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評価:
桜夛吾作
株式会社美健ガイド社
¥ 1,944
(2014)
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病院出産や粉ミルクがオシャな時代から、じつは病院で生まれた赤ちゃんトラウマ抱えてるとして昔ながらの産婆や添い寝やおんぶや母乳が再評価されだしたのは俳優いしだ壱成ともゆかりの深い西荻窪「ほびっと村」のようなヒッピーの功績も大きいのだろうが、そうしたわれわれがイメージしやすいところの左翼や自然派とは別に七田式の七田眞やソニー井深大によって賢い子を育てるには胎児〜乳児期も重要だというオカルト英才教育がほぼ同時期に確立されており、おそらく池川明による胎内記憶は後者の影響のほうが強い。井深大が昔ながらのお産や子育てが再評価される前の70年代初頭からゴマブックスで主張していた0歳児教育「幼稚園では遅すぎる」が「生まれてからでは遅すぎる」に更新されたのは、トマス・バーニー著「胎児は見ている」(1981)以降とみられる。
https://www.amazon.co.jp/dp/4396102062/
生れてからでは遅すぎる
本書は、いままでまったく存在がはっきりしていなかった世界を、私たちの前に展開してくれた。
私が昨年、一番多く辞書を引いて読んだのが、この原書である。
胎児の神秘が驚きの連続で説かれ、私の「0歳からの教育」を「0歳前から」に修正しなければならなくなってしまった。
胎内学習の可能性は0歳からの学習につながり、子どもをよい性格、よい頭脳の人間に育てることに深く結びついていることを示唆していると思う。文字どおり、日本の小児科の第一人者である小林登先生が、心をこめて翻訳しておられるのを見ても、本書がありきたりのものでないのがわかるだろう。
上に引用した文章は「胎児は見ている」のカバーに書かれている井深大の推薦文である。同書の訳者であり小児科の第一人者である小林登先生はもしかすると胎児じつは賢い説の紹介者という以上のものはないのかもしれないが、「十分に甘えさせなかった子は自立が遅れる!抱き癖を心配すると情緒不安定の子に育つ!」主張しお産の学校(ラマーズ法)の顧問でもあった内藤寿七郎や「母乳は愛のメッセージ」の山内逸郎など母の愛や母乳を重視する小児科軍団で井深大の出産本に推薦文を寄せているし、ソニー教育財団の井深対談にも登場している。
井深対談
http://www.sony-ef.or.jp/sef/about/ibukataidan.html
1969年から1994年に(財)幼児開発協会(2006年に(財)ソニー教育財団と統合)が発行していた『幼児開発』誌で、井深大が『井深対談』として各界の著名人の方々と行った対談のアーカイブです。
この井深対談には小林登や山内逸郎のほか、早期教育の七田眞や久保田競・カヨ子も登場しているが、個人的にはトランスパーソナル心理学の吉福伸逸との会話内容がもっとも気になった。吉福伸逸は星川淳と並び「ビー・ヒア・ナウ」など有名なニューエイジの本を多数日本に紹介した人で、育児関係ではほびっと村が編集した自然なお産の本に名前があったし1984年にはジョセフ・チルトン・ピアス著「マジカル・チャイルド育児法」(1977)といった本も翻訳している。
https://www.amazon.co.jp/dp/4531080300
現代人を不安に駆り立てるあらゆる過ちの元凶は、病院の分娩室に集中しているように思われる。そこからもたらされる災厄は時限爆弾のような働きをするため、大半が気づかれないままである。この犯罪に加担する者は決して償いをする必要がない。というのも、その爆発は長い年月をかけてゆっくりと進行し、広く拡散して多様な害をもたらすために、その爆弾に点火した犯人をわざわざ過去に遡って追求するようなことをする者がほとんどいないのである。
(マジカル・チャイルド育児法 67ページより)
この例で私が強調したいのは、胎児のうちから学習がはじまっていること、そしてそれは人間という組織のうちでも最も複雑に入り組んだ部分についての学習であるということである。そういった特質を持った学習が胎内ではじまっているとすれば、われわれの学習というものについての考えや、おそらくは言語そのものについての考え方を再検討しなければならないことになる。そしてなかんずく赤ん坊を「未分化の精神的有機体」とする見解を洗い直さなければならないだろう。
(マジカル・チャイルド育児法 72ページより)
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何が起こるのだろうか?自然の出産プロセスが今やすっかり台なしにされてしまったために、お産の「手助け」に器具が用いられる。現在ごく普通に行われている会陰切開手術(他のどんな大手術にもひけをとらぬやり方で母親を手ひどく切開し、時に消えることのない傷をもたらす)に加えて、鉗子や吸出機器が無造作に使われる。あのごくこわれやすいきわめて繊細な頭をはさんで、母親の体内から赤ん坊を掻き出したり、吸い出したりするのである。多くの場合、そういった器具の使用は必要ない。医術屋のあの手この手の策略によってさまざまな併発症が引き起こされるが、会陰切開手術が正当化されうるのはごく緊急の場合のみである。真相は単純だ。医術屋は自分の技術を使いたいのである。つまり、自分の存在が重要視されるドラマを好み、数々のメカニカルなおもちゃを操り、自然が無能であることを証明し、自分自身の優越性を確立したいのである。
半麻酔状態や過剰ストレスに疲れ切った赤ん坊は、たとえ時間がたっぷり与えられたとしても、当然、自分で呼吸できないのが普通である。数多くのまだ使われていない新しい筋肉の協応が混乱をきたし、うまく働かない。赤ん坊の身体はただ反応するだけである。同調的な相互作用はとっくにすべて破壊されている。酸素欠乏に対する身体的恐怖が続いた末に、母親から吸い出されたり掻き出されたりした赤ん坊は、マスクをつけた生き物やブンブンうなる機械にとりかこまれた、騒々しい、目もくらむような照明が灯された舞台に登場する(蛍光灯が出す雑音だけでも負担であるが、蛍光灯そのものが幼児に及ぼす害に比べれば、そんなものはものの数ではない。蛍光灯が幼児にとって有害であることは、照明の世界的権威であるジョン・オットーが明言してはばからない)。吸入器が無理やり口や鼻にねじこまれ、痛いほどまぶしい光ののもとでまぶたがひっくり返され、測りしれない痛みをひき起こす薬品が開いた瞳に落とされる。赤ん坊はかかとをつかまれて逆さまに吊るされ、背中をたたかれる。さもなくば、人工呼吸器にかけられる。酸素が欠乏したこのきわどい時期に、へその緒が切られてしまう。そして会陰切開手術で汚れた血を洗い落とされ(その血を見て母親はしばらくの間ショックから立ち直れない)、工場の肉片と変わりなく冷たく固い秤で体重を測定され、おくるみでくるまれて(これは何にも増して、あの悪魔のすき間風から赤ん坊を守ってくれる)、恐怖と苦痛に泣き叫びながら乳児室のベッドに送り込まれる。それも運の良い子の場合である。運の悪い子は意識のほとんどない仮死状態で、ベビー・ベッドよりさらにひどい保育器にすばやく入れられる。
(マジカル・チャイルド育児法 94〜95ページより)
彼が知られるようになったのは、『宇宙卵の裂け目』という本を書いてからなんだ。この本は、自分を支えていた常識的な世界観の崩壊という体験を叙述、解説したものなんだけど、当時、ちょうどアメリカではカルロス・カスタネダの『ドン・ファン』シリーズがベスト・セラーになっていて、非日常的リアリティ(non-ordinary reality)という概念が一般によく知られていた。つまり、僕たちが現実と呼ぶものは単に、大多数の人とか文化によって承認された僕たち自身の創作物にすぎず、そういう一種の文化的暗示の網をかいくぐりさえすれば、そこにはカスタネダやピアスが非日常的リアリティと呼ぶ、まったく別の世界が存在し得る、ということなんだ。ちょうど1960年前後にピアスはそういう世界をかいま見た。彼はその体験を自分の宇宙卵に裂け目ができた、という言葉で表現したわけだよ。誰にとってもそうなんだけど、彼にとってもこの体験は彼の人生観を根底からくつがえすような強烈なインパクトになった。そこでさっきいった、『宇宙卵の裂け目』と『宇宙卵の裂け目の探求』という二冊の本でアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、ジョン・C・リリィ、R・スペリー、マイケル・ボランニィ、チャールズ・タート、それにこの本の中でも頻繁に出てくるブルーナーやピアジェやカスタネダの考え方をベースにして、自分の体験したリアリティを説明していったんだ。その過程の中で、文化的な暗示をあまり受けていない小さな子どもの見ている世界とは、どういうものなのかという問題に突きあたった。おそらく、それがこの本につながってきたんだと思う。最初の本の中で既に、教育者として子どもに最小限の文化的暗示しか与えないような活動をしたい、といっているからね。それに奥さんが五人目の子どもを産んだあと、病気になって医者から見放されてしまった。医者に連れていっても、完治しているという診断が出た。ところが、医者に月に一回一応チェックにくるようにといわれて何度か通っているうちに、医者の否定的な態度によって奥さんの確信が崩れてしまい、結局病気が再発して奥さんは亡くなってしまった。ピアスの西洋医学に対する不信感や死という問題に対する深い洞察力なんかは、この体験からきているんじゃないかな。
(マジカル・チャイルド育児法 訳者あとがきより)
そうそう。最初に産婆さんに手伝ってもらって自宅出産をしたいと言ったら、両親から大反対されたものね。東京よりも田舎の方が産婆さんが多いだろうと思って僕の実家の倉敷で産むことにして、産婆さんを探したけど、結局地方の方が出産なんかに関しては、よけい西洋化してるんだよね。産婆さんもほとんどいなくなってるし、たまにいても、ほとんどの場合が病院と直結してしまっていて、随所にもしかのときに対する不安が蔓延している。緊急の場合に備えて、病院と提携しているのはわかるけど、あまりその部分を強調されると、不安が先行してしまって胎児にもよくないと思う。どこの病院でも、父親を分娩室には入れてくれないし、結局産婆さんがやっている近くの産院でラマーズ法を使って産んだわけだけど、やっぱり初めての体験だったから、今から思うともっと自覚したうえで、もっと自然にやれたと思うな。
(マジカル・チャイルド育児法 訳者あとがきより)
ジョセフ・チルトン・ピアスやマジカル・チャイルド育児法で検索してもとくにWikipediaとかでまとめてくれてるわけでもないし30年以上前の本なので雰囲気わかるよう長めに引用しといた。そしてこの本の訳者である吉福伸逸と井深大の対談の話に戻す。
井深対談
http://www.sony-ef.or.jp/sef/about/pdf/taidan30_31.pdf
井深 我々のほうでも、大変おもしろいことが出てましてね。 新体道の青木宏之先生をご存じですね。
吉福 はい、知ってます。
井深 あの先生に、幼児のいろいろな感性が非常に高いってことを、私がサジェストしたら、それを実証しちゃったわけですよ。 後ろから新聞紙丸めてたたこうとするのをスッとよけるという実験で・・・。3歳はほとんどよけるのに、4歳、5歳となっていくと、だんだんよける子が減っちゃうんです。で、大人はもう5%になっちゃう。
吉福 よけられるのがですか?
井深 ええ、5%以下だっていうの。それが、3歳ぐらいの子供はほとんど100%よける。 そういう超能力的というか“気”がものすごく強いわけですよね、青木先生自身も。そこで、子供で1つ試しなさいよって言ったんですよね。そしたら、新潟県の長岡の幼稚園に自分のお弟子さんがいるので、そこで実験した。 前の日に1日だけ、合わせて拍手をするといったような簡単な練習をした。 3歳、4歳、5歳ですから、それに分かるように練習しただけ。そうしたら、結果は1番小さい3歳が100%。
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後ろから新聞紙丸めて子供叩く実験、美健ガイド「赤ちゃんからのメッセージ」にも描かれていた。対談では3歳にやるってことになってるけど漫画の子どもはもっと小さいように見える。
てことはもしかするとこのメガネの爺さんのモデルって、井深大だったんだろうか。似ているような似ていないような微妙なところなのだが。
メガネの爺さん「かのソニーの創始者も言っておられます 『悪いことをしたら3歳までには叩いてでも教えろ!』…と」
その理論にもとずいて叩かれまくる赤ちゃん。後ろから新聞紙で叩かれそうになったときは超能力でよけてたのだが・・・
また井深大の幼児開発協会は「おむつなし育児」も実践していたらしい。おむつなし育児といえばここ10年ほど三砂ちづるが提唱していたため、経血コントロールの発展形とみていたのだが、井深氏の場合だとロハスっていうより、おむつが早くとれる=賢い。って方向性な気がする。
井深 それにつながるかどうか分からないけれど、今、幼児開発協会で3年ばかり、 “おむつなし育児”というのをやってるんです。産まれてすぐから、おっぱいをやってからおしっこまでの時間をさぐる。最初は、またへ手を入れて、ぬれていない、ぬれてない、あっ、ぬれたと。何分たったらおしっこが出るんだというのをさぐってもらう。1ヵ月ぐらい、お母さんには苦労だけど、それをやってもらう。 それで、お母さんがそのぐらい注意深くやっていると、大体、様子を見て分かるようになるんです。そうなると、だんだん赤ちゃんのサインが分かってくる。赤ちゃんは、個人個人、サインがみんな違うんです。
吉福 お母さんには分かる・・・。
井深 ええ。そうすると、それをやった赤ちゃんの、首がすわるとか、寝返りを打つとか、お座りとか、それから、1つの言葉をしゃべるようになるとか、そういうのを全部調べてみると、きれいに2ヵ月ぐらい、やらない子より早いんですね。そういうお母さんとのつながりというものができ上がっていたら、子供というのは間違いなく進むんです。
そういえば私も周りに驚かれるぐらいかなり早くからおむつがとれていたのだそうだ。布おむつの時代なので洗う手間が省けるという利点もあるし、母乳より粉ミルクが偉いみたいなのと同じで、もともと早くおむつが取れるほど偉いみたいな風潮ももしかしたらあったのかもしれない。
おむつ外し(むかしはね!いまはね!どうする?子育てギャップ)
http://oya-ko-mago.ib.craps.co.jp/gap/767.html
赤ちゃんのおむつ外し、昔と今とではすいぶん考え方、やり方が異なります。
布おむつが主だった時代は、おむつの洗濯が大変だったため、できるだけ早くおむつを外すことが求められました。昔は1歳を過ぎた頃から、おまるを部屋に置いて、おむつ外しを始めたものです。
育児用品のロングセラー、コンビのおまる「スワン」が発売されたのは、昭和35(1960)年でした。赤ちゃんをくみ取り式トイレでの落下事故から救うために開発され、当時1,300円ほどでした。
スワンおまる
布おむつの場合、お尻が濡れたままだと不快なので、排泄する時に赤ちゃんがママに合図を送るようになります。
それにより、赤ちゃんが排泄するタイミングを見計らって、おまるに座らせることを繰り返し行って、おむつ外しを試みました。そうやっていくうちに、一日でもおもらししなければ、「おむつがとれた」ととらえていたのです。
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昭和23年(1948年)の『おむつなし育児』映像記録!(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=lXY8_9psPRY
「6ヶ月ごろから便器にかけると赤ちゃんは喜んでやり、おむつを汚さぬようになります」
これ厚生省による母子手帳の広報映画らしく、戦後すぐなせいか出てくる夫婦のノリが民主的な印象を受ける。おむつなしの後に宣伝か?ってくらい「モレドン」「アトロゾン」って粉ミルクと思われる缶が大写しになるのも気になった。