年末・正月の行事
12月26日 煤はき ヤマガを伐った後に出る若い枝の3年位のものを取り、束ねて箒にする。取るのは前日頃だが特に決まっているわけではない。煤はきはカギヅゲ(自在鉤)から始め、明きの方に向かって掃き始めることになっている。炉の火に灰をかけてから始める。煤はきが終われば、箒を焚き付けにして火をおこす。煤は捨ててしまう。最近はこの日に豆まきをしたりする。夕ご飯の後に鍋を洗い、それで年男が豆を炒り、撒く。
・・・
1月15日 ヤッカガシ ゴマの木の串に煮干・昆布・豆腐を挟んだものをヤッカガシというが、年男はこれを家のすべての窓に挿して戸締りをする
1月15日 ホガホガ 豆糠と豆腐粕とソバ粕を混ぜたものを1升枡に入れて、子どもたちが「豆糠もホガホガ、豆腐粕もホガホガ、ソバ粕もホガホガ。浄法寺の嘉助ドの金コァやらくるは飛んで来る」と唱えながら枡から撒き、家の周囲を3度まわる。その家では子どもたちに銭を与える。
・・・
(日付不定) 節分 夕飯後、年男が鍋で大豆を炒って一升枡に入れ、常居と台所で、「鬼は外、福は内、 鬼の目玉打ち潰せ」と唱えながら豆を撒く。家族の者はそれを拾って食べる。翌朝、馬にも少し食べさせる。
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5.湯田町白木野の年中行事 話者:小原徳精 時期:昭和57年1月
・・・
節分 節分には豆まきをした。その豆を炉端に並べ、 豆の皮の割れ具合で1年間の天気を占った。よく割れれば豊作だということであった。また、豆を拾っておき、木山など危険な所へ行くとき、3粒食って出かけると危なくないといわれた。
・・・
6.釜石市栗林町上栗林の年中行事 話者:藤原熊男・栗沢功 時期:昭和59年2月
・・・
12月27日 豆まき 煤はきの晩に豆まきをする家もある。この日にすれば節分にはしない。その年に不幸ごとがあったり、家族全員が揃っていなければ豆まきはできない。そのような場合は、豆を袋に入れその袋をカギヅゲに下げておく。
・・・
1月15日 ヤラスリ 夕方に、「ヤラグロノ殿様、 銭コモ金コモ飛ンデコウ、馬ッコノ餅モ飛ンデコウ、牛コノ餅モ飛ンデコウ」「オメデタイ、オメデタイ」 と唱えながら、家の周りを3回まわった。この時、「豆ノ皮モホガホガ」といいながら、一升枡に入れた、煎った豆の皮を撒いた。
1月15日 ヤッカガシ 栗の木の串に、豆腐と餅と魚のヒレを挿し、これを家の戸口全部に挿す。この行事をヤッカガシという。戸を閉める時に、「ガイキハナダレハラヤクビ、上のけだもの貧乏神、オオキタニマツリダス」と大声で外に向かって唱え、ピシャッと閉める。
・・・
そういう月の暦と太陽の暦のずれが気になったのはネットで見つけた「聞き書き岩手の年中行事」を読んだのがきっかけだった。詳細がよくわからない地域もあるんだけどかっては12月25-28日あたりの時期に豆まいてる。
おそらく正月が1月1日という日にちだけをそのまゝに季節感が一カ月ずれる(真冬なのに新春で迎春)のと同じよに立春の前日なはずの節分も冬至に近い時期にやるという混乱が生じてたのだろう。それだけ節分は年末行事のイメージが強かったと思われ年の数だけ豆を食べるのも昔の数え年が誕生日ではなく新年に年をとってたせいだと考えればつじつまはあう。
なので旧暦と新暦で日にちをそのまゝに季節がずれてるのか?それとも季節がそのまゝで日にちがずれたのか?を考えると頭が混乱してくるのだが旧正月より古い小正月は満月を1日にしてる(2024年だと1月26日か)のだからさらにやゝこしい。とにかくそんな変遷があったために年末と正月の行事が現在の12月末から2月の中旬に分散してしまってる。
節分そば(そばの散歩道)
https://www.nichimen.or.jp/know/zatsugaku/34/
いま一般に「年越しそば」といえば、12月31日の大晦日に食べるそばのことを指す。けれども、この一年の最後の日に食べるそばを年越しそばと呼ぶようになったのは、意外と新しいことのようだ。少なくとも江戸時代の後期には、大晦日ではなく節分に食べるそばを年越しと呼んでいた。江戸時代の史料で、大晦日に食べるそばを年越しそばと呼んでいるものは、いまのところみつかっていないとされる。
節分とは、季節の変わり目のことで、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日である。したがって、本来は一年に4回の節分があるわけだが、とくに立春の前日を称して節分と呼ばれるようになっている。この日の夕方、ヒイラギの小枝にイワシの頭を刺して戸口に立て、炒り豆(鬼打豆)をまいて悪疫退散、招福を願う風習があることは、ご存知のとおりである。もともとは7世紀末に中国から伝わった宮中の年末の行事だったのが、江戸時代頃から民間に広まり、立春の前日に行う清め事となった。
・・・
上記引用は私の正月史観とは微妙に違うことが書かれてるんだけど節分の年越しそばは12月に移動した岩手の豆まきとはぎゃくに時期が立春のまゝで日付が年末でなくなった例と思われる。戸口に立てるヒイラギの小枝にイワシの頭うんぬんは聞き書き岩手の年中行事にはヤッカガシとして出てきてた。
ヤッカガシはヤイカガシとかヤイクサシともいい悪臭で鬼を寄せつけぬ効果がありカカシ(嗅がし)の語源ともされる。むしろ柳田國男は田んぼに立ってる人形をカカシと呼ぶことを本を読むまで知らなかったそうだ。
年中行事覚書 柳田国男
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
これから研究して見たいと思っているだけで、私はまだ案山子の問題には一向手を着けておらぬ。どうかよい雑誌が出来て沢山の新資料を供与してくれよかしと念ずるばかりである。誰でも知っていることかも知らぬが、今まで方々から報告せられている事実はいろいろある。それを綜合して要点だけをその号に掲げておくと、後々何かにつけて便利だろうと思う。私は播州で生まれたが、カガシという言葉は書物によって始めて学んだ。山田のカガシという唄はまだ出来ておらず、土地ではただトリオドシといっていたのである。
鳥おどしまたは鴉おどしの語は新しいものだろうが広く行われている。九州にはオドロカシという方言もあるから、その意味はよく通じている。ところが東京とその周囲の村々では、そういえばわかるというのみで、この語を使う者はないように思う。カガシは文学語でもありまた東京語でもあるのだから、それが標準語として認められたのも尤もである。
・・・
東京から西の方、東海道の諸国では節分の前の晩に、ヤイカガシまたはヤツカガシというものをこしらえて戸口に插す。たいていは鰯の頭、髪の毛などを小さな串のさきに挾んで、ごくざっと炙ったもので、これを見ると鬼が辟易して入って来ぬという。これも臭気を嗅がしめるのが目的と見えて、ただそれだけでも相応に臭いのに、更にその際の唱えごととして「隣の婆々が屁をひった」という類の下品な言葉があり、またふふらのふんというような鼻の音の声色を囃しにしている。
こういう文句の特に発達しているのは、静岡、愛知の二県だけらしいが、同じ風習は遠くの地方にもある。淡路や備中ではこれをヤキザシ、出雲などはヤイクサシと呼んでいる。ヤツカガシという語の知られているのは信州から越後、関東、奥羽にも処々にこの風習と共に名前がある。盛岡などではこの節分の宵に插す串も、本物の案山子も共にヤツカガシというそうだから、カガシの元の意味はまず明らかになったわけである。しかし中部地方の数県のように、節分のヤツカガシの行事風習が盛んな地方では、山田の案山子と混同して困るためか、この地方はカガシとはいわず普通ソメと称している。
つまり日本における案山子の方言は、カガシとオドロカシとこのソメと、大体三通りになっているので、その中では中部のソメが最も古くからあった語らしく、しかもその意味が最もわかりにくいのである。これは自分だけの推定だが、ソメという語の起りは注連繩などのシメすなわち占有の占ともと一つであったらしい。
ヤッカガシも節分の行事として知られてるけど岩手では小正月にやってて木の種類もヒイラギではなく栗やゴマの木を使って豆腐を刺してたと記録されてる。豆や栗やゴマは東北とくに岩手ではかなり重用される食材だったろう。
雪国の春 柳田国男
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
・・・
関東以西の柊の枝に鰯の頭は、節分の夜の行事となっているが、ここではこの十四日の年越に、魚の鰭、魚の皮などをこがして餅とともに串に刺し、すべての入口、窓という窓に挿んで、それをやはりまたヤラクサと呼んでいた。つまり臭気ある物をもって、鬼を追い返そうという目的に出たのである。
・・・下北半島のヤラクサの代りに、小湊で行う儀式は節分の豆まきの起原を思わしめる。すなわち酒の糟と糠と豆の皮と、この三つの品を桝に入れて、次の詞を唱えつつ家の周囲にまき散らした。
豆のかわほんが/\
銭も金も飛んでこい
福の神も飛んでこい
これは今でもヤラクロなどと称して、南部の各村には似たる唱え言の用いらるる例が多い。あるいは古酒の香がするなどともいうが、つまりよき香をもって福の神を内に誘い、いやな香をもって鬼を外へ追い出そうというのである。・・・
柳田國男「雪国の冬」によると下北半島においてヤッカガシはヤラクサと呼ばれてて岩手と同様に節分ではなく小正月の行事だった。青森でも小湊(平内町)ではヤラクサのかわりに「豆の皮ホンガホンガ 銭も金も飛んで来い 福の神も飛んでこい」と唱えながら家の周囲に酒かすや豆の皮をまき散らす「ヤロクロ」が行われていると書かれてるがこれは岩手の聞き書きにも記録されてる「ヤラスリ」「ホガホガ」と同じ行事で例によって名前だけではなくやり方も微妙に違ってる。
1.夕飯前に子供組が大声で「豆の皮もホガホガ、ソバの皮もホガホガ、銭コも金コも飛んで来い。馬コも牛コも飛んで来い。ヤーラホラ飛んで来い」と豆の皮とソバの皮をまぜたのを撒きながら家のまわりを3周する。
2.子供組が「豆糠もホガホガ、豆腐粕もホガホガ、ソバ粕もホガホガ。浄法寺の嘉助ドの金コァやらくるは飛んで来る」と豆糠と豆腐粕とソバ粕を混ぜたものを1升枡から撒きながら家のまわりを3周して祝儀を得る。
3.夕方に「ヤラグロノ殿様、 銭コモ金コモ飛ンデコウ、馬ッコノ餅モ飛ンデコウ、牛コノ餅モ飛ンデコウ」「オメデタイ、オメデタイ」 と唱えながら家のまわりを3周する。この時「豆ノ皮モホガホガ」といいながら一升枡に入れた煎った豆の皮を撒く。
いづれも1月15日に「豆の皮もホガホガ」と唱えながら家のまわりを3周する点が共通しており「銭も金も飛んでこい」といった文句も必ず入ってた。まき散らしてるのがたいてい豆類なので柳田氏は豆まきの起源と仮説してるようだが岩手では節分を別でやっており3周はどっちかというと鳥追いに多くみられる動きである。
鳥を駆除する内容にはなってないとはいへ「飛んでこい」という一節が入ってたり子供組が小正月に大声を出すように指導されお金をもらうこともあったというのだからホガホガも鳥追いの一種とみてまちがいない。鳥追いの唄はたいてい「ホンヤラホイ」とか「ホンガラホイ」といったくだりがあるので「ホガホガ」「ホンガホンガ」もその変形と考えられる。
さごちゃそ(2019年1月15日 X)
https://twitter.com/ajisai_ks/status/1084983045365497859
♪ヤロクロとんでくる〜
銭コも金コもとんでくる〜
ウマっコ持ちの殿がな〜
ベコっコ持ちの殿がな〜
マメの皮もほ〜がほが〜
ソバの皮もほ〜がほが〜♪… まあ、ヤロクロはこんなとこかな…
岩手では「ヤラグロ」「ヤラクル」「ヤーラホラ」に変化してる青森の「ヤロクロ」は遠野弥六郎というお殿様(南部義堯?)に由来してるようでじっさい「殿」が入ってるヴァージョンもある。ホガホガも鳥を虐める内容の鳥追い歌だったのが南部地方を中心に「殿」「馬」「牛」「餅」を唄う弥六郎系に途中で改変されてったのではあるまいか。
第二章 農民生活変遷の各説(滝沢村誌)
https://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/page04_chapter2.html
夕方食前に籾糠と黄粉をとった豆の殻とを枡の中に入れ、年男がこれを持って蒔きながら「米の皮(糠)もほがほが(寿ぐ豊年の意)、豆の皮(糠)もほがほが、銭も黄金も飛んで来る。ヤラクセイ、トンノガナァ」と唱えながら家の周囲を二周する。このことは吉相を希う意味で、家族中一人でも欠けておれば行わない。従ってこの間子供は外に出ないし、若し外出中の者が帰宅しないときはこれを行わなかった。この晩はいわゆる小正月の年越で、それぞれ御馳走を用意して神前に供え、且家族一同無事越年の祝福をする。なお夕飯後は思い思いに夜烏追い(年男は「夜烏ホーイホーイ、朝烏ホーイホーイ、悪い烏が来たらば、頭割って塩つけて、エゾの島さ流せ」と唱えながら常居を三周して戸を明ける)、戸窓塞ぎ(家族一同揃ったところで木片に田作り、または鰯と餅及び昆布等を挟み年男が自分の家の周囲を廻りながら各戸の窓へ差し込む。
・・・
滝沢村ではヤッカガシが「戸窓塞ぎ」ヤロクロは「ヤラクセイ」になってた。ここでのホガホガは子供組ではなく年男だったり家族が1人でも欠けてれば行わないなど節分との共通点がみられるのだが福は内鬼は外はやっぱり12月にしてる。
夕飯前のホガホガにくわえ夕飯後には鳥追いもしててこれまた子供組ではなく年男だった。こうした滝沢村の例に比べ遠野の鳥追い歌は「ホーイホイ」「頭割って塩つけて」「蝦夷の島さ流せ(追ってやれ)」とほゞ同じ内容でありながら夜カラスが夜鳥(よんどり)になっており時間も夕飯後ではなく未明である。
「遠野物語拾遺289(よんどりほい)」 (2013年12月27日 不思議空間「遠野」 −「遠野物語」をwebせよ!−)
https://dostoev.exblog.jp/21170811/
翌十六日は、ヨンドリまたはヨウドリと言って、鳥追いである。未明に起きて家の周囲を板を叩いて三度まわる。
よんどりほい。朝鳥ほい。よなかのよい時や、鳥こもないじゃ、ほういほい。
という歌を歌ったり、または
夜よ鳥ほい。朝鳥ほい。あんまり悪い鳥こば、頭あ割って塩つけて、籠さいれてからがいて、蝦夷が島さ追(ぼ)ってやれ。ほういほい。
と唄って、木で膳の裏などを叩いて廻るのである。
「遠野物語拾遺289」
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伊丹政太郎「遠野のわらべ唄」に、「夜ん鳥ホーイ」という唄が紹介されている。ただし歌詞の内容は若干違っている。夜ん鳥ホーイ 朝鳥ホーイ
世中のわるいときゃ鳥も無えじゃ
ホーイホイ
あんまり悪り鳥ば
頭わって塩つけで
遠だ島さ ぼってやれじゃ
ホーイホイ
遠だ島に席ぁ無がら
罪獄島さ ぼってやれじゃ
ホーイホイ
ハッキリわかる違いは、世の中が良い時と悪い時の違いと、罪獄島が蝦夷が島となっているのがあからさまに違うという事だろう。どうやら為政者を批判する唄であるようなので「世の中」を「世中」→「夜中」として、為政者に知られないような工夫が施されているようだ。しかし表面的には”害鳥”を追い払う唄として広まったという。これを語っているのは光興寺という地に住んでいる、現在遠野のわらべ唄の第一人者となっているアベエさんが近所の菊池カメさんから伝え聞いた話である。この光興寺は以前、阿曽沼氏が城を築いて支配した為なのか、それを裏切った南部氏を憎む者と、阿曽沼氏そのものを憎む者とが混同する土地でもある。
ところで、罪獄島とはどこかわからないが、これが蝦夷島となれば、北海道であろうというのが理解できる。ところで北海道は鎌倉時代まで、日本の地図には認識されていなかった。義経の北方伝説では、義経は死なずに逃げ延び、まず遠野へと立ち寄った後に沿岸地を北上し北海道へと渡ったというもの。実際に義経が生きていたとしても、後ろ盾となっていた奥州藤原氏が滅亡となっては、もう義経は頼朝の脅威にはならず、例え生きていたとしても何もできない存在であろうと、義経を追う事をしなかったという説もある。ましてや本当の頼朝の狙いは義経では無く、奥州藤原氏の黄金文化であったという説もある事から、どちらにしろ義経が北海道である蝦夷島へ逃げ延びようと、もうどうでも良かったのであろう。
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新潟や長野の鳥追いはホガホガよりもヨンドリホイに近いが害鳥をホイホイと追うのは「蝦夷の島」ではなくたいてい佐渡島である。ヤッカガシ(ヤラクサ、戸窓塞ぎ)が小正月なのを含め岩手や青森(おそらく秋田の一部も)でだけ鳥追いを2種類やって「馬」「殿」「蝦夷」だのが唄われてるのには南部藩の歴史を反映してそうだ。
南部編第30話 日本有数の良馬、南部馬を産出(2013年12月30日 青森の歴史街道を探訪する)
http://rekisi-kaido.owl-aomori.com/?eid=80
南部藩では南部九牧(なんぶくまき)と呼ばれる「野」を九つにわけた藩営牧場を開き、馬産に積極的に取り組みます。とりわけ南部氏の本拠、三戸近郊にある住野野(すみやの)(名久井岳西側中腹から南部町大向・三戸町泉山の一帯)では、永保年間(1504−1521年)の「永保五年馬焼印図」により、古くから馬産が行われていたことが確認できます。牧場には、総牧場管理者として御野馬別当、各牧場の管理者として御野守が置かれます。そのほかに御馬医、御馬責(調教師)などの馬肝入(世話人)が置かれ、手厚く管理されていたことがわかります。(図説 三戸・八戸の歴史 青森県の歴史シリーズP114株式会社郷土出版社)
ちょうど東北町歴史民俗資料館(青森県上北郡)の「旧小正月の伝統行事と風習展」で繭玉や雪中田植えとともにホガホガが再現されてた。家のかわりに撒くのが豆を中心にすべて皮、カス、ヌカの部類でここでは粟ヌカも入ってるけど大舘(秋田)にも伝わってて雑穀文化の岩手では例のなかった稲の皮(もみがらのことか?)もホガホガするらしい。
くまきち(2月3日 X)
https://twitter.com/morinokumakichi/status/1753435028007403971
次に行われるのがホガホガです。
郷土資料などを読むと、実際には小ぬか、豆の皮、豆腐カスなどの粉末を撒きながら、唱え言をして家の周りを回るらしいのですが、今回は再現なので、資料館の庭を回ります。「米ヌカもホガホガ 豆ヌカもホガホガ 粟ヌカもホガホガ 銭も金も飛んで来い」
くまきち(2月3日 X)
https://twitter.com/morinokumakichi/status/1753435032142962880
次に「シネー、シネー」と言いながら餅を撒きます。
これは山の神様であるカラスに餅をあげる行事です。
「シネー」はカラスを呼ぶ掛け声で、暴言などではないので安心してください。
岩手でもカラスに餅あげてるんだけどかけ声は「シネシネ」ではなく「ナエナエ」とか「ポーポー」である。この小正月再現行事をYouTubeで見てもシネシネの模様はうつってなくそのかわりホガホガの「銭も金も飛んでこい」の部分を「カラス飛んでこい」と言ってるようで頭割って塩つけて蝦夷の島にホイホイ追うんじゃなかったのかを謎に思った。
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あずきもなか?父ノ背中(2017年7月1日 X)
https://twitter.com/mo_na_ka1025/status/881130572239654912
嫁つつき棒🤔
後ろの掲示には「象潟の才の神行事は、日本の無形文化財に認定されました」「象潟町のサエの神の御神体は陰陽性器のうち、男根(陽)を石や木でかたどったものとしている。この神に良縁や子授け、病気、家内安全、豊作などを祈願すると、御利益があるといわれております。このサエの神行事は、一月十五日に早朝から小屋焼きなどの伝統行事を行っております」とある。小正月を祝うなんてのはテレビもないよな時代だから明らかに同じ行事でもところによって名前ややり方がだいぶ違ってるが小屋焼き=とんど焼きもまた「さいの神」て呼ばれることがあり、やぐらにち○こ(玉付)が生えてたりオーマラオーマラって言いながら火のついたたいまつで頭を叩くヴァージョンになってるのを見てるとしめ飾りとか書初めを燃やしてその火で餅とか焼くだけに思われたとんど焼きもじつはち○こと深い関係があるのだろうと思われた。
小松・初春・どんど焼き(屋根のない博物館)
https://yanenonaihakubutukan.net/1/donndo.htm
道祖神祭りは昔から1月14日、小正月の日に行なわれていましたが、最近は成人式の日に行なわれるようになりました。また、地区によっては行なわないところもあります。正月のお飾りや書初めを燃やし木の枝に繭玉をこしらえ焼いて食べると風邪をひかないと云われています。城山のどんど焼きをおってみました。
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小倉・西村地区では昔、燃えさかる炎に向かって「セイノカミ オンマラサマ」と唱えると一同が一斉に声を合わせたと云います。
今はその風習はなくなりましたが、場所により中心に建てた御幣が倒れた方向に子供ができるとか、作物がよく稔るなどと云われてきました。小松地区では倒れないよう18番の鉄線で結ばれていました。あんまり倒れないので消防団の人達が東北の方向に倒しました。のどかな初春の一日を追って見ました。どんど焼きの後、テントの中では新年会が盛大に行なわれました。
上記引用した神奈川県相模原市のサイトによればかってはとんど焼きに向かって一同が「せいの神おんまら様」といっせえにとなえてたっていうんだから新潟県のち○こ焼きである「さいの神」「オーマラ」との連続性を思い起こさずにはいられない。とんど焼きは箱型に組むこともあれたいていはクリスマスツリーのごとき円錐型にそそり起たせてるんで挿入時のち○こを焼いてる(煙=精液=子孫繁栄)と仮定したんだが今一度検索してみると円錐や箱型だけでなく人形型もあるらしく長野県のある集落では相模原と同じ「おんまら様」って呼んでた。
長谷及び越のドンドヤキ 特異なわら人形や紙人形を焼くドンドヤキ(八十二文化財団)
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/legend/detail/01/post-3.php
長野市篠ノ井塩崎の長谷の平(ひら)、越(こし)の越、越の東谷(ひがしだに)の三集落では、小正月行事として、1月15日に、わら人形や紙人形を作り、これを燃やすドンドヤキが行われる。一般に小正月の火祭りは、正月飾りを処理し、年神送りを行うという性格が強い。そのなかで、長谷及び越のドンドヤキは、防塞のための威嚇、子宝授与の願望といった意味を込めながら、火を燃やすことで厄を追い出す意味を強く受け継ぎ、道祖神祭りのあり方をよく表わしている。たんなる火祭りではなく、わら人形や大きな紙人形を作るなど多様な要素が加わっており、小正月の行事でこのような特異な人形を燃やす例は、長野県内ではまれである。
長谷地区平では「オンマラサマ」と呼ぶ高さ2〜3メートルのわら人形を作り、越地区越では「オスガタ」と呼ぶ3メートルを超える高さのわら人形を作る。越地区東谷では「カンタサン」と呼ぶ高さ70〜80センチほどの夫婦二体の紙人形を作る。これらの人形の周囲に正月の注連飾りやダルマを積み重ね、夕方、点火し勢いよく燃やす。
三地区では、ドンドヤキの火で餅を焼いて食べたり、燃え木で沸かした茶を飲むことで風邪予防としたり、燃え木の火を消してから屋根に上げて火災除けの呪(まじな)いとしてきた。
かつては若い衆組が運営し、日待ちをしたというが、現在は親と子で行う集落行事となっている。・・・
このとんど焼きが巨大なマラ人形もとい藁人形に組まれてるということは円錐はそそり起った男根てより仁王立ちした男体と見なしたほうがよさそうだ。とすればとんど焼きが「さいの神」「おんまら様」と擬人化されてるのも長野県で「オスガタ」(雄形?)と呼ばれてるのも腰にあたる位置でち○こをあしらわれてるのもすべてつじつまがあう。
開催は13年ぶり!男根猛々しい巨大な藁人形「道楽人形」を燃やす奇祭が復活(2017年2月18日 な!ナガオカ)
https://na-nagaoka.jp/archives/5134
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全国各地のサイノカミ行事のなかでも「奇祭」と呼ぶにふさわしい祭りのひとつが、今年、なんと13年ぶりに復活を遂げました。
それが新潟県長岡市小国町の法末(ほっすえ)集落のサイノカミ、「道楽人形」。猛々しい巨大な男根がそびえ立った、人の背丈をはるかに超える大きな藁人形(道楽人形)を作り、燃やす伝統行事です。エロティックかつユーモラスな人形を燃やす様は、まさに「山奥の集落の奇祭」!
近年の人口減少にも負けず、法末に集落ができてから約500年もの間、脈々と受け継がれてきた伝統文化でしたが、2004年に中越大震災が起こり、遂に作ることを断念。しかし、一昨年、若者による山村活性化の取り組みのひとつとして、首都圏の若者が「留学生」として法末を訪れ、道楽人形の写真を発見したことが復活のきっかけとなり、途絶えてしまっていたこの祭りを、集落のお年寄りたちと、若者たちの手による共同作業で復活させる試み、「ムラビトになる旅」ツアーが開催されることになりました。
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朝9時から3時間もかけて作ったのに13時には点火というスケジュール。道楽人形の寿命はたった1時間。しかも、みんなお昼を食べに戻るので、完成した道楽人形と過ごす時間は10分〜20分くらい。
13時に総代の大橋昭司さんの挨拶で、道楽人形に深々と頭を下げて、年男、年女がそれぞれ点火をすると、あっという間に人形は炎に包まれます。
年男で点火をしたオノ君は生まれも育ちも東京育ち。「一生懸命作ったのに、一瞬で燃えていきました。はかなさを感じました」
年女・年男が点火します。写真左が年男のオノ君。
煙の方向の家が子宝に恵まれ、この煙やすすが体につくと、健康で幸せでいられるとか。
火が弱まったら、するめや餅を焼いて食べます。そうすると風邪をひかないと言われています。
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村人たちは、でき上がった道楽人形を神様とあがめて、潔く燃やします。道楽人形には、「男根」の角度が上だとか下だとか、面白おかしく、大変な作業をユーモアたっぷりに、みんなで協力して作り上げていく、昔からの知恵がありました。
医療も農業の技術もない時代は、無事で健康でいられること、豊作であることを切に願うことしかできなかった。だからこそ生まれた道楽人形。合理的で便利な暮らしからみたら、「面倒くさい」ことかもしれません。でも、合理的にいろんなものをそぎ落としたら、ギスギスした社会になって息苦しくなってしまいます。昔は集落の結束を強める役割も果たした道楽人形。2017年、今ここに、中山間地域と都会の若者を結び、復活しました。
上に引用した道楽人形はブランクが13年とそんなに長くなくやり方も原型をとゞめてるのだろうが復活させてるのが奇習ぷりをおもしろがった都会の若けーもんだっていうんだからやはり村の通過儀礼という意味をなしてない。相模原のせいの神おんまら様の御幣が倒れた方向に子どもができるように道楽人形も煙の方向の家が子宝に恵まれると伝わってる。
こうした藁人形は完成から1時間ほどで燃やしてしまう小正月のとんど焼きとしてだけでなく常設のさいの神(道祖神)も東日本には多く残ってるのだという。嫁つつきの掲示では「サエの神」「才の神」て書いてたが多くは要塞とかの塞と同じ「塞の神」の字を当てており疫病など悪から村を守るべくち○こだけではなく両手も広げてる。
秋田)疫病よけ祈願、昔も今も ワラ人形の道祖神(2020年6月13日 朝日新聞)
https://www.asahi.com/articles/ASN6D728NN5VULUC02B.html
秋田県内各地の村の出入り口に、「鹿島様」と呼ばれる巨大なワラ人形が立っている。昔から人々を疫病から守ってきたとされる道祖神だ。よそ者は入ってくるなと言わんばかりの姿が、県境の出入りに敏感なコロナ禍の現在と重なる。
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見上げる高さは4・5メートル、「通せんぼ」するように広げた両腕の長さは3・2メートル。頭にかぶった笠と、今年だけ特別に巻かれたマスク代わりの手ぬぐいで顔が隠れているが、よく見ると眉も目もつり上がった険しい表情をしている。
体の大きさもさることながら、異様なのがその男性器の大きさだ。長さ1・1メートル、直径25センチ。各地には女神もあるというが、この鹿島様は男神だとはっきりとわかる。
鹿島様は、邪悪な霊や疾病の侵入を防ぐため、村境につくられた道祖神で、秋田県北部や南部に多い。黒沢地区の鹿島様は江戸時代中期の享保年間、現在の岩手県にあたる場所にあった隣の集落で病が流行して多くの死者が出た際につくられたと伝わる。
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鹿島様の由来について、湯沢市三ツ村地区の説明書きにはこう記されている。
《約四〇〇年前頃、疫病である腸チフスが地域に蔓延(まんえん)し、困り果てて神頼みしたら「村の入口にワラ人形を作りなさい」と言われ、祭った結果、熱病の腸チフスから村を守ってくれた》
各地の道祖神を訪ね歩いている郷土史研究者の小松和彦さん(43)=秋田市=によると、鹿島様は地域によって「仁王様(におうさま)」「道祖神様(どじんさま)」などとも呼ばれる。
東日本を中心に各地にあるが、秋田が数も種類も最も多く、今も100体以上が存在するという(面だけのものや石でつくられたものを含む)。江戸時代後期の紀行家・菅江真澄の著作にも登場する。
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この手の神事というか珍事を検索してて秋田や新潟がやたら引っかかってくるのは米どころで藁が豊富だったゆえなのだろうか。上記引用の鹿島様にしてもどんど焼きの道楽人形にしても大味でいながら毛をちゃんと黒く作ってて嫁叩きの棒も先ちょをフサフサにしてる例が多いのだからVIOの世では邪魔者でしかないち○毛にもそれなりのいわれがある氣がした。
龍神社の雨乞伝説(鹿島)
https://www.ritoumeguri.com/experience/29210.php
昔、高縄城主・河野通信が海上安全・五穀豊穣の守護神として玉理・寒戸島に龍神様を祀ったとの伝説があります。1955年頃現在地に遷宮しました。以前は、龍神様への雨乞いは盛んに行われ、鹿島山頂はその雨乞いの斎場であったといいます。この雨乞いは、全裸の若者たちが男根を藁でしばり、首にかけ、火のまわりを駆けまわると必ず雨を得るという奇習のため禁止されたと言われ、今では単なる伝説となっています。
しかし鹿島男根藁で検索したもんで愛媛県の鹿島神社で昔やってたって伝わるち○こを藁でしばった全裸男の雨乞いまでもが引っかかってきた。さすがに奇習ぷりもこゝまでいくと無形文化遺産として保存しようという声も出ないだろう。
【重要無形文化財】秋田県にかほ市「上郷の小正月行事」(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=YRoID6lq5No
秋田の嫁つつきで子供組が木彫りのち○こ抱えて新婚さんの家に押しかける動画があった。どの動画や画像も嫁はみんな晴れ着でフカフカ座布団に正座してるなどちゃんと形式にのっとってやってるらしい。
前方にち○こを置き男児が座布団を囲んで「初嫁出せじゃ」「つっつくは今じゃ」とか唄ってると嫁が出てきて再び同じことを唄い出すというのがその流れである。消火器よりも大きなち○こが「嫁つつき棒」として祀られてたのを見ると、こんなのでつゝかれるとはどんな辱めなのかと戦慄するけども、じっさいには初嫁棒と呼ばれる細い杖で畳をつゝいてた。
ち○この有無や家の中と外でやってる違いこそあれ新婚さんの家に押しかけてきた子供組が嫁出せと歌いながら杖で下を突くとこまで九州の孕め打ち(ダセチッ=出せ突き)と共通してる。秋田と鹿児島でこんだけ似たよなことやってるんだから子どもたちのち○こを意味する棒で突いて餅をもらう小正月行事がかって全国にありふれてたことは確かだ。
子宝願い、新妻の尻たたき 福岡県春日市で6年ぶり(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=JbTQLBWuDHE
新婚夫婦の子宝を願い、子どもたちが新妻のお尻を棒でたたく奇習「嫁ごの尻たたき」が16日、福岡県春日市の小倉地区であった。小正月の行事として地域に根付いてきたが最近は参加希望者が少なく、6年ぶりという。
YouTubeにあった福岡の尻叩きも小正月に子どもたちが晴れ着の新妻を虐めてるのだから明らかに趣旨は同じなんだけどち○こを意味する棒が杖よりはホウキに近く叩きといっても先ちょでちょんちょんしてるだけだった。本来は子供組って若者組の子どもヴァージョンだろうに女の子が中心になってるのはせめてもの人権に配慮してるのだろうか。
元服(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%9C%8D
元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。
・・・江戸時代以降は、衣装の変化により着物を着る事が多くなり、振袖を留袖にする袖留めの儀式も多くなった。また、制度的にも女子も元服と称されるようになり、武家と庶民において女性の成人儀礼となった。
実施年齢は階級により幅があり、武家の女子は13歳または初潮後に髪結いの儀式を行った。一方、その他の階級では18 - 20歳頃に引き上げられる事が多くなり、殆どが結婚と同時に執り行われた。あるいは未婚でも18 - 20歳くらいで行った。なお、庶民の間では、おませな幼い女子が引眉の真似事をする事も流行した。
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現代に存続・再現されている元服儀式
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滋賀県近江八幡市の祭り「左義長」では、17歳の男子を「元服若衆」と呼び、左義長に火をつける役目を命じられるが、火のついた藁苞を持った元服若衆が左義長に近づくのを他の若衆が邪魔をすることで至難を与え、左義長に火がつくまで続けられる[16]。
Wikipediaで元服儀式(≒成人式)として例にあげられてる滋賀県の左義長のやり方が野沢温泉の道祖神祭りによく似てるがけっきょく左義長もさいの神も鹿島様もおんまら様も道祖神には変わりない。火を使った危険な行事もしくは子どもや新婚さんへの虐め(脅し、水かけ、墨ぬり、放り投げ、尻叩き)のいづれも通過儀礼と仮定すれば旧成人の日が小正月なのは子供組の脱退と若者組への加入だった名残りと考えられ男だけでとんど焼きを運営してち○こがそそり起ってたりするのは学校のない時代に防衛や子作りといった男の仕事を教育する意味あいがあったと解釈できる。
富山県民話財団(2023年7月1日 X)
https://twitter.com/toyamakenchou/status/1674920836615241728
?北陸地方の農山村では、大正時代まで正月の十五日になると、子供らが新嫁のいる家を回り、男児の出産予祝としての「嫁祝い」を行った。(…)魚津市鹿熊や中新川郡立山町芦峅寺では、男の子たちが、前日に伐ってきた勝木(ヌルデ)を上と下からけずり、ケズリバナを鍔にした六十センチから九十センチ(→
富山県民話財団(2023年7月1日 X)
https://twitter.com/toyamakenchou/status/1674920841094782976
ほどの長さの木刀をつくった。これをオモキ棒、ハラメ棒といい、刃の部分に倉のカギや小づちの絵柄を墨で描く。芦峅寺文書によると、この棒は陽木、おもきもきと呼ばれ、男性のシンボルでもあった。この棒を持った男の子十人ばかりが一団となって「おもきもき、こもき、メロ(女性)産みゃへんつぶせ(→
富山県民話財団(2023年7月1日 X)
https://twitter.com/toyamakenchou/status/1674920845544931328
、男産みゃタンマノ子」とはやしながら「ココナショ、嫁たたきに来たぞ」といって新嫁のいる家に入ると、その家では、赤ん坊を背負った子供には赤ん坊の分までお金を与えたものである?富山伝承遊びの会(1975年).こども遊びの四季.pp.20-21.
「ナマハゲ」が各地でそれぞれに「ナナミ」だとか「ナゴメハギ」「アマメハギ」「アマミハギ」になったりするよに富山のあるところで大正時代までやってたという「嫁祝い」もようは「嫁つつき」「孕め打ち」と同じ小正月行事だった。上記引用ポストによりますと参加するのはやはり男児でち○こを意味する棒は「オモキ棒」「ハラメ棒」「陽木」「オモキモキ」と呼ばれており嫁を叩くのみならず「女児が生まれたら目を潰す」と脅してまでいる。
女児の誕生が歓迎されてないのと子供組や若者組が男衆だけで構成されてる意味合いは同じだろう。人身御供がたいてい女だったり大黒様にえちえち大根を供えてたりすることからも力の劣る女は人間というよりも産む機械であるとともに神や男への献上品にすぎなかったのではないかという私の見立てもあながち間違ってはいまい。
原のおかたぶち 新しい仲間を迎え入れる歓迎の儀式 県指定無形民俗文化財 【川上村】(八十二文化財団)
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/legend/detail/01/post-22.php
道祖神習俗の流れをくみ、毎年1月14日に行われる嫁祝いの儀礼習俗で「かんがりや」とも呼ばれる。「おかた(お方)」とは嫁に対する最高の敬称で「おかたぶち(お方椽)」といえば、嫁がその家に嫁ぎ、占有した座をいう。おかたぶちの対象となるのは、前年1月15日より当年1月14日までの一年間に嫁入りまたは婿入りのあった家である。
行事に参加するのは、小学校1年生から6年生までの男子で、6年生が親方、5年生以下の子どもたちが家来と呼ばれる。
1月14日、各戸から注連縄や松飾りを集め、夕方までにお仮屋をつくりあげる。夕方、親方は家来を引き連れてお仮屋前へ整列し、神官のお祓いを受ける。続いて、御幣を持った親方を先頭に、一行は新嫁の家へ向かう。家では新嫁と付添い人が晴れ着を着て茶の間の表に向かって座り、一行を迎える。子どもたちが家に着くと、一番家来は太鼓を打ち「おかたぶち」と大声で言う。親方は、各々御幣を持って茶の間へあがり、嫁に向かって着座、黙礼して立ち、御幣を振りながら嫁のまわりを3周歩いてお祓いをする。以前は、御幣で嫁の尻を叩くこともあった。この御幣は、嫁を多産にする呪力をもつとされ、嫁叩きは、子授けのまじないであるとともに、新嫁がこの村に加入する儀礼でもあったと考えられている。
お面で仮装した子供組が新婚さんの家に押しかけて高額の祝儀をせびる富士吉田市の道祖神オカタブチ講と同じオカタブチと呼ばれる小正月行事が長野にも伝わっててこれまた御幣で嫁の尻叩いてたって書いてる。「オカタ」は嫁のことだがオカタブチは嫁を打つという意味だったりなかったり諸説あるようだ。
原のおかたぶち(信州デジタルコモンズ)
https://www.ro-da.jp/shinshu-dcommons/others/01DD001H210012
オカタブチは嫁尻を叩くのをやめたようで動画を見ると子供組は御幣で壁に垂れ下がった書初めを叩き落としてた。書初めといえばとんど焼きで燃やす代表例でもあり墨を顔に塗りつける行事も小正月には数多いのだがこの地域ではとんど焼きのことを「かんがりや」て呼んでる。
年中行事覚書 柳田国男
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/53812_50600.html
おかた逐出し(二月九日)
これは陸中下閉伊地方でいうことで、他にはまだ類例を知らない。二月九日は嫁が親里へ還って、一日ゆっくりと遊んで来る日で、家ではおまけに御馳走をして出して遣るのだが、土地ではこの日をオカタボンダシと呼んでいる。オカタは御方すなわち嫁のことで、それを追出す日といつの頃よりかいうのである。昔は女房をこの日でないと離縁し得なかった。この日追出された者は、どんなに詫び言をしても許されなかった。だから御方がほしければ二月九日の晩、四つ辻へ行けば幾らでも見つかったそうだなどというのは、後々言い始めた戯れの説明にちがいない。十二月の九日を大黒様の嫁迎えと称して、二股大根などを供えて祭をすることと、根原に何か関係のあることではないかと思う。
二月九日は東北ではヤサラと称して、八つの皿に濁酒などを注いで神を祭る日であり、あるいはまたこの日を女の悪日という処もある。いわゆるおかたが問題になる日は、正月十五日の尻はり尻つみ以外にも、五月四日の女の夜などがある。京都民俗志には棚おろしといって、暮の大晦日の夜一年中の小言を、ためておいて言う風習があったことを記している。同じ下閉伊地方でも、正月十六日の早朝、嫁が寝ているうちに蒲団を剥いで、丸裸にして尻を打ったという。それも単なる話らしいが、この日をイロハギというのは意味がありそうである。イロは婚礼と葬式の日に、女が着て出る晴着のことで、蒲団や寝間着のような尋常のものでない。
柳田國男の年中行事覚書にも「オカタ」が問題になる日として正月15日の尻はり尻つみをあげてた。ここでは工藤紘一の「聞き書き岩手の年中行事」で読んだ1月15日の晩から16日の早朝にかけて若者組が10人ほどで押しかけ夫婦の布団をはいだり寝ている布団ごと家の外に運び出す新婚さん虐め「イドハギ」が「イロハギ」として言及されている。
イドハギのイドが何を意味するのかわからなかったんだけど上記引用を読むかぎりイロはどうも晴れ着のことらしい。つまりイロハギは晴れ着剥ぎであり嫁が寝ているうちに布団を剥いで丸裸にして尻叩いた(村の男衆が?)っていうんだから数ある小正月の新婚さん虐めの中でも鬼畜ぷりがきわだってないか。
おーいおいどん(1月16日 X)
https://twitter.com/mmoidon/status/1747133062117544058
ハラメウチ(孕め打ち) ハラメユエイ(孕め祝い)・ヨメジョユエイ(嫁様祝)・ヨメゴダセ(嫁御出)・シリウチ(尻打ち)など有。
ハラメ棒というケズリカケの棒や黒白の巻き模様のついた棒を持って花嫁の家を訪れ花嫁の臀を叩く。「ハーラメ、ハラメ」ご馳走や餅を貰う。教育上どうかで少なくなったとか?
「嫁つつき」「嫁叩き」「尻叩き」「嫁祝い」「尻祝い」「尻打ち」「じご打ち」「孕め打ち」「こっぱら叩き」以外に「孕め祝い」「嫁様祝い」「嫁ご出せ」といったヴァージョンもあるそうだが総じて「嫁」「尻」「孕め」「出せ」「叩き」「打ち」「突き」「祝い」あたりのカスタムだった。いかなる名前であれ「嫁を出せ」と新婚さんの家に押しかけてきた子供組(来訪神、道祖神)が寄ってたかって「孕め孕め」って言いながらち○こを意味する棒で尻や地面を叩いて菓子もしくは祝儀を獲得する流れから大きくはずれてないはずだ。
おーいおいどん(1月16日 X)
https://twitter.com/mmoidon/status/1747094903644176583
「小正月の晩」・・大体に於いて小正月は子供の日と謂ってもよい。彼らは道祖神の神主として、御幣即ちドンドの管理者として、又烏追小屋の主人として、常には持たぬ自由を認められていたのみならず、多数集まって・・・花嫁の臀を打ちに来た。そうして貰わぬと実がならぬように考へれていたことは
おーいおいどん(1月16日 X)
https://twitter.com/mmoidon/status/1747094905196060933
果実も同じである。その時の唱へ唄へ詞も自由な物であった。この風習は後世に始まったものでは無いことは證據がある。尻を打つにはほぼ一定した長さの棒があった。その古い名が粥杖であったことは単なる遊戯でないことを思はしめる。・・
柳田國男「新たなる太陽」を読む。小正月行事が興味深く面白い
柳田國男が言及してる果実も同じ〜のくだりはおそらく「成木責め」のことで嫁を叩いて子どもを作らせるよに小正月には柿や栗の果樹にまで実をつけなければ木を切るなどと脅し叩き虐めていた。幹に傷つけてできたわれめに小豆粥を塗りつけるのだが嫁叩き棒も粥杖だったのをふまえると粥を精液に見立ててた可能性はある。
東京ダイナマイト・ハチミツ二郎 舞台で松本人志イジり「許してやってください。全員やってます」(1月21日 東スポWEB)
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/289627
ハチミツ二郎(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%81%E3%83%9F%E3%83%84%E4%BA%8C%E9%83%8E
2017年8月18日、東京都千代田区のプロレスショップ闘道館で会見を開き、大仁田厚と電流爆破デスマッチで対戦することを表明した。対戦に至った経緯について「およそ20年前(1997年頃)、当時週刊プロレスの編集長を務めていたターザン山本の糞付き下着を天敵である大仁田のもとへ持っていくというロケを行った際に「責任者は誰じゃ」と激怒した大仁田をみて思わず、「私です」と言ったところ、今では刑事事件になるくらいボコボコにやられた。10月に引退すると聞いて大仁田を一発ぶん殴りたい」と語った。10月7日に神奈川・鶴見青果市場で行われた「ノーロープ有刺鉄線電流爆破&有刺鉄線電流爆破バット ストリートファイトキャプテンフォール イリミネーションデスマッチ」で対戦し、3度の爆破を受け、敗れるも、試合後には「Yahoo!コメントになぁ、茶番だなんだ書き込んだやつら、お前らにこれが出来るのか! 死んだかと思ったよ」と電流爆破の神髄を味わった恐怖を語った。そして「10代の頃、川崎球場で大仁田厚の電流爆破を一番後ろの席で見ていた。25年たって、やってやがってる。西口プロレスの挑戦を受けてくださって感謝します。大仁田さん、ありがとうございました」と頭を下げた。
「セックスと障害者」「性風俗シングルマザー」「男性の性暴力被害」「トランスジェンダー入門」「LGBTとハラスメント」「差別は思いやりでは解決しない」「小山田圭吾のいじめはいかにつくられたのか」などサブカル村の必読書を集英社とイーストプレスで手がける編集者の過去作品を見てたらその多くがプロレスにかんする本だった。そのうちの1つである集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」の著者である水道橋博士の指令で集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」の著者であるターザン山本のう○このついた下着をハチミツ氏が大仁田厚に持ってってて刑事事件になるほどにボコボコされるという暴力沙汰が1997年に起こり20年後には有刺鉄線で体を引き裂かれ2度爆破を受け電流爆破バットを食らってたデスマッチに集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」の著者である水道橋ターザン両氏だけではなくNHKの虹番組でコンドームだったマキタスポーツもかけつけてる。
https://www.amazon.co.jp/dp/4087212807
電流爆破で見せた芸人魂──ハチミツ二郎が大仁田厚と因縁デスマッチで燃えた!(2017年10月19日 週プレNEWS)
https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2017/10/19/93427/
10月7日、鶴見青果市場において大仁田厚と東京ダイナマイトのハチミツ二郎がノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦。会場には多くのファンのほか、芸人の水道橋博士やマキタスポーツ、元『週刊プロレス』編集長のターザン山本など、“訳あり”な面々が詰めかけた。
・・・試合は終始、大仁田のペース。だが、ハチミツは有刺鉄線で体を引き裂かれ、2度爆破を受け、電流爆破バットを食らっても、最後まで大仁田に食らいついた。
上の記事には出てきてないけどこの試合には浅草キッドとマネージャが同じだという芸人のプチ鹿島もみにきてた。鹿島氏が集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」の著者である香山リカのパートナー斎藤文彦と共著した「プロレス社会学のススメ コロナ時代を読み解くヒント」ももちろん集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」ほかサブカル村の必読書を多く手がけた編集者が担当してる。
https://www.amazon.co.jp/dp/4834253538
プチ鹿島 大仁田厚 VS ハチミツ二郎戦の意味を語る(2017年10月14日 miyearnZZ Labo)
https://miyearnzzlabo.com/archives/45465
・・・
(プチ鹿島)他の方からの「このメンバーがこの地に集まるなんて、本当に同窓会だ」みたいな感じのTwitterが上がっているんですよ。これ、たぶんその意味がわからないと思うんですよね。なぜか?っていうと、約20年前、浅草お兄さん会っていうのがありまして。浅草キッドさんが、もう当時から売れてらしたんですけど。売れている最中、「行き場のない、でもお笑いが好きな若者たちの場を作ってやりてえ」っていうんで、浅草おかみさん会ってあるでしょう? それをモジッて、浅草お兄さん会っていうのをやったんですよ。つまり、どこの事務所に所属していない人を。
・・・(プチ鹿島)で、そこでハチミツ二郎とマキタスポーツがオフィス北野チャンネルっていうのがありまして。大仁田さんに挑戦状を持っていくというロケをしたんです。挑戦状っていうのは彼らのじゃなくて、ターザン山本さんっていう方が「大仁田と決着をつけてやろう!」みたいなことを言って。「じゃあ、ターザンさんの挑戦状を俺らが持っていくよ」っていう、まあ若手芸人ならではの若気の至り的な感じ。鉄砲玉みたいな感じのロケをするっていう。そういうロケがあったんです。
(塩澤未佳子)ええ、ええ。
(プチ鹿島)そしたら、大仁田さんが……まあ、カメラの前ですから。「ナメんじゃねえ!」っていうんで、引っ叩いたんですね。「いい加減にしろ!」って。まあ、プロレスラーの威厳ですよね。で、マキタさんも引っ叩かれ、ハチミツ二郎も引っ叩かれ。もちろんカメラの前で笑いとなってしばかれたんですけども……その後にハチミツ二郎はメキシコに行って、レスラーの資格も取って。好きなプロレスを、見るだけじゃなくてやる側にもなったんです。で、大仁田さんが今年、引退するからっていうんで、「引退する前に1度、大仁田さん。僕と戦ってください!」っていうんで、今回実現したんです。だから茶番でもお笑いでもなんでもないんです。「プロレス」なんです。
・・・
(プチ鹿島)そう。だけど、面白かったですね。だから最初、一列目で僕と博士さんが座ったんですけど、俺と博士さんってマネージャーが同じなんですよね。で、同じ時期、同じ時間帯にTBSでオールスター感謝祭がやっていたんですよ。で、「博士さん、僕ら2人、ここにいていいんですかね?」みたいな(笑)。僕、嫁にも言われたんですよね。「今日、オールスター感謝祭あるけど、そっちでいいの?」って言われて(笑)。って言ったら、博士さんが面白がっちゃって。「俺たちのオールスター感謝祭!」っていう。そしたら、マキタさんも猫も集まってきて。「ああ、本当に感謝祭になった」って。というか、同窓会ですよね。
(塩澤未佳子)へー!
(プチ鹿島)で、ターザン山本さんっていうのもいらしていたから。全部回収できたんですよ。
・・・
鹿島氏は自身とともにオフィス北野に所属してた時期があるダースレイダーと「劇場版センキョナンデス」を監督してて昨年ポレポレ東中野で上映されてる。センキョでポレポレ東中野てことはハチミツ二郎をAV男優にしたバクシーシ山下監督の部下だったペヤンヌマキ監督「○月○日区長になる女」と同じシリーズなのだろう。
【ダースレイダーPart1】フリースタイルと漫才の共通点とは/水道橋博士と語るYouTubeの可能性/ビートたけしのリズム感/NEWS RAP JAPAN【HIPHOP】 (YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=USt29Vd6kYY&t=0s
プチ鹿島『教養としてのプロレス』プロレス視点で全てを読み解く方法 荻上チキSession22(2014年8月16日 miyearnZZ Labo)
https://miyearnzzlabo.com/archives/19267
(プチ鹿島)そしたらおっしゃったのが、やっぱり電車の中で、隣の人がゲンダイを読んでいて、窓ガラスに写った見出しで隣の人が興味を持って買ってくれたらそれでいいと。要は、煽りなんですよね。アジテーターなんですよ。それって僕がまさしく90年代に見ていた活字プロレス。たとえば週刊プロレスの手法と同じなんです。偏ってるんです。ただ、偏っていることに対してはものすごく熱が発生するんで。だからゲンダイ師匠に対しては、まったくアンチではなくて。こんなに偏って、熱くて、毎日怒っているおじさんがいますよ!っていうのをとにかく世に広めたかったんですね。それはかつての週刊プロレスの異様な熱。これ、ちゃんとした人が読めば、なんでこんな偏った意見を毎週書いているんだ?と。
(荻上チキ)はいはい。
(プチ鹿島)特にプロレスっていうのは結果を。スポーツとは微妙に違いますから。じゃあなにをこの試合で感じたか?とか、自分はこう見たぞっていうのを週刊プロレスは当時、伝えていたんです。主観を。あり得ないじゃないですか。
(荻上チキ)物語をね。
・・・
(プチ鹿島)それって、最近よく聞く『メディア・リテラシー』と。僕ら、週刊プロレスとか週刊ゴングとかの読み比べで。東スポもそうなんですけど。むしろ行間を読んで、なんかこう、サラッと書いてある方に実は真実が見え隠れしている。じゃあもう一誌読もう!っていう。リテラシーっていうのはなぜかプロレスマスコミで僕は習ったと思うんですよ。
ポリアモリーでおなじみの荻上チキのTBSラジオに出演したさい週刊プロレスをはじめとする活字プロレスでリテラシーを自認した上記引用の文字起こしを読みマキタスポーツ著「一億総ツッコミ時代」に香山リカと通ずる違和感をおぼえたことを再び思い出した。小山田しばき旋風を経由した今ふりかえってみると悪趣味とはバイオレンスのどこまでがガチでどこまでがきつい冗談なのかを煙に巻く軽やかさにオシャを見出してたのではあるまいか。
たゞ平成初期をリアルタイムとして覚えてる身からすればそのころの冗談がきつかったのはサブカル村にかぎったことではなく松本しばき旋風で掘り起こされてる古のハレンチコントにしたってガチで怒ってたら「マジメか(笑)」とおちょくられるだけだったろう。むしろ冗談ひとつ通じぬマジメ=ガチ(お勉強一筋)なほうが内ゲバや反日武装戦線みたいに暴走して危ないってのが70年代半ばに発明されたリテラシー=軽チャー(ハレンチやプロレスといった俗悪もわかってる)だったのであり活字プロレスの先駆者とされる「私プロレスの味方です」(1980)の村松友視を見出した糸井重里もほっこり系にトランスしたけど本当は逮捕されるレベルの過激派で両氏はともに昭和軽薄体とか呼ばれてた。
https://shop.yubisashi.com/products/detail.php?product_id=16
新風舎文庫 私、プロレスの味方です(紀伊国屋書店)
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784797490732
内容説明
直木賞を受賞した著者の、一九八〇年発表デビュー作。プロレス本乱立時代に終止符をうつべく今、再び文庫化。二六年間に渡りプロレスを見てきた著者が提唱する三二項目にも上る新しいプロレスの見方が、多くの読者を魅了。プロレス本の元祖とも言える本書は当時のベストセラーにも輝き旋風を巻き起こした。競技と演技が結びついた不可思議な魅力といかがわしさに彩られたプロレスに、独特の理論と思想を付着させ、プロレスの面白さと奥の深さを徹底解明した、傑作エッセー。
目次私、プロレスの味方です
ジャンルに貴賎なし、されど…
プロレスとはプロのレスリングではない
ルールこそ八百長である
ルール対反則の限りなき抗争
勝敗と強弱はまったくちがう
凶器と武器の微妙なカンケイ
日本はプロレスの先進国だ
プロレス会場には人生がある
ロラン・バルトよ、さようなら〔ほか〕
【村松友視Part2】アントニオ猪木とのパキスタン遠征秘話/水道橋博士も納得!「プロレスとは●●である」/糸井重里、赤瀬川原平…1980年当時の出版カルチャーを語る【私、プロレスの味方です】(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=n6fVtB7RRxs
この本は読んだことないけど同じシリーズから出てた関川夏央の「ソウルの練習問題」が「カンケイ」「ヘンタイ」「そーゆーコト」みたいに書くノリで氣になってた記憶がありじっさいこうした文体は1980年代初めに大ハヤリしたのち秒ですたれたと思われる。当時の時代背景をいうとフジの軽チャーに代表されるパロディや楽屋落ちと同様スポーツもまたいしいひさいち「がんばれタブチくん」(1978)江本孟紀「プロ野球を10倍楽しく見る方法」(1982)フジテレビ「珍プレー好プレー大賞」(1983)など試合そのもの(ガチ)を相対化するリテラシーが確立されだしてた。
ターザン山本(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%B3%E5%B1%B1%E6%9C%AC
1980年にベースボール・マガジン社へ移籍する。1987年、「週刊プロレス」の編集長に就任し、のちには「格闘技通信」の編集長も兼任、“活字プロレス”、“密航”などの流行語を生む。また「週刊プロレス」の発行部数(公称40万部)を背景に、新興団体SWSに対するバッシング・四天王プロレスの評価・インディ団体FMWのプッシュなどを行い、プロレス界に大きな影響を与えた。なお山本は後に、全日本プロレス代表・ジャイアント馬場から金銭を受領しその見返りとしてSWSを批判していたことや[2]、SWSの創設者・田中八郎から「週刊プロレス誌上での批判を一切行わない」という見返りとして1年間に渡り月50万円以上を受領していたこと、FMWの看板レスラー・大仁田厚から30万円の裏金をもらって「週刊プロレス」の表紙にしていたことなどを著書において告白している[3][4]。
・・・
以後、フリーランスのライターとして複数のプロレス・格闘技雑誌に携わり、そのキャラクターを買われてテレビ・ラジオのメディアにも幾つか出演した。ビートたけしと浅草キッドがパーソナリティを務めたラジオ番組の「冗談企画」で『ビートたかし』の芸名を貰い、同名義で活動していた時期もある[5]。2002年秋ごろより太田プロダクションに所属。2005年からターザン山本!(! を付加)と名乗る。2006年から2009年にかけて、当時のパトロンであった山崎二三代からの出資を受けて「有限会社ターザンギャルド」を設立。その代表取締役となり講演活動および文章講座の運営にあたった。
集英社新書「アントニオ猪木とは何だったのか」の著者であるターザン山本もオフィス北野ではないけど太田プロに入ってたりビートたけしと浅草キッドにビートたかしって芸名をつけられたりしてる。バブル期に山本氏が編集長を務めてた週刊プロレス誌はデスマッチで成功してたFMWをプッシュしてたのだそうでけっきょく有刺鉄線とか電流爆破バットもAVやインディーズバンドのゲロう○こ趣味と地続きだったということではあるまいか。
https://wp.bbm-mobile.com/sp2/EBook/Detail.asp?mi=1589
大仁田厚 FMW(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%81%E7%94%B0%E5%8E%9A_FMW
『大仁田厚 FMW』(おおにたあつし エフエムダブリュー)は、1993年にポニーキャニオンから発売されたスーパーファミコン用ゲームソフト。
概要かつて存在していたプロレス団体「FMW」の協力のもと作成された。数々のデスマッチで悪の団体SMWを迎え撃つ。
ゲームの監修を放送作家の高田文夫、お笑いコンビの浅草キッドが担当している。
天才テリー伊藤対談「大仁田厚」(3)実現できなかった馬場・猪木戦が…(2017年12月22日 Asagei plus)
https://www.asagei.com/excerpt/94892
大仁田 何言ってるんですか、今の俺があるのは「元気が出るテレビ!!」のおかげですから。「炎の大仁田 涙の男塾」っていうコーナーを任せていただいたおかげで、他のバラエティー番組にも出演することになりましたからね。
テリー あれがきっかけになったのかもしれないけど、やっぱり大仁田さんの個性が強力なんですよ。
プロレスの影響力はおそらく団塊ジュニアぐらいが最終世代で私はそれより下というかそもそもジャイアント馬場とジャンボ鶴田と読売ジャイアンツの区別がついてないレベルでスポーツ観戦してない(親は見てた)。それでも地上波さへじゅうぶんに悪趣味だった平成初期を思い返してみるとたけしの元気が出るテレビのおかげもあり大仁田厚のデスマッチはよくとりざたされ浅草キッド監修でファミコンまで出てた。
たけしプロレス軍団(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%97%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9%E8%BB%8D%E5%9B%A3
概要
1987年にラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』の企画から生まれた企画で、ビートたけしを首領とし、たけし軍団も参加している。
歴史
端緒たけしが、当時懇意になりつつあった東京スポーツの紙上(1987年9月8日付け)で、「プロレス団体設立」をぶち上げたのが発端となった。設立についてたけしは「オイラがプロレスファンという事もあるけど、最近のプロレスに感じられなくなった。力道山時代の熱気を、ぜひ取り戻したいと思った」と語り、手駒の選手を育てたうえで、「手始めにアントニオ猪木に挑戦したい。何といっても日本でナンバー1のプロレスラーだから」と、その目標を明らかにした。
東京スポーツは以後「ビートたけしプロレス大挑戦」と題した密着ルポを始めるなどして、TPGの煽り役を担った。しかし、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に於いて、総合演出のテリー伊藤が中心となって発案した、全日本プロレスの協力のもとコーナーを設けていたが立ち消えとなった「プロレス予備校」[1]の焼き直しではないかとの疑問が呈されていた。
・・・
たけし軍団もグレート某とかラッシャー某などプロレスラーの名前をもじっててテリー伊藤および元気が出るテレビは東京スポーツとたけしプロレス軍団も作ってるが伝説に残る大失敗したとネットには伝えられてる。東スポがビートたけしを編集長に招いてた連載は宝島社で書籍化された。
宝島sugoi文庫 たけしの「オイラが東スポ編集長!」
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784796666121
内容説明1991年の4月、突然「東スポ」の客員編集長に任命されたたけし。どういういきさつでそうなったかは「まえがき」に詳しいが、月一回、東スポの紙面にたけしの毒舌があふれ、読者は大喜び。約百回分が1998年に『たけしの「号外」!!』(洋泉社)という本にまとまったが、東スポの連載企画は以後もずうっと続いている。たけし自身の大怪我もあり、阪神大震災、オウム事件など、大きな事件が続いた90年代は、こんな時代だった。
目次たけしが今日から本紙編集長に就任
たけし大予言 ジャニーズ事務所は崩壊する
勝新に麻薬渡した関西弁の中国人ってゼンジー北京じゃねえか
たけし汚名返上命令 なべやかん来春明大受験
銀座で乱闘 たけし梨元
大仁田とゴルビーは“殺される”
幸福の科学と講談社ガキの喧曄
たけし非情提言 勝新死刑
たけし構想 なべやかんボクサー転向
たけしやりたい宣言 ぎんさんに愛の助演女優賞〔ほか〕
勝新とか大仁田とかゴルビーとかなべやかんとかきんさんぎんさんとかいった平成初期みしかないもくじの中にいきなり「ジャニーズ事務所は崩壊する」って令和初期みがまぎれこんでて一瞬脳が混乱した。勝新とか大仁田とかゴルビーとかなべやかんとかきんさんぎんさんとかいった平成初期当時ジャニーズは光源氏とSMAPのあいだの空白期でこの低迷には本橋信宏、村西とおる、データハウスといった悪趣味系も少なからぬ影響を与えてたらしい。
中国・春節でのべ90億人が移動 海外旅行では日本が人気(1月16日 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/9d00f2e20357e1ddf42677a2e018eb1536678b09
中国で最も長い大型連休である「春節休み」に伴う移動で、過去最多の延べ90億人が移動する見込みであると中国当局が発表しました。
中国では、旧暦の正月にあたる春節の2月10日から2月17日まで8連休となり、多くの人が帰省や旅行で移動します。
・・・
旧暦では新月が朔日(ついたち)で15日が満月でさらに古い暦だと満月のほうが1日となり1月15日の小正月が旧正月よりもさらに古い正月だったということなのだろう。小正月の行事はいったん誰もやらなくなったのを戦後に復活させてる例がかなり多いなど存続が危ぶまれてるのは昨日今日の話ではないのだが先日Xで新しいマンションの方からのクレームで中止になったとんど焼きのポストが26000000回にもばづってた。
みんごす(1月14日 X)
https://twitter.com/MinGoshTek4/status/1746483404005396689
どんど焼き中止のお知らせ
やぐらまで組まれていたし、風もなかったんですがね…
お話を聞くと、新しいマンションの住人のかたから当日になって要請があったとのこと。事前に掲示もあったのになぜ…
伝統行事が行えないのは残念ですね #多摩ニュータウン
戦後の行事はクリスマスだったらチキン食べてエッチするとかバレンタインだったらチョコ食べてエッチするとかだいたいやることが全国的に決まってるのとは対照的に昔はテレビとかないせいか近い地域の中でも名前や日にちややり方が微妙に違ってる。それでもとんど焼きみたいに何かを燃やすとかお面やこじきのなりで仮装した子どもがトイトイとかカイカイとか言いながら餅をもらい歩いたりなまはげみたいに家にあばれこんできた若けーもんが子どもや新婚さんを虐めるなどある程度の共通点があって顔に墨を塗るのもそのうちの1つだった。
墨が作る一体感。みんなが一緒に楽しむ神事/片江の墨つけとんど(2014年1月14日 美保関)
https://www.mihonoseki-kankou.jp/2014/01/14/sumitsuke2014/
・・・
美保関町の片江にて2014年1月12日に「墨付けとんど」が行われました。250年前から続く歴史のある神事です。
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墨ができあがった瞬間から!不思議な非日常の時間が始まります。
住民、メディア、観光客を問わず全員に墨が付けられます。
・・・
最後は神輿を担いで海へ
新築した者、新婚の者、親當(世話役)たちが海へ投げ込まれます。今年も女性TVレポーターが投げ込まれました。。
・・・
上記引用した島根県松江市のとんどは墨塗りや新婚さん虐めも組みあわさってる。海と雪という違いはあれど遠く新潟県十日町でも墨塗りとともに新婚さんをほうり投げてた。
『むこ投げ・すみ塗り』伝統の奇祭「夫婦生活いいスタートを切れました」新潟県十日町(1月15日 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/23668449e7b3f19be32a8e354d21101d92c8215e
新潟県 十日町市 松之山地域に伝わる奇祭『むこ投げ・すみ塗り』が15日行われ、今年は2人のお婿さんが真新しい雪に向かって勢いよく宙を舞いました。
・・・
豪快な祝福のあとに待っているのは、正月に飾ったしめ縄や門松を燃やしたススを雪と混ぜて顔に塗りあう『すみ塗り』です。
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新婚さんをとんど焼きそのものに投げこむ例もあるようだ。もはや物を燃やすことさへまゝならぬゼロリスク社会でこんな危険きわまりない行事を今に伝えてるとは驚きに値する。
身焦がす「どんど焼き」火中に若者を投げ入れる行事、伊勢原に伝わる/神奈川(2011年1月5日 カナロコ)
https://www.kanaloco.jp/entry-81767.html
全国各地で行われる小正月行事の「どんど焼き」。その火の中に若者を投げ入れる行事が伊勢原市神戸(ごうど)地区に青年会行事として伝わっている。起源は明らかではないが、どんど焼きの火に当たると丈夫になるといった言い伝えにつながると考えられている。市文化財課は「県内では珍しい。同様な行事は聞いたことがない」と話す。今年も実施される予定で、関係者は「安全を考えており、これまでは大きな事故もない」と話している。
神戸地区では、毎年1月14日に各家庭の正月のお飾りや門松などで家の形をした「御仮屋」を作る。高さは約1・7メートルから2メートル。広さは3・3平方メートルほどで、日が落ちるころ青年会のメンバーが鈴川の土手に運んで燃やし、団子などを焼く。
火勢が弱まったころ10人ほどの青年会員が、仲間を担ぎ火の中に投げ入れる。対象者はこの1年に結婚したり子どもが生まれたりと祝い事のあった人のほか、新入会員や36歳になり退会する人などだ。
手ぬぐいで頭を守り、燃えにくい洋服を着せる。そろいの法被を着たメンバーが背中や足を抱え、「ソーレ」や「あぶれ」の声とともに、2メートルほどの高さの炎に一気に投げ入れる。毎年多少のやけどはあるが、不思議なことに、投げ入れられた人も「熱かったなー」ともらす程度だ。
・・・
記録が残っていないため、起源や由来は明らかではないが、火で焼いた団子を食べると虫歯にならない、体をあぶると丈夫になるといった、火に特別の力を認める考えに通じるとの意見もある。市文化財課は「火渡りなどの行者の行が伝わったのかもしれない」と推測する。
青年会長や自治会長を務めた柳川和男さん(62)は、親子3代が火の中に入った。自身も結婚、子どもの誕生など4回入った経験がある。「熱さはそれほど感じないが、髪の毛が焦げた記憶がある。伝統あるものだけに、これからも継承してほしい」と話していた。
小正月の新婚さん虐めは総じて村の通過儀礼というのがわが見立てだったんだが上記引用を読んでるとやはり「10人ほどの青年会」がかっての若者組(来訪神いうところの大ナナミ)で新婚や子宝といった新しい世帯を迎えるほかには会への加入時や脱退時にも火の中に投げ入れられてる。なまはげのよな子ども虐めもまた同様に村の一員(小ナナミ、子供会)として認めるための試練を意味してたろうことは「悪い子はいねがー」という脅し文句にもあらわれてるというものだ。
若者組(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E8%80%85%E7%B5%84
若者組(わかものぐみ)とは、伝統的な地域社会において、一定の年齢に達した地域の青年を集め、地域の規律や生活上のルールを伝える土俗的な教育組織である。若者衆、若者仲間、若者連中など、また集まる場所を青年宿、若衆宿、若者宿、若勢宿、寝宿、泊り宿、若宿、おやしょ、若イ者部屋、小屋など[1]、地域によっても様々の名称がある。類似の風習は日本のみならず、世界各地の伝統社会に存在する。
近世において、地域社会の構成員を教育する場として確立したと考えられ、地方では明治以降も多く引き継がれていたが、公教育の普及や、戦後の都市への人口流出による農山漁村部の青少年人口の激減に伴い、衰退・消滅していった。
加入と脱退
若者組への加入・脱退の決まりは大きく2つに分けられる。 1つは、その村の男子全員が加入するというタイプで、多くの場合は結婚を機に脱退する。もう1つは、各戸から1人(長男)だけが加入するというタイプで、多くの場合、結婚ではなく一定の年齢に達すると脱退するというものであった。
いずれの場合も、一定年齢(10代半ばくらい)に達すると加入する。若者組を卒業したものは、地域社会で一人前のメンバーという事になる。加入や卒業の際に、厳しい試練を課する事もあった(加入儀礼)。イスラム社会では、通過儀礼として割礼が施される地域もある。
活動年長者がリーダーとなり、後輩たちに指導を行った。若者宿、若衆宿などといわれる拠点があり、そこに集団で寝泊りする場合も多かった。村内の警備や様々な作業を行ったり、共同で集まり親睦を図った。特に祭礼では、若者組のメンバーが子供組を指導して中心的に運営を行う場合が多かった。また交際上必要となる飲酒・喫煙の指導、さらに村内の恋愛、性、結婚を管理する側面を持ち、リーダーが各自に夜這いを指示して童貞を捨てさせることも行われた[2]。男性の若者宿に対して同じ年頃の女性が集まる娘宿の存在する地域もあり、この場合、双方の交流によって結婚相手を探すという意味があった。
衰退
明治以降、教育勅語に基づく全国的に統一かつ組織化された青少年教育の必要性が自覚され、また夜這いの風習などが、西洋の思想の影響を受けた教育者などから前近代的な因習として倫理的な批判を受け、若者組は衰退していった。地域によっては青年団などに再編され、現在もその名残を保っている。
墨塗り、むこ投げやってた十日町では火祭りを「さいの神」って呼んでるらしいが同じ新潟県でもところ変われば「オーマラ」は子どもたちが家々をまわって集めたわらを燃やすなどとんど焼きとはちょっとばかり勝手が違ふ。それにくわえて火がついたたいまつで頭をたたきあうっていうんだからもはや物を燃やすことさへまゝならぬゼロリスク社会でこんな危険きわまりない行事を今に伝えてるとは驚きに値する。
450年以上続く西横山の小正月行事「嫁祝い」「オーマラ」(1月17日 上越妙高タウン情報)
https://www.joetsu.ne.jp/238333
・・・「嫁祝い」は、西横山集落に嫁いで初めて正月を迎えた花嫁が、集落の子どもたちから祝福されるものです。今年は地元の西横山集落出身と、市内出身の2人の女性が参加しました。このうち、西横山集落出身の女性は去年の夏に結婚しました。女性は子どものころ「嫁祝い」に参加して祝福する側でしたが、今回は自分が祝福される側となりました。子どもたちが祝い唄を歌いながら花嫁を囲み、太刀に見立てたヌルデの木の棒打ち鳴らして子宝を願いました。
少子化の影響で集落には子どもがいないため、行事には少なくとも8年以上前から地元 谷浜小学校の児童などが協力しています。西横山出身の女性は地元たにはま保育園で働いていた経験があり、児童の中には教え子もいました。
・・・
夜は、行事を締めくくるさいの神「オーマラ」です。集落の男性たちがワラで作られた高さ6メートルのオーマラの周りを、「オーマラ、オーマラ」と声を上げながらたいまつを振り回して頭を叩き合います。オーマラは男性のシンボルとされ、子孫繁栄や五穀豊穣などの願いが込められています。
・・・
西横山地区の「嫁祝い」は虐めではないものの意味するとこは同じで本来は村に嫁いできた花嫁を迎えるはずが記事を読むかぎりでは他に嫁いでいった花嫁がわざわざ帰ってきてる。むこ投げの新婚さんも親が出身者って言ってたりあとは観光客が記念で奇祭に参加するとかいう趣旨になってるようでもはや過疎や少子化の世では何らの通過儀礼になってない。
上越タイムス「西横山集落オーマラ」記事(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=3-mWGXRZPDo
この動画は大人が子どもに叩かせてるだけでオーマラもまわりの人の声援的な感じだけど若けーもんがヘルメットかぶってオーマラオーマラ!て叩き合ってるのはゲバ棒で暴れてる昭和の左翼のごとしだった。普通に火花も散っててヘルメットや耐火素材がなかった時代にこんなことして大丈夫だったんでしょうか。
なおオーマラは読んで字のごとく子孫繁栄のことだそうで十日町と同じくとんど焼きを「さいの神」て呼んでる山北地区ではとんど焼きというかち○こ焼き(玉付)だった。でもちゃんと餅とか焼いてるまでは同じなのだから一般的なとんど焼きも三角にそそり立たせてるってことはち○このつもりなのだろう(端午の節句に食べるちまきも三角棒)。
山北地区の板貝集落でユニークな「さいの神」を発見!(珍風景番号21)
https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/murakami_kikaku/1326747672571.html
1月15日は旧暦の正月にあたる小正月です。
小正月には「さいの神」「どんど焼き」と呼ばれる、ワラや竹で組んだやぐらのような物に火を付け、豊作や集落の無病息災を祈る行事が各地で行われます。
「さいの神」のやり方は、その地域によってさまざまですが、名勝「笹川流れ」の中ほどにある板貝集落(村上市山北地区)では、手作りの御神体をお供えし、子孫繁栄を願って燃やすというちょっと珍しい「さいの神」が行われています。写真が、平成24年に開催された「さいの神」の様子です。
真ん中にニョッキりと見えるのが御神体です。御神体は山から切ってきた松の木を鉈(なた)で削ってつくるそうで、その作業が難しく、現在板貝集落でこれをつくることができる職人は1人しかいないそうです。約700年の伝統があると言われる板貝の「さいの神」ですが、高齢化が進み、今後同じような形で続けていくのはなかなか厳しいと、集落の総代さんは話してくださいました。
ところで、どうして御神体がこれなのか 板貝集落は昔から山の恵みに支えられてきた集落で、山の神様は女の神様であることから、御神体をお供えして神様のご機嫌をとったと伝えられているそうです。う〜ん、なるほど!
秋田県でもにかほ市上郷地区で「さいの神」と称してち○こ焼きしてるのは村上市山北地区と同じで下記引用でやり方を読んでるととんど焼きのみならず小ナナミに相当する子どもの訪問神や嫁つつきとかいう新婚さん虐めもいっしょくたになってる。ふつう訪問神は餅をもらうのに藁馬とかしめ縄を持ってってるけど上郷地区のさいの神は木彫りの大マラだった。
シンボルが家にやってくる!大森の小正月行事
https://dosojin.jp/blog/15913/
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先頭の子供が持っているのはサイノカミのご神体(長さ約45センチ)。「鳥追い」はこのサイノカミと子供たちが各家々を周る行事でもあるのです。「嫁つつき」の時は、このシンボルを女性の前に投げ出してから、杖で突くのだそう。
集落の端から一軒ずつ子供たちが訪問。玄関にサイノカミを置き、ゴロゴロと3回まわすと、家の人が拝礼して、子供たちに餅やお菓子を渡します。その時に子供たちが唄う「餅もらいの唄」の歌詞は「ナマハゲのぽっぽらぽう てんくのそのにぎにぎ 餅くれ餅くれ」。『村を守る不思議な神様2』のあとがきにも書いた能代市荷八田のサイノカミ行事(現在は中止)で集落の長老が「(子供がやっていたサイノカミ行事を)大人がやるとナマハゲになるべ」という言葉を思い出しました。
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一見するとこれをよく知られてる男鹿のなまはげと同じ行事だとは誰も思わないだろうけど秋田だから能代市の長老もさいの神を大人がやるとなまはげになるべって言ってることから明らかにナナミの一種である。しかし餅をもらい歩くのにもなまはげ云々と唄っていながらナナミ何とかアマミ何とかではなく「鳥追い」って呼んでるのは子供が藁馬やしめ縄ではなく木彫りの大マラ持ってるのと同じぐらい異色な印象を受けた。
桑取谷の小正月行事〔オーマラ〕について―映像ドキュメント2本の比較
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kfa/2023/108/2023_1/_pdf
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2022年12月11日、NPO法人頸城野ドキュメントライブラリーの第33回上映会(上越市)で、アーカイブ映画「日本の詩情 春をまつ村 桑取谷(新潟)」(16ミリフィルム、12『頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要』Forum108 2023 ISSN 2432-1087 3分、昭和41年、制作:日経映画社、提供:近畿日本ツーリスト、監修:宮本常一)を鑑賞した際、その映像中に音声付きの〔オーマラ〕儀礼を確認できたのである。映像およびナレーションは、おおむね以下のように進んだ。
昭和40年夏の台風被害を克服しつつ、桑取谷西横山の人々は41年の小正月を迎えた。 それは、生命の甦りを願う古来の伝統であり、とくに小正月はもっとも古からの行事だった。1月14日の朝、神に備える餅をつき、若木の枝に餅をくっつけ、餅花をつくる。その夜、白山神社の拝殿に子どもたちが嬉々として集まってくる。作物にダメージを与える害鳥を追い払う儀礼、夜を徹してそれを行うのである。大人の行事から子どもの遊びへと、いつの世からか移り変わっていった。中山間部の村を後にする青年が多い中、子どもたちが祭りの中心にならざるを得ない。そのようなナレーションの合間に、中学生くらいの男子が先頭に立って太鼓を叩きつつ鳥追い行列が出発する映像が流れる。音声は明瞭には聞き取れないが、以下のように歌って練り歩いていった。「こりゃぁどこの鳥追いだ。だいろうどんの鳥追いだ。しろを(尻尾)切ってかしら(頭)切って、こんだわら(小俵)へほうらいこんで佐渡ヶ島へほ〜い、こうもりも鳥のにんじょ(仲間)でほ〜い、ほ〜い」。佐渡へと追われる鳥は、現在は絶滅危惧種として保護されているトキ(朱鷺)であり、その尻と頭を切って、俵に入れて追い払え、という内容である。
何が害かというと、苗代や田植えの後に早苗を踏み荒らしたり、伝染病を運んでくることであるらしい。21世紀の現在であれば鳥インフルエンザの運び屋に思われるかもしれないが、幸い、時代はトキたちの保護を求めている。時代は農薬散布以前の昔だから、むしろ、トキやサギは、実は水中生物のドジョウやタニシ、タガメなどを食べに田圃に飛来するのではなかろうか、と思ってみたくなるのだが。
・・・
オーマラの鳥追いはちゃんと害鳥を駆除する内容になってるようだが歌詞がどうであれ子供が歌や太鼓で大きな音を発することに意味があるとみられる。鳥追いと同じ趣旨の行事は子供が餅をもらいにもぐら駆除の芸をして家々をまわる「ぼうじぼ」など10月の亥の子(十日夜)に行われることも多くそっちのほうが時期的によりハロウィーンに近い。
無形民俗文化財 御祝棒ゴイワイボウ(長野県の芸術・文化情報センター八十二文化財団)
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=4387&seq=0
前年結婚した夫婦の家に、子供達が男性を象徴する棒を持っていき祝う子孫繁栄、子宝祈願の行事である。八幡神社から太鼓を打ちながら「まいった、まいった、御祝棒にまいった」と歌いながら新婚の家を訪ね、棒で縁側を叩いて祝う。
粥杖(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%A5%E6%9D%96
粥杖(かゆづえ)は、正月15日に粥を煮た時の燃えさしの木を削って作った杖である。
概要「粥の木」ともいい、また祝木、枚(ばい)の木、祝棒、幸の木、削掛ともいう。多くはヤナギから製し、マツ、スギ、ヌルデ、クルミなども用いる。これで子の無い女性の腰部を打てば男子を出産するという[1]。
「大(だい)の子祝」という地方もある。『源氏物語』、『狭衣物語』、『枕草子』にも見える。 女性どうし打ち合ったこともある。『公事根源』によれば、寛平年間に始まるという。江戸時代、流行し、遊戯化した。
東北地方でマツの木で周囲1尺4寸から5寸、長さ3尺の男根形に作って、新妻の尻をたたく風習があり、また、粥杖をなわしろの水口に立てて田の神に献じ、豊作を祈願した。信濃国では粥の木の根本をよつわりにして小正月、粥に入れる餅を挟んで粥をかき回すという。
なお「嫁つつき」はその名前から木彫りの大マラで嫁をつつく辱めかと思いきや別に突く用の杖を持参するようだ。「粥杖」「御祝棒」「出せ棒」といったち○こを意味する棒で新婚さんの家を訪問する同様の行事が各地でそれぞれに「嫁叩き」「嫁祝い」「尻祝い」「尻打ち」「じご打ち」「はらめ打ち」「こっぱら叩き」などと呼ばれてるのは子どもが「孕め孕め」などと嫁の尻を打ったりするゆえである。
ダセチッ - 小正月のハラメウチ(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=2iwbcCd5I3g
この動画は名前こそハラメウチだけどリズミカルな謎歌に合わせち○こを意味する棒で打ってるのは尻ではなく地面で「孕め」などのせりふもない。黄色い袋には大人たちからもらった大量の菓子が入ってる。
小正月のケツバット
https://prjapan21.jp/saijiki-196/
・・・
平安時代、小正月には小豆粥を食べる風習があり、その粥を煮た薪を削って作った棒「粥杖」で女性の尻を叩くと、元気な男の子を授かるという俗信がありました。枕草子には、小正月の楽しげな様子が描かれています。
15日、小豆粥でお祝いをした後、粥杖を隠しもって尻を叩くタイミングを見計らっている女たち、叩かれまいと警戒して後ろを気にしている女たちなど、皆んながお互いを気にしている様子がおもしろい。どうやったのか上手く叩けて皆で大笑いしたり、叩かれた者はくやしがったりと賑やかこの上ない。棒を持ってはりきってウロウロしている女房や、それを見てクスクス笑う女房たち。(中略)お姫様の背後にこっそり近づいて、尻を叩いては走って逃げていく女房。それを見て周囲の者はまた大笑い。(中略)女同士で叩き合って、とうとう最後には男まで叩いてしまう始末。笑ったり泣いたり怒ったり、高貴な宮中であっても今日だけは無礼講だ。
(枕草子より)枕草子の粥杖の話を読むと、なぜか大晦日の「笑ってはいけない」のケツバットを思い出してしまいます。日本が誇る宮廷文学と高視聴率お笑い番組を結びつけては双方から怒られそうですが、共通点は以外に多く、笑いのツボは時を超えて普遍なのだとしみじみと感じ入ってしまいます。
こうした子宝祈願は小豆粥とともにはるか平安時代にまでさかのぼれるのだそうでもしかして新婚さん虐めのルーツになってるのだろうか。オーマラの嫁祝いは嫁を打たずに木の棒を打ち鳴らすだけだそうだがその棒もち○こなのにちがいない。
]]>30年前にふざけてた小山田圭吾は失脚してかたや現役の悪趣味でいて反原発運動のみならず性科学会やおおたとしまさやジャパンマシニスト社にありがたがられてピチピチギャルに進路選択について幼少期の家族関係に由来する人間関係についての願望水準低下をどう克服するかの相談まで受けてる宮台先生が社会的にも肉体的にも不死身すぎるんだが。それにしても下の記事見てて「いじり」だから浅草の笑いだろうと講談師の神田伯山をWikipediaで読んでみらやはり東京出身で浅草演芸ホールで行われた「読売杯争奪 激突!二ツ目バトル」で優勝して第35回浅草芸能大賞新人賞受賞だった。
神田伯山 宮台真司氏の不倫報道に大喜び「初笑い。日本を明るくするニュースだよ」(1月12日 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/articles/dfc9ac89dd8483aa5bbd1b8ff973c16b01946cfa
講談師の神田伯山が12日放送のTBSラジオ「問わず語りの神田伯山」に出演。?44歳差不倫?報道が持ち上がった東京都立大学教授で社会学者の宮台真司氏をイジり倒した。
宮台氏をめぐっては写真誌「フラッシュ」が、44歳年下の地方の国立大学に通うファンの20歳女性と、都内にある3000円のホテルに一緒に入っていく様子などを詳報している。
伯山は「いいニュース飛び込んできて。本当にいいニュースだなと思ったのが、『宮台真司不倫』っていう。これがもう本当に初笑い。日本を明るくするニュースだよ、これ。いい写真だったな〜 世間的には宮台真司キモいみたいになってますけど、僕はこれほのぼのニュースととってます」と大爆笑。
関心を示したのが、同誌に掲載された記者とのやり取りで「記者かなんかに質問されて、『3時間ぐらいホテルにいた』って言うんだよ。これがいいのがさ、キッチンカーでケバブ丼持ち込んでんだよ。若い! ケバブ丼食いながら! で、質問されて『何やってたんですか?』って言ったら、やること一つじゃないすか。それに対して宮台真司さんが言ったことが『彼女も悩んでたみたいなんで』『進路選択について幼少期の家族関係に由来する人間関係についての願望水準低下をどう克服するかの相談です』…。嘘つけ!っていう」と大喜び。
・・・
私はてっきり宮台先生をピチピチギャルに手を出してるエッチな芸風(学風?)で売ってるぐらいに思ってたのでホテルで進路選択幼少期家族関係人間関係願望水準低下の相談に乗ってただけなのは意外だった。今日び思春期でもトランスを自己決定できるぐらいで成人した女子大生が宮台先生と性的同意してたんだったら代理出産やポリアモリーみたいに多様な家族のカタチを周りがつべこべ言う事じゃないだろ!!とサブカル村総出でしばいてくれるんじゃなかったけか。
しかし松ちゃんは私がリアルタイムで見てた頃の悪ノリから足を洗って良いパパやってるもんだと思ってたのでいくら8年も前とはいへ結婚後にハレンチやってたのは悪趣味から足を洗って人権やってると思われてた町山智浩(61歳)が浅草公会堂で浅草キッド(61歳)による無実のホモ(笑)いじりを擁護してたぐらいにはイメージ悪い。わが歴史観において松本氏や宮台氏や町山氏や水道橋氏といった新人類世代の爺さんがたがエロやバイオレンスを悪びれないのは若くしてハレンチの洗礼を受けPTAで教育ママで悪書追放なオバタリアン倫理を仮想敵とみなしたせいだと仮説してる。
秋霖堂(1月13日 X)
https://twitter.com/syurindo/status/1746123913866965026
昔、スカートめくり男子がいて、やめろって言ってもやめなかったので、当該男子のズボンを引き下げた女子がいた。(私ではない)
当該男子は3日くらい学校を休み、クラスの女子児童が何故か指導された。
子どもながらに「男子にされてやめてよと言ってもやめなかったので反撃に出て自分たちの身を守っ
秋霖堂(1月13日 X)
https://twitter.com/syurindo/status/1746123915519512852
たことの何が悪いのかわからないし、理解したくもない。この指導と同様の指導を男子全員に先生はすべきだし、私たち女子がスカートをめくられても3日休まないのは強いからでもなんとも思っていないからでもなく、単に諦めているだけで、
私たちが我慢し続けている事を褒め称えるべきではないのか。
上記引用したXは38000000回ともはやK-POPのトップアイドルレベルの再生数にまでばづってたんだけどスカートめくりとはまさしく現代っ子だった頃の新人類であり昭和末期の悪趣味(ゲロう○こ)ならびに令和の虹趣味(AV、テンガ、セックスワーク)にもつらなるハレンチ時代の幕開けだった。代名詞的存在ののハレンチ学園(1968)と丸善石油のohモーレツ(1969)がほゞ同時期なんだけど先にCMが大ハヤリして永井豪が漫画に描いてたというのが順序らしく当初は「モーレツごっこ」と呼ばれてる。
ナンブ寛永(南部堂)(2018年7月1日 X)
https://twitter.com/kan_ei_sen/status/1013298153229987840
少女マンガでもモウレツとか言いながらスカートめくりしてたんか
竹中きよし「ゲバゲバのケケ」1話
人間に化けた狐娘がモーレツごっこ大好き番長を凝らしめるお話集英社 週刊マーガレット1969年51号より
ナンブ寛永(南部堂)(2018年7月1日 X)
https://twitter.com/kan_ei_sen/status/1013300008567726081
同誌にもう一ヶ所モーレツごっこシーン!こっちは偶発的なものだけど
ゆかわ奈美「チビッコなこうど」より
「スカートめくり」自体は『ハレンチ学園』以前からあった(2023年1月26日 note)
https://note.com/tiyu/n/nd02f69250b92
先日、こういう発言がSNSで流れてきました。
これについて、「漫画表現のせいで現実のスカートめくりが発生した」のはほぼ事実です。これは発端になった漫画を描いた永井豪先生も自分で認めてらっしゃいます。その後「まいっちんぐマチコ先生」でさらに大流行となり、女児被害者が多発、PTAが猛抗議し、連載差し止めになる等大騒ぎになりました。 https://t.co/JnHuInQgVE
— しお(汐街コナ) (@sodium) January 11, 2023
そいで、「『漫画表現のせいで現実のスカートめくりが発生した』のはほぼ事実」というのは事実なの? みたいな件について、いちおう、出せる資料だけ出しておこうかな……と思いました。
「スカートめくりの元祖」さて、ツイートで「発端になった漫画」と言われているのは、永井豪先生の『ハレンチ学園』です。
実際、『少年ジャンプ』誌上でも、『ハレンチ学園』を「スカートまくりの元祖」と宣伝していました。
・・・
この号の『ジャンプ』では、33ページまでが『ハレンチ学園』のスカートまくりの回で、35ページから「ジャンプドキュメント ただいま流行中!!」という記事が載っていました。
この記事は、『やあ! やあ! ガキ大将』の司会をしていた阿部進さんが書いており、1969年6月29日に放送された回の内容が紹介されています。
それによると、6月放送のテレビ番組の中で、次のようなやりとりがあったそうです。
・番組に出演した子供に、「いま、名古屋地方では、なにが、はやってますか?」と質問
・女の子「オッパイモミモミっていうのが、はやってるんです。(中略)女の子どうしよ。男の子はやんないの」
・男の子「ぼくはネ、スカートをめくるの」
・古今亭志ん馬さん(番組ゲスト)「スカートめくりは、うちのコもやってるの。学校でネ。(中略)やられた女の子が、モーレツっていうんだ。スカートめくるのは、べつに、どうってことないよね。おもしろがってやってるだけだもの」
これを受けて、7月発売のジャンプで『ハレンチ学園』のスカートまくりの回が掲載されたという順序です。
記事の最後には「すごいことが、はやってますね」という編集者のアオリが付いていました。
そんなこんなで、スカートめくりは『ハレンチ学園』に載る以前から、古今亭志ん馬さんが「うちの子もやってる」とテレビで話す程度には、小学校で「流行っていた」らしいです。
なので、スカートめくりというもの自体が漫画表現から発生したような言い方をすると、少し語弊があるように思いました。
「やあやあガキ大将」司会してたカバゴンこと阿部進は現代子どもセンターの教育評論家でハレンチ学園を擁護してたというか映像化作品にもがっつりかかわってる。当時の性教育については下の引用に詳しいが令和も集英社はそのまゝにカバゴン先生から宮台先生やサッコ先生にハレンチ学園からAVにとアップデートしておりスカートめくりの仕返しした女子が学び直しさせられたのと同じくヘイターとしてしばかれるのは依然として「ガキ大将」ではなくスカートをめくる値もないよなヒステリーブスババア(笑)のほうだった。
1970年前後の行き過ぎた性教育(2013年2月21日 こども秘密クラブ)
http://aoyagi246.blog55.fc2.com/blog-entry-315.html
もうね、子供の性に関してはトンデモナイ時代でした。
性教育が叫ばれ、カバゴン先生と言う人が少年マンガ雑誌やテレビで、子供が異性の裸が見たいのは当然の事。
裸は恥ずかしい事でも何でも無いと力説してました。
俺の通っていた函館市立青柳小学校は、全国性教育モデル校に指定されており、
性教育には過激なまでの力の入れようでした。
図書室には北欧直輸入の性教育カラー写真本が並び、
保健体育の時間には、視聴覚教室で北欧直輸入の性教育映画を観せられました。
金髪の少年少女がお互いの性器を弄るシーンや、オナニーのシーンを見せられて、
ただでさえ発情している思春期の生徒達を刺激し、男子も女子も毎日、一日中Hな事だけ考えてました。何年か経つと、このころの性教育は行き過ぎだった。ハレンチ過ぎたと気付くわけですが、
当時はみんな、これが正しい性道徳だと信じて疑ってなかったんです。・・・
万博、ハレンチ、性教育の時代 君はアポロの塔を憶えているか?(2023年11月23日 note)
https://note.com/spectreman555/n/na0b96e84b458
・・・
第一次性教育ブームを語るとき外すことができないのは、それにやや先んじて起きたハレンチ漫画ブームだ。いうまでもなく、その嚆矢となったのが、「少年ジャンプ」連載の永井豪『ハレンチ学園』(68)である。今では漫画の中で当たり前のように描かれるボインタッチやスカートめくり、全裸の磔シーンなども最初に登場したのは『ハレンチ学園』だった。その人気はすさまじく、後発で「マガジン」「ジャンプ」に大御所作家を押さえらえて苦戦続きだった「ジャンプ」を二誌と並ぶ存在に押し上げた功績は大きい。
作者の永井豪は後年、たまたま本屋で中学生がこそこそとエロ本を立ち読みしているのを見て、性というものを日陰から引っ張り出しカラっと笑えるものにしたいと思ったのが『ハレンチ学園』執筆の動機だと語っている。
しかし、当然ながらPTA(これも今では死語だな)や教育関係者からは目の敵にされたりもした。一方、擁護の声もあり、元小学校教諭で教育評論家という肩書で雑誌やテレビで活躍していたカバゴンこと阿部進は、その筆頭だった。
この阿部進こそ、第一次性教育ブームの立役者の一人でもあったのだ。・・・
「少年ジャンプ」が『ハレンチ学園』旋風を巻き起こしているのとほぼ時を同じくして「少年キング」誌上では阿部進・監修構成の『カバゴンの現代っ子性教育』が密かなブームを起こしていた。この手の図解記事としては大判振る舞いともいえる16ページ、しかも全編、思春期の心と体にまつわるものといった内容は当時としてはかなり冒険的だったはずだ。「キング」は「ジャンプ」ほどではないにしろ後発組で、発行部数も「マガジン」「サンデー」に大きく水をあけられていた。逆にいえば、こういった思い切った企画が通ったのも、マイナー誌(というのも失礼だが)の強みだろう。それは『ハレンチ学園』連載の「ジャンプ」にもいえた。
・・・
「カバゴンは、学校の先生や、おとうさん、おかあさんみたいにコチコチになって、性の話をつまらなくしないこともおしえてくれるだろう」「カバゴンは性の話は、国語や算数のような学校の勉強と同じように、またそれ以上に大切に考えている」(『カバゴンの現代っ子性教育』第1回)
阿部の文章はこのように「カバゴン」を一人称にしているのが特徴で、このエラぶらない感じがちびっこ読者には受け入れやすかったのかもしれない。カバゴン阿部のもうひとつの特徴は、独特の造語感覚にある。とにかく、性について子供たちと話すとき、苦慮するのは性器をどう呼ぶかだ。陰茎や膣ではとっつきにくい。さりとて、いくらなじみがあるといっても××××(漢字では汚門戸と書くらしい)とはいえまい。
阿部はそこをオリジナルのカバゴン語でクリアー。ペニスのことを「アポロの塔」、女性器のほうを「アポロの泉」あるいは「アポロの壺」と名付けたのだ。・・・
「アポロの塔」や「ポールとテトラ」より多少は寿命が長かったのが「われめちゃん」(女性器)である。特殊漫画家の根本敬が80年代に入って韓国に旅行したとき、釜山で知り合った日本びいきの現地老人から唐突に「日本では今、われめちゃんていうんだってね」といわれたたという(日本ではすでに死語だったが)。
・・・
この「われめちゃん」の名づけ親が北沢杏子。彼女もまた第一次性教育ブームの立役者のひとりである。脚本家、放送作家としてのキャリアは長く、われわれになじみの深いところでは、『ウルトラQ』の第22話「変身」、第25話『悪魔ッ子』を担当している。シナリオライターと並行して60年代から性教育関係の本を数多く執筆。1969年には、性教育専門出版社・アーニ出版を立ち上げ(北沢は共同代表)、90歳を超える現在も現役で活躍する性教育界のビッグママだ。第一次性教育ブーム、本稿最後のキーパーソンはなんと、漫画の神様・手塚治虫である。
『ハレンチ学園』が先鞭をつけたハレンチ漫画ブームは、日大健児『ドッキリ仮面』(71)、吾妻ひでお『ふたりと5人』(72)といった数多くのフォロワー作品を生み、 少年漫画にパンチラやハダカは不可欠なものになっていた。漫画界のトレンドに敏感で、かつ売れっ子後輩へのジェラシーを隠さぬことで有名な手塚センセもこの潮流を無視できず、『やけっぱちのマリア』(70)で参戦。掲載誌はやはり新興誌の「少年チャンピオン」である。・・・
性用語をポジティブに言い変える試みはかなり昔からあったようで令和では独りエッチのことをセルフプレジャーわれめちゃんはおまたって呼ばれてることが多い。カバゴンのアポロ何とかは女性器も男性器もアポロで訳わからなさすぎる。
上に引用したnoteにはほかの記事で男ドアホウ甲子園の原作や重信房子のゴーストライターだった佐々木守に言及してたが佐々木氏はカバゴンとともに現代子どもセンターのメンバーで脚本家としてはドラマ「現代っ子」がテレビデビューだった。佐々木氏はウルトラマンの脚本が有名でカバゴンもスペクトルマンで怪獣になってたりわれめちゃんの北沢杏子もウルトラQの脚本やってたりとハレンチ漫画ともども新人類の性徴というか成長に大いに影響を与えたことであろう。
それにしても赤塚不二夫の「もうれつア太郎」も当然丸善石油から来てると思ってたらCMのほうが全然後だった。意味としては「やりすぎ」「バリバリ」のニュアンスだと思うんだが(バリバリはバリバリでバリバリだぜ!みたいな昭和特有の使われ方してた)CM以前から「猛烈」と似て非なる流行語としての「モーレツ」がすでにあったのだろうか。
「ハレンチ」が褒め言葉だった頃の話(2023年9月29日 note)
https://note.com/tiyu/n/n98cc5b6eb309
先月、『三省堂国語辞典』の編集委員の飯間浩明さんが、「ハレンチ」についてツイートしておられました。
・・・(1)元は「恥知らず」の意味
例:「貴様は国体のいかむを解さない非義、劣等、怯奴である、国賊である、破廉恥、無気力の人外である」(泉鏡花『海城発電』1896年)(2)1968年前後に「イカス」「カッコイイ」みたいな意味で流行る
例:「ことしの夏はハレンチルックで行こう!! 大人たちの常識を打ち破るハレンチ族の超個性的スタイルとは」(『週刊平凡』1968年5/23号)(3)『ハレンチ学園』の流行と前後して「エッチ」の意味で使われることが多くなり、現在に至る
例:「海から来たのはハレンチ人魚姫!!? 異種族交配擬人化ラブコメディー!」(すめしお『ネノちゃんは××したい!!』2020年)
いっぽうハレンチもエッチの意味で使われ始めたのはハレンチ学園以降でもともとは当時アイビーにとってかわったレナウンイエイエ(1967)みたいなサイケのことを言ってたのではあるまいか。サイケ(デリック)がLSDの幻覚模様であることをふまえると「やべえ」「イカれてる」戦後生まれ感覚を反映した語と思われじっさい上記引用で引き合いに出されてる1968年の雑誌画像を見ても用法が意味不明ながら文字がサイケ調にカラフルかつグニャグニャしてる。
https://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BA_000000000015182/item_%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81_466068
65年に加藤和彦、北山修、平沼義男、芦田雅喜の4人で活動していたのが第1次フォーククルセダーズ。そして67年に芦田の渡欧を機に解散となった彼等が、記念に制作した自主製作盤「ハレンチ」。当時北山が父親に20万の借金をしてスタジオを借りた逸話が残っています。 ところがラジオでオンエアされたことで「帰ってきたヨッパライ」が大ブレイク!その後端田宣彦を新メンバーとして1年間限定でメジャーデビュー。つまり、第1次フォーククルセダーズのヒット曲であるこの名作をはじめ、「イムジン河」のハングル語入りバージョンなど全12曲を収めた完全復刻盤がこちら。インディーシーンの草分けであり、日本のフォーク史にとって重要な幻の作品!
なのでハレンチ学園が本来の意味してたとこは「エッチな学園」という以前に「あたおか学園」でありサイケと同じよに出初めだったビキニやミニスカートといったエッチな合成繊維ファッションもハレンチに包括されてたというのがわが解釈である。丸善石油といい合成繊維といい当時は石油文明が急成長して日本もバリバリでイカれてたんだけども途中で公害とオイルショックあとはアメリカの敗戦をへてるのでサイケから一転してTシャツGパンの戦後生まれ軍団が高原の小枝を大切にするよなゆる〜いCMやレコードばかりが大ハヤリしてガソリンのCMでもスカートがめくれるほどに車が猛烈ダッシュしてたのが大自然の中でオーバーオールの鈴木ヒロミツがのんびり手で押すまでになった。
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