産婆ルネッサンス

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    評価:
    大滝詠一 あがた森魚
    キングレコード
    ¥ 1,250
    (2012-10-03)

    急激な経済成長と技術革新でライフスタイルが激変し豊かさ便利さとひきかえにポイズンでもあった1960〜70年代における薬害や物価高、添加物てんこもりのウソツキ食品に対する三一新書や生活協同組合およびオバタリアンの活躍をロハス史振り返るシリーズでご紹介したが、これはロハス以前の話であって反原発とか自然に帰ろうってな今に近いノリが発生してくるのは1980年ごろというのがわが持論だ。その例としてあげた高橋晄正と日本消費者連盟、また合成洗剤許容派と石けん派の分裂のほか、出産育児にかんしてもオバタリアン世代(核家族、団地妻)は病院出産や粉ミルクがオシャで抱き癖禁止といったスポック博士的価値観だったのが、だんだん昔ながらの産婆(助産婦)や母乳や自然分娩が見直されてくるようになる、そのタイミングってやっぱり1980年ごろなんじゃないだろうか。

    このブログで何回か書いてるように10年ほど前エコブームと入れかわるがごとく胎内記憶とか自然なお産がチーズタッカルビばりにゴリ押されてた時期があり、そういう番組で特集される母乳の絶対出るマッサージとか、○人の赤ちゃんをとりあげたカリスマ助産師みたいな婆さん、病院出産や粉ミルクがオシャだった時代はどういうポジションだったんだ?って当時から少々疑問に思っていた。助産院はいちおう戦前からの流れで存在はしてたけど、病院に押されて絶滅危惧種の遅れた人達くらいに思われ軽んじられてたんだろうか。

     

    母乳の自然主義とその歴史的変遷

    https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/skajitani2.pdf

    こうした世界的な流れを見ると、日本において明治時代に人工乳が入ってきたのも、欧米のメーカーによる世界市場の開拓の一環であったように思える。しかし幸いなことに日本では、欧米の植民地になっていたアジア、アフリカ諸国のような大規模な悲劇は起こらなかった。おそらくそのためであろうが、人工乳のこうした冷酷な産業資本主義的側面は、戦後まで顕在化しなかった。その意味で、1955年に起きた森永ヒ素ミルク中毒事件は、人工乳のもつ独特な危険性が日本で露呈する重要なきっかけになったと言えよう。この事件では、被害者となった子供が約1万2000人、うち131人が死亡した 59)。粉ミルクという工業製品は、かつて母乳に比べて乳母が危険だとか、動物の乳はよくないと言われたレベルとは、比べようもないほど複雑である。それは医療を通して直接母子に介入し、経済活動を通して社会全体に広がるがゆえに、母子の身体も、両者をつなぐ母乳も、いつの間にか巻き込んでいく。

    もっとも、この事件に対する注目は、しばらくはあまり集まらなかったようである。社会的な関心が高まるのは、裁判が大詰めを迎え、被害者とのあいだで和解が成立する70年代である 60)。この時期は、上述したことからも分かるように、世界的に人工乳への警戒、母乳哺育の見直しと呼びかけが盛んになされた時期である。日本でもそれと並行するように、母乳への関心も強くなり、上述した松村龍雄の他、松田道雄山内逸郎といった母乳推進派の医師の努力により、母乳哺育の割合も増えたようである(cf. 山本 1983、117)61)。

    戦後も、それ以前と同様、母乳哺育が自然だからいいのだと、繰り返し言われた。だが、母乳への関心の強さは、つねに同じではないのだ 。戦後は、明治・大正とは異なり、人工乳が庶民にも買えるようになり、「山の手から下町へ、都市から農村へ」(山本 1983、110)と広がっていった。社会全体で見ると、人工乳に対しては、まだしばらくのあいだ、警戒心よりも憧れのほうが強かったにちがいない。人工乳はモダンで、新しいがゆえによいものであり、女性解放のシンボルとしても受け止められた。汚染されたミルクによる死亡事故が起きても、ミルクは新しい、医学的にも保証された便利なものだという考え方が続いた(cf.前掲書、184)62)。そして高度成長期になってもまだ、「乳がよく出ない」という言葉は、一種のステータスシンボルのように使われ、いわゆるインテリほど自分で授乳せず、人工栄養で子供を育てた。逆に母乳を与えるのは、古臭いとか貧乏くさいといったイメージと結びつき、文化程度が低い人たちの習俗だとされたようだ。

     

    上の引用は助産院や出産については書いてなさそうだが、粉ミルクの普及期であろう高度経済成長期においては母乳が貧乏くさく、乳の出が悪いのがステータスだったとのことで、母乳推進派の医師の努力もあって母乳の価値が見直されてきたのが70年代だという。じっさい検索してても1980年より前って上記引用で母乳推進派として名前の挙げられている松村龍雄著「母乳主義―あなたの子どもは「牛」ではない」(1972年)って、牛さんのおっぱいに赤ちゃんがぶら下がっているという、おそらく牛乳は牛の子どもが飲むもんだから人間が飲んでんじゃねぇって内容とおぼしき本があるぐらいで、自然なお産、育児、産婆、とかが出てくるのはだいたい80年代以降、三森孔子(みもりよしこ)という助産師によって提唱されたラマーズ法という呼吸法が1978年11月、朝日新聞の特集「お産革命」によって注目されたのが最初期ではなかろうか。

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4579200306

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4326799188

     

    私がロハス史振り返るシリーズでもっとも主張したいところに、それまでてんでんばらばらに存在していたであろう生協、ヒッピー、反原発、マクロビオティック、そういう自然派っぽい奴が1980年代を通じてロハス的価値観に統合されていくって歴史観があるのだけども、ラマーズ法が出てきた時期を考えるとお産もまた例外ではないだろう。昔はラマーズ法っていうのがあって云々って言う人は50〜60代くらいのイメージがあるので、やっぱりその世代が赤ちゃんを産んでいた80年代に人気爆発した呼吸法と考えられる。

    とするとオバタリアン〜団塊はスポック世代、その下の1950〜60年生まれがラマーズ世代ってとこだろうか。やっぱり自然なお産は苦痛なので、自分らしい素敵なお産にするためにそういう呼吸法を取り入れようって運動だったと思われる。

     

    母と子のサロン 矢島助産院

    http://m.webry.info/at/osan-to-oppai/201106/article_27.htm?i=&p=1&c=m&guid=on

    院長のユカさんは、かつてラマーズ法が自然出産の代名詞だった時代に、その中心的な存在だった三森助産院に勤務していた方です。三森助産院は院長先生が亡くなられたあと閉鎖しましたが、ここからたくさんの開業助産婦さんが育ったところです。中でも勤務年数が長く自宅も近かったユカさんは、開業のスタートも、三森助産院がなくなって困ったしまった人を自宅出産で引き受けるような形でした。3年ほど自宅専門でがんばったあと、1990年に今の地に移り、ゆったり入院出産ができる助産院を建てられました。
    ごく普通のおうちスタイルの助産院で、入院時は、陣痛、お産、産後まで同じ畳の部屋で過ごします。入院している人とスタッフのご飯を作る場であるダイニング・キッチンは居間とひとつながりになっていて、ここに来る人すべてに解放されています。助産師さんと、また妊婦・産婦どうしで、ふれあいを楽しみ、お産や育児のことをたくさん話していけそうなところです。
    入院出産がメインになってから長い今も、まだ自宅出産を大事に続けているのもここの特徴です。ユカさんご自身が三番目のお子さんを三森先生の介助で自宅出産していて、その良さを強く実感しているからでしょう。

     

    ラマーズ法を提唱した三森助産院からたくさんの開業助産師が育ったとあるが、たしかに今自然なお産や母乳推進の助産師ももともとは病院勤務だったのが80年代以降に助産院開業していることが多いように思う。上記引用にある矢島助産院も80年代に三森助産院から派生した助産院であり、多数マスコミに露出していることを考えても、自然なお産はやはりラマーズ法の系譜なのだろう。

     

    [シリーズ・産み、育てる] 助産所で産むということ(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=vp_1nPBKPZo

    矢島院長「自分の好きな姿勢で、好きなように声を出して・・・そして何て言うかな、自分の思うままにこう産んでいける。そういうお産が私は一番大事じゃないかなと思って」

    ナレーション「矢島助産院ではお産はこうでなければいけないという決まりはなく、無事に出産を終えたら全員で乾杯してお祝いするなど楽しくお産をしようという雰囲気がただよっています」

     

    『うまれる』医療機関向けDVDサンプル(不妊と流産を乗り越えて)(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=BeMjgveyAhk

     

    一般社団法人 矢島助産院 国分寺(YouTube)

    https://www.youtube.com/watch?v=J706WbgdZlQ

    「あんなに愛されて、抱きしめてもらって、お産をしたことは宝物だし、女の人は産むことで赤ちゃんを生み出してお母さんになるけど、私の中の私を生ませてもらったっていうことがやっぱり矢島さんだったからできたなっていうのをすごく感じます」

     

    80年代におけるラマーズ法が分娩台から自分らしい自然なお産へってな流れのはしりと思われるのだが、1986年にはもはやヒッピーとしか思えない山縣良江という屋久島の助産師が「聖なる産声」って本を正食出版ってとこから出している。この正食出版って初めて聞いたうえ検索しても何も出てこなく、サイトによってはたま出版って書いてるとこもある。

    とりあえず正食ってのはマクロビオティックのことであるし、たま出版ってのはオカルト系の出版社で、Wikipediaによると同出版社は80年代にアクエリアス革命って雑誌を出していたそうだが、アクエリアスとはみずがめ座、ニューエイジとはみずがめ座の時代のことなのだった。山縣助産師の息子は歌手のあがた森魚だそうである。

     

    https://www.amazon.co.jp/dp/4884811542

     

    『聖なる産声』 山縣良江著 たま出版(REBORNお産図書館)

    http://www.web-reborn.com/books/library.php?id=129

    REBORNコメント

    屋久島の大自然の中で天然村助産院を開業し、全国から集まってきた妊婦たちのお産を取りあげていた山縣助産婦。耕した畑で採れた無農薬の野菜をつかい、自らマクロビオティック(自然食)の食事をつくりながら、食を正してからだを動かし、規律正しい妊娠生活を送ることによって、自然出産に向けたからだづくりをすることができると説く。明治生まれの気骨な精神が読み取れる。

    (REBRON きくちさかえ)

    内容

    自然なお産は、朝日が輝き出ずるがごとく、神秘的で、自然に与えられた天与の術です。

    目次

    第1章 女性の願いは自然なお産
    第2章 母性が目覚めるとき
    第3章 母と子のきずな、胎教・食
    第4章 妊娠・出産の心がまえ
    第5章 緊急のときのお産

     

    あがた森魚の「赤色エレジー」

    http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/agata.html

    ・・・

    そして、彼の母親である、山縣(やまがた)良江さんも、
    精神世界では、それなりの有名人だった。
    自然分娩を行う助産婦として「聖なる産声」という著書があり、
    また、マクロビオテックの講師として、日本全国を回ってもいたのだ。
    ・・・

    話は戻るが、痩せて肌が色黒の山縣良江さんは、
    (マクロビオテックの人は、みんなそうだったように思う)
    鹿児島県の屋久島に一万坪の土地を持って、畑を耕し、
    夫婦で自給自足の田舎暮らしをしていたが、
    既に故人となった。
    (良江さんがうちに泊まった時、息子のあがた森魚さんが
    一週間後に、タモリの「笑っていいとも」の冒頭のコーナーの
    「テレフォンショッキング」に出演する予定だと言っていた。
    あれは当日に翌日の出演をお友達に交渉するはずであるように
    テレビでは見せているが、それが、へえ、一週間前にもう既に
    決まっているのかと、テレビの演出に感心したものである)
    ・・・

     

    検索してたらあがた森魚のライブ会場がカフェスローって書いてあるサイトがあるのだが、カフェスローといえば確かエコブーム時にキャンドルナイトやスローフードやハチドリのひとしずくやブータン幸せ説を提唱していた辻信一のお店で、前述の矢島助産院とも近い距離にあるし、矢島助産院の写真展もやっていたようだ。美健ガイドでもおなじみ真弓定夫先生が顧問をつとめていた自然育児友の会の住所もカフェスローで、同会もまた80年代における出産育児のロハス化の流れの中で生まれた集まりと思われる。

     

    『 矢島助産院写真展〜お産でうまれるもの〜』ギャラリー&トーク(カフェスローに集う〜イベントカレンダー〜)

    http://event.cafeslow.com/?eid=1080641

    期間中トークイベント開催!
    『お産でうまれるもの 〜矢島床子とお産を語ろう〜 』
    お産が女性や家族にもたらすものは何でしょう?矢島助産院で産んだ方々に、お産を経て、自身や家族に何がうまれたか語って頂きます。
    矢島も皆さんと一緒に語り合います。
    産んだ方、これから産む方、助産院でお産をされていない方、お子様からお年寄りまで、どなたでも是非ご参加ください。

    ■日時:2014年7月4日 OPEN:18:00 START:19:00
    ■参加費:事前予約:1,800円 当日:2,000円 /共に1ドリンク付 *高校生以下無料
    ■出演者:矢島床子と矢島助産院で出産した人たち
    ■予約申込み:カフェスローまで


    最新映画情報

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      この本↓は読んでないけど、池川明に先がけて胎内記憶の本出してた七田眞って人は胎教や右脳などの著書があり、子供の能力開発で有名な教育者のようだ。その教育法と胎内記憶がどうつながってくるんだろうと30秒ほど考え、胎児〜乳児期の教育がのちの人生を決定ずけるっていう思考なのかなととりあえずの仮説を立てた。

       

      https://www.amazon.co.jp/dp/4478860254

       

      夢を叶えるための確かな力が養われる七田式教育。 10年後・20年後に活躍するための最初の一歩です。 望結ちゃんのパパママインタビュー(七田チャイルドアカデミー)

      https://www.shichida.ne.jp/point/point1/interview.html

       

      本田望結&本田紗来 CM 0歳からの幼児教室七田チャイルドアカデミー(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=5UYcDfhiLMA

       

      七田チャイルドアカデミー/本田望結ちゃん フラッシュ記憶(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=kCQGsJQ3_Sk

       

      子役の本田望結ちゃん姉妹優秀で多才の秘密は1歳からの七田式教育だったのか。でこの七田氏のドキュメンタリー映画「魂の教育」の予告動画を見てて、なんか監督の名前見たことあるな。と思って検索したところ、「数霊」「不食の時代〜愛と慈悲の少食〜」「 祈り〜サムシンググレートとの対話〜」などタイトルからしてスピリチュアルぽい映画を多数撮っており、2015年の「蘇生」では船瀬俊介やEM菌の比嘉照夫、あさってから都市圏を中心に順次公開される最新作「リーディング」はエドガーケイシーの映画らしく短い予告動画の中で今話題の池川明先生も出てたので胎内記憶とかニューエイジ興味ある人は見に逝ってみてはいかがだろうか。

       

      映画「魂の教育」予告編(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=we7TKcexmTE

       

      映画「蘇生」予告編《一分》(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=jcidMIk25LY

       

      映画「リーディング」予告編 LONG(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=6hQPv2aJqgY


      ほんものを求めて

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        評価:
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        ミヨシ石鹸
        ¥ 675
        (2002-07-04)

        マクロビオティック人気の影響か戦後欧米化の象徴としてパンや白砂糖と同じく自然派界からはモー毒視されることも多い牛乳だが、そういうのは私が知る限りここ10年程度の風潮であり、粗悪なうそつき食品(by郡司篤孝)やニセモノ食品がはびこった昭和の時代にはむしろ三一新書や当時の子育て世代だったオバタリアンが「ほんものの牛乳」を求め価格や成分にダメ出しする消費者運動が主だった。という話はさっき書いたとうりである。高度経済成長期下における物価高や食品公害を受けオバタリアン世代の奥さまがたを共同購入や産直にかりたてるきっかけが牛乳だったからか、今現在も生協の主力商品は牛乳が多い印象を受ける。

         

        http://www.tokai-denshi.co.jp/app/experiences/view/21

         

        たとえばこのパルシステムっていう生協のトラックに書いてるかわゆい牛さんはパルシステム独自ブランドのこんせん72牛乳っていう72度の低温殺菌牛乳(普通の牛乳は120度くらいで殺菌)のキャラだ。あと画像から産直いきいき品質や、石油由来ではなくてんぷら油のリサイクルで宅配していることをアッピールしていることがわかる。

         

        誕生までに、8年もの時間を要しました。(こんせん72牛乳)

        http://item.pal-system.co.jp/milk/konsen72/

        いまでこそ、パルシステムを代表する商品のひとつとなった『こんせん72牛乳』ですが、72℃15秒殺菌に至るまでには、実に8年もの歳月がかかりました。
        いまでは考えられないことかもしれませんが、1970年代は、ヤシ油や加工でんぷんを加えた加工乳までが牛乳として販売されていた時代。「安心して飲める、ほんものの牛乳がほしい」という組合員の声にこたえ、1979年に開発がスタート。1981年に産地を限定した『こんせん牛乳』が生まれました。
        初代『こんせん牛乳』の誕生後も、「生乳本来の味わいの牛乳を食卓に」という同じ思いのもと、生産者、組合員が殺菌温度を下げるために努力を重ね、1987年にようやくHTSTで作り上げたのが、『こんせん72牛乳』なのです。

         

        ほんもの実感!」くらしづくりアクション(パルシステム)

        http://www.pal-system.co.jp/about/honmono/?item

         

        パルシステムには牛乳だけでなく、「水ばしょう」という独自ブランドの石けんもあるようだ。下の引用は生協OB協会が編著の「パルの素〜いま、伝えたいメッセージ〜」 (200 6年9月発行)から転記したものだという。

         

        何かがおかしい

        http://www.palsystem-shizuoka.coop/syouhin/pdf/sekken.pdf

        現在のパルシステムにおいて輝き続けるロングセラー、オリジナル石けん「水ばしょう」 私たちの生協が「石けん派生協」の異名を取り、時代をリードしてきたことを知っているだろうか。 海も、川も、山も、空も、公害ですべておかしくなってしまっていた1970年代、まだ何百人、何千人の小さく弱かった私たちの生協を一つにまとめ、社会的な発言力を勝ち得てきた主役がこの「水ばしょう」を中心とした石けんなのだ。

        ・・・

        1960年代初めに10%程度だった電気洗濯機の普及率が1970年代までのわずか10年間でなんと90%にまで達しようとしていたそんな時代、急速なライフスタイルの変化とともに生活の至る所に浸透し始めていた歯磨き粉、液体シャンプーやリンス、漂白剤などといった新しいタイプの化学物質が、私たちの身体に何か害を与えつつあることは、文字通り肌で感じられた。

        ・・・

        現在のパルシステムの前身にあたる各単協は、ほとんどがこの頃に出来ている。生協の成り立ちには様々な理由があるが、他頁でも取り上げる牛乳、卵、そしてこの石けんの取り扱いに端を発しているものも多い。

         

        石けん運動については比較的最近記事にしたためロハス史コーナーでは雑な説明ですますと、高度経済成長期(1950年代後半くらい)にアメリカ小麦戦略の陰謀により日本人は生野菜や油の多い欧米化な食事を食べるようになったり、また電気洗濯機を使いだしたので、そんなライフスタイルの変化にともない合成洗剤も人気爆発し1960年代に入ると石けんは主役の座を奪われることとなる。しかしライオンから出ていた野菜洗いライポンFの毒性に気づいた柳沢先生が中心となり、合成洗剤の危なさを告発しだした。

         

        https://www.amazon.co.jp/dp/B000JAF7OU/

         

        その後70年代に入るとABS=ハード型洗剤はLAS=ソフト型洗剤にとって変わられたのだが、今度はリンと水質汚染(富栄養化、赤潮)が問題になって、たぶんこのリンが問題になったときに盛り上がったのが石けんでシャンプーや食器洗いや洗濯しようっていう石けん運動で、現在もシャボン玉石けんとかパックスナチュロンみたいな合成洗剤敵視する石けん会社のノリにその時代の名残りを見ることができる。しかし80年代に無リン洗剤が主流になっても石けんで洗いませう。と宗教的になってきたことで、だんだん運動も盛り下がっていったのではないだろうか。

         

        https://www.amazon.co.jp/dp/B000J86L1U/

         

        [4]合成洗剤v.s.石けん論争の経緯

        http://www.detergent.jp/oya/x004.html

        ・・・

        このように、1970年代までの合成洗剤をめぐる情勢は、環境関連では合成洗剤有害説が通って改善策が図られましたから洗剤反対の消費者グループの勝利として捉えられますが、人体への毒性に関する有害説は、何れも科学的な論争で打ち勝つことができませんでした。特に催奇形性に関する論争は、特定の研究者から再現性のない結果が連続して出されるという問題ある結果を導きました。そして1980年より、合成洗剤に反対する消費者運動は、環境面での成果をもとに、より良い洗剤ならば合成洗剤でも認めるという方針のグループと、あくまで石けん以外の合成洗剤は一切認めないとするグループとに二分されることとなりました。

        1983年には「洗剤の毒性とその評価」が発行されました。これは、界面活性剤の毒性に関するレビューで、公正を期するためにそれまでに合成洗剤論争に関連していた人物は除き、熊本水俣病や新潟水俣病を指摘してきた市民派学者をメンバーに加えた執筆者グループで仕上げた超大作で、洗剤関連の毒性についての専門家レベルの情報の決定版ともいえるものです。この書籍の発行後、専門家レベルからの毒性問題指摘はほとんど見られなくなりました。

        ・・・

        一方で、1990年以降、石けん製造・販売企業がリードするゲリラ的な合成洗剤有害説が幅を利かせるようになってきました。その特徴は、せっかく築いてきた洗剤に関する「市民科学」を打ち壊すようなレベルの低いもので、石けんの純分が高いものが安全性や環境面で優れているといった根拠のない情報や、石けんの有害性はゼロであるとする情報等、今までの洗剤論争の意味は何だったのかと落胆させるばかりの内容です。

        現在、インターネット等の媒体を介した、機能水や健康食品、民間療法などの悪質商法の問題が表面化しつつあります。これらの商法の一環として合成洗剤有害説は扱われるようになってしまったといえるでしょう。従来の合成洗剤有害説は、科学的な正誤は別として、基本的には消費者の安全を第一としたコンシューマリズム、または科学技術第一主義に対する反発等のポリシーが核となっていました。しかし、現在の合成洗剤有害説は、石けん等の販売組織が営利目的で発信するもの、またその情報に踊らされた消費者の発する情報が大部分を占めています。洗剤に関する科学の危機的状況にあるといえるでしょう。

        ・・・

         

        上の引用記事によると科学的見地にかんがみて合成洗剤でも優しい成分ならおk派と、石けん以外許さぬ派が二分したのが1980年だそうで、これは高橋晄正と日本消費者連盟の決別とも同じ時期である。60〜70年代には三一新書やオバタリアン世代の主婦による反公害(薬害、環境汚染、食品公害など)だった消費者運動が1980年ごろに科学を重視する派とそうでない派が分裂、そうでない派にヒッピーのノリが入ったりスリーマイル島からの反原発運動が出てきたりと現在のロハスに近いノリになってくる。ってのが私の歴史観だ。

         

        「石油ショックというのは、当時の我々の生協(北多摩生協)の経営にとっては非常に大きくて、あれで何とか回せるようになったというのが実感ですね。北多摩生協は組合員で2.5倍、事業高で3倍伸びたんですよ。あれがなかったら、恐らくつぶれていたでしょうね」 (元北多摩生協専務理事中澤満正氏)

        「洗剤がなく、トイレットペーパーがなく、誰でもスーパーにいきましたよね。でも私、全然行った記憶がないんです。生協に入っていたら、並びにいかなくてもいいという意識はありました」 (元あけぼの生協理事)

        (合成洗剤追放と石けん普及用に)センセーショナルな『奇形児出産?』というテーマの写真を使ってビラを作り、自由が丘駅頭で訴えたのと、1 973年の石油ショックによる合成洗剤買い占めとがちょうど同じ頃でした。ビラを取る人たちが真剣に読んでくれたのには感激しましたね」 (元あけぼの生協理事)

        ・・・

         「水ばしょう」を結束の核として 、当時の事業連では合成洗剤追放と石けん利用の運動を拡大していった。1980年11月12日には「すべての合成洗剤を追放する生協組合員集会」を開催、会場の全電通会館は加盟の20生協組合員5百名の熱気で埋め尽された。 この時のスローガンは、

        1、合成洗剤の製造、販売を中止させ、企業の責任を追及しよう。

        2、環境汚染をなくし、豊かな自然をとりもどそう。

        3、無リン洗剤も危険、石けんを使おう

        4、買わない、使わない、贈らない、三ない運動を拡げよう

        の4つで、運動の学術的支柱、柳沢文徳氏の講演、ゼッケンやプラカードを掲げたデモ行進を伴った事業連初の大イベントとなった。 翌1981年3月16日には、お中元やお歳暮で家庭に眠っている合成洗剤を生協内で石けんと交換し集め、日本石鹸洗剤工業会に「合洗はいらないので引き取ってくれ」と訴える 大デモンストレーションを決行した。この時集められた合成洗剤は3トンにものぼり、 トラック3台に積み上げて、150名の組合員とともに有楽町の都庁前から日本橋の日本石鹸洗剤工業会事務所まで行進した。工業会と「受け取れ」「受け取らない」の押し問答ののち、なかば強引にも事務所前にうずたかく積み上げて「お引き取り」願った抗議行動のパフォーマンスはテレビをはじめマスコミでも大きく取り上げられ、当事者のみならず世間に広くこの運動と私たちの存在を知らしめるエポックとなった。

        ・・・

        続いて事業連では、合成洗剤追放運動のスローガンに「作らせない、売らせない」を加え、大手チェーン、スーパー店頭での合成洗剤販売中止を狙った運動戦略に出る。これが 「西友交渉」と呼ばれる次のデモンストレーションだ。ターゲットになった西友ストアは 当時、有リン洗剤の販売中止や有機農産物の販売など、チェーンストアのなかでは比較的に環境問題に理解のある経営をしていると見られた。そこで私たち生協は各地域の西友ストアの店頭に押し掛け合成洗剤の販売中止を訴え、本店との交渉でチェーン全体への圧力をかけ、最終的にはチェーンストア・百貨店全体への波及をはかった。 この交渉も最終的には西友本店店頭に合成洗剤 の返品を迫り音を上げさせる戦略であったものの、双方とも紳士的な態度を貫いた結果か、当初の狙いほど先鋭化した運動にはならなかった。しかし、その後環境への配慮をうたうスーパー・百貨店が徐々に増えてきた現実をみるにつけ、一般の小売店とて利益の追求のみならず環境問題にも目配りをしなければ消費者から背を向けられるかもしれないという危機感を多少なりとも植え付けることくらいはできたのではないだろうか。

         

        これ↑は前述のパルシステムの石けん「水ばしょう」についての文章である。石けん運動が具体的に何をやっていたのかまでは知らなかったのだが、奇形児出産って怪しすぎるビラ配るなど合成洗剤をこの世から抹殺せんといわんばかりの過激ぷりに、やっぱりオバタリアンパワーやべぇとの思いを新たにした。

        このパルシステムってのは生活クラブと並んでけっこう生協の中ではかなり先鋭的なほうではなかろうか。ほかに石けん推しの生協のグリーンコープも検索したら北朝鮮にカンパとかいろいろ出てきた。

         

        グリーンコープ、通販カタログで福島除く「東北5県応援」の表記で謝罪(2016年6月15日 HUFFPOST)

        http://www.huffingtonpost.jp/2016/06/14/green-coop-apologizes_n_10470990.html

         

        でふたたびパルシステムの石けんの記事に戻ると、この水ばしょうっていうパルシステムオリジナルブランドじゃなくっても、洗濯用粉石けんてわりとどこでも売ってると思うのだが、蛍光剤か何かが入っていなくて白い服が黄ばむってのはけっこう聞く話だ。もちろん合成洗剤を使って肌が荒れるならそこまでしてでも石けんを使う価値はあるのだろうし、じっさい私も体洗い用にかんしていうとボディソープがダメなうえ何の成分が原因なのか調べる気もしないのでかってはこの手の石鹸を長年愛用していた。

        しかし合成洗剤がLASや無リンと進化するなか石けんは黄ばみ問題が解決されないまま、それが原因で子どもがいじめられても「家族を思えばこそ石けんを使うという気持ちが通じた」って精神論に行ったとこを見ると、石けん洗濯が一部マニアにしか受け継がれてないのも無理ないと思った。近年洗濯洗剤や柔軟剤の「香害」という概念を広めているが、これはもはや人工的な匂いじゃないって以外に合成洗剤に勝る点がないってことなんじゃないか。

         

        「運動会があるとね、生協家庭の子どもたちって分かる。真っ白な体操着が並んでいるなかでちょっと黄ばんで見えるの 。石けんのせいなのね(笑)......」(元タマ消費生協理事)

        「中学校の制服は冬は上着を着ているけれど、夏は白いシャツでしょう。蛍光漂白されていないと、教室で何となく黄色く目立っちゃうのね。その子が20歳過ぎてから『つらかったけど、どうしても言えなかった』と(笑)。まじめな厳しいお母さんだったから言えなかったって。こっちはそんなこと全然考えていなかった」(元立川生協理事)

        「子どもがいじめにあったんです。靴下が白くなく黄色いからって。悩みました......」(元 下総生協理事)

        「うちの娘も『ぬか臭い』と言われたことがあって、親としてもこのまま頑張って使い続けるか、どうしよう、と悩んだこともありました」(元柏市民生協理事)

        「髪の毛がちょっと赤くなりますよね。子どもの通う中学の先生が『染めているんじゃないか』ということがあったので学校に説明に行きました」(元柏市民生協理事)

        「一番の問題は歯磨き粉。主人が、石けん臭さというより、“石けんで歯を磨くこと”に抵抗を感じたらしく自分で市販のものを買ってきた。『石けんで磨くと食べ物の味が変わらないんだ』って、いくら話しをしてもわからないわけですよ。そのうちに面倒くさくなったんでしょうね、私のをちょっと借りて使ってみたら、そんなに違和感がないとわかったようで......」(元柏市民生協理事)

        石けんカスが原因で洗濯物が黄ばむことを子どもが気にするという話はあちこちで聞かれた。しかし、その子どもたちが親になり、やはり石けんを使っているという声も多く聞かれた。「家庭のことを思えばこそ石けんを使うのだ」という気持ちは十分に通じていたのではないだろうか。

         

        以上一部生協において牛乳と石けんが重視される意味とその時代背景をご紹介したが、上記のパルシステムの引用記事によれば卵も生協との成立に関係しているらしい。そういえば「たまごの会」っていうのがあったな。と思って検索したところ、たまごの会の農場の開設は1974年、抗生物質を用いない卵を目的としたらしいので、たぶん三一新書とか郡司先生あたりの本で卵が薬漬けで危ないって話も当時あったのだと思う。

        それと急に思い出した話があるのでまた牛乳の共同購入の話に戻るのだが、パルシステムこんせん72のような独自ブランドと違って四つ葉牛乳ってのも生協界でけっこう存在感を示しているので下に引用しておく。というわけで消費者運動の主役が三一新書やオバタリアンだったころは牛乳がモー毒どころかむしろほんとうの牛乳を「飲みたい」って運動のほうが主流であり、ロハス化するには1980年代まで待たなくてはならなかったというのがわが歴史観なのであるが、このとき高橋晄正が日本消費者連盟と決別した時の理由に世代交代があったことからも、たぶんロハスっていうのはモーレツ社員を支えるオバタリアンより下の世代、学生運動やベトナム反戦運動に影響されたインテリ団塊世代のノリな気がした。

         

        共同購入グループについて(よつ葉乳業)

        http://www.yotsuba.co.jp/group/about/

        1972年、安全な、おいしい牛乳を求める本州の消費者グループの手によって「よつ葉牛乳」の共同購入運動が始まりました。以来、よつ葉乳業は消費者と手を携えて牛乳をつくり、届けてきました。

         

        共同購入グループ・団体のご紹介(よつ葉乳業)

        http://www.yotsuba.co.jp/group/about/introduction/group.html

        ■昭和47年、「子供達にごまかしのない本物の牛乳を飲ませたい」と始まった共同購入の会です。現在、取扱い品目は牛乳・乳製品をメインに日常の食卓に欠かせない基本食品を約300アイテム、乳幼児から高齢の方まで対応できるよう、牛乳だけでも4種類(ノンホモ牛乳、HTST牛乳、UHT牛乳、部分脱脂乳)の共同購入を行っています。
        ■あなたの食卓においしさと健康をお届けします。子供達の健やかな成長のために、大人の活き活きとした毎日のために、本物の牛乳の共同購入をしませんか!

        ■南房総の養鶏農家との出会いがナチュラルコープの「食べ物運動」の第一歩でした。陽光を浴びる開放鶏舎、自家配合飼料で育つ鶏の卵は、真っ暗な鶏舎に閉じ込め、薬漬けになった鶏のものとは比べ物にならない味!それから1年後に出会った北海道よつ葉牛乳、子供に安心して飲ませることのできる牛乳、乳製品の本物の味・・・・・20年前のことです。私たちの食べ物が、どのような環境、経緯を経て今ここにあるのか?ほとんど知らないという事実、ホルモン剤、抗生物質、農薬漬けの動植物。私たちの産直運動は、現実を知ることから生まれました。そして結論は、消費者が生産現場と直接結びつき、安心できる食べ物を造る生産者−生産地−加工場のネットワークを作り上げていくということ。卵と牛乳から始まった産直運動は徐々に生産者や生産地を結びつけ今では北海道から沖縄まで広がりました。そして、組合員理事を中心に、各専門委員会、地区の委員、組合員の「意見の見える」生協としてあり続けます。
        ■県内に数ある生協の中で規模は小さいのですが、「夢は大きく、活動は豊富、安全な農産物へのこだわり」はどこにも負けません。あなたもごいっしょに!

        ■20年前PCB汚染で世の中の食物の安全性が不確かな時に、子供達に安全で安く美味しい牛乳を飲ませたいとの願いからよつ葉牛乳を知りました。子供ばかりではなく成長期にも、また老人には特に骨粗しょう症予防のためにも必要な製品です。

        ■当会の母体は、1972年に「よつ葉牛乳」の共同購入運動から始まりました。酪農最適地である北海道産の現地でパック詰めされた、安全でおいしい牛乳を広めたいという一念で共同購入を進めてきたのです。今では無農薬、有機栽培の農産物にこだわっている生産者との産直活動にも広がってきています。
        ■食べ物・飲み物に含まれる慢性毒性の化学物質が、身体のみでなく、脳神経を痛めることがわかってきました。当会は、「ほんもの」を求めることが、単に安くて良いものだけでなく、本当に安全なものを作って下さる生産者の方々と手をつないでゆく消費者でありたいという信念でおります。同じ思いを持った皆さん、いっしょに進みましょう。
        ■当会は安心・安全な食の大切さを基本としてきましたが、現在は慢性毒性の化学物質より恐ろしい放射能物質の影響を無視できなくなっています。これを最低限にとどめるためには、厳格な検査が必要ですが、当会では思いはあっても不可能でした。その検査機器を所有して全品目の検査をしている(限度1Bq/kgが上限です)「オルターの会」と提携することにしました。

        ■設立23年。LL牛乳の反対運動、提携米ネットワークによる米の減反反対裁判運動を支持。国内における北海道地区に対する思いは強く、一年に一度、組合員の皆さんと北海道を必ず訪ねています。
        ■厚木から海老名に事務所を移して3年目。安全で安心できる商品を供給し続けて23年。より信頼を深めるために、今後も一貫した姿勢を保ちます。

        ■昭和47年頃、異種脂肪混入の牛乳が問題となり、北海道の酪農地帯から牛乳を持ってくる運動を知った。共同購入するには近所をまとめて、班を作らなければならず「食べ物の安全性」を柱に勉強会を開き、月1回の栄養教室を開いた。主目的は、料理には乳製品を使うこと。「バランスのとれた食生活」は老人にも人気で、年10回の講習会は25年続いている。

        ■最近の乳業メーカーの事故を新聞で読んだ限りでは、消費者に対してきちんと説明できなかったことが驚きでした。私たちの消費者団体は、よつ葉牛乳を常にチェックしています。工場には物が言える態勢です。

        ■「安心して食べることができるものがほしい」「地に足の着いた運動をする必要がある」ということで始まりました。牛乳については、他の団体の皆さんやよつ葉乳業さんと協力してHTST牛乳(72℃15秒殺菌)、ノンホモジナイズ牛乳の開発をし、また遺伝子組換え飼料を使わない牛乳を実現してきました。今後もより良い品質を求め、皆さんと協力して、そして楽しんで取り組んでいきます。

        ■1977年、母乳・牛乳の農薬DDT汚染を知り、汚染の少ない北海道のよつ葉牛乳の共同購入をはじめ、産地訪問、学習会などを通してたべもの全体の関心が高まる。一部生協のLL(ロングライフ)ミルク導入問題を機に、殺菌温度が酪農・乳業・牛乳に大きな意味を持つことが分り、パスチャライズ(72℃15秒殺菌)、ノンホモ牛乳を実現。この30年間、日本の畜産(北海道の酪農)は、輸入飼料への依存を高め、安全性・自然との関わりから遠ざかっています。 青草をたっぷり食べた牛乳や牛の肉を食べものとして再評価し、土・草に根ざした牛乳つくりに、取り組んでいきたい。

        ■そのほか、「お米」の食管制度・減反反対運動に取り組み「提携米」を実現。生産者と共に「第1次産業の復興」に取り組んでいます。「いのち・自然・くらし」をテーマに、国内産自給・安全安心を軸に、具体的行動として消費者と生産者の提携を深めてゆきましょう。


        知られざる主婦史

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          生活協同組合(Wikipedia)

          https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E5%8D%94%E5%90%8C%E7%B5%84%E5%90%88

          日本の地域生協の事業の特徴として、組合員がグループを作って、そこへトラックで配達するという「共同購入事業」が挙げられる。これは1970年前後に、日本で食の安全性に対する信頼が低下した時期に、大学生協を母体として、各地に地域生協が設立する動きが広がり、その中で生まれてきた業態である。日本独自のシステムとなっている。

          ・・・

           

          一部生協がロハスに進化していく過程としては高度経済成長期下の主婦(オバタリアン世代)の共同購入にその起源が求められるというのが現時点でのわが歴史観である。Wikipediaによると共同購入は食の安全性が疑問視されていた1970年代に大学生協を母体として生まれた日本独自の形態とあるが、その前にまず物価高が問題となり奥さまがたのあいだで牛乳を共同購入で安く買おうってな運動が60年代すでに存在してて食の安全とか言い出したのはその後だと思う。

           

          コープ商品のあゆみ

          http://goods.jccu.coop/feature/promise2/history/

           

          上記サイトは牛乳の共同購入については触れられていないのだが、60年代「メーカーの管理価格に対抗して安定的により安く供給(販売)するために」70年代が「物価高騰と有害食品不安の中で共同購入の急速拡大を支える」と、60年代から70年代にかけ安さから安全性へ、消費者運動が変化する経緯が年表で分かりやすく書かれてて参考になる。そのなかで1954年「10円牛乳運動」が気になったため検索したところ生協とは異なるらしい主婦連という団体が存在し、オバタリアンが生協で共同購入するだいぶ前から主婦が牛乳とか産直とか言っていたことが判明した。

           

          主婦連のあゆみ(主婦連)

          http://www.shufuren.net/modules/tinyd4/index.php?id=2

          1954年12月 「10円牛乳運動」
          酪農民と直接手を結んではじめた「主婦の10円牛乳」。これが消費地と産地とを直結する産地直売の始まり。産地直売運動は、10年来の物価の値上がりにたまりかねた消費者の高物価に対する挑戦であるとともに、複雑な流通機構や流通マージンに対する厳しい批判だった。

          ・・・
          1956年5月 「日用試験室」
          商品が実際に価格だけの価値があるのか、安全なのか、ごまかしがないのかなど、科学的な裏付けをもたなければ問題提起も消費者の主張も通すことができない。こんなことから、1950年に日用品審査部を発足。6年後、主婦会館設立と同時にテスト設備を充実した試験室を設置。消費者団体が持つ日用品試験室としては、日本で初めてだった。
          衣食住にわたる日用品のテストを行い、その結果をもとに行政官庁や業界に改善措置の要望や提案をしてきた。

          ・・・
          1960年9月 「うそつきカンヅメ」
          「牛缶の中身が鯨肉や馬肉」だった。
          缶に牛の絵が表示されていたが、主婦連が調査したところ、約4割の缶詰の中身は牛ではなかった。缶詰協会と関係省庁を招き、ウソつき缶詰追放対策懇談界を開催。その結果、農林省は農林物資規格法の缶詰に関する政令を一部改正、厚生省は食品衛生法を改正、公正取引委員会は「不当景品類及び不当表示防止法」(景表法)を制定した。

          ・・・
          1969年10月 「うそつきジュース」
          「○○オレンジ」などの名称を使い、色、外観ともに、いかにも果汁入のように思われる各種の飲料をテストした結果、ジュースと表示しながら果汁100%のものは、わずか3%しかなく、ほとんどがごまかし表示だった。
          この結果をもとに公正取引委員会や関係省庁に要望し、ジュースという名称の定義、果汁含有率の表示を実現させた。しかし、無果汁の飲料については、「無果汁」ではなく「合成着色料」「香料使用」などと表示すればよいというものだった。


          1973年3月 「ジュース審判」
          公取委が認定した果実飲料などの公正競争規約に、無果汁飲料は「無果汁」表示をするよう要求したが公取委は聞き入れなかった。1971年4月、主婦連は不当景品類及び不当表示防止法にのっとり、「不服申し立て」に踏み切った。公取委の審決は、不服申立者である主婦連(団体)も奥むめお(個人)も「不服申し立ての資格なし」と門前払いだった。しかし、審決の5日後、公取委は「無果汁表示」を義務づけた。
          主婦連の主張は通ったものの、公取委が認定した公正競争規約が業者に有利で、消費者を欺く違法不当なものであっても、消費者個人や消費者団体は不服を申し立てられず、是正の手段はなく「お上」のすることに口出しするなということである。
          消費者の権利を無視し、納得できないため訴訟をおこした。
          しかし、東京高等裁判所(1974年4月)、最高裁判所(1978年3月)は公取委の審決を支持し、消費者個人や消費者団体に不服申したての資格なしと判決を下した。7年間の長い闘いだった。

           

          主婦連は戦後すぐの1948年と専業主婦カルチャーが花ざかる全然前に結成され、戦前の女性運動の流れをくんでいるらしく類似団体にはちふれ化粧品を世に送り出した全地婦連こと全国地域婦人団体連絡協議会(1952〜)があるとのことだ。主婦連や全地婦連について不良マッチ追放運動、「主婦の店」選定運動、カラーテレビ二重価格問題にもにわかに興味がわいたが、ロハス史的には1960年「うそつきカンヅメ」1969年「うそつきジュース」告発あたりが気になった。

          前回の生協の記事で、昔は食品公害について「ほんもの」「ニセモノ」って言い回しが三一新書とかで多用されていると書いたけど、この「うそつき」ってのも多いし、そういえばだいぶ前YouTubeで見かけた1970年ごろの動画でも、主婦がうそつき食品を商品テストに持ってきたりうそつきカンヅメの中身検証するシーンがあった。主婦連が告発したうそつきカンヅメは「牛缶の中身が鯨肉や馬肉」で、動画↓のはまぐろフレークの缶詰の中身がサワラだったと言っている。

           

          昭和45年 消費生活(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=-2sZhSf_ldE

          ウソツキ商品一掃

          1960〜70年代の消費者運動において中心的な役割を担ったオバタリアン世代

          これがまぐろとは名ばかりのうそつきカンヅメだ

           

          昭和48年 暮らしと消費(YouTube)

          https://www.youtube.com/watch?v=tA9yyAyS2R0

          これもオバタリアンとか商品テストの出てくる似たような動画

           

          うそつきジュースにしても今現在清涼飲料水は原材料や消費期限を表示し、果汁入ってないのがジュースを名乗ることはないし、ファンタとかデカデカと無果汁って書いていると思うけど、きっと昔はそんなんでもジュースを名乗っていたんだろうし牛乳もまたしかりで、高度経済成長期はそんなニセモノのうそつき食品がはびこるポイズンな世の中だったからこそ消費者の体が悪くなろうが知ったこっちゃない企業のもうけ主義に対する三一新書や生協の告発はその意義も大きかったのだろう。食品公害といえば郡司篤孝って人が昔そういう本を出していて、今検索したところによると「うそつき食品」(1969)「うそつき食品―メーカーへの告発状」(1983)「ほんとうの酒・うその酒」(1984)「コピー食品の秘密―ホンモノとの違いがわかる本」(1986)など、例によってほんとう・ホンモノ・ウソツキといった概念を多用した著書が三一新書あたりで多く見られるのだが、郡司氏の息子もまた現役で食品公害を告発している郡司和夫である。


          これ↑はだいぶ前にブログに貼った私物。画像を再掲しただけなので本自体はもはやどこにあるのか分からない。

           

          https://www.amazon.co.jp/dp/4837983170/

          内容紹介

          自分と家族の健康を守るために、これだけは知っておきたい!

          ◎肉
          ――老廃牛の肉が「霜降り牛肉」に化ける驚異のテクニック
          ◎卵製品
          ――インスタントの茶碗蒸しの原材料は「粉末卵」と「糊」!?
          ◎漬物
          ――漬け込み液は「添加物のオンパレード」状態!
          ◎インスタントみそ汁
          ――あの独特の後味は「化学調味料」によるもの
          ◎ビスケット・クッキー
          ――まずは「マーガリン・ショートニング不使用」を選んで

          がん・脳卒中・動脈硬化・骨粗鬆症のリスク、
          アレルギー、免疫力低下、「イライラ感」の増大……
          「危ない添加物」の基礎知識から、何をどう食べるか――そのノウハウまで!

           

          またロハス史というよりはオバタリアン史の範疇なのだが、食品公害と同じ頃に全地婦連や三一新書(大門一樹)が告発していたカラーテレビ二重価格問題についてもメモしておく。スーパーのダイエーがプライベートブランドからテレビを発売していたというのも初耳だし、1970年当時「近ごろの主婦は怖くなった」と思われていたであろう企業に物申す奥さまがたが20年の時をへオバタリアンとしてブレイクしたかと思うと感慨深い。

           

          企業にキバを向け始めた主婦たち(1970年少々百科)

          http://www.onfield.net/1970/12.html

          1970年は、比較的温厚だった日本の主婦たちが声を上げ始めた年です。そのキッカケとなったのは、人工甘味料のチクロカラーテレビの二重価格問題でした。少し、説明をしておきましょう。

          ・・・

          カラーテレビの二重価格問題は、メーカー価格がまだ影響力をもっていた時代ならではの問題です。当時は白黒テレビからカラーテレビへの移行期で、テレビ番組の約半分はカラー放送に切り替わりつつありました。メーカーは、消費者の旺盛な購買意欲を背景にあくまでも強気の姿勢を貫き、カラーテレビのメーカー正価を10万円から下げようとしませんでした。ところが、アメリカ市場への輸出分は遙かに安い価格で送り出していることが判明し、また、安売り家電店の店頭でも正価があってないような安売り(およそ8万円台)が横行しはじめ、「一体、カラーテレビの正しい値段は何なのよ」と主婦たちは怒り、不買運動を始めて、これが全国に飛び火したわけです。

          アメリカ市場では、不当なダンピング販売だとの指摘を受けて日本製品バッシングの走りとなりました。主婦たちの「カラーテレビなんて買ってあげない」運動はやがて小売店を動かし、メーカーや卸業者への在庫返品騒ぎに発展します。この合間を縫って11月、当時は主婦のいちばんの味方でもあったスーパーのダイエーが、今で言うPB商品として「BUBU」ブランドの13型カラーテレビを59800円で発売すると発表。これは家電販売の主導権が、メーカーから流通(小売店)へ移っていく象徴的な出来事にもなったのです。

          チクロ、カラーテレビ以外にも、主婦たちを怒らせたものは数々ありました。その筆頭は物価高です。当時のインフレ状況については別項に譲りますが、いくら給料が上がっても、公共料金も食品も何もかも値上げ値上げの連続で、収支決算では帳消しになりました。百科事典の押し売りなど悪質化した訪販セールスも新聞紙上をにぎわせました。主婦たちの堪忍袋の緒は、切れるべくして切れたわけです。

          ・・・

          こうした世論に押された政府はようやく重い腰を上げて消費者行政の見直しにのりだし、商品テストや苦情処理の受け皿として、同年10月に国民生活センターを設置。これと前後して全都道府県に消費生活センターを設置していきます。おそらく当時社長を務めていた人々は「近頃の主婦は恐くなった、しょせん女子供の意見だと無視していると、とんでもないことになるぞ」と、ようやく気づき始めたんじゃないでしょうか。

           

          http://www.watai.jp/mokuroku/sonota/shakai.htm

           

          https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9QX62/


          生協の牛乳

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            昔の自然派って今のロハスとちょっと違かったよな。と、幼き日のことをいくつか思い出すうちに振り返りたくなったロハス史コーナー。その代表例が牛乳で、2000年代以降はマクロビオティック人気の影響もあるのか牛乳はモー毒(体に悪い)ってわけで、豆乳や最近ではライスミルク、アーモンドミルクなど牛乳の代替物と思われる植物性の乳も年々充実していってるように見受けられる。

            しかし私が子供の頃はなぜか骨粗鬆症の恐怖とカルシウム一日600mgが叫ばれていたし、牛乳が体に悪いなんてたぶん誰も言っていなかった。昭和50年代にかけ高温殺菌牛乳の大規模な反対運動があったので、低温殺菌の牛乳がガチって話なら全然聞いたことがあるのだが。

            これは90年代初頭までの風潮であり、ちかごろの栄養素はグルコサミンだコンドロイチンだルテインだと多様化しているためべつだんカルシウムが注目されることもないし、現代の若人は高温殺菌牛乳モー毒説だってなじみがないだろう。高温殺菌牛乳モー毒説にくわえて三一新書あたりで食べ物(もしくは化粧品)の原価がいくらということがよく言われ、メーカーはもっと安く商品を提供するべきだという消費者運動もやはり同じ頃くらいまで存在していた。

            そうした運動の名残りはスーパーマーケットのプライベートブランド、また西友のプライベートブランドだった無印良品(初期の宣伝文句が「わけあって安い」)、プチプラコスメとして若い娘さんにも大人気なちふれ化粧品にわずかに見受けられる程度である。と、この話は以前にも書いたとおりなのだが、高温殺菌モー毒説よりまだ前にさかのぼると、昭和40年代にオバタリアン世代の奥さまがたを中心に牛乳にかんしても安く売れっていう運動が盛り上がっており、それが現在ある多くの生協の設立にも関係しているようだ。

             

            生活クラブ事業連合生活協同組合連合会(Wikipedia)

            https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E9%80%A3%E5%90%88%E7%94%9F%E6%B4%BB%E5%8D%94%E5%90%8C%E7%B5%84%E5%90%88%E9%80%A3%E5%90%88%E4%BC%9A

             

            たとえばこの生活クラブっていう生協はWikipediaを読むかぎり国産、添加物、放射能、石けん、遺伝子組み換えとか言っててじゅうぶんに左翼でロハスなのであるが、「あゆみ」の項を見るとそのルーツが1965年牛乳の共同購入であるとわかる。その後70年代に米、卵、肉の産直や石けん運動が始まったり、1978年には「グループ・生活者」(現 生活者ネットワーク)なる政治団体が結成されるなど、年表だけでロハス史の変遷がなんとなくうかがえる。

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/B000J8F5E4/

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/4778312791/

            内容(「BOOK」データベースより)

            一九六五年、東京の片隅で、牛乳の共同購入運動が始まった。著者を中心とする数名の若者たちの試みだった。一九六八年、牛乳の共同購入運動は、生活クラブ生協へと発展した。やがて、女性たちの社会参加のエネルギーを背景に、生活クラブは全国に波及し、今や、三十数万人の組合員の大組織へと成長を遂げた。生活クラブの創立者である著者が、重層的な社会運動として生活クラブを構想した軌跡を、余すところなく語り下ろす。ここにこそ、日本における市民社会の成熟の証しがある。

             

            牛乳の共同購入を始めたのが岩根邦雄という人で、その妻である岩根志津子は世田谷区議だったらしい。amazonでは出てこなかったが、生活クラブの初期の出版物である「主婦の生協づくり 10万の主婦・10年の体験」(1978年)は石けん運動や原価の本とかもよく出してた三一新書である。

            またチベット仏教「チベット死者の書」地域通貨「エンデの遺言」などのドキュメンタリーがロハス界で有名な河邑厚徳監督も2009年に生活クラブにかんする本を書いており、amazonで見たら生活クラブ利用者なのか?池上彰と辰巳芳子が推薦文を書いていた。なお辰巳芳子の映画「天のしずく」(2012年)も河邑監督作品である。

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/4270005572/

            内容紹介

            食の安全と安心は他人任せにせず、自分たちで築くこと。
            そのために何ができるのか。
            答えのひとつが、ここにある。
            ――池上彰(ジャーナリスト)

            「一粒の麦が血に落ちて死なゝければ、一粒のまま残る。しかし死ねば、豊かな実を結ぶ」
            (ヨハネ福音書十二章)

            多くの生産者の姿はこの種粒と重なります。
            よき働きは、いのちの具現化。
            今、私たちはなにをもって一粒の種となりうるでしょうか。
            ――辰巳芳子(料理家・随筆家)

            ------------------------------------------------------

            ・・・・・書き始めたときは、生活クラブ生協の消費材なるものが
            本当においしいのかということには確信がなかったことだ。
            実際に食べていなかったからだ。
            偶然に、2009年4月、自宅のそばの世田谷経堂駅近くにデポーが誕生した。
            さっそく連日通ってたくさんの消費材を口にした。
            いやなものが入っていなくて、体の細胞が素直に喜ぶ感じがした。
            おいしいものが多かった。
            頭だけではなく胃袋も納得して、ようやくこの本が書けるようになった。
            (あとがき より)

             

            「消費財」とは商品、「デポー」とは店舗という意味だそうだ。しかしこの生活クラブ、ネットの情報を見ると生協の中で一番こだわりが強くそれだけ値段も高いらしい。

            草創期からかかわっている前述の岩根氏はフェアートレード(適正な値段でコーヒーを買うみたいな南北問題系の消費者運動)の映画の上映会に出席していたし、最初の牛乳を「安く」買うってコンセプトは途中でどっか逝ったと思われる。というか生活クラブに限らず、生協や産直に対して安いというイメージは特にわかない。

            主婦による牛乳安く買う運動が高度経済成長期以降の生協の設立とかかわっているためか、各生協とも独自ブランドの牛乳を売りにしているようだが、普通のスーパーで何のこだわりもない大手メーカーの牛乳買うほうが安いし賞味期限も長いし、安全性もそんなに心配するほどのことはないはずだと思っちまう。でも生協が設立されるほど牛乳を安く買う運動とか安全な牛乳を求める運動とかが盛り上がったってことは、昔の牛乳は高くて危険だったってことなのだろう。

             

            せいきょう牛乳のあゆみ(大学生協紹介)

            http://u-coop.net/service/study/019717.html

            大山乳業の誕生

            戦後(1946年)の食糧難の頃、小規模の酪農家の搾った原乳は、大手乳業メーカーが買い取る仕組みで、メーカーから乳質や数量のごまかしなどの圧力を受けていました。

            「このままでは、酪農を続けられない」と、鳥取県大山の酪農家は大手資本の圧力に対抗して、「自分達で製品にしよう」と、大山乳業農業協同組合の前身の組合を結成しました。
            苦しめられる酪農家

            市場には「まずい牛乳」ばかりが氾濫していました。当時、生産者と消費者は分断され、まずい牛乳が、牛乳の味だとされていました。

            牛乳の一滴は、牛の血の一滴がつくる事を肌で感じている酪農家は、自分たちの誇りをかけて、「ホンモノの牛乳を知ってほしい」と、大山の牛乳の販売先を模索しました。

            「健康な牛から絞ったまんまの牛乳を飲んで欲しい」ただそれだけの願いでしたが、大山乳業の思いはなかなか消費者には届きませんでした。
            ・・・
            ヤシ油混入の「牛乳」事件

            昭和45年(1970年)「牛乳」にヤシ油(ヤシの実からとれる安価な食用油)が混入されている?という疑惑が浮上しました。

            組合員の健康や安全を考える京都生協が、これを大きく取り上げると、大手メーカーは、京都生協への牛乳の出荷を停止したのです。その頃の京都生協はまだ規模も小さく、「牛乳が手に入るから生協の組合員になる」という人も多かった時代です。京都生協は困り果てました。
            ホンモノを求める人、ホンモノを提供したい人

             「ホンモノつながり」で、京都生協と大山乳業が出会い、牛乳の産直第1号「せいきょう牛乳」が誕生しました。そして、1978年10月から大学生協も「せいきょう牛乳」を取扱う事ができるようになりました。

            1996年に、某メーカーが地下水を混入した牛乳を成分無調整牛乳と偽った表示をして販売するという事件もありました。現在では、『牛乳とは生乳100%のもの』であり、それ以外は「加工乳」または「乳飲料」と表示することが義務づけられています。

            現在も、原乳の生産から、牛乳の製造、そして販売まで他社を入れずにトータルに管理できるメーカーはありません。

            これからも大山乳業と生協は、産直交流や、インターンシップなど様々な活動を通して、お互いの目線で考えあい、確認しあって「ホンモノ」にこだわり続けていく、産地直結活動を続けていきたいと思います。

             

            ヤシ油って英語に直すとココナツオイルってことじゃないのか?最近ココナツオイルが美と健康にいいって聞いたような気がするのだが、牛乳の水増しに使われていた安価な食用油だったのか。

            ホンモノという単語が何回も出てきたのでゲシュタルト崩壊しちまったけども、このホンモノ・ニセモノって概念は食の安全を考えるうえでけっこうよく出てくる概念な気がする。三一新書でも稲垣真実著「ほんものの日本酒選び」(1977年)、「これがコピー食品だ!―ニセモノ食品総点検」(1986年)、日本消費者連盟から「ほんものの酒を!」(1982年)「ほんものの牛乳がのみたい」(1985年)という本が出ているが、「ほんものの酒を!」の中の人は船瀬俊介だと思われる。(下画像参照)

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/4380820033

             

            https://www.amazon.co.jp/dp/4806713112/

             

            牛乳の話に戻すと、60年代てスーパーでき始めくらいだろうし牛乳はビンを配達することが多かったので生協が宅配しているのもそれと関係あるのかな。と思った。また「ほんものの牛乳」でない混ぜ物したのは加工乳と表示するのが義務ずけられるようになったとのことで、逆にいうとそれまでそんなの書いてなかったし、なんなら加工食品の原材料とか賞味期限も表示してなかったんじゃないだろうか。

            昔の三一新書とかニュース映画見てるとそんな気がするし、カロリーや栄養表示にかんしては私が子供の頃でもカロリーメイトみたいな菓子くらいだった記憶がある。しかしこの前食べた菓子パン、原材料名にカステラって書いてたから「カステラって原材料か?」と思ったし、肉の産地表示なんかもややこしそうで、今現在でも原材料や原産地がすべてつまびらかになっているとは限らないことを考えると、生協や産直による生産者の顔が見えるのにも需要があるのだろう。

             

            40年のあゆみ - コープおきなわ

            http://www.okinawa.coop/aaa/web_ayumi027-037.pdf

            1972年、念願の日本復帰が実現した沖縄では、 消費生活協同組合法が適用されるようになり、 次々と生協が生まれました。しかし、復帰に伴う 「ドルから円」への切り替えは、社会的な混乱を招きました。その後、石油ショックや沖縄海洋博など影響をうけ物価は高騰、失業者が増え、県経済はさらに厳しくなりました。また、有害食品の氾濫や公害などの生活環境の破壊もすすみ、県民の生活は大変苦しくなっていました。 このような中で「安全で安い商品を自分たちの手で」「子どもたちにホンモノ牛乳を」の声が、 豊見城団地や首里の主婦を中心に広がり、生協づくりが始まりました。琉大生協などの支援を受けながら、1975年6月10日「沖縄南部市民生活協同組合設立準備会」が主婦を中心に80人で結成されました。

            ・・・

             

            石けん運動同様、牛乳の共同購入など生協が成長した背景には、のちのオバタリアンとなる奥さまたちのパワーがあった。しかし専業主婦は環境破壊源であるモーレツ社員の収入に頼っているという矛盾も抱えていた。

             

            [昭和52年3月] 中日ニュース No.1208 2「物価高に挑戦」(YouTube)

            https://www.youtube.com/watch?v=Y9tHeh91emk

             

            この動画、白黒なので古いと思ったけど昭和52年なのでそうでもなかった。前半は野菜などを安く買うため主婦が駆り立てられた東都生協という世田谷の生協の映像。


            トラウマブーム

            0

              ロハス史振り返るシリーズとはまた別に、のぶみという絵本作家の炎上を機に胎内記憶の本を前回紹介した。まず胎内記憶とは何ぞやというと、生れる前の赤ん坊が空の上で神と地上の女たちを見ながら誰をおかんにするか選び「このママにきーめた!」と胎内にスッポリ入る記憶を3歳くらいまでのお子さんなら覚えてるっていう、美健ガイド社でもおなじみ池川明先生が中心となって提唱している説である。

              ネットで検索したのを見るかぎり池川氏が最初に出したであろう胎内記憶の本が2002年で、それより4年ほど前の1998年に七田眞・つなぶちようじ著「胎内記憶―バース・トラウマの秘密」って本がすでに存在してるのでこれがオリジナルな可能性が高い。ふと思ったのだが、もしかしてトラウマってこの時期くらいから使われ出した言葉じゃなかろうか。

               

              https://www.amazon.co.jp/dp/4478860254

               

              1998年ごろというとオウムの余波でまだオカルトは低迷、個人的にはミッチーサッチー騒動以外に何が起こったのかたいして覚えていない時期である。しかし今トラウマという文字列を見たことにより、アダルトチルドレン、インナーチャイルド、ヒーリング、みたいな、私も書いてて意味のよく分からないメンヘラ的概念が人気爆発してた気がしてきた。

              1995年頃のルーズソックス化からすでに日本病んでたけども、頻発するルーズソックス第二世代(酒鬼薔薇世代)の人殺しが「17歳の闇」として大きくとり上げられ、そんな病みを癒すための「心のケア」、カウンセラー、セラピー、相田みつをとそれらの要素をつめこんだと思われる路上詩人やナカムラミツルみたいなポエムが席巻した病み全盛期、もっぱら病んでいるのが未成年だったり、子供時代のトラウマってな設定な気がするので、もしかして胎内記憶もそういう流行から生まれてきたのかしらん。と、そんな仮説を立ててみたのだが、ただの思いつきなので話半分に聞いておくれ。少なくともPTSDって言葉にかんしてはEHエリックの娘が堺正章と離婚したときの会見(2001年)で初めて知ったし、一般的にもそうであったと思う。

               

              https://www.amazon.co.jp/dp/4000260618

               

              豚まるごと一頭食べるでおなじみ東京賢治シュタイナー学校の鳥山敏子も1997年にアダルトチルドレンの本を出している。Wikipediaを参照すると、アダルトチルドレンという言葉はくしゅくしゅソックス時代(1980年代後半〜90年代初頭)に出てきたようで、その意味するところは親がアルコール依存症とか、また虐待を受けたとかで、それが成人になってもトラウマとして残ってる人のことだそうだ。

              ただのトラウマだったら成人でもいいし他人から受けたいじめが原因でもいい気がするけど、胎内記憶にしろアダルトチルドレンにしろ、子供が親から受けた傷って文脈が多い印象である。こうしたルーズソックス時代のトラウマ文化についてはいづれ気が向いたら調べるかもしれない。

               

              浜崎あゆみ - Trauma (Live)

              https://www.youtube.com/watch?v=eRwZO1idr_Q


              やっぱり絵本嫌い

              0
                評価:
                のぶみ
                サンマーク出版
                ¥ 1,296
                (2017-07-31)

                「あたし、おかあさんだから」の歌詞 母親の自己犠牲を美化しすぎと炎上(2月5日 ライブドアニュース)

                http://news.livedoor.com/article/detail/14258007/

                絵本作家・のぶみさんが作詞したHuluオリジナル番組「だい!だい!だいすけおにいさん!!」の2月1日放送回で発表された「あたし、おかあさんだから」という歌が、母親に、子育てで自己犠牲を強いる歌だとして炎上している。

                楽曲は、Huluオリジナル番組「だい!だい!だいすけおにいさん!!」の2月1日放送回で発表された。同番組は、元「うたのおにいさん」のだいすけおにいさんが、歌ったり踊ったり、絵本を読み聞かせたりする子供向け番組で、昨年12月に始まり、同日にシーズン最終回を迎えている。

                ライブやネイル……子育てのために好きなものを我慢する、という母親像

                歌詞に出てくる女性は、子どもを産む前、ヒールを履き、ネイルをして働いていた。子どもが生まれてからは、子どもと遊ぶために爪を切り、服装も、パートに行くために走れる服を着るようになったという。1番のサビでは

                    「あたしおかあさんだから ねむいままあさ5じにおきるの」
                    「あたしおかあさんだから だいすきなおかずあげるの」
                    「あたしおかあさんだから あたしよりあなたのことばかり」

                と、執拗なまでに母親であることを強調する。2番でも、好きなものを食べずに子供のためにカレーライスを作り、「いいおかあさんでいようって」頑張る女性が描かれている。

                曲の最後では、

                    「もしもおかあさんになるまえにもどれたなら よなかにあそぶわ
                    ライブにいくの じぶんのためにふくかうの
                    それぜーんぶやめて いま、あたしおかあさん
                    それぜんぶより おかあさんになれてよかった」

                と、子どもがいなかったらやりたいことを挙げるも、それより母親になれたことの嬉しさが勝ると描き、続いて「あたし おかあさんになれてよかった」と3回繰り返されている。

                ・・・

                作詞したのぶみさんは2月5日にフェイスブックを更新し、今回の炎上について

                    「これは、元々ママおつかれさまの応援歌なんだ 泣いてる人もたくさんいた
                    この炎上で全て、この歌が無かったことになったり 今後、聞いてもらえなくなるのは、悲しい」

                とコメントしている。

                 

                私は炎上を見るとたいてい、何でこんなのが騒ぎになるんだろう。と思うのだが、今回も同様の感想を抱いた。はたしてHuluオリジナル番組「だい!だい!だいすけおにいさん!!」の2月1日放送回で発表された「あたし、おかあさんだから」とかいう歌が、母親に良き母親像を強いるほどの強制力があるのだろうか、と。

                 

                伊集院光が絵本作家・のぶみ氏を前に「元不良」への嫌悪感を訴える(2017年3月10日 ライブドアニュース)

                http://news.livedoor.com/article/detail/12781014/

                9日放送のラジオ番組「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)で伊集院光が、「元不良」に対する反抗心を明かす場面があった。

                番組では、170冊以上の絵本を出版している絵本作家ののぶみ氏がゲスト出演した。のぶみ氏は冒頭で「伊集院光さんのラジオはスゴい悪かった時から、ずっと聞いております。本当に今日、嬉しいです」と喜びを語る。

                一方の伊集院は、のぶみ氏がゲスト出演すると決まってからずっと迷いがあったと語る。「オレね、元不良って肩書の人に対してスゴい反抗心がある」「元不良の人が幸せになるのは、元不良で苦労してた人が全員幸せになってから、って思っている」と自身の主張を、ぶちまけたのだ。

                伊集院は、自身が大人になって色々なことに理解を示せれるようにはなっていると断りつつも「今まで何十年もラジオでそれを言い続けてるのと」「『大人向けの絵本』っていうものに反発心がある」「だからゲストに決まったときから実はずっと悩んでる」と複雑な心境を語った。

                その後、のぶみ氏とのトーク冒頭で伊集院は「フォローするわけじゃないけど、例えば出版社とか周りの人たちは、何かキャッチフレーズが欲しいから、ことさら誇張してきたりすると思う」と、のぶみ氏の立ち位置に一定の理解を示した。

                すると、のぶみ氏も「正直、元不良だって言っても絵本は売れないので、こんなの辞めたいなと思ったことはスゴくあるんですけど、どうしてもそれを言ってくれってことなので」「勘弁してくれとは思っている」と、ぶっちゃけていた。

                 

                私はのぶみの絵本は読んだことなかったのだが、もともと絵本、特に「大人向けの絵本」が嫌いなため、のぶみの存在を知った↑の記事はよく覚えている。伊集院光同様、「大人向けの絵本」にくわえて元不良をアッピールしていることをもって、なんか胎内記憶の絵本書いてそうな人だなー。と検索したのだが、その時点(去年3月)では胎内記憶の池川明先生にのぶみの絵本を渡したとかいう人のブログが出てきただけで、とくに接点はなさそうだったのでそのまま忘れていた。

                だが驚くべきことに、この記事の4か月後くらいに「このママにきーめた!」と、本当に胎内記憶の絵本を出していた。もはや内容を見ずして、赤ん坊が雲の上で神様と地上のママさんを見て「このママにきーめた!」って、胎内にスッポリ入っていく話だろ。と決めつけたのはいうまでもない。

                YouTubeで読み聞かせの動画があったので見たところ、赤ん坊が雲の上で神様と地上のママさんを見て「このママにきーめた!」と胎内にスッポリ入っていく話に、汚い言葉遣いや怠惰な生活態度などややギャグがくわえられているのがのぶみの持ち味のようである。またのぶみの代表作らしい「ママがおばけになっちゃった!」(2015年)も読み聞かせの動画で見てみたら、それに出てくる祖母が白髪を団子に結った和装のいじわるばあさん型だったので、そんな婆もうとっくにいませんから。と、絵本の趣旨とあんまり関係ない部分で激しく反発した。

                それ以外にも読み聞かせ動画があったものの、著作権的にあまりよろしくなさそうなのと脳が疲れたためてっとりばやくアマゾンで著書を検索してみると、のぶみは2000年くらいにはもうイラストを描いていたようだ。表紙だけ見るとそんな変な本があるようには見えないのだが、もともと家族を題材としていることが多かったうえに「ママがおばけになっちゃった!」が当たったせいかそれ以降の作品がママと結婚するとかママのスマホになりたいとかママ絵本を乱発気味で「このママにきーめた!」もそのうちの一冊のようである。

                タイトルにママって書いてなくても2016〜17年の絵本を適当にクリックすると「内容(「BOOK」データベースより)」にママが〜おかあさんが〜って書いており、どうも子供じゃなくって母親を感動させるために書いてそうな印象を受ける。その路線の真骨頂が「あたし、おかあさんだから」なのであり、泣いてる人もたくさんいた、もちろんここでいう泣いている人とは子供ではなくおかあさんなのだが、胎内記憶もやはり子供がぼくはママをえらんでうまれてきたんだよっ。と言ってママを癒すお話なのだ。

                同じ1978年生まれで名乗り方や絵柄が似ているナカムラミツルも「いつもみてるよ。がんばってるの、しってるよ」(2006年)って胎内記憶の本をのぶみに先がけて出していたけど、けっきょく「あたし、おかあさんだから」もたんに癇に障るってだけで、本来は良き母親像を強いているてより自己犠牲を代弁することで読む者の共感や感動を呼び起こすことを意図しているのだと思う。ミツルのほかにも路上詩人など、20年くらい前あなたの良いところ知ってるよ。ってな下手ぽいタッチの絵(字)のポエムが癒しとしてルーズソックス世代に受けていて、その世代が母親になったここ10年ママをえらんでうまれてきたんだよ市場が巨大化しているのはたぶん関係ある。


                原発、子ども、予防接種

                0

                  科学派vs自然派の枠組みにおいては原発と自然エネルギー、慣行農法とオーガニックなど、発電方法や農法の対立軸をよく見かけたけど、2010年ごろにエコブームが終わって以降は地震で原発爆発やホメオパシーの死亡事故、マスゴミによる自然なお産や胎内記憶のゴリ押しをへて、今では地球への優しさがどうこうってよりオカルト子育て、具体的には放射能、病院出産、粉ミルク、予防接種お断りってなママさんいったい何やねんみたいな話になってきている。というのは以前にもこのブログで書いた。そんな経緯のためか予防接種お断りはスピリチュアルなイメージと同一視されている気がするのだが、これはわりと最近の傾向で、もとは高橋晄正あたりに告発された薬害問題の1つであったと思われる。

                   

                  https://www.amazon.co.jp/dp/4540870882/

                   

                  ロハス史調べていると、農山漁村文化協会って出版社もよく見かける。それにしても高橋晄正の著書↑も1987年とそこまで古くないし、よく考えたら昭和50年代以前に書かれた予防接種危ないって本見たことない気がして、もしかして予防接種が薬害の1つに数えられるようになってから30年程度の歴史しかないんじゃないか疑惑が私の中で生じた。

                  これより前に出たのだと谷合規子著「危ないインフルエンザ予防接種: 薬害列島ニッポン」ってのがある(私のインターネット調べ)けど、1986年なのでほとんど同時期だ。そして題名からいづれもインフルエンザワクチンを取り上げていることが分かる。

                   

                  インフルエンザ大流行。日本から失われた「集団免疫」とは?(1月27日 HUFFPOST)

                  http://www.huffingtonpost.jp/2018/01/26/infuruenzacommunity_a_23344626/

                  今から31年前に当たる1987年までの11年間だけだったが、小中学校でインフルエンザワクチンの集団接種が義務づけられていて、大半の子どもが学校で接種を受けていた時代があった。

                  学校に校医が来て、クラスごとに並び、順番で注射を打たれるのだ。筆者もこの時期に小、中学生だったので毎年受けていた。注射は大嫌いだったが、友達の手前、我慢して受けたものだ。

                  この集団接種が始まるきっかけは、1957年の新型インフルエンザ(アジアかぜ)の大流行にさかのぼる。約300万人が感染し、約8000人(推計)が亡くなった。このときの教訓から、1962年から子どもへの接種が推奨されるようになり、1977年には予防接種法で小中学生の接種が義務化された。

                  だが、ワクチンを接種した後に高熱を出して後遺症が残ったと、国に損害賠償を求める訴訟が相次ぎ、国が敗訴するケースも少なくなかった。こうした社会情勢を背景に政府は法律を改正し、1987年に保護者の同意を得た希望者に接種する方式に変更、 1994年には、打っても打たなくてもいい任意接種に変わった。

                  同時にワクチンそのものの効果を疑問視する声も広がり、かつて100%近かった小中学生の接種率は、90年代、数%にまで落ちた。

                  ・・・

                   

                  「危険なインフルエンザ予防接種」はたぶん昔読んだことあるけど何ひとつ覚えてないので、告発本が出始めた80年代半ばにインフルエンザワクチンに何が起こったかを検索してみたところ、上の記事がヒットした。1977年から10年ほど小中学生は強制的に打たれていたのが、副反応が多いということで保護者の同意を得る方式に変わった頃のようだ。

                  任意接種に変わった1994年は、はしか、おたふく、風しんの新三種混合ワクチン(MMR、1988〜1993年)の副反応が問題になったのも関係ある気がしたけど、カンガエルーネットによればインフルエンザワクチンの集団接種廃止は「前橋レポート」という報告書がきっかけだったと書かれてある。いづれにせよ80年代後半から90年代前半にかけワクチン打ちたい人だけ打つってな機運が高まっていたのは間違いないだろうし、今でもそういう機運を高めている子育て雑誌「ちいさいおおきいよわいつよい」が創刊されたのもまた1993年なのだった。

                   

                  前橋レポート(カンガエルーネット)

                  http://www.kangaeroo.net/D-maebashi-F-view-r-R-no-200408_admin_message.html

                  ここでは『前橋レポート』と呼ばれている資料の全文をご覧いただけます。

                  ■ 前橋レポートとは?

                  1990年前半にインフルエンザの集団予防接種が廃止されるきっかけとなった報告書です。

                  かつて日本では、小学生などを対象に、世界でも珍しいインフルエンザの集団予防接種が強制的に行われていました。感染拡大の源である学校さえ押さえれば、流行拡大は阻止できるのではないかという「学童防波堤論」を根拠としたものです。しかし、どんなに予防接種を打っても、インフルエンザは毎年決まって大流行しました。

                  こうしたなか、1979年の初冬、群馬県の前橋市医師会が集団予防接種の中止に踏み切りました。直接の引き金は予防接種後に起きた痙攣発作の副作用でしたが、この伏線には、以前から予防接種の効果に強い不信感を抱いていたことがあったのです。そして、ただ中止しただけではありませんでした。予防接種の中止によって、インフルエンザ流行に一体どのような変化が現れるのか、開業医が中心になって詳細な調査を始めました。予防接種中止の決断は正しかったのか、あるいは間違っていたのかを検証するためです。

                  そして、5年に及んだ調査は、前橋市医師会の判断が正しかったことを裏付ける結果となりました。つまり、ワクチンを接種してもしなくても、インフルエンザの流行状況には何の変化も見られなかったのです。この調査をきっかけに、集団予防接種を中止する動きが全国に広がり、最終的に、インフルエンザ予防接種は1994年に任意接種に切え替わりました。

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                  「ちいさいおおきいよわいつよい」(ちお)が出ているジャパンマシニストって会社はその名前が示すように、昔は油圧とかプレス金型とか機械の専門書ばっかり出してるし、今も出してるようだけど、チェルノブイリがトレンドだった1989年に伊藤書佳著「超ウルトラ原発子ども ゲンパツは止められるよ」以降、子供、教育に関係する左翼の本ばかり出ており、今ではワクチン本が中心となっている。先日も全然ロハスと関係ない本を本屋で探してたら、ちおの中心的メンバーである山田真の新刊「予防接種は迷って、悩んでもいいんだよ」を発見しちょっと立ち読みした。

                   

                  https://www.amazon.co.jp/dp/4880491012

                   

                  https://www.amazon.co.jp/dp/488049917X/

                   

                  こうしたちおの運動を反ワクチンと呼ぶ人もいるが、厳密にいえば「ちいさいおおきいよわいつよい」「迷って悩んでもいい」という言い回しが示すように、ワクチンを打つか打たないかは子どもによって違うのだという主張なのであり、山田真、またちおの中心的メンバーであった故・毛利子来も私は何とかのワクチンを孫に打った〜みたいなことを話しているので、反ワクチンってわけではないだろう。ただブースター効果や生態系の見地からウイルスや菌を撲滅するのに反対しており、確かはしかレベルでさえ打ちたくなかったら打たなくていいみたいなことを言っていたので、普通の医者からすると何やねんこいつって存在なのには変わりない。

                  それにしても「ちいさいおおきいよわいつよい」的価値観っていかにもオバタリアン世代ぽい。毛利子来のサスペンダーしてる画像見てのっぽさんに似た雰囲気と感じたのだが、のっぽさんも子供に敬意を払って「小さい人」と呼んでたりするし、子供の「供」が差別的とか言い出したのもこの手のサスペンダー爺なのではないかと、そんなことをふと考えた。

                   

                  『80年代』に山田真さんの名前が

                  http://lumokurago.exblog.jp/17015361/

                  スリーマイル島の原発事故が1979年ですから『80年代』ははじめから反原発、「くらしをかえよう」というテーマではじまっています。私が参加した福島原発見学会も野草社の関係で行われたものでした。1980年、私は26歳でしたが、野草図鑑という読者からの投稿欄は10代、20代の若者からの投稿で埋め尽くされていました。野草社は私より7、8歳年上の全共闘世代の2人(IさんとOさん)が中心になってつくった出版社で、いま読むと『80年代』は学生運動が挫折したあと、「からだ」「くらし」「はたけ」などのやわらかい方向に目が向けられていった様子がよくわかります。政治的なテーマはほとんどありません。(チェルノブイリの後は懐かしい高木仁三郎さんの文章がでてきます)。

                  それでも「くらし」派のIさんと政治的要素も持ち合わせていたOさんのバランスでつくっていたのですが、何年後かにIさんが共同体に入る決心をして、Oさんと決別し、「田舎暮らし」のテーマが多くなっていきました。これも偶然なのですが、山田さんのお話にお名前がでてきた高橋晄正さんがDr.Kとの対談で、学生運動が田舎暮らし(この言葉ではなかったが)の方向に流れて行ったことを批判しています。

                   

                  「ちお」はどっちかというと高橋晄正の流れをくんでいる気がするので、ロハスかどうかというと微妙なところだが、毛利子来や山田真はニューエイジ色の強い雑誌クレヨンハウス「クーヨン」、古くは「80年代」にも登場している。「80年代」はチェルノブイリ前から反原発を記事にしていたし、ジャパンマシニストが機械の専門書から教育関係の本を出すようになった最初期の出版物が「超ウルトラ原発子ども ゲンパツは止められるよ」、また山田真はクレヨンハウスから「小児科医が診た放射能と子どもたち」という本も出しており、やはり予防接種と原発が連動しているのだった。

                   

                  山田真さん講演会「小児科医からみた放射能と子どもたち」2013年3月24日(YouTube)

                  https://www.youtube.com/watch?v=I_ctisFEAm0


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