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評価:
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河出書房新社
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(2010-02-17)
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「そりゃもうエロチックだった日本人のあふれる性力を赤裸々リポート!」「江戸の時代の大人の桃源郷にタイムトラベルできちゃう歴史エッチ秘本!」「町人も武士も将軍サマも、若い娘も遊女も大奥もみなさん、けっこう好き者ぞろい!のぞいてみたら、ビックリ昇天‼」
表紙の扇情的なうたい文句に惹かれ購入した、歴史の謎を探る会編「本当はエッチな日本人」。
私が買ったのは中古本であるが、もともと4冊ほどの本を再編集した内容とペーパーバック型の簡便な製本であるため、定価も500円とさほど高くはない。大川清介のエッチで楽しいさし絵が雑学の面白さを引き立てており、江戸時代に詳しくない私でも気軽に読める一冊だった。
にしても、わがブログは少しでもハレンチな語が入っていると記事を更新できない仕組みになっているので、その感想文を書くのは容易ではなさそうだ。
おもにページが割かれているのは、性技や売春の話題である。じつは世界屈指の大都市であるとともに、屈指の売春都市でもあった江戸。もともと小さな漁村にすぎなかった江戸に都市を建設するうえでは、多くの働き手が必要とされた。その結果男余りになり、売春の需要が高まったというわけだ。
女性の中の売春婦の占める割合は2パーセント、50人に1人とも。その種類は庶民に手の届かない「吉原」に始まり、「岡場所」など幕府非公認の遊郭、街娼「夜鷹」、まんじゅう売りに扮した「船まんじゅう」、素人売春「旦那取り」、品川に多かったという宿場の「飯盛(めしもり)女」、風呂屋で性的サービスを提供する「湯女(ゆな)」など多岐に渡る。
この頃の遊女はほとんどが梅毒(性病)に感染していたらしいが、避妊も中絶もおぼつかなかった当時のこと、妊娠しにくい体になるので梅毒持ちはかえって一人前と歓迎され、最終的には夜鷹として崩れた鼻をロウで固め「遊ばな〜い?」と、道で客引きしていたとか。
性技に関しては、この頃すでにくちづけが「口吸い」「口ねぶり」などと呼ばれ、営みの前技および愛情表現として定着していたものの、今と違い女が男性自身を口で愛する「尺八」「吸茎」はあまり行われていなかった。
そのいっぽうで、男側から行われる「舐陰」はごく一般的であり、男女が互いちがいになる「あいなめ」今で言うシックス何とやら、も一応はあったらしい。
また自らを慰める行為は男女ともにポピュラーで、男のそれは5本の指を使うことから「5人組」、意中の女を思い描きながら行うのは「あてがき」と呼ばれた。現代のバイブレータに相当する「張形(はりがた)」は、私もどっかの秘宝館で見たことがある気があるような、ないような。
男色および両刀使いも、さほどタブー視されていなかったようで、「陰間(かげま)」と呼ばれるプロの男娼も存在し、有名な戦国武将でモーホーをたしなまなかったのは豊臣秀吉ぐらいとまで言われている。
それにしても、現代人が抱きがちな「昔の人はエロに対して遅れていた」というイメージに対し、江戸時代は実はそうではなかったという逸話の数々、私にとってはさほど意外なことではなかった。
先に述べたような「男余り」も要因の一つだったとは思うが、江戸時代なんて江戸しぐさだの識字率が高いだの循環型社会だのと、いくら今日的なロハス感覚で讃えたとこで、実際は人権も娯楽もない野蛮な社会に決まっとるではないか。
それに私は中学生の時、偶然ながら春画を見たことがあるのだ。「おちゃっぴー」「エルティーン」もマッサオな春画の下半身丸出しっぷりに「江戸時代の奴、やることやっとる。むしろ現代以上に・・・!」と、この頃から前近代社会における民度の低さは強く印象づけられたものである。
その後、春画に関心を寄せる機会も特になかったのだが、最近になってあの下半身丸出し画がふたたび私の頭をよぎっていた。というのも近年、こだわりの雑貨に囲まれてほっこりとていねいに暮らすナチュラルなご婦人の増加にともない、人工乳(粉ミルク)に対する母乳の優位性が語られるようになっている。
乳の出のよくない奥様がたに配慮してか母乳優位は異端視されがちな傾向にもあるが、私にはやはり人工乳が母乳を追いやっている一因になっているのではないか、という思いが捨てきれないでいるのだ。
昔のように生後間もなくから母子を接触させ、人前でも授乳していれば、母乳はもうちょっと出てたんじゃないか?と・・・もちろん現代のご婦人に乳ポロリをお勧めする意図はないのだが。
「海女ちゃん」だってつい何十年か前までは露出していたわけだし、それらをふまえると日本人の乳に対するセクシャルな恥ずかしさは、戦争に負けたことによって押しつけられたアメ公の価値観だろうと推測される。
人工乳が受け入れられた背景には「乳の形が崩れない」ということも、ひとつにあったと言われている。今考えたら、そんな理由で粉ミルクにするんかいっ!て感じだが、アメリカにひれ伏し、衣類が洋装化しつつあった高度経済成長期ならば、十分ありうる話だ。
そんなことを考えていたところ、生娘の時分に見た、かの下品な春画を思い出したというわけだ。春画といや、下半身こそジャンボかつリアルに描かれているが、乳は描かれていないか、もしくは描かれていても見るからにぞんざいなのである。
これが、乳を気合い入れてボインに、下はパンツはいているような感じに描いていれば、今とそう変わらないわけで、昔のエロ画といえど何の印象も残らなかったに違いない。
ちょうど114ページ「春画に描かれるアソコはなぜ、あんなにデカかった?」に、わが「乳はエロくなかった」仮説を裏づける記述もあった。そのまま引用するとアップできない可能性があるので以下カギカッコ内に要約する。
「春画において極端に誇張されたのが男の一物であり、それを受け入れる女陰も大きく描かれることとなった。そのかわりヘソや肛門は省略されている。乳に焦点をあてた絵はほとんどなく、老婆のように垂れ下がっていたり、全裸の絵でさえ乳が省略されていたりする。挿入シーンに比べ、前技の描写も少ない。よって男が女の乳をまさぐっているような絵はほとんど見当たらない」
また、「突きもせぬ眼に貰い乳の膝枕」目に入ったゴミを流すために男の眼に乳を注いでいた・・・という川柳も引き合いに出しながら、章の最後に「当時の人たちに乳は子育ての道具にすぎず、性的な魅力に乏しかった」と、しめくくられている。もっとも、43ページには豊かな乳を持つ遊女によって谷間に男性自身を挟むサービスはあったと書かれているし、美人画の絵師、喜多川歌麿による春画は乳に執着していたともあるが、それは異例中の異例だろう。
もうひとつ、乳に対する意識とは別に、私は昔の性に関して気になっていることがあった。それは月経である。
というのも近年、こだわりの雑貨に囲まれてほっこりとていねいに暮らすナチュラルなご婦人の増加にともない、現在流通している生理用ナプキンに対する異議がますます高まっているのをあなたはご存じだろうか?
使い捨てナプキンは石油からできていることもあって、環境にも女体にも悪い。だからこそ、温暖化対策を急がねばならぬ現代においては、使い捨てナプキンからの脱却がさけばれているのである。
だが、私は布ナプキンをすすいだ経血入りの水を、肥料として野菜にかけたり(オエッ・・・)、本来女性はトイレで全部出せるなどと言う一部の過激派については疑問を感じずにいられなかった。
かのような主張は、冷えとりで有名なマーマーマガジンにおいても、才田春光氏による「月経血コントロール」として紹介されている。
別に人がロリエに出そうと、布に出そうと、トイレに出そうと、粗相さえしなければどうでも良いことなのだが・・・反使い捨てナプキンの気運が高まるにつれ広がりつつある「昔の人は生理用品など使っていなかった」伝説はとうてい信じがたい。以前にも、日本初の使い捨てナプキン「アンネ」以前の生理用品の広告をネットで探したことがある。おそらく布ナプキンとそう変わらないシロモノだったとは思うが、戦前より前の歴史はよく分からなかった。
まあ、いくら遅れた社会であっても服くらいは着ているわけだし、生理用品もおのずと布であろうとは思っていたのだが、29ページ「女性たちはユーウツなアノ日をどう乗りきっていた?」によれば、木綿だけでなく「浅草紙」と呼ばれる再生和紙も使われていたそうで、それら布や紙をたたんで当てがい、上からふんどし状の布「股ふさぎ」で押さえていたという。股ふさぎが馬用の前垂れに似ていることから「馬」とも呼ばれ、「アンネちゃん」同様に月経自体を「お馬さん」と呼ぶこともあった。
花王ロリエのホームページによれば、股ふさぎはアルカリで凝固するコンニャク成分で防水されていたとある。ちなみに、コンニャクは男性の辞意行為に使われる道具でもあったそうだ。
ふんどしの他には、海綿にヒモをつけたタンポンもあったらしい。当然繰り返し使うことを考えると、布ナプキン以上に衛生面でよろしくない気がするが。
いづれにせよ、トイレで出すなどという事例は書かれていない。そのようなことをできる人が今より多かったと仮定しても、ポピュラーではなかったのではないか。
そう、私は現代人が理想の循環型社会として江戸文化を引用することに、かなりの違和感をおぼえているのだ・・・。
江戸時代にウラミがあるわけでないが、奴らが近代社会のオルタナティブ(代替手段)として風呂敷、浴衣、風鈴、打ち水、自然なお産・・・と江戸を懐かしい未来に仕立て上げれば上げるほど「江戸の知恵に学ぶ物なんか何もねぇ!!」と叫びたくなることもしばしばである。
だがそのいっぽうで、明治維新や敗戦といった、欧米に毒されるターニングポイントで葬り去ってきたであろう独自の下品な文化は、日本人のルーツとしてけして無視できるものではない。この思いは「本当はエッチな日本人」を読んで、よりいっそう強くなるばかりであった。