たらちね体操

0
    私は昔からダイエットはじめ美容や健康にはさほど興味がなく、なまったときにジョギングや筋トレをする程度であった。
    だがひとたび女向けのテレビや雑誌を見れば、サプリだ酵素だとさまざまな情報があふれている。そんな嘘っぱちをいちいち本気にしていたら、キリがない。どうせ死ぬるんだから、生きているうちは野菜よりも脂っこい物を中心に食べていたいもんだ。まあ、美人に生まれていたら、また心がけも違っていたのかもしれないが・・・
    とはいえ、私ってけっこう年増だし、激太りしたせいかブルドックと悪役レスラーのハーフ(ブルレスラー)みたいな恐ろしい顔になってしまった今となっては、醜女なりに健やかさや若さがいかにはかないものか思い知らされることも多少はある。
    そんな私は韓国やサブカルの本を探しに行ったはずのブックオフで、なぜかこの雑誌を買わずにいられなかった。
    an•an特別編集 美乳・美腹・美脚を手に入れる!2週間のスペシャルプログラムであなたのカラダは美ボディに!
    決め手だったのは「美乳」がメイン特集だったからだ。かねてより私は思っていた。シワやたるみなどの老化はどうしようもなくても、胸はどうにかなるのではないか?と。
    なぜならば乳が下垂、分散およびサイズダウンしデコルテが痩せこけたとしても、肉という肉を中央に寄せ集めて硬いブラジャーでホールドすれば「盛れる」、かりそめのアンチエイジングが可能というわけだ。また腹も筋肉がつきやすく(太りやすくもあるが)、比較的どうにかなりやすいパーツであろう。
    すなわち逆効果にもなりかねない食事療法や高級な化粧品、フェイシャルのマッサージ、エステティックに励むより、下着と腹筋で加齢に抗うのが美魔女への近道なのである。
    にもかかわらず、女は何かと顔や脚をどうにかしようとしたり、近年は「骨盤」やら、治りもしない「冷え」なんぞに着目するせいで、胸などはぞんざいに扱われているような気がしてならない。
    その点、この書は私の興味をそそられるものがあった。ブラジリアンワックスなど、脱毛の情報が掲載されているのも物珍しく貴重だ。もっとも、そこはマガジンハウスなのでほとんど下着屋や豊胸手術、エステサロンのステマな宣伝記事ではあるのだが、その内容の薄さが逆に、私のような美と無縁のブルレスラーにも読みやすい一冊になっている。
    この本によれば、女性の胸の大きさやハリは母乳を作る乳腺に依拠しており、力士の胸が垂れているのも乳腺がないからなのだそうだ。確かに私の胸はかなり小さいにもかかわらず昔から垂れていて、肥満男のごとしである。ほとんど脂肪なのか、張りがなく感触もかなり柔らかい。
    それがこの本を読んで納得した。結局私の場合、乳腺組織にやる気がないためにこんな胸になっちまったのだと・・・そしてこの乳腺を支える靭帯を傷つけると、胸を支えきれなくなりよけいに垂れるため、揺らしたり強く揉むのは厳禁なのだそうだ。気をつけなければ。
    そういえば、巨乳のMEGUMIはブレイク前にダイエットのため、 胸にさらしを巻いて運動したと言っていたが、あれも今にすると理にかなった行為と思われる。
    そして乳腺の張りは女性ホルモンに左右されるので、その分泌をうながすイソフラボンが含まれた大豆製品を摂るとよいとも。
    まあそこまではいいのだが、ここでひとつの疑念が頭をもたげてきた。
    胸は加齢によって柔らかくなると書いているが、それはおそらく乳腺や靭帯が衰えるからであろう。
    しかし、ここ1年くらいだろうか。おっぱい体操というバストアップのマッサージがさかんにメディアに取り上げられていており、その体操ではけっこう胸を揺らしてふわふわのやわらかおっぱいを目指そうと言っていたのだ。
    これは私が胸に興味を持ち始めた時期でもあったので、実際にやっていたこともあるのだが・・・じつは揺らすのも柔らかくするのもダメなんじゃないか?
    そう思って再度おっぱい体操について調べて見ると、皮膚科の医師が、こんなもんは全部デタラメで垂れる原因にさえなりかねないとネットに書いていた。
    なんてこったい。いや、この体操を考案した元助産師の女性が自然分娩とか母乳とかアーユルヴェーダとか言っている時点で、オカルトじゃないかとうすうすは感じていたのだ。まさか桶谷系か?
    ていうか、「自然」とか言う奴のことなんて金輪際信じねー。これ以上垂れたら、本当に富永先生のマンガになっちまう(切実)

    ruokala lokki

    0
      評価:
      トゥオモ・ヴィルタネン,荻上直子,群ようこ
      バップ
      ¥ 3,772
      (2006-09-27)

      ほっこりとした天然系のご婦人に圧倒的な人気を誇る今作品。
      上映されたのは7年も前だが、私が見たのは今年に入ってからである。あまりにも有名なので興味があり、それまでにも何度かDVDを借りようと思っていたものの、はたしてこんなかったるそうな映画を一週間以内に見れるのか?と、何年も先延ばしにしていた。
      そんな矢先、友人宅のハードディスクに録画されているのを発見したため、ようやく見ることができたというわけだ。といってもけっこう前の話なので、細かい部分はあまり覚えていない。本来なら、見た直後に詳細な感想文を書きたかったのだが・・・
      とりあえず結論からいうと、ほっこりしているという以外に何の内容もない、むなしい雰囲気映画であった。これは超熟のCMを1時間以上見せられたのと同じだと思ってよい。
      あのCMを1時間でも見ていられるほっこり婦人にはこの上ない超名作であり、見たくない人にとっては、詐欺、時間と金返せレベルの超駄作である。
      見る前からそういう映画だと察しはついていたのだが、でももしかしたら、ストーリーを追うことで感情移入し、不本意ながらほっこりとした気持ちになる、そんな可能性もなくはなかったのだ。だが実際のところ、全くストーリーが存在しない。
      それにほっこりったって、蒼井優や宮崎あおいのようなピチピチギャルなんていくらでもいそうなのに、主役級を小林聡美、片桐はいり、もたいまさこという、どことなく80年代の雰囲気漂う個性的なオバサン陣で固め、主題歌の井上陽水ってのもまた、くうねるあそぶ(by糸井重里)的バブル感を醸している。
      とりあえず出演者に目の保養になるような美男美女が1人もおらず、ドラマチックなちょめちょめもない。ひたすら突拍子もなく、何かをほのめかすような、それでいて実は中身のない、意味不明なやりとりをかわす人々・・・
      しかし、なぜだろう。私はこの映画のつまらなさをもってして口汚く罵ることだって難しくはないにもかかわらず、なぜかそうする気は起きない。ここまでつまらなさが突き抜けていると、逆におもしろいような気さえしてくるのだ。
      ほっこりにこだわるがゆえ、カラッポなカタログ映画に徹しているのは、この作品の特筆すべき点である。それはフィンランドや料理の描き方にも感ずることだ。
      フィンランドである必然性は?そして北欧でなぜおにぎり?そんなもんに「なんとなく」以上の理由はあるまい。そんなテキトーさが解せない者に、この映画を見る資格はないのも同然なのだ。
      だいたい最初はコーヒー出して、それでおにぎり出してシナモンロール、とんかつ定食なんかも出てくるのだが、どういう方向性なんだろうか?コーヒーとシナモンロールでカフェ、おにぎりととんかつで定食屋、私的には別々にしてほしいものだが。
      それに和食を出したとこで、小林聡美は北欧にクールジャパン(おふくろの味)をアッピールしようという気概もないし、左翼のような食へのなみなみならぬ哲学があるわけでもない。客が来なくても平気であるし、そんなおうちカフェ的おままごとが最終的に繁盛してめでたしってな不思議系の謎展開で幕は閉じる。
      これは小林聡美が北欧ファッションで清潔な厨房に立ち、おシャンティなキッチンウェアでとんかつをカラカラカラ〜っと揚げて、ザクッザクッとカットし、もたいまさこがいかにも〜な皿に盛られたおにぎりをパリリムシャ・・・とほおばる。そんなシズル感に満ちたほっこりのミーハーなイメージビデオだったのだ。
      よくこんなもん撮るな〜と、逆に関心してしまう。しかも誰にも相手にされずに忘れられて行くカルト映画に甘んじているならまだしも、これで成功しているのだからなおさらだ。
      一緒に見ていた友人は、ところどころクスリと笑っては「あーお腹がすいてきた♡」「誰かが握ったおにぎりが食べたくなってくる♪」などと言っていたが、私にゃ全く笑いどころがないし出てくる料理をおいしそうとも思わなかった。

      Rawer

      0
        きのう、「BS世界のドキュメンタリー」で、ローフードの家族を追ったオランダの作品が流れていたのでチラ見した。ローフードとは、火を通さない生(raw)の物だけを食べるロハス野郎のいち流派である。
        以前「BS世界のドキュメンタリー」でエコに名を借りたニューエイジ思想満載のおぞましい番組(おそらくカナダ作品)を見たことあるので、もしかして今回もローフードを素敵に取り上げているのでは・・・っと思ったのだが、そうでもなかった。
        主役は14歳の少年トム。母親がローフードに狂っており、フルーツや菜っ葉ばかりを食べているので、発育が遅れている。それで児童福祉審議会とかいう機関がこの家族を監視し、虐待の疑い、および母親から保護する措置を示唆しているのだ。
        まだトムは小柄で痩せがたながらも、健康そうな顔をしている。母親は14歳の母親というには口元がショボショボで肌が黒く、ずいぶん老けて(70歳くらいに)見えたが。
        トムはおとなしく母親に従順で、食事のことでからかわれることもあると言っていたものの、マブいナオンとイチャついたりしているのを見る限り中2にしちゃなかなかのリア充だ。
        ガールフレンドの家庭は、魚も食べている。医師も魚を食べれば身長は伸びると言っていたが、母親は魚には水銀が含まれているから毒だと言って拒否する。
        今の食事を続けていると本来伸びるはずの身長に12センチ及ばないと言われ、心揺れるトム。仲の良い兄は、ローフードについていけずに家を出た。
        そんな世間とロハスのすれ違い、板ばさみになる少年を淡々と描いている今作品。
        ただ児童福祉審議会や医師が、やけに身長、身長、と言っているのが印象的ではあった。そういう意味では、ひそかにロハス側に立っていたのかもしれない。
        もし彼がもっとゲッソリとやつれ、目がうつろで、いじめられていたらまだしも、母親がそこまで厳しくないというか、先ほどものべたようにトム少年はけっこうリア充でもあり、虐待というにはけっこう楽しそうにやっていて親子間の仲も良好なのだ。
        このユルさは、ヒッピーだから、いやそれともオランダ人だからこそなのか?とにかくこの家族を見ていると、「いいじゃないの幸せならば」という気持ちにさえさせられる。いわば、この家族を不幸たらしめているのはローフードそのものではなく、発育の遅れや菜食を異常視する普通の人々のほうかもしれない・・・と。
        この番組が放送された後、オランダでは賛否両論だったそうだ。

        今夜も踊り明かそう

        0
          ちかごろじゃ韓国人が出演した日本のテレビ番組をYouTubeで検索しても、朝のワイドショーで申しわけ程度に新曲が紹介される程度で、歌番組やバラエティは全然引っかからなくなっちまった。
          成功したKARAや少女時代でさえそうなのだから、今日び新大久保に遊び行ったりK-POPなぞ聴いておったりした日にゃ「まだチョンの音楽聴いてるの?」「竹島って知ってる?」と、レイシズムやヘイト・スピーチ、偏狭なナショナリズムを浴びせられることもしばしばである。
          つい先日、新曲「Heaven」をリリースしたAFTER SCHOOLも、かっては日本のテレビやCMにたびたび出演していたものの、この曲を世に出すにあたって歌番組に出演したとか、何かのタイアップになったとかいう話はまったく聞かない。なんとも寂しいかぎりである。
          AFTER SCHOOLは、レベルの高い韓国美女を揃えた8人組のガールズグループだ。韓国では2009年デビュー、2011年より日本に渡来し、メンバー全員が167センチ以上というモデル体型を生かして、ViVi、109、サマンサタバサ、東京ガールズコレクションと、渋谷やギャルのファッションにアプローチしているのが特色である。
          ただ、個人的にはあまりAFTER SCHOOLに興味が持てずにいた。まず曲にこれというものがなかったし、太鼓やタップダンスなど、おおよそ需要のないであろう雑技団的芸風は私の理解の範疇を超えていた。
          しかし、昨年韓国で発表された「Flashback」を機に、私はAFTER SCHOOLに魅了されたのである。けっしてインパクトは強くなかったが、セクシーでノリノリのダンス音楽が、彼女らの抜群の美貌を引き立てており、やはりK-POPはこうでなくっちゃあ。と、思わせるのに十分な1曲だった。
          また30代のカヒが脱退し10代のカウンが加入したことで、グループが若返ったこともプラスに働いている。カウンは中学時代を和歌山県で過ごし、関西弁も堪能ということで、ぜひとも応援したいものだ。もっとも、韓国人が日本のテレビからホサれた今となっては、その実力のほどを見るのは困難になっているが。
          今回の「Heaven」のミュージックビデオは、AFTER SCHOOLのメンバーが登り棒にからみつく悩ましげなシーンから始まる。これは先に韓国でリリースした「First Love」で披露したものであった。
          またポールダンスか?と思いきや曲が始まるとすぐに切り上げ、メンバーらは薄暗い部屋で挑発するようなまなざしを投げかけながら、クルクル回りながら歩いたり、読みもしない本をめくったり、ベッドに寝そべって背中をそらせたり、四つんばいで腰を突き出したりする。
          時折カメラの端から「クイズところ変われば」よろしく男の手が伸びるので、それが男の視線とわかる。なんとも妖しい雰囲気のミュージックビデオである。サビは曲、振り付けともに70年代フィーバーなディスコ音楽だが、不思議と古臭さは感じない。
          歌詞を要約すると、電気を消してベッドに倒れこみ、体じゅうにバイブを走らせて、汗ばむ体をからませて一緒にイキたい、しっかり感じるから奥まで入れて踊り続けよう、という感じだ。
          また「誰かさんと比べてる」「ちょっとの嫉妬」「秘密にしてあげる」などの表現から、男の方に彼女なり妻なりがいることもうかがえる。なんともいかがわしく、破廉恥極まりない歌であるが、ちょめちょめのことを「踊る」「ダンス」などと表現しているあたり、男女がベッドで健全に創作ダンスしているという苦しまぎれの言い訳もできないことはない。
          私はこれを聴いて、ある一曲を思い出した。それはSPEEDの「Body & Soul」である。
          初めて聴いた「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」にて、12歳だというには色っぽすぎる島袋寛子をはじめ、小中学生の集団が「刺激がもっと欲しい」「痛いこととか怖がらないで」「もっと奥まで」「イこうよ一緒に」「全部ぬいじゃえ」「この手でつかもう」「もっと激しく」などと叫んでいるので、当時は世も末だと思ったものだ。
          この歌も「踊り出そうよぅお〜」と、ちょめちょめのことを「踊る」と表現しているのが共通している。またSPEEDはその後「ラブバイブレーション ハート愛撫して♪」などと、これまた恥ずかしい歌を歌っていた。
          しかし、これも「わいせつでは?」と問われれば、いや、バイブとは熊ん子のほうではなく、たんなる振動を意味する。とかなんとか、抜け道を作って、小学生や韓国人など日本語の理解力のとぼしい女に助平な歌を歌わせる先人の知恵。「バイブ」「奥まで」「踊る」「一緒にいく」とはなんとも便利な語彙である。

          大好き!母乳

          0
            評価:
            山本 高治郎
            岩波書店
            ---
            (1983-05-20)

            今から3年ほど前、西暦にするとK-POPステマ全盛と同じ2010年頃のことであるが、じつはこのときゴリ押されていたのはキムチだけではなかった。
            「幸せなお産」「自然なお産」と呼ばれる、助産院や助産師による出産が、いく度となくマスコミに取り上げられていたのである。
            なんの力が働いていたのだか、堀北真希「生まれる。」仲里依紗「つるかめ助産院」といった有名女優主演の出産ドラマ、もしくは河瀬直美監督「玄牝」などのドキュメンタリー映画がここ数年相次ぎ、芸能人やモデル、一般人にいたるまで、自然な分娩とやらにチャレンジする妊婦をテレビや雑誌で目にする機会は不自然に思われるほど多くなっていた。
            まあ普通に考えて、左翼の力が働いていたのだろう。最近はゴリ押し終了したようだが、私自身がそれ系のテレビや雑誌を見なくなったのもあって確証はもてない。
            「自然なお産」の根底にかいま見えるのは、近代的な病院出産への反感だ。なかには陣痛促進剤や帝王切開を否定するむきもあり、これに対して母子の安全確保から鑑みて安易な自然礼賛に疑問を呈す声も根強い。
            2010年以前から暮らし系雑誌を発信源として静かなブームは形成されつつあったが、ゴリ押し期間で周知されたせいもあって、あんまり安全じゃない出産、もとい「自然なお産」をめぐる論争はここ数年で表面化している。
            「自然なお産」は「天然」「ほっこり」といったテイストを好み、原発やオスプレイといった社会問題にも造詣の深い一部のご婦人のあいだではステイタスとなった。当然なから出産がゴールではなく、その後には子育ても控えている。
            となると、おむつはパンパースか布か、はたまた無(おむつなし育児)か、おもちゃはキャラクターか木か、おやつはセシウム入りか玄米せんべいか、薬は、予防接種は・・・と、母親は際限なく選択を迫られることになる。
            そのうちもっともあくなき闘いに発展しやすいのは、やはり母乳と粉ミルクだろう。
            あらためて書くまでもなく自然派は一般に母乳志向である。帝王切開などにしてもそうなのだが、母親からみても医療行為を介さずに自然分娩し、粉ミルクでなく母乳を与えるのが理想的であることには違いない。
            しかし、それができない人もいる。胎児が逆子であったり、予定日を過ぎても陣痛が来なかったり、母乳が出なかったり、病気持ちだったり、といった各々の事情があったうえで、ご婦人がたは文明の恩恵を受けざるをえなくなるのだ。それはしょうがないことで、誰にも責められることではあるまい。
            それでいてなぜ母乳と粉ミルクが南北関係のごとく冷え切っているのだろうか?ここで私は一冊の岩波新書を紹介したい。
            その名も山本高治郎著「母乳」(1983年)。著者は粉ミルクが母乳に比べ不完全であり、事情があればともかく安易に混合や人工に走る母親、そして母乳を軽視する病院出産のあり方には否定的な立場をとっている。最近はもう母乳礼賛&粉ミルク批判といや近代文明に歯向かうカルトのイメージこそあるが、この本はそこまで行っていない。
            それにしても母乳が出るマッサージ「桶谷式」の研修センターが1980年、母乳やおむつなし育児など「ナチュラルマザリング」を推奨している自然育児友の会が1983年の設立と、「母乳」が著された時期とほとんど同じであることをふまえると、この80年代初頭というのが、病院出産や人工栄養を見直すパラダイムシフトであったことがうかがえる。
            私は1980年生まれでちょうどこの頃に乳児時代を過ごしたが、どうもお袋は粉ミルクしか与えなかったようだ。現代のご婦人ならば、母乳に問題がないのにわざわざ全部人工にするってことはないだろう。しかし当時は、うちのお袋のような愚者もさほど珍しくなかったと聞く。
            当時の粉ミルクのクオリティって大丈夫なのか?もっとも幸いなことに、生まれてこのかたろくに風邪も引いたことないのだが・・・
            いや、私はおのれの屈強な免疫力をもって粉ミルクが母乳に比べて無問題というつもりは毛頭ない。個人の経験なぞ何の根拠にもなりえないし、だいいち粉ミルクっちゅーのはコストがかさみ、いちいち哺乳瓶を洗浄消毒したりお湯を沸かしたりと手間もずいぶんかかるものである。
            それにひきかえ、母乳は乳をボローンと出して吸わせておけば、よい具合の濃度と温度で染み出し、スキンシップ、産後のダイエットにもなり、ゴミも出なく、じつに合理的である。
            しかし戦後、とくに高度経済成長期は日本が欧米に追従し急速な近代化を遂げるなかで、乳ポロリなぞは野蛮な行為と見なされ、次第におシャンティな粉ミルクや哺乳瓶、病院出産が受け入れられた。
            その傾向が高度経済成長期を経て、80年代初頭にいたるまで残っていたということだろう。日本の良いところを捨てて、アメリカや経済至上主義に走った、粉ミルク批判にある背景は反省をもって考慮しなくてはならないはずだ。粉ミルクや病院出産に頼らざるをえない母親がいるからといって、それを差別だとか昔を美化しすぎだとかいって封じ込めるのは筋違いである。
            そういえば、乳ってのはどうも昔の日本じゃそこまでわいせつじゃなかったような気がする。最近「あまちゃん」というNHKドラマが流行っていたらしく、各所で海女が注目されているのだが、あの海女っていうのは何十年か前まで乳をボローンと露出していたようだね。
            未開の民族も富永一朗のマンガみないにたらちねをブラブラさせておるし、わが国も前近代における春画なんかじゃ、女陰は巨大に、かつ精密に描かれているのに乳はめっちゃ適当だ。
            だいたいブラジャーなんてもんも、戦後生まれからじゃないかね。それまでは基本和服だったし、乳のふくらみなんて性的にはどうでもよかったからこそ、若妻が人前でも豪快に授乳していたんだろう。現代じゃ、そんな勇気のあるご婦人はいないし、されても困る。よって母乳をやるにしても外出先では哺乳瓶が必要になってくる。この人工乳首というのも、本来乳飲み子に吸われることで出やすくなる母乳を、ますます母子から遠ざけているそうな。
            また、病院出産における授乳の間隔は出産直後から3時間おき程度と決められていて、その時間にならないと母子が接触できないシステムになっていると思うのだが、これも山本高治郎氏をはじめとする母乳派からの評判がかんばしくない。
            本来は母親が添い寝し、新生児が泣いたときに授乳する、これも哺乳瓶ではなくモノホンの乳首を介することが前提だ。吸われることでの身体の準備も整う。間隔が整ってくるのはそれから後のことだという。
            「母乳」によると、この昔ながらのやり方は「無制限母乳栄養」と呼ばれ、管理された病院出産の「形式母乳栄養」と対をなしている。この概念を提唱したのはナイルズ・ニュートンという女性で、マーガレット・ミードとともに未開社会を調査した文化人類学者と書かれている。
            文化人類学の調査・・・今じゃどこまで信用に値するのか、眉唾この上ないジャンルだが、1980年代当時はまだ近代化および資本主義の矛盾に対し、未開やオカルトに何らかの真実が見出せると信じられてたのだろう。これを読む前から、自然なお産が文化人類学の影響を少なからず受けているのはうすうす感じていた。江戸時代を讃えるのなんかは典型的である。
            ただ母子の健康状態に個人差があることを考えると、人によっては昔の方が良かった面も確かにあるかもしれない。乳児の死亡率も下がり、粉ミルクで問題なく育った者を引き合いに出して前近代を否定するのは簡単だが、ゼロリスク風に言えば赤ちゃんが死ぬリスクはゼロにできないのである。
            病院出産の高い安全性を差し置いてでも得られるものが昔(ふう)の出産にあるとすれば、それを選択する妊婦を止めるのはじつに難しいことだ。

            | 1/1PAGES |

            profile

            calendar

            S M T W T F S
              12345
            6789101112
            13141516171819
            20212223242526
            2728293031  
            << October 2013 >>

            selected entries

            categories

            archives

            recent comment

            recent trackback

            search this site.

            links

            others

            mobile

            qrcode

            PR

             

             

            powered

            無料ブログ作成サービス JUGEM