栄養全盛期萌え
以前パン史を振り返るのにあたり昔の資料や動画など見ていてふと、戦後しばらくのあいだ穴の開いた鍋でパンを自作するのがけっこう普通だったのか?と思ったのだが、やはり下記引用記事によると、戦争が終わって航空機用の資材であるジュラルミンが余ったのと米が不足していたために、ジュラルミン製のパン焼き器がかなり出回っていたとのことだ。このほか電気パン(電流パン、電極パン)というのも有名なようで、私が参照している書物「パンと昭和」においては「代用食の自家製パン」の章に詳しい。
江戸が知りたい。 東京ってなんだ?!(ほぼ日刊イトイ新聞)
https://www.1101.com/edo/2003-10-29.html
ほぼ日 戦争が終わって、また、日本人ってね、調子に乗りやすいというか‥‥。紙の次は、“ジュラルミン”のブームがやってくるんですね。
新田 この、変わりっぷりは、すごいですよね。戦時中は鉄が使えなかったので、いかに、鉄瓶を土瓶らしく陶器で作るのか、というようなことをやってきたかと思いきや、戦後になるとジュラルミンという航空機用の資材で、生活用品を作っていくという‥‥。
ほぼ日 これは、要するに、戦争が終わって、飛行機が作れなくなっちゃったから、ジュラルミンが余っちゃったというわけですね。
*ジュラルミン製パン焼き器
新田 戦時中は、食べ物をはじめとする物資は、配給って形でなんとか行き渡っていたんですが、戦後になると、それまで大陸にいた人たちが、いっぱい帰ってきて、都市は、食料不足で、どうにもならない状態になっていたんですね。でも、その中でも、アメリカからの援助物資で、コーンスターチとか小麦は比較的手に入りやすかったので、パンを食べるという習慣が、根付いたんですよ。
ほぼ日 パンは、みんな食べていたようですね。展示室で、年配のご婦人たちが、「昔、お家にあった」と言っていましたよ。
新田 パン焼き器に関しては、このジュラルミン製と、木製の、電化パン焼き器というのが流行ったみたいです。戦後の物資が不足してた時代に、ガス管がいたるところで断絶していたので、ガスは使えず、薪や炭も、前よりは簡単に手に入らなかったそうですが、電気は、比較的通っていたんです。電線を、焼けたトタン板かなんかにくっつけて、液体を入れると、電気が通るじゃないですか。それで、暖めてパンを焼くっていうような原初的な方法をとっていたんですね。
ほぼ日 そういえば、うちの母も、その方法のパン焼き器をアイロンの箱で作ったって言ってました。
今みたいにパンを自作するよりも店で買うほうが普通になったのは、60年代くらいだろうか。戦後すぐに配給小麦をパンに委託加工する製パン所が各地にでき給食も作っていたが、当時のニュース映画などを見る限り50年代後半のアメリカ小麦戦略下における栄養改善指導ではキッチンカー等の講習でパンを自作している様子だし、おそらく車や道路や商店などの流通網が発達してきたのが60年代入ってからで、「パンと昭和」によれば地方の製パン所のひとつにすぎなかったであろうシキシマ、フジパン、ヤマザキなどが全国展開になっていくのもこの頃である。
70年代にかけてはタカキベーカリーのダニッシュロールが1962年、ヤマザキのミニスナックゴールドが1970年、神戸屋サンミーが1971年発売とデニッシュ系の発売があいつぐなどパンの多様化がうかがえ、トングでパンを掴んでトレーに乗せる現代の方式も出てきたようだ。これらをふまえると50年代までは主食としてゴリ押されてはいたけどパンはあまりおいしいものではなかったし自作することが多く、60年代に朝にポップアップ式トースターで食パン焼いたり菓子パンなどが楽しまれるようになり、70年代に軽食として洗練され現在の地位を確立したという流れと推測される。
そのようなパン史の中で私が一番萌えるのは、やはり50年代後半のアメリカ小麦戦略におけるゴリ押し期だ。栄養指導にまわるキッチンカーを割烹着の嫁や姑が取り囲み欧米化したフライパンのおかずに食いつき、米あるし給食費払えねぇだという農村のおっかさんたちにパン給食の素晴らしさを説き、米を「馬鹿になる」と攻撃するなど、なりふりかまわぬ栄養礼賛(栄養=小麦、動物性の脂肪、たんぱく質、欧米化したおかず)は、和食は健康的だけどパンはジャンクフード、欧米化は体に悪いという現在の価値観からすると少なからぬ新鮮さをおぼえるのだった。
なので先日古本屋に逝って、当時の婦人雑誌を何冊か立ち読みしたところ、どれを読んでも米と張り合うかのようなパン食推奨記事があって、よほどバッシングされていたのか逆に「漬物で食べるから栄養バランスが偏るだけで米は悪くない」といった、米穀なんちゃら協会みたいな団体の反論広告まで載っていたほどであった。それ以外に読むとこなかったから買わなかったけど、あまりのゴリ押しぷりにアメリカの陰謀恐るべしとの思いを新たにした。
茨城県ニュースNO.33(1961年(昭和36年度)制作)
https://www.youtube.com/watch?v=moPZAV7IMO4
1961年の茨城県ニュースは土地柄かオープニングが原子力。核の平和利用と言われ出したのもアメリカ小麦戦略と同じころで戦後史の闇を感じる。
やはりここでも山村を砂ぼこりをあげて爆走するキッチンカー。音楽はキッチンカーのテーマソングか?
キッチンカーに群がるご婦人がた。昭和30年代においてこの光景は全国共通である。
「この車は別の名をキッチンカーとか動くお台所などと呼ばれ、内部にはりっぱに管理された調理室を持ち、私たちのくらしの中でいちばん大切な食生活の改善や合理化などについて各保健所の栄養士さんたちが現地で指導をおこない、健全な体位の向上をはかるため実施されています」
「安くておいしく、しかも栄養のある料理の仕方を早く身につけようと、みんなパンフレットを片手に熱心に講習を受けています」
当時の僻地に住むご婦人がたは、服装もだけど栄養改善される前なだけあって今ではまったく見かけなくなったタイプの顔だしびっくりするくらい老けてる。こう見えて右のお婆さんも60代とかけっこう若いんだろうなきっと。
茨城に来たキッチンカーもソフトメンじゃないけど何かうどんみたいなの作った。手に乗せて試食。
昭和40年 伸びよおおしく(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=cLlaq-tdULM
農村の栄養改善する「栄養の谷間」と同じく静岡県の健康や体位向上に関するお宝動画「伸びよおおしく」。栄養の谷間の4年後の1965年制作。
「動く台所と呼ばれる、県の栄養指導車」
「山村、僻地の食生活の合理化を目指す栄養士さんは経済的で栄養価の高い料理を作って指導しています」
「こうして子供をはじめ家族全体の健康増進に効果をあげています」
昭和も40年代に入ると僻地とはいえ試食にむらがるご婦人がたの服装がそれ以前のキッチンカー動画よりかなり現代的になっているように感じられた。そのかんにも栄養士さんの栄養指導講習(どっさりめしばっかり食べてないで、肉のおかずや牛乳など動物性食品を取り入れよという指導)は多く開かれていたようだ。
「発育ざかりの子どもたちには栄養価の高い食事が与えられます」
給食でパンではなく麺を食べる児童。静岡なだけあって当時関東および東海を中心に導入されたばかりのソフトメン(スパゲッティ式めん)か。
今みたいな黄色いスパゲッティが食べられるようになったのは70年代くらいからだろうとみているが、たぶんそれまでこういう謎の細麺をスパゲッティって言い張ってたと思う。そして米飯給食導入は1976年まで待たなくてはならなかった。
ソフトスパゲッティ式めん(Wikipedia)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E5%BC%8F%E3%82%81%E3%82%93
歴史
1960年代、当時パンのみであった学校給食の主食を増やすために開発され、東京都が学校給食に採用をしてから各地で採用されていった。それゆえ関東地方や東海地方と、中国地方の一部ではよく知られている一方、東北、関西、四国、九州(沖縄県を含む)、北海道(札幌市を除く)、北陸・甲信越の各地方では、ほとんど知られていないことがある。他の主食と同様に、自校給食の場合でも調理されて蒸しあがったものが業者から納入される。
当時は美味しくないことで不評であった給食用パンに端を発する給食嫌い(給食離れ)が進行していたが、アメリカ産小麦の輸入と消費を維持するという大前提から、米飯は導入されなかった。1970年代後半から米飯給食の見直しが進められ、現在では米飯給食の普及や他の麺の登場によりソフト麺には学校給食として往時の勢いはないが、懐かしさからまた食べたいと望む声が多いため、コンビニ弁当や通信販売等で入手することができる。『思い出の給食』アンケートをとると関東地方では常に上位に位置するメニューでもある[3][4]。
『岡山県ニュース』くらしにとける牛乳(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=0RGKrQOsMk0
これは小麦ではないのだが、戦後援助物資である脱脂粉乳に始まり米飯給食導入後もごはんに全然合わないのにもかかわらず給食にゴリ押しされ続けるなどパンとセットで語られることの多い牛乳。最近は飲まない人も多いけど、まだパンよりは「栄養」のイメージを維持していると思われる。
この時代、といっても岡山県のニュース動画は何年か書いてないのだが、ともかくアメリカ資本のキッチンカーを筆頭に栄養に関する講習(どっさりめしばっかり食べてないで、肉のおかずや牛乳など動物性食品を取り入れよという指導)とか料理のコンクールすごい多かった模様。栄養改善は厚生省の一大プロジェクトだったにちがいない。
「最近では牛乳を飲むだけでなく、どんな料理にでも取り入れられています。婦人会や保健所で開かれる栄養教室では、牛乳料理の講習会に人気が集まります。牛乳は私たちに不足がちなカルシウムやビタミンを十分に補ってくれるバランスの取れた食品です。他のいくつかの食品を合わせたものに劣らない栄養を持っています」
「さっそく主婦が牛乳を使って家庭料理に腕を振るいます」
牛乳を使った料理ってシチューみたいなのしかできなさそうだが・・・
「出来上がった栄養料理に一家は楽しく食事が進みます」
牛乳のおかずに主食はパン、飲み物は牛乳、とまるで学校給食のような模範的栄養料理である。
『岡山県ニュース』町でも村でも牛乳ラッシュ(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=vD8bWdMUcqw
「岡山県の牛乳生産量は毎年2万1000キロリットルで全国で16位、 その消費量は年とともに増加していますが他県に比べるとまだまだ少ないのです」
オハヨー乳業のおひざもとであるにもかかわらず岡山の牛乳消費量は他県より少なかった。アドバルーンで牛乳を宣伝。
「美作町のある酪農家では、毎日水やお茶の代わりに一家7人こぞって牛乳を飲むので、年間9俵のお米が節約できました」
牛乳ってもはや主食じゃねぇだろと思うのだが、牛乳を水がわりに飲んでいるので米を節約できたという、どっさりめしの弊害がうたわれた栄養改善期らしい自慢。
「勝北町の役場では、牛乳を使った新しい栄養料理の講習会を始めています」
先ほど牛乳を使った料理ってシチューみたいなのしかなくね?と思ったのだけど、この動画では「野菜のクリーム煮」と「卵のコロッケ」って書いてる。漬物でどっさりめしを食べていた戦前にはなじみのなかっただろう乳や肉や卵を使い、それも油で揚げるという栄養ゆたかな料理を、講習をうけたご婦人がたはさっそく家族にふるまったにちがいない。
『岡山県ニュース』栄養まつり(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=jRieRXrdXdE
「都窪郡清音村は昭和23年9月、岡山県から全国でも珍しい栄養改善標準村の指定を受けました」
「それ以来全村一体となって、栄養改善を中心に台所の改良など生活改善に努力を続けてきました」
改良された文化的な台所で牛乳を使った栄養料理に腕をふるうご婦人がた。
「満10周年を迎えた4月23日、村では盛大な栄養まつりが催されました。 村には賞状や記念品が知事から贈られ、また栄養改善の功労者たちは村から表彰されました」
「この日料理コンクールも行われ、日頃の腕を競った1食分30円の安くて栄養の高い、しかもおいしい料理は人々の味覚をそそるのに十分でした」
乳料理コンクールって書いてるけど、牛乳を使った料理ってそんなにバリエーションあるのか?・・・と、どうも栄養改善期における牛乳料理ゴリ押しな風潮をひしひしと感じるお宝動画群であった。とりあえず栄養改善およびパン食奨励のノリはなんとなくわかったので、その批判の先鋒である幕内秀夫の著作も今後読んで逝こうと心に誓った。
【学校給食の裏面史「アメリカ小麦戦略」 / 鈴木 猛夫】No.6〜10
http://nakayamaj.com/?page_id=4904
戦後の日本人の食生活欧米化の発端は巨額な費用を注ぎ込んだアメリカ側の見事な小麦戦略であり、それは予期以上の大成功を納めた。パンを主食とするとおかずは自ずと肉、卵、牛乳、乳製品という欧米型食生活になる傾向がある。それらの食材の提供先はアメリカでありそこにアメリカの真の狙いがあった。前号で書いたように東畑朝子先生が「みんな隠したがっている」こととはまさにアメリカ側の資金で戦後の食生活改善運動が推し進められたというあまり知られていないこの事実である。戦後の改善運動ではパン、肉、卵、牛乳、乳製品等の摂取が勧められてきた。厚生省、栄養学者はそれらをバランスよく摂取するという欧米型食生活が正しいと信じ栄養行政に反映させ、栄養教育をしてきた。それは栄養学的にみて望ましいとされ(実際には大いに疑問があると筆者は思うが)、厚生省の管轄下にある各地の栄養学校ではそれらの食品の優位性が強調された栄養学が教育されてきた。「肉は良質な蛋白質である」「牛乳はカルシウムの吸収が良い」等々のように。しかし栄養学的に正しいから国民に教育してきたのだろうか。
昭和30年代のこれらのアメリカ側の強引な粉食奨励策をみてくると純粋に栄養学上というよりも、アメリカの余剰農産物処理という政治戦略によって推進されたのである。
食生活改善運動の理論的ささえとなってきたいわゆる現代栄養学を一生懸命教えてきた栄養学者にとっては、この日米一体となって推進してきた食生活欧米化の大事な原因についてはあまり栄養士の卵には教えたくないのが本音だ。だから現代栄養学の優位性をことさら強調する栄養教育が行なわれてきたのだと思う。国民にはもちろんキッチンカーに乗せられ一生懸命活動した栄養士、保健婦たちにもその資金の出所についてはほとんど知らされていなかったのである。「隠したがっている」事実こそ戦後最大の厚生省、栄養教育者のタブーであり、触れられたくないことなのだ。
- 2017.07.24 Monday
- 懐かしい
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- by 悩み