左翼にありがちな奴
http://mainichi.jp/articles/20160125/dde/012/040/002000c
日本人は「伝統」という言葉にヨワいらしい。例えば選択的夫婦別姓制度の是非を巡る議論。安倍晋三首相ら反対派は「同姓が日本の伝統だ」と主張し、いくら専門家が「同姓は明治中期以降の新しい制度」と指摘しても聞く耳を持たない。このように最近は、新しく、ウソに近い「伝統」がやたらと強調されている気がするのだが……。【吉井理記】
銀座はゴミの山だった
中国の旧正月・春節(今年は2月8日)が近い。流行語にもなった中国人観光客の「爆買い」だが、彼らのマナーはどうだろう。
「(ホテルで)酔って従業員に絡む人も」「寝間着にスリッパでロビーをウロウロする人は少なくなったが、じゅうたんにツバを吐いたりたばこを捨てて焦がしたり」「ひどいのはロビーのイスで足を開いて高イビキ」……
中国人は、礼儀正しさを伝統とする日本人とは違うなあ……と、あえてそう思い込んでしまう書き方をしたが、実は全て日本人がやらかしたこと。東京五輪の年、1964年3月19日付毎日新聞の東京都内版が報じた日本人のマナーの悪さを嘆くホテル側の声の一部である。前年7月1日付では「汚れ放題東京の顔 銀座の歩道はゴミの山」との見出しで、通行人のごみのポイ捨てや住民が路上にぶちまけた「台所の残り物」が散乱する様子を伝えている。
そして今、日本のマナーに反する中国人観光客はいる。列に並ばなかったり、ごみを捨てたりする人を記者も見たことがある。だが−−。
「そこは『お互い様』です。最近まで私たちもそうでした。僕は70年代に米国留学したのですが、向こうで何に驚いたかというと、『割り込み』せず、みんなが列を作ること。当時の日本と大違いでした」と振り返るのは、社会心理学者で一橋大特任教授の山岸俊男さんだ。
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「怖いのは、そうした過去を忘れ、今あるものを『これが日本の伝統だ』『昔からそうだった』、そして『だから日本人は昔から優れていた』と思い込むこと。これは非合理的な思考だし、他国を見下す思想につながる。近ごろはそんな風潮が広がっているようで心配です……」
現状否定のため過去を美化
では、冒頭の選択的夫婦別姓はどうなのか。戸籍が作られた奈良時代から明治中期までは別姓が基本だったし、初めて同姓を強制したのは1898年の明治憲法下の旧民法で、当時は同姓が基本だった欧米に倣ったのだ。
「でも、現在では同姓を強制している国は極めて例外的。なぜ日本はこれほど不自由なのでしょうか」と首をひねるのは武蔵大の千田有紀教授(現代社会論)である。欧米でも近年は別姓も選べるようになっているし、逆に別姓が基本だった中国では同姓も選べる。
「明治以降の夫婦同姓が家族本来のかたち、という考え自体が『日本の伝統』と呼べるのかは疑問だし、『別姓を認めると家族の一体感が損なわれる』という反対論も根拠があるのでしょうか」
確かに別姓で家族の絆や一体感が崩壊した、あるいは別姓夫婦の子供の「個」の形成に問題が生じた、という国は聞いたことがない。離婚や再婚、事実婚や一人親が珍しくない今、親の姓が同一ではないことを問題にするのは意味があることなのだろうか。
中央大の山田昌弘教授(家族社会学)も苦笑いする。「『多数派がやっていること』を伝統と言い換え、少数派を従わせようとしているだけです。自分と異なる考えを認めない。それを正当化するために『家族が崩壊する』と言い出す。そもそも結婚には昔、通い婚などがあったし、家族の形も各地で本家や分家、隠居制のあり方などに違いがあってさまざまでした。それが日本の伝統なんですが……」
では、なぜ新しいものを「伝統」と考えたがるのか?
「根底にあるのは『伝統の捏造(ねつぞう)』と同じ考え」と分析するのは著書「江戸しぐさの正体」で知られる作家で歴史研究家の原田実さん。現在の道徳や公民の教科書が取り入れている「江戸の商人・町人の心得・風習である江戸しぐさ」なるものが、実は1980年代に創作されたことを2014年に著書で指摘し、今もなお教育界に波紋を広げている。
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「『昔は良かった』という考えがクセもの。この考えに従うと『今ある良いものは昔からあったはずだし、昔はさらに良かったはずだ』との考えに陥りやすい。だから『日本人の道徳・マナーは昔から優れていた』と考えてしまう。『戦後日本から道徳やモラル、公の心が失われた』と言う人は戦前を評価する傾向にあるが、これも同じ。本当にそう言えるのでしょうか」
試しに統計を見れば、戦前・戦中(1926〜45年)の殺人事件の人口10万人当たりの発生件数は1・25〜4・14件で、2014年の0・83件より高い。「現状否定のために過去を美化しても、史料に裏切られるのがオチ」と原田さん。
「理想の人間づくり」行く末は
「昔は良かった」と考える人が強調するその道徳教育、安倍政権は18年度以降に小中学校の「特別教科」とすることを決めた。著書「新しい国へ」で盛んに「問題はモラル低下だ」と指摘していた安倍首相らしい。山岸さんは「20世紀で、最も道徳教育に力を入れたのは旧ソ連や中国など社会主義国家でした。自分より公を大切にせよ、と。でも結果はご存じの通り。歴史上、どんな国・社会も道徳教育で『理想の人間づくり』に成功した事例はありません。これこそ『伝統』なんですが」。 年始から夏の参院選について「憲法改正を訴えていく」と力を込める安倍首相。自民党の憲法改正草案の前文には「良き伝統を……末永く子孫に継承する」とある。その「伝統」の正体を注視したい。
江戸しぐさに夫婦別姓・・・と、過去にもブログでとりあげたことのあるこの2つの話題は、多くのばあい右翼のでっち上げる伝統を左翼が冷静で科学的に論破するという構図をとっている。私は以前からその論破ぶりにまったく共感できないでいたのだが、上の引用記事を読んでその違和感の源泉は左翼特有の安倍が戦前回帰しようとしているってな印象与えたろう的下心がチラ見えしているところにあると確信した。
上の引用文を一部赤文字にしているが、ともかく受ける印象としては「道徳教育」への警戒心が強いということにつきる。しかし道徳教育って何なんだろうか。
私のJS時代にも道徳の授業はあったが人権教育とか愛国心教育みたいなディープなものは受けた覚えがなく、サンサンサン爽やか三組というNHKのドラマを視聴するクソテキトーな授業だった。だから何でそんなに道徳が論争になるのかあまりピンとこないものはあるのだが、道徳授業を介して坊やたちを将来戦場に送ろうとしてる性格悪い安倍ってな問題意識がどっからきたのか考えてみるとかれこれ10年前、教育基本法が改正した安倍政権第一期の2006年にまでさかのぼる。
旧教育基本法は1947年3月と、左翼が愛してやまない日本国憲法の1947年5月とほぼ同時期に施行しており、9条に引けをとらぬ人気爆発ぶりを見てもその内容は戦前の教育勅語を否定する方向性だったであろうことがうかがえる。しかし安倍総理は右翼(まだ長州藩)なので、そんなGHQに骨抜きされたサンサンサン爽やか三組みたいな道徳より教育勅語のほうがレベル高いと考え、愛国心「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」を盛り込んで左翼から強い反発を食らった・・・と、ウィキペディアとかには伝えられている。
左翼が本格的に安倍や伝統に食ってかかるようになったのは、その頃からだろう。しかし、近ごろは伝統の美しい面を否定しようとするあまり、昔の日本を恐ろしく描くことがあたかも冷静で格好良いとされ、伝統たいして好きじゃない私でさえ「そんなに昔の日本って悪ばっかりなのか?」と反発を覚えることのほうが多い。
伝統否定はニセ科学批判界隈でもめずらしくない歴史観だ。昔より今のほうが便利で衛生的になっているのだから、それらをもってすれば過去を否定することは簡単なのである。
しかしそれは今の状況があってこそ過去の道徳や衛生観念に戻れなくなっただけの話であって、当時を生きる人にとってはそれが普通であるし、ほかならぬ中国人だってそういった意味では遅れていてまさしく記事の中では高度経済成長期の日本人と同等として描かれている。しかし中国の道徳や生活のレベルが日本の水準に達していないからといって必ずしも当人たちが苦しんでいたり、私たちに学ぶべきものがないか?と問われると、そうとは限らないのではないか。
時期がくれば昔やってたことが再評価されることもあるし、そういう変化をいちがいに「過去にしがみついている」とは言うことはできぬ。例えば江戸しぐさ始め左翼が平和でエコで朝鮮通信使とばかりに江戸時代をもてはやしているが、江戸時代が評価されてこなかった時代もまた長らくあったのだそうだ。
しかし地球温暖化や日韓の醜い争いなど今日的な問題が表面化するにしたがって、「近代」「成長」とは本当に正しかったのか?という問いから再び江戸時代が輝き出したというわけである。だからって別に江戸しぐさを学校で教える必要はないと思うけども、明治維新で日本が近代化したという長州藩の成功体験でなく、その負の面をふまえればじつは江戸時代のほうが正しかった、という考えが出てくるのもそう不思議ではないし、それはそれで学ぶべきものなどない過去ではなく新しい歴史観の1つであるととらえた方がよいと思う。
そのうえで上の記事を読んでみると、まず昔の日本が江戸だったり戦前だったり戦後だったりと統一感がないうえに、安倍総理の道徳教育をなぜか安倍が嫌いであろう中国やソ連など社会主義国家になぞらえるなど、わざと読者に混乱させようとしているのか?と思うほど、私にとってはよく分からない歴史観だ。まず中国やソ連に対して伝統好きってイメージないし、記事には「昔は日本人も中国人なみだった」といった趣旨でゴミが散らかったような街や電車の50〜60年代の白黒写真が添えられているのだが、「戦後日本から道徳やモラルが失われた」論を文中で否定している以上、ゴミ画像は戦前のほうがいいような気がした。
だいたいこのゴミ画像の頃は経済成長という点で右翼(資本主義派)に評価されるべきところはあるが、まだ戦争の記憶も生々しく戦前はクソっていう意識が今以上に強く安保反対のデモも凄かったし、帰国事業では多くの在日が北朝鮮に渡ったりと今考えると社会主義全盛時代なので、どっちかというと左翼に美化されることのほうが多いくらいだ。今は右傾化したぶん世の中が悪くなった、と考える人が大半であろう。
きょうの潮流(しんぶん赤旗 1月25日)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-01-25/2016012501_06_0.html
最近「アベ過ぎる」という言葉がはやっているそうな。インターネットで検索すると、女子高生の間で使われ始めたとか。他人の話が聞けない、聞かれたことに答えない&ごまかす。そんなときに▼若者言葉は本質をつく場合があります。マスメディアに映る首相の姿から連想したのでしょうが、なかなか鋭い。なにしろ、この間の国会でも野党からの指摘や批判に「アベ過ぎる」をいかんなく発揮しているのですから▼
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こんな話も。全国の「アベ」姓の人たちが困っている。アベを許さないなどと聞くたびにドキッとする。早く辞めてほしい、と。同じ姓をもつ人から嫌がられ、若者にも軽んじられるような首相。それも、気づかない?
今回は「アベすぎる」ということでアベが形容詞化しているが、過去にも「アベしちゃおう」という動詞が大ブームになったことがあったし、何か去年も「自民党感じ悪いよね」「とりま廃案」など若い衆のあいだで安倍政権を揶揄するするどい新語が次々と人気爆発している。しかしいっぽうで「こんなコギャルがいたらいいなー」っていう日本共産党員の妄想って可能性も否定できない。
左翼が伝える「若者」の信憑性は、江戸しぐさ程度に考えておいたほうが賢明だ。
- 2016.01.28 Thursday
- 今話題
- 23:57
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- by 悩み