産婆ルネッサンス
急激な経済成長と技術革新でライフスタイルが激変し豊かさ便利さとひきかえにポイズンでもあった1960〜70年代における薬害や物価高、添加物てんこもりのウソツキ食品に対する三一新書や生活協同組合およびオバタリアンの活躍をロハス史振り返るシリーズでご紹介したが、これはロハス以前の話であって反原発とか自然に帰ろうってな今に近いノリが発生してくるのは1980年ごろというのがわが持論だ。その例としてあげた高橋晄正と日本消費者連盟、また合成洗剤許容派と石けん派の分裂のほか、出産育児にかんしてもオバタリアン世代(核家族、団地妻)は病院出産や粉ミルクがオシャで抱き癖禁止といったスポック博士的価値観だったのが、だんだん昔ながらの産婆(助産婦)や母乳や自然分娩が見直されてくるようになる、そのタイミングってやっぱり1980年ごろなんじゃないだろうか。
このブログで何回か書いてるように10年ほど前エコブームと入れかわるがごとく胎内記憶とか自然なお産がチーズタッカルビばりにゴリ押されてた時期があり、そういう番組で特集される母乳の絶対出るマッサージとか、○人の赤ちゃんをとりあげたカリスマ助産師みたいな婆さん、病院出産や粉ミルクがオシャだった時代はどういうポジションだったんだ?って当時から少々疑問に思っていた。助産院はいちおう戦前からの流れで存在はしてたけど、病院に押されて絶滅危惧種の遅れた人達くらいに思われ軽んじられてたんだろうか。
母乳の自然主義とその歴史的変遷
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/skajitani2.pdf
こうした世界的な流れを見ると、日本において明治時代に人工乳が入ってきたのも、欧米のメーカーによる世界市場の開拓の一環であったように思える。しかし幸いなことに日本では、欧米の植民地になっていたアジア、アフリカ諸国のような大規模な悲劇は起こらなかった。おそらくそのためであろうが、人工乳のこうした冷酷な産業資本主義的側面は、戦後まで顕在化しなかった。その意味で、1955年に起きた森永ヒ素ミルク中毒事件は、人工乳のもつ独特な危険性が日本で露呈する重要なきっかけになったと言えよう。この事件では、被害者となった子供が約1万2000人、うち131人が死亡した 59)。粉ミルクという工業製品は、かつて母乳に比べて乳母が危険だとか、動物の乳はよくないと言われたレベルとは、比べようもないほど複雑である。それは医療を通して直接母子に介入し、経済活動を通して社会全体に広がるがゆえに、母子の身体も、両者をつなぐ母乳も、いつの間にか巻き込んでいく。
もっとも、この事件に対する注目は、しばらくはあまり集まらなかったようである。社会的な関心が高まるのは、裁判が大詰めを迎え、被害者とのあいだで和解が成立する70年代である 60)。この時期は、上述したことからも分かるように、世界的に人工乳への警戒、母乳哺育の見直しと呼びかけが盛んになされた時期である。日本でもそれと並行するように、母乳への関心も強くなり、上述した松村龍雄の他、松田道雄や山内逸郎といった母乳推進派の医師の努力により、母乳哺育の割合も増えたようである(cf. 山本 1983、117)61)。
戦後も、それ以前と同様、母乳哺育が自然だからいいのだと、繰り返し言われた。だが、母乳への関心の強さは、つねに同じではないのだ 。戦後は、明治・大正とは異なり、人工乳が庶民にも買えるようになり、「山の手から下町へ、都市から農村へ」(山本 1983、110)と広がっていった。社会全体で見ると、人工乳に対しては、まだしばらくのあいだ、警戒心よりも憧れのほうが強かったにちがいない。人工乳はモダンで、新しいがゆえによいものであり、女性解放のシンボルとしても受け止められた。汚染されたミルクによる死亡事故が起きても、ミルクは新しい、医学的にも保証された便利なものだという考え方が続いた(cf.前掲書、184)62)。そして高度成長期になってもまだ、「乳がよく出ない」という言葉は、一種のステータスシンボルのように使われ、いわゆるインテリほど自分で授乳せず、人工栄養で子供を育てた。逆に母乳を与えるのは、古臭いとか貧乏くさいといったイメージと結びつき、文化程度が低い人たちの習俗だとされたようだ。
上の引用は助産院や出産については書いてなさそうだが、粉ミルクの普及期であろう高度経済成長期においては母乳が貧乏くさく、乳の出が悪いのがステータスだったとのことで、母乳推進派の医師の努力もあって母乳の価値が見直されてきたのが70年代だという。じっさい検索してても1980年より前って上記引用で母乳推進派として名前の挙げられている松村龍雄著「母乳主義―あなたの子どもは「牛」ではない」(1972年)って、牛さんのおっぱいに赤ちゃんがぶら下がっているという、おそらく牛乳は牛の子どもが飲むもんだから人間が飲んでんじゃねぇって内容とおぼしき本があるぐらいで、自然なお産、育児、産婆、とかが出てくるのはだいたい80年代以降、三森孔子(みもりよしこ)という助産師によって提唱されたラマーズ法という呼吸法が1978年11月、朝日新聞の特集「お産革命」によって注目されたのが最初期ではなかろうか。
https://www.amazon.co.jp/dp/4579200306
https://www.amazon.co.jp/dp/4326799188
私がロハス史振り返るシリーズでもっとも主張したいところに、それまでてんでんばらばらに存在していたであろう生協、ヒッピー、反原発、マクロビオティック、そういう自然派っぽい奴が1980年代を通じてロハス的価値観に統合されていくって歴史観があるのだけども、ラマーズ法が出てきた時期を考えるとお産もまた例外ではないだろう。昔はラマーズ法っていうのがあって云々って言う人は50〜60代くらいのイメージがあるので、やっぱりその世代が赤ちゃんを産んでいた80年代に人気爆発した呼吸法と考えられる。
とするとオバタリアン〜団塊はスポック世代、その下の1950〜60年生まれがラマーズ世代ってとこだろうか。やっぱり自然なお産は苦痛なので、自分らしい素敵なお産にするためにそういう呼吸法を取り入れようって運動だったと思われる。
母と子のサロン 矢島助産院
http://m.webry.info/at/osan-to-oppai/201106/article_27.htm?i=&p=1&c=m&guid=on
院長のユカさんは、かつてラマーズ法が自然出産の代名詞だった時代に、その中心的な存在だった三森助産院に勤務していた方です。三森助産院は院長先生が亡くなられたあと閉鎖しましたが、ここからたくさんの開業助産婦さんが育ったところです。中でも勤務年数が長く自宅も近かったユカさんは、開業のスタートも、三森助産院がなくなって困ったしまった人を自宅出産で引き受けるような形でした。3年ほど自宅専門でがんばったあと、1990年に今の地に移り、ゆったり入院出産ができる助産院を建てられました。
ごく普通のおうちスタイルの助産院で、入院時は、陣痛、お産、産後まで同じ畳の部屋で過ごします。入院している人とスタッフのご飯を作る場であるダイニング・キッチンは居間とひとつながりになっていて、ここに来る人すべてに解放されています。助産師さんと、また妊婦・産婦どうしで、ふれあいを楽しみ、お産や育児のことをたくさん話していけそうなところです。
入院出産がメインになってから長い今も、まだ自宅出産を大事に続けているのもここの特徴です。ユカさんご自身が三番目のお子さんを三森先生の介助で自宅出産していて、その良さを強く実感しているからでしょう。
ラマーズ法を提唱した三森助産院からたくさんの開業助産師が育ったとあるが、たしかに今自然なお産や母乳推進の助産師ももともとは病院勤務だったのが80年代以降に助産院開業していることが多いように思う。上記引用にある矢島助産院も80年代に三森助産院から派生した助産院であり、多数マスコミに露出していることを考えても、自然なお産はやはりラマーズ法の系譜なのだろう。
[シリーズ・産み、育てる] 助産所で産むということ(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=vp_1nPBKPZo
矢島院長「自分の好きな姿勢で、好きなように声を出して・・・そして何て言うかな、自分の思うままにこう産んでいける。そういうお産が私は一番大事じゃないかなと思って」
ナレーション「矢島助産院ではお産はこうでなければいけないという決まりはなく、無事に出産を終えたら全員で乾杯してお祝いするなど楽しくお産をしようという雰囲気がただよっています」
『うまれる』医療機関向けDVDサンプル(不妊と流産を乗り越えて)(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=BeMjgveyAhk
一般社団法人 矢島助産院 国分寺(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=J706WbgdZlQ
「あんなに愛されて、抱きしめてもらって、お産をしたことは宝物だし、女の人は産むことで赤ちゃんを生み出してお母さんになるけど、私の中の私を生ませてもらったっていうことがやっぱり矢島さんだったからできたなっていうのをすごく感じます」
80年代におけるラマーズ法が分娩台から自分らしい自然なお産へってな流れのはしりと思われるのだが、1986年にはもはやヒッピーとしか思えない山縣良江という屋久島の助産師が「聖なる産声」って本を正食出版ってとこから出している。この正食出版って初めて聞いたうえ検索しても何も出てこなく、サイトによってはたま出版って書いてるとこもある。
とりあえず正食ってのはマクロビオティックのことであるし、たま出版ってのはオカルト系の出版社で、Wikipediaによると同出版社は80年代にアクエリアス革命って雑誌を出していたそうだが、アクエリアスとはみずがめ座、ニューエイジとはみずがめ座の時代のことなのだった。山縣助産師の息子は歌手のあがた森魚だそうである。
https://www.amazon.co.jp/dp/4884811542
『聖なる産声』 山縣良江著 たま出版(REBORNお産図書館)
http://www.web-reborn.com/books/library.php?id=129
REBORNコメント
屋久島の大自然の中で天然村助産院を開業し、全国から集まってきた妊婦たちのお産を取りあげていた山縣助産婦。耕した畑で採れた無農薬の野菜をつかい、自らマクロビオティック(自然食)の食事をつくりながら、食を正してからだを動かし、規律正しい妊娠生活を送ることによって、自然出産に向けたからだづくりをすることができると説く。明治生まれの気骨な精神が読み取れる。
(REBRON きくちさかえ)
内容
自然なお産は、朝日が輝き出ずるがごとく、神秘的で、自然に与えられた天与の術です。
目次
第1章 女性の願いは自然なお産
第2章 母性が目覚めるとき
第3章 母と子のきずな、胎教・食
第4章 妊娠・出産の心がまえ
第5章 緊急のときのお産
あがた森魚の「赤色エレジー」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/agata.html
・・・
そして、彼の母親である、山縣(やまがた)良江さんも、
精神世界では、それなりの有名人だった。
自然分娩を行う助産婦として「聖なる産声」という著書があり、
また、マクロビオテックの講師として、日本全国を回ってもいたのだ。
・・・話は戻るが、痩せて肌が色黒の山縣良江さんは、
(マクロビオテックの人は、みんなそうだったように思う)
鹿児島県の屋久島に一万坪の土地を持って、畑を耕し、
夫婦で自給自足の田舎暮らしをしていたが、
既に故人となった。
(良江さんがうちに泊まった時、息子のあがた森魚さんが
一週間後に、タモリの「笑っていいとも」の冒頭のコーナーの
「テレフォンショッキング」に出演する予定だと言っていた。
あれは当日に翌日の出演をお友達に交渉するはずであるように
テレビでは見せているが、それが、へえ、一週間前にもう既に
決まっているのかと、テレビの演出に感心したものである)
・・・
検索してたらあがた森魚のライブ会場がカフェスローって書いてあるサイトがあるのだが、カフェスローといえば確かエコブーム時にキャンドルナイトやスローフードやハチドリのひとしずくやブータン幸せ説を提唱していた辻信一のお店で、前述の矢島助産院とも近い距離にあるし、矢島助産院の写真展もやっていたようだ。美健ガイドでもおなじみ真弓定夫先生が顧問をつとめていた自然育児友の会の住所もカフェスローで、同会もまた80年代における出産育児のロハス化の流れの中で生まれた集まりと思われる。
『 矢島助産院写真展〜お産でうまれるもの〜』ギャラリー&トーク(カフェスローに集う〜イベントカレンダー〜)
http://event.cafeslow.com/?eid=1080641
期間中トークイベント開催!
『お産でうまれるもの 〜矢島床子とお産を語ろう〜 』
お産が女性や家族にもたらすものは何でしょう?矢島助産院で産んだ方々に、お産を経て、自身や家族に何がうまれたか語って頂きます。
矢島も皆さんと一緒に語り合います。
産んだ方、これから産む方、助産院でお産をされていない方、お子様からお年寄りまで、どなたでも是非ご参加ください。■日時:2014年7月4日 OPEN:18:00 START:19:00
■参加費:事前予約:1,800円 当日:2,000円 /共に1ドリンク付 *高校生以下無料
■出演者:矢島床子と矢島助産院で出産した人たち
■予約申込み:カフェスローまで
- 2018.02.24 Saturday
- ロハス*ほっこり
- 00:29
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- by 悩み