子どもも粗食

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    「昼の1食程度は、おにぎりだけで十分」…週3回「ノーおかずデー」に(7月27日 Yahoo!ニュース)

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170727-00010001-yomidr-sctch

    子どものお弁当、どうしよう。忙しい親は日々悩む。そんな中、神奈川県横須賀市の津久井幼稚園は10年前から、昼食を週3回、おにぎりだけ持ってきてもらう「ノーおかずデー」にしている。

    園長の余郷有聡(よごう・ゆうそう)さん(53)は「みんな喜んで食べていて、昼食を残す子はほとんどいません」と話す。

    以前は毎日、弁当を持参してもらった。子どもが嫌いなピーマンなどの野菜をおかずにする家庭もあったが、泣いて嫌がる子どもや、嫌いなおかずをわざと床に落とす子どももいた。

    「野菜が嫌いでも、ほかの食品で栄養を取れれば問題ない。今は脂肪の取り過ぎによる肥満が問題。昼の1食程度はおにぎりで十分」と主張する管理栄養士の幕内秀夫さん(64)に共感し、おにぎりだけのノーおかずデーの昼食が始まった。

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    幕内秀夫は戦後アメリカからゴリ押されたパンよりも、昔から日本人が食べてるごはんの方が優れてるからパンを朝食や給食に出すのはおやめなさいと主張をしている栄養士で、著書の表紙もほとんどごはんである。だからおにぎりっていうのは分かるけど、何でそれがノーおかずになるのかはまだ読んでない(幕内氏の存在を知った何年か前に何冊か立ち読みした程度)のでわからなかった。

    ただ昔白米を食べていた軍人が脚気にかかったとか、昔のニュース映画でキッチンカーの栄養士さんが「塩辛い漬物にどっさりめしが一番悪い食べ方」と指導してるのを見た感じでは、日本人が栄養バランスの良いおかずを食べるようになったのって戦後、栄養改善運動や給食以降であって、それまで塩気のあるものを多少添える程度だったと思われる。肉はもちろん、卵や牛乳も高かったらしいし、そもそも冷蔵庫やスーパーマーケットが高度経済成長期以降なので、何か保存するにしてもそれこそ味噌や漬物のように塩がいっぱい入ったようなのを自宅で作って少しづつ食べるのが主であったろう。

    じゃ幕内氏は栄養改善運動以前のノーおかず時代がいいっていう「昔はよかった」論者なのかというと、食事写真がアップされているブログを見る限りでは普通の現代的なおかずにしか見えない。肉はあんまりないけど魚をよく食べてるし、たまにウインナーとかサラダスパゲッティみたいなのまである。

    ノーおかずとか粗食とか言うと、てっきり麦めしに梅干しにめざしくらいのレベルを想像しちまうし、実際昔の日本人の食事てそんなレベルだろうけど、そういう意味では昔ながらの食事を徹底しているわけではないようだ。さすがにパンは食べていないと思うが。

    また上のノーおかず幼稚園の記事を読んで、なんで子供がピーマン嫌いだったらノーおかずになるのか経緯がよく分からなかった。野菜以外で栄養のとれるという「ほかの食品」をおかずにすればいいのでは・・・と。

    それに脂肪のとりすぎによる肥満が問題だと言うのは大人の話であって、子どもは身長も伸びてるし運動量も多いので少々食べ過ぎるくらいでもよい気がした。その点、油はだめでなおかつ嫌いな野菜は食べさせなくていいとなると、消去法でノーおかずということになってしまうのだろうか。

    でも子供は小さい頃から学校給食でパンに慣れさせられたのでパンを食べるようになった〜ってよく言われるし、日本人でも世代によってなじみのない外国の食べ物(キムチとか)、日本人はみんな食べれるけど外国の人が苦手な日本の食べ物(生卵、ごぼうとか)があることを考えると、やっぱり子供のうちから慣れる慣れないはのちの嗜好に影響するはずで、大人になって自然に食べれるかどうかはその後の話ではないか。パン業界が「米を食べると馬鹿になる」と言い、日本の食事が欧米化してもなんだかんだごはんに味噌汁が基本になっているのも、日本人が子供のころから日本人の食事はそういうもんだと慣れてるし、欧米人がアジア人ほど米や麺食べないのも子供のころから食べない食生活に慣れてるからだろう。

    現代は健康と食事についての情報がはんらんしているが、食事というのは日本人なら日本人、子どもなら子ども、肥満なら肥満に適した食事があるのであり、万人に完全な食事があるとは思えない。マクロビオティックなんかも栄養学的にはもしかすると批判されるのかもしれないが、ピザとかバーガーとか食ってるようなアメリカンサイズの巨デブだったらマクロビやったほうが健康的だし、逆にめっちゃガリガリで食細い奴だったらピザやバーガーを食べても問題ないし、私みたいにめしをおかわりするような炭水化物大好き野郎には糖質制限を取り入れるくらいでちょうどいいのだろう。

    健康や痩身などを目的に特定の食事法を実践している人はそれを理想とし、自分と違い何も考えず習慣や欲望のままに食べている人を情弱もしくは怠惰とみなす傾向がある。ダイエットに成功した奴がデブを見下すのと同じ心理で、人生の途中でパンや牛乳をやめて体調よくなった奴はまだそんな体に悪い食事してんのかい!と、他人まで許せなくなってしまう。

    だから栄養改善運動も、いろんな食べ物ある今見たらあまりにも動物性すぎて古いかもしれないけど、昔の貧しかった日本ではそれくらいでよかったと思うし、終戦直後の何も食べ物がない状況での配給されたパンや脱脂粉乳ならなおさらである。何がいい食事かなんてそいつの年齢や体型や地域や宗教や時代にもよるのだから、特定の食材や栄養素を理想化したり悪とみなすことはできない。

    しかしあんまりおかず食べないで脚気とか大丈夫なのか少々気になった。そもそも私どっちかというと幼女時代は和食が苦手で、ピーマンやトマト、コーンやグリーンピースのつぶつぶなどカラフルな野菜に憧れてたからそもそもピーマン嫌いなお子さんがたの気持ちもよくわからん。


    栄養全盛期萌え

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      以前パン史を振り返るのにあたり昔の資料や動画など見ていてふと、戦後しばらくのあいだ穴の開いた鍋でパンを自作するのがけっこう普通だったのか?と思ったのだが、やはり下記引用記事によると、戦争が終わって航空機用の資材であるジュラルミンが余ったのと米が不足していたために、ジュラルミン製のパン焼き器がかなり出回っていたとのことだ。このほか電気パン(電流パン、電極パン)というのも有名なようで、私が参照している書物「パンと昭和」においては「代用食の自家製パン」の章に詳しい。

      江戸が知りたい。 東京ってなんだ?!(ほぼ日刊イトイ新聞)

      https://www.1101.com/edo/2003-10-29.html

      ほぼ日     戦争が終わって、また、日本人ってね、調子に乗りやすいというか‥‥。紙の次は、“ジュラルミン”のブームがやってくるんですね。
      新田     この、変わりっぷりは、すごいですよね。戦時中は鉄が使えなかったので、いかに、鉄瓶を土瓶らしく陶器で作るのか、というようなことをやってきたかと思いきや、戦後になるとジュラルミンという航空機用の資材で、生活用品を作っていくという‥‥。
      ほぼ日     これは、要するに、戦争が終わって、飛行機が作れなくなっちゃったから、ジュラルミンが余っちゃったというわけですね。

      *ジュラルミン製パン焼き器
      新田     戦時中は、食べ物をはじめとする物資は、配給って形でなんとか行き渡っていたんですが、戦後になると、それまで大陸にいた人たちが、いっぱい帰ってきて、都市は、食料不足で、どうにもならない状態になっていたんですね。でも、その中でも、アメリカからの援助物資で、コーンスターチとか小麦は比較的手に入りやすかったので、パンを食べるという習慣が、根付いたんですよ。
      ほぼ日     パンは、みんな食べていたようですね。展示室で、年配のご婦人たちが、「昔、お家にあった」と言っていましたよ。
      新田     パン焼き器に関しては、このジュラルミン製と、木製の、電化パン焼き器というのが流行ったみたいです。戦後の物資が不足してた時代に、ガス管がいたるところで断絶していたので、ガスは使えず、薪や炭も、前よりは簡単に手に入らなかったそうですが、電気は、比較的通っていたんです。電線を、焼けたトタン板かなんかにくっつけて、液体を入れると、電気が通るじゃないですか。それで、暖めてパンを焼くっていうような原初的な方法をとっていたんですね。
      ほぼ日     そういえば、うちの母も、その方法のパン焼き器をアイロンの箱で作ったって言ってました。

       

      今みたいにパンを自作するよりも店で買うほうが普通になったのは、60年代くらいだろうか。戦後すぐに配給小麦をパンに委託加工する製パン所が各地にでき給食も作っていたが、当時のニュース映画などを見る限り50年代後半のアメリカ小麦戦略下における栄養改善指導ではキッチンカー等の講習でパンを自作している様子だし、おそらく車や道路や商店などの流通網が発達してきたのが60年代入ってからで、「パンと昭和」によれば地方の製パン所のひとつにすぎなかったであろうシキシマ、フジパン、ヤマザキなどが全国展開になっていくのもこの頃である。

      70年代にかけてはタカキベーカリーのダニッシュロールが1962年、ヤマザキのミニスナックゴールドが1970年、神戸屋サンミーが1971年発売とデニッシュ系の発売があいつぐなどパンの多様化がうかがえ、トングでパンを掴んでトレーに乗せる現代の方式も出てきたようだ。これらをふまえると50年代までは主食としてゴリ押されてはいたけどパンはあまりおいしいものではなかったし自作することが多く、60年代に朝にポップアップ式トースターで食パン焼いたり菓子パンなどが楽しまれるようになり、70年代に軽食として洗練され現在の地位を確立したという流れと推測される。

      そのようなパン史の中で私が一番萌えるのは、やはり50年代後半のアメリカ小麦戦略におけるゴリ押し期だ。栄養指導にまわるキッチンカーを割烹着の嫁や姑が取り囲み欧米化したフライパンのおかずに食いつき、米あるし給食費払えねぇだという農村のおっかさんたちにパン給食の素晴らしさを説き、米を「馬鹿になる」と攻撃するなど、なりふりかまわぬ栄養礼賛(栄養=小麦、動物性の脂肪、たんぱく質、欧米化したおかず)は、和食は健康的だけどパンはジャンクフード、欧米化は体に悪いという現在の価値観からすると少なからぬ新鮮さをおぼえるのだった。

      なので先日古本屋に逝って、当時の婦人雑誌を何冊か立ち読みしたところ、どれを読んでも米と張り合うかのようなパン食推奨記事があって、よほどバッシングされていたのか逆に「漬物で食べるから栄養バランスが偏るだけで米は悪くない」といった、米穀なんちゃら協会みたいな団体の反論広告まで載っていたほどであった。それ以外に読むとこなかったから買わなかったけど、あまりのゴリ押しぷりにアメリカの陰謀恐るべしとの思いを新たにした。
       

      茨城県ニュースNO.33(1961年(昭和36年度)制作)

      https://www.youtube.com/watch?v=moPZAV7IMO4

      1961年の茨城県ニュースは土地柄かオープニングが原子力。核の平和利用と言われ出したのもアメリカ小麦戦略と同じころで戦後史の闇を感じる。

      やはりここでも山村を砂ぼこりをあげて爆走するキッチンカー。音楽はキッチンカーのテーマソングか?

      キッチンカーに群がるご婦人がた。昭和30年代においてこの光景は全国共通である。

      「この車は別の名をキッチンカーとか動くお台所などと呼ばれ、内部にはりっぱに管理された調理室を持ち、私たちのくらしの中でいちばん大切な食生活の改善や合理化などについて各保健所の栄養士さんたちが現地で指導をおこない、健全な体位の向上をはかるため実施されています」

      「安くておいしく、しかも栄養のある料理の仕方を早く身につけようと、みんなパンフレットを片手に熱心に講習を受けています」

      当時の僻地に住むご婦人がたは、服装もだけど栄養改善される前なだけあって今ではまったく見かけなくなったタイプの顔だしびっくりするくらい老けてる。こう見えて右のお婆さんも60代とかけっこう若いんだろうなきっと。

      茨城に来たキッチンカーもソフトメンじゃないけど何かうどんみたいなの作った。手に乗せて試食。

       

      昭和40年 伸びよおおしく(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=cLlaq-tdULM

      農村の栄養改善する「栄養の谷間」と同じく静岡県の健康や体位向上に関するお宝動画「伸びよおおしく」。栄養の谷間の4年後の1965年制作。

      「動く台所と呼ばれる、県の栄養指導車」

      「山村、僻地の食生活の合理化を目指す栄養士さんは経済的で栄養価の高い料理を作って指導しています」

      「こうして子供をはじめ家族全体の健康増進に効果をあげています」

      昭和も40年代に入ると僻地とはいえ試食にむらがるご婦人がたの服装がそれ以前のキッチンカー動画よりかなり現代的になっているように感じられた。そのかんにも栄養士さんの栄養指導講習(どっさりめしばっかり食べてないで、肉のおかずや牛乳など動物性食品を取り入れよという指導)は多く開かれていたようだ。

      「発育ざかりの子どもたちには栄養価の高い食事が与えられます」

      給食でパンではなく麺を食べる児童。静岡なだけあって当時関東および東海を中心に導入されたばかりのソフトメン(スパゲッティ式めん)か。

      今みたいな黄色いスパゲッティが食べられるようになったのは70年代くらいからだろうとみているが、たぶんそれまでこういう謎の細麺をスパゲッティって言い張ってたと思う。そして米飯給食導入は1976年まで待たなくてはならなかった。

       

      ソフトスパゲッティ式めん(Wikipedia)

      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%B2%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E5%BC%8F%E3%82%81%E3%82%93

      歴史

      1960年代、当時パンのみであった学校給食の主食を増やすために開発され、東京都が学校給食に採用をしてから各地で採用されていった。それゆえ関東地方や東海地方と、中国地方の一部ではよく知られている一方、東北、関西、四国、九州(沖縄県を含む)、北海道(札幌市を除く)、北陸・甲信越の各地方では、ほとんど知られていないことがある。他の主食と同様に、自校給食の場合でも調理されて蒸しあがったものが業者から納入される。

      当時は美味しくないことで不評であった給食用パンに端を発する給食嫌い(給食離れ)が進行していたが、アメリカ産小麦の輸入と消費を維持するという大前提から、米飯は導入されなかった。1970年代後半から米飯給食の見直しが進められ、現在では米飯給食の普及や他の麺の登場によりソフト麺には学校給食として往時の勢いはないが、懐かしさからまた食べたいと望む声が多いため、コンビニ弁当や通信販売等で入手することができる。『思い出の給食』アンケートをとると関東地方では常に上位に位置するメニューでもある[3][4]。

       

      『岡山県ニュース』くらしにとける牛乳(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=0RGKrQOsMk0

      これは小麦ではないのだが、戦後援助物資である脱脂粉乳に始まり米飯給食導入後もごはんに全然合わないのにもかかわらず給食にゴリ押しされ続けるなどパンとセットで語られることの多い牛乳。最近は飲まない人も多いけど、まだパンよりは「栄養」のイメージを維持していると思われる。

      この時代、といっても岡山県のニュース動画は何年か書いてないのだが、ともかくアメリカ資本のキッチンカーを筆頭に栄養に関する講習(どっさりめしばっかり食べてないで、肉のおかずや牛乳など動物性食品を取り入れよという指導)とか料理のコンクールすごい多かった模様。栄養改善は厚生省の一大プロジェクトだったにちがいない。

      「最近では牛乳を飲むだけでなく、どんな料理にでも取り入れられています。婦人会や保健所で開かれる栄養教室では、牛乳料理の講習会に人気が集まります。牛乳は私たちに不足がちなカルシウムやビタミンを十分に補ってくれるバランスの取れた食品です。他のいくつかの食品を合わせたものに劣らない栄養を持っています」

      「さっそく主婦が牛乳を使って家庭料理に腕を振るいます」

      牛乳を使った料理ってシチューみたいなのしかできなさそうだが・・・

      「出来上がった栄養料理に一家は楽しく食事が進みます」

      牛乳のおかずに主食はパン、飲み物は牛乳、とまるで学校給食のような模範的栄養料理である。

       

      『岡山県ニュース』町でも村でも牛乳ラッシュ(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=vD8bWdMUcqw

      「岡山県の牛乳生産量は毎年2万1000キロリットルで全国で16位、 その消費量は年とともに増加していますが他県に比べるとまだまだ少ないのです」

      オハヨー乳業のおひざもとであるにもかかわらず岡山の牛乳消費量は他県より少なかった。アドバルーンで牛乳を宣伝。

      「美作町のある酪農家では、毎日水やお茶の代わりに一家7人こぞって牛乳を飲むので、年間9俵のお米が節約できました

      牛乳ってもはや主食じゃねぇだろと思うのだが、牛乳を水がわりに飲んでいるので米を節約できたという、どっさりめしの弊害がうたわれた栄養改善期らしい自慢。

      「勝北町の役場では、牛乳を使った新しい栄養料理の講習会を始めています」

      先ほど牛乳を使った料理ってシチューみたいなのしかなくね?と思ったのだけど、この動画では「野菜のクリーム煮」と「卵のコロッケ」って書いてる。漬物でどっさりめしを食べていた戦前にはなじみのなかっただろう乳や肉や卵を使い、それも油で揚げるという栄養ゆたかな料理を、講習をうけたご婦人がたはさっそく家族にふるまったにちがいない。

       

      『岡山県ニュース』栄養まつり(YouTube)

      https://www.youtube.com/watch?v=jRieRXrdXdE

      「都窪郡清音村は昭和23年9月、岡山県から全国でも珍しい栄養改善標準村の指定を受けました」

      「それ以来全村一体となって、栄養改善を中心に台所の改良など生活改善に努力を続けてきました」

      改良された文化的な台所で牛乳を使った栄養料理に腕をふるうご婦人がた。

      「満10周年を迎えた4月23日、村では盛大な栄養まつりが催されました。 村には賞状や記念品が知事から贈られ、また栄養改善の功労者たちは村から表彰されました」

      「この日料理コンクールも行われ、日頃の腕を競った1食分30円の安くて栄養の高い、しかもおいしい料理は人々の味覚をそそるのに十分でした」

      乳料理コンクールって書いてるけど、牛乳を使った料理ってそんなにバリエーションあるのか?・・・と、どうも栄養改善期における牛乳料理ゴリ押しな風潮をひしひしと感じるお宝動画群であった。とりあえず栄養改善およびパン食奨励のノリはなんとなくわかったので、その批判の先鋒である幕内秀夫の著作も今後読んで逝こうと心に誓った。

       

      【学校給食の裏面史「アメリカ小麦戦略」 / 鈴木 猛夫】No.6〜10

      http://nakayamaj.com/?page_id=4904

      戦後の日本人の食生活欧米化の発端は巨額な費用を注ぎ込んだアメリカ側の見事な小麦戦略であり、それは予期以上の大成功を納めた。パンを主食とするとおかずは自ずと肉、卵、牛乳、乳製品という欧米型食生活になる傾向がある。それらの食材の提供先はアメリカでありそこにアメリカの真の狙いがあった。前号で書いたように東畑朝子先生が「みんな隠したがっている」こととはまさにアメリカ側の資金で戦後の食生活改善運動が推し進められたというあまり知られていないこの事実である。戦後の改善運動ではパン、肉、卵、牛乳、乳製品等の摂取が勧められてきた。厚生省、栄養学者はそれらをバランスよく摂取するという欧米型食生活が正しいと信じ栄養行政に反映させ、栄養教育をしてきた。それは栄養学的にみて望ましいとされ(実際には大いに疑問があると筆者は思うが)、厚生省の管轄下にある各地の栄養学校ではそれらの食品の優位性が強調された栄養学が教育されてきた。「肉は良質な蛋白質である」「牛乳はカルシウムの吸収が良い」等々のように。しかし栄養学的に正しいから国民に教育してきたのだろうか。
      昭和30年代のこれらのアメリカ側の強引な粉食奨励策をみてくると純粋に栄養学上というよりも、アメリカの余剰農産物処理という政治戦略によって推進されたのである。
      食生活改善運動の理論的ささえとなってきたいわゆる現代栄養学を一生懸命教えてきた栄養学者にとっては、この日米一体となって推進してきた食生活欧米化の大事な原因についてはあまり栄養士の卵には教えたくないのが本音だ。だから現代栄養学の優位性をことさら強調する栄養教育が行なわれてきたのだと思う。国民にはもちろんキッチンカーに乗せられ一生懸命活動した栄養士、保健婦たちにもその資金の出所についてはほとんど知らされていなかったのである。「隠したがっている」事実こそ戦後最大の厚生省、栄養教育者のタブーであり、触れられたくないことなのだ。


      打たないで

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        何度かこのブログでも書いているように、10年くらい前の温暖化ゴリ押しはしつっこいことこのうえなかった。暑い日や寒い日はいちいち温暖化が〜と言い出すし、北極と思われる氷が割れたり、小ちゃい氷に乗ったシロクマたんが落ちちゃうよーとばかりにおびえてるという、涼しいところの氷が解けて水位が上がることを暗に示唆していると思われる不吉な映像がさかんに流れお子さんがたにトラウマを植えつけようとしていたのだが、2008年の洞爺湖サミットが終わった頃くらいから急にゴリ押しが終わり、チームマイナス6%とかいう環境省のキャンペーンが鳩山のせいでチャレンジ25(二酸化炭素25%削減)になってから、阿呆らしくなったのか誰もエコとか言わなくなり、二酸化炭素を出さない発電だから温暖化対策とうたわれた原発が事故を起こしてグダグダになり、原発事故で脚光をあびたはずの太陽光発電もなぜか音沙汰がなく、今じゃ気温が高くなっても水害が起こってもマスゴミは温暖化が〜と言わなくなった。

        2003年から2006年まで環境大臣をつとめその後もエコへの行動力を強みにしていた小池百合子もしばらくあの人は今状態でホとひと安心してたのに、都知事候補になった瞬間から露出が急増した。そして下の記事を見て、「この人が都知事になったらまたロハスがゴリ押しされちまう」というかねてからの危惧が現実になったことを知る。

        東京五輪へ小池知事、酷暑のマラソン打ち水で熱対策(7月21日 日刊スポーツ)

        https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/1859116.html

        東京都の小池百合子知事(65)は20日、都庁前広場で行われた「打ち水」イベントに参加し、約1100人の来場者と一斉に打ち水を行った。小池氏は触らなくても温度を計測できる放射温度計を使って、地面の温度の変化も計測。「一斉にやることに意味がありますよね。暑さを乗り越えていきましょう」と呼び掛けた。

        3年後の夏に行われる20年東京五輪・パラリンピックについて「暑い中でマラソン選手が走ったりするところは打ち水で解消していくなど、江戸の知恵を生かしていく。みなさんと一緒に進めていきたい」と話した。都主催の同イベントは都内141カ所で実施され、都庁会場にはりゅうちぇる(21)も来場した。

         

        しかしこの打ち水大作戦ってなんなんだろうか。一般に打ち水は朝夕の涼しい時間に舗装されていないところでやるのが効果的といわれてるのだが、江戸時代には存在しなかったと思われるアスファルトに水をまいて昼間のヒートアイランドを解決するかのようにほのめかしているし、むしろヒートアイランドのようにアスファルトが熱し続けられるところに打ち水したら地面の温度は下がるが散布した水はホカホカとスチームになってマラソン選手の蒸し焼きが懸念される。

        そういうケチをつけると、じゃあどうすればいいのかとか、水をもっと大量にまけばいいという人が絶対いるのだが、路面が濡れてると多少危なかったり靴が汚れたりということもあるので、人間が水まかなくちゃいけないという使命を捨て何もしないかせいぜい街路樹でも植えたほうがいいんじゃないだろうか。暑い日に水まいたところと木陰とだったら10割の人が木陰逝くと思うし、打ち水大作戦自体も浴衣や桶、ひしゃくのような装備を重視したり、温度下がってないのに涼しく感じたとか風鈴などで凉を感じるとかを見る限り、実際に温度を下げるよりも江戸の知恵は素晴らしい、人々がつながることで考えるきっかけになるといった精神論ありきな感じなので江戸に思い入れのない私はよくわからなかった。

         

        メイドさん大集合! 千代田区が秋葉原駅前で打ち水イベントを実施!(2008年8月1日 ASCII.jp)

        http://ascii.jp/elem/000/000/156/156088/

        8月2日に神田明神で「NPO法人 秋葉原で社会貢献を行う市民の会リコリタ」が「打ち水っ娘」を行なうのに先立ち、多くのオフィスと秋葉原などのIT街を抱える千代田区が、JR秋葉原駅電気街口を出たところに位置するダイビル前のロータリーで「千代田区打ち水大作戦2008」を開催した。

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        石川雅己千代田区長が「先月に痛ましい事件がありましたが、江戸しぐさ、伝統の行事の打ち水を通じて、秋葉原を元気付けたい広めたいという、みなさんと一緒に心を込めて打ち水を行います」と挨拶

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        千代田区の打ち水スローガンに「江戸しぐさ」(2ちゃんねる)

        http://fox.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1407664758/

        1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2014/08/10(日) 18:59:18.82 ID:yS1zXgU80 ?PLT(44074) ポイント特典

            熱暑の夏を少しでも涼しくすごそうと、千代田区は8月を「打(う)ち水(みず)月間」とし、おけやひしゃくなどの道具の貸し出しもしている。

            区役所前で1日行われた打ち水では、「打ち水は千代田を冷やす江戸しぐさ」と書かれたのぼりも登場。
            親子連れや浴衣姿の区職員、上智大の学生、秋葉原を拠点に活動するNPO法人リコリタのメンバーらが参加した。ためた雨水をひしゃくでまき、水しぶきを浴びてはしゃぐ子どもたちもいた。

            道具は区役所の環境・温暖化対策課で9月末まで貸し出す。 (鈴木久美子)
            http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/20140805/CK2014080502000101.html

         

        これは小池氏が参加している打ち水大作戦ではないのだが、温暖化ブーム時は江戸が循環型社会だからエコで、モッタイナイといった古くからの日本人の精神性がエコとか、買い物袋に風呂敷を使おうといったことがさかんに宣伝されており、小池氏も江戸野菜という在来品種を作っていた。それと同時期に環境CMも制作していた公共広告機構が江戸しぐさを広めるなど温暖化ブームのある部分は江戸万能論にもとずいており、打ち水大作戦もその流れの一部と思われる。

         

        「祝10周年の打ち水大作戦はどうやってはじまったの?」を仕掛け人・池田正昭さんに聞いてみた [ソーシャルアクション元年への旅](2013年8月9日 greenz)

        http://greenz.jp/2013/08/09/uchimizu02/

         

        小池百合子が保守系であるし、最近では江戸しぐさしかり、伝統素敵ってノリが右翼的な愛国心だと解釈されがちだが、少なくとも打ち水大作戦を考えた人が坂本龍一と親交があるし地域通貨とかアースデイとか自然なお産とか言ってるのを見る限り反原発運動とかやってる左翼にありがちなロハスだった。環境以外でも世界記憶遺産にむけ朝鮮通信使は韓流ブームの元祖という歴史観がはばをきかせてるように、左翼における江戸好きはとくに珍しいことではない。

         

        「奥さんのお産」ではなく「私たち夫婦のお産」。お産を語るオッサンの会の活動に迫る(2016年7月11日 DRESS)

        https://p-dress.jp/articles/2037

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        ――産婦人科と助産院はどう違うんですか?

        池田:助産院は助産師さんがいるだけで、医者はいないんです。医療機器もありません。白衣を着たスタッフもおらず、私たちが行った助産院は、助産師さんはみんなおそろいの割烹着を着ていました。

        ――お産には命の危険が伴う場合がありますが、医療機器がないことに関し、不安は感じませんでしたか?

        池田:それが、逆にすごく安心したんですよ。普通の一軒屋なので、まるで実家にいるような、ほっとする空間で。威圧感を与える機器はありません。分娩台もありません。産後の入院中は、とてもおいしい、お袋の味のようなご飯をいただきました。
        もちろんその場に医師はいないので、いわゆるリスクに対する備えは万全ではないかもしれません。帝王切開など異常出産になる場合は助産院では措置ができないので、提携している病院に搬送される形になります。でも、最初から医者任せにしないで、自分たちの自然な力を信じて、産ませてもらうんじゃなくて「自力で産む」ことにトライしてみようというところに新鮮な喜びを覚えました。

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        スメハラvs香害

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          梅雨明けもまじかということで汗の臭いが気になるこの季節、先日こんな110番が設置された。

           

          においの悩みに...「香害110番」設置へ(7月14日 FNN)

          http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00364210.html

          香水や制汗剤、柔軟剤などに含まれる人工の香り。

          こうした香りが原因で、体調不良を訴える人が少なくないとして、日本消費者連盟は、「香害110番」を設置します。

          「近所の人の洗濯物のにおいでベランダに出られない」、「においが原因で電車に乗れない」など、香りに悩んでいる人が増えているそう。

           

          以前マンダムだったか、どこかの化粧品会社が制汗剤売るためであろう、体臭のきつい人を「スメハラ(スメルハラスメント)」と定義していたため、確かにマナーの部分もあろうが体臭ってどんなに手術や対策してもどうにもならず苦しんでいる人もいるのになんでもかんでも豊田真由子様と同じハラスメント枠に入れるとはどうなんだい。と気に食わん奴をなんでもハラにしてしまう最近の風潮に反感をおぼえてるのだが、上記引用記事の香害110番とやらは「香水や柔軟剤や制汗剤のような人工的な香り」と言っているように、制汗剤や化粧品など合成化学物質の臭いはもうたまらぬ。っていう、化粧品会社(制汗剤メーカー)の創出する悪「スメハラ」とはまったく逆のコンセプトなことに留意していただきたい。この110番設置したのは週刊金曜日「買ってはいけない」や各種電磁波や抗がん剤の恐怖、近年ファスティングなどの著書も多い船瀬俊介を輩出し、70年代ごろから三一新書あたりで洗剤や化粧品の危険性をうったえ、少女時代の私をガクブルさせていたってのを最近思い出した日本消費者連盟である。

           

          https://7net.omni7.jp/detail/1100298061

           

          https://www.amazon.co.jp/dp/B000J86L1U/

           

          これら表紙画像を見る限り日本消費者連盟は合成界面活性剤が人体や環境に悪いので洗濯、洗顔には石けんを使いましょう。ってな思想なので「香害110番」はあくまでオシャレでわざとつけている香料由来の「香り」に対しての通報であり、湯シャンしてる人の頭とか、石けんで洗濯してる人の服の臭いなど、花王とか各種大手企業が合成洗剤や消臭効果を持つ合成化学物質で解決してきた自然由来の臭みには塩対応であろう。だからって日本消費者連盟がダウニーの香りまきちらしてる容疑で犯人の逮捕や取り調べしてくれるとも思えないので、集まった通報をもとに洗剤・化粧品メーカーに何らかの申し入れをしていくって運動なのかもしれない。

          しかし上に貼った表紙の画像の古さからふと、検索結果を見る限り日本消費者連盟とか三一新書の本ってもしかして2000年代以降出てないのかな?と思った。2000年代といえばちふれ社もキャンメイクなどと同じいちプチプラ化粧品メーカーと化し、暮らしの手帖もほっこりしたので、人体や環境に悪いもの売って不当に儲けてる大企業どもといった消費生活における左翼的ジャーナリズムが廃れて女子供やロハスにこびる俗物化した時期と考えられる。

          そのいっぽう、2000年代半ばからだったか、ドンキホーテでダウニーを中心に各種アメリカンな柔軟剤や洗剤が日本消費者連盟が問題視する人工的な香りをプンプンとふりまくようになっていた。もしかして、もともと香水や車の芳香剤とかすごそうなドンキホーテの客層が柔軟剤ブームに火をつけたのか?

          このブームを牽引していたのがP&G社で、ダウニーのほかにファブリーズやレノア、ボールドなど消臭+香りつけのヒット製品を2000年代に多数ラインナップしていたため、国内洗剤メーカーはそれに追随する形だった。その前の90年代はティセラというシャンプーがあった以外に化粧品は昭和特有の化粧品臭さ(ダウニーよりきつい)が見直されたのかどっちかというと無香料のほうがトレンドで、P&G社も今ほど除菌とか消臭とか言ってなかったような。

          いっぽうの日本消費者連盟などに見られる、アンチ合成洗剤および石けん至上主義はどうも70年代くらいからの動向のように思う。シャボン玉石けんやパックスナチュロン、ミヨシ石けん、ねば塾といった石けんメーカー各社も日本消費者連盟と同じノリの環境意識がうかがえ、現在もちふれ同様、消費者運動が廃れてなおその商品は数ある洗浄料の選択肢のひとつとして根強い人気を誇っている。

          おそらくもとからあった石けんメーカーが水質汚染などが問題になっていた時代、環境にやさしいっていう石けんの優位性をアッピールしだしたってとこじゃなかろうか。少なくともシャボン玉の「青いお空がほしい」って歌詞や「香害」ってネーミングも大企業が有害物質まきちらしてた頃のなごりにちがいない。


          K-POP批判する

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            【公式】Mnet側、「アイドル学校」の映像盗作疑惑を否定…「空間的限界のための必然的類似性」(7月4日 ワウコリア)

            http://www.wowkorea.jp/news/enter/2017/0704/10193194.html

            韓国Mnet「アイドル学校」の校歌映像が日本の有名飲料水CMと非常に酷似しているとの指摘を受け、Mnet側が「空間的な限界のために起こった必然的な類似性」と明らかにした。


            Mnetの関係者は4日、「“学校”という空間を背景に制作する番組であり、学校内で多くの出演者が群舞(一糸乱れぬダンス)できる空間は校庭、教室、廊下、体育館に限定されるほかない」と盗作疑惑を一蹴した。

            また、「ダンス中に水をかける場面などは、多くの映画などですでに何度も利用されている方式だ。一部、2コンテンツの類似した点は学校を背景にする空間的限界からの表現とすでに多様なコンテンツで使われた撮影方式であるだけだ」と説明した。

            これを前に「アイドル学校」は先月28日、校歌「可愛いから」の映像を公開した。映像には出演練習生たちが学校を背景に、制服姿でダンスしながら歌う姿が映し出される。しかし、この映像が全体的に日本の有名飲料水CMと酷似しているという指摘があった。

            一方、「アイドル学校」はガールズグループ育成リアリティーで、学生たちが学び成長する過程を映す番組だ。来る13日、韓国でスタートする。

             

            先日、韓国のアイドル学校とかいうのが日本のポカリスエットCMをパクってると話題になっていた。しかし私はパクリよりもそのアイドル学校とやらがセーラー服だったために、やっぱりプリーツミニスカートって韓国(TWICE)が流行らせたと言ってるが、韓国が日本の制服に影響された服装にほかならぬと思った。

            再々言ってるように、近ごろのK-POPはやけにAKBなど日本のアイドルを意識したような企画や服装が多く、ミュージックビデオは体育館など学園物、おなごも整形美人からナチュラル可愛い系が主流なのでかってのお色気路線は完全に下火となった。お色気は一時期エスカレートしすぎていたとはいえ、ここまで日本化してくると今日までしぶとく聴き続けてきたK-POPをこれからも愛せるか自信がなくなってきたし、ムンジェイン左翼政権なので吾輩の韓国離れが懸念される。

            そういえばアベ政権許さない人々も、日本のようなロリと違って素晴らしいとも日本批判に利用する人がごくたまにいた。日本のようなロリと大差なくなってきた現代K-POPの体たらくにはいったい何を思うのだろうか。

            しかしTWICEのTTポーズが若人に人気大爆発!ってのも、蟹工船が若人に人気大爆発!戦争法案デモが若人に人気爆発!みたいで依然としてその手法には違和感がぬぐえない。そうやってルーズソックス時代みたいに若人とか渋谷とか言っときゃ人々がありがたがると思って人為的に流行を創出してますな。

             

            Bonus Baby - Urikiri Music Video(YouTube)

            https://www.youtube.com/watch?v=HcCsIsKChCQ

            アイドル学校ではないがハイソックスでスカートひらりひるがえし見せパンチラチラするAKB化の最右翼K-POP


            米受難の時代

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              戦時中は和菓子じゃなくてパン説を唱えていると、戦前からケーキやパンを販売してきたのに戦時中和菓子屋にされた店は実在した!ってな記事を発見した。いやいやちょっと待てWikipedia等各種サイトによれば戦時中は米不足のためにパンが推奨されていたとのことだしもともとパンってのが軍隊で導入されたのがはしりで、そんな状況をふまえたらスイーツなどぜいたくな物食べる余裕よりもむしろ和菓子屋がパン作らされるレベルだろう・・・と、先日確立したパン史観に混乱をきたしたため読んでみたところ、ハイカラな洋菓子店が名前を和風(洋菓子屋の主人の実家がやっていた和菓子屋の店名)に変えさせられたという内容で、やはり戦時中はパン作ってたそうだ。

              その店名が「菊屋」なのだが、もともと戦前からのパン屋は木村屋や神戸屋や中村屋など「○○屋」と和風であり、そのほかにも「○○堂」「○○舗」「○○製菓」といったいかにも和菓子屋ぽい屋号が多く、なんちゃら製パンとかベーカリーってネーミングは戦後に多い印象である。早い時期からあんぱんが作られていたり、また記事の洋菓子兼パン屋の実家が和菓子屋であることからも、日本におけるパン史がある部分で和菓子の流れをくんでいると考えられる。

              たぶん記者が意図的に道徳教科書や和菓子を戦争と結びつけようとしており、見出しや冒頭だけ読んだらあたかも民主的なパン屋がネトウヨな和菓子屋に鞍替えしたかのような印象を抱かせようとしてるけど、あれは東京書籍とかいういち教科書会社の思いつきで書きかえられたすぎないため、実際には絶対ありえないことだと確信した。しかしこれ、戦中=パンって知らない時点で読んだら、もともとパン作ってた店が和菓子屋にされたのにけっきょく戦争終わるまでパン作ってるんかい??と、意味がわからない記事と思うのだがそうでもないんだろうか。

               

              戦時中、和菓子屋の名前に変えさせられたケーキ屋さん 「本当に悔しかった」(4月1日 BuzzFeedNEWS)

              https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/lala-cake?utm_term=.siegQV2EN#.ifG5g3AzB

              「ララ洋菓子店」というケーキ屋が、静岡・三島にある。創業85年。戦前からケーキやパンを販売してきた老舗だ。
              太宰治も足を運んだというこの店は戦時中、名前を和菓子屋「菊屋」に変えさせられたことがある。「敵国語」だったことが、その理由だった。
              「我が国や郷土の文化と生活に親しみ、愛着をもつ」視点から、小学校の道徳教科書の「パン屋」が「和菓子屋」に変わったニュースと、どこか重なるこの話。
              いったい、当時の日本ではどんなことが起きていたのか。そしてその店に関わる人たちは、いま何を感じているのか。
              「今回のニュースを聞いて真っ先に思い出したのが、祖父母のやっていた洋菓子店の話でした」
              実家であるララ洋菓子店で修行を積み、いまは神奈川県小田原市でパン屋「ポタジェララ」を営んでいる小澤ちひろさん(53)は、BuzzFeed Newsの取材にそう語る。
              「洋菓子店を和菓子屋の名前に変えさせられる。昔はそんなことがあったのかと驚いていたのですが、今回のニュースはまさに、おばあちゃんの言っていた通りだと……」
              小澤さんの話や資料をもとに、歴史を紐解いてみよう。
              ララ洋菓子店は1932(昭和7)年、小澤さんの祖父である菊川義雄さんが立ち上げた店だ。
              「誰にでも覚えやすいように」。それが、店名「ララ」の由来。
              ・・・
              店では、当初からケーキやパンなどを売っていた。
                ・・・
              ようやく店が回り始めたころ。町には、戦争の気配が近づいていた。

              ・・・
              憲兵に店名を変えろと言われたのも、このころだ。

               

              憲兵からは「ララは敵国語であるから店の名はすぐに変えるように!」ときつく言われ「菊屋」に変えました。看板のネオンは引き抜かれました。

               

              物資は配給制度になり、砂糖などの材料は統制品となり商売は行き詰まりました。子どもを抱えて、夫の留守中なんとか続けていきたい気持ちで悲壮な時期でした。

               

              「菊屋」とは、菊川さんの実家である和菓子屋の名前だ。小澤さんは言う。
              「戦争の話になると、祖父母はいつものようにこの話をしていました。戦争から帰ってきた祖父も、店の名が変わっていたのが、本当に悔しかったんじゃないかな」
               けっきょく、材料不足で洋菓子づくりを諦めた2人。戦争が終わるまで、パン製造に切り替えて商売を続けた。

               

              戦前は兵士の脚気予防や高級おやつ、戦中や戦後すぐぐらいは米が足らなかったので主食として食べられたというパン。やがて復興して米が食べれるようになってからも、アメリカが余った小麦ゴリ押ししてきた。

              わが国の学校給食において長らく不自然なまでにパンと牛乳がねじこまれているのも、終戦直後の援助小麦と脱脂粉乳の名残りなのだろう。戦後すぐは食べるものもなかったし、日本人もまずしい食事をしていたからそれらはよい栄養となったにちがいないが、70年をへて親の趣味やアレルギーで小麦・牛乳を避けたいお子さんがたも多いであろう現代においてはあまりにも時代遅れであり、やはり軽食であるパンと違って和洋中いかなる国の料理にも合うごはんを主食とするほうが今日的でなおかつちゃんとした食事として教育の見地からもふさわしいような気がした。

               

              パンが「おやつ」から「食事」に変化していった時代じゃ!(ヤマザキ)

              https://www.yamazakipan.co.jp/stylebook/world/20061221/index03.html

              パンザ博士     その後一般市民は、第二次世界大戦後に、主食としてもパンを食べるようになった。

              ヤマザキ君     何かきっかけがあったんですか?

              パンザ博士     戦後の食糧難の時代に、アメリカなどから救援物資として小麦粉が配給されたんじゃ。家庭に配給された小麦粉を預かってパンに加工する「委託加工所」が登場したり、小学校で、コッペパンと脱脂粉乳の学校給食が始まった。物不足の時代、パンは日本人の食を支えてくれていたのじゃ。

              ヤマザキ君     学校の先生に聞いたことがあります!

              パンザ博士     そして、戦後10年が経った1955年頃からは、全国に大きなパン工場が次々と建設され、パンの生産量は一気に伸びていった。その頃の生産量は、戦前の最大年間生産量のなんと6倍以上にもなったと言われておる。

              ヤマザキ君     そんなに作られるようになったってことは、その分パンもおいしくなったってことなんでしょうね!

              パンザ博士     そうじゃな。1964年の東京オリンピックから高度成長期に向けて、日本人の食生活は一気に洋風化していった。それに伴って、パンがおやつとしてだけでなく食事としても食べられる習慣が広まっていったのじゃ。そしていま、日本では世界中のさまざまなパンを手軽に食べられるまでになったのじゃ。

               

              1955年は米が大豊作だったのになぜ全国に大きなパン工場が次々と建設され、パンの生産量が一気に伸びていったのだろうか。この年はアメリカ小麦戦略が始まったのだが、やはり戦後史の闇なのかヤマザキ製パンのサイトではその理由にはいっさいふれられていない。

               

              昭和36年 なくそう栄養の谷間(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=T9w4RkLDg90

              貧しい農村の食生活を栄養豊か(欧米化)にしようと啓発する静岡県のお宝動画。

              「こうした栄養状態は都会ではどうでしょうか。町では当世流行のスーパーマーケット。いろいろな食料品がずらりと並び、栄養ゆたかで自分の経済にあった品物をすぐ手に入れることができます」

              この頃の「栄養」は動物性のたんぱく質や脂肪であったと思われ、そのせいかラードやハムがうつりこんでいる。

              別カットでもやはりサブリミナル的に映りこむラードとソーセージ。

              「町の小学校では完全給食。めぐまれた環境の中で子ども達は明るく楽しい食事をすることができるのです」

              パンを食べる児童。

              「これに反して農村。とくに段々畑のつづく山村は昔と変わらない生活。村の店に置いてある干し魚などもたまにしか買いません。弁当保温器の中からわれ先に弁当箱を取り出す山の学校のお昼どきです。おかずはどれもこれも削りぶしかあるいはいもの煮つけといったものばかり。これでは発育ざかりにある子供たちがじゅうぶんな栄養をとることはできません」

              スーパーマーケット、学校給食、パン、ラード、ソーセージ、ハムといった欧米化で動物性で栄養豊かな都会と対照的な60年代初頭の農村。その象徴としてのもの悲しい弁当や自分とこの畑でとれた大根。

              「数年前まで県下で一番結核の多い街だった引佐町では、今婦人たちの食生活改善運動が実を結び、動物性たんぱく質、脂肪源にウサギやニワトリを飼うようになりました」

              読みにくいがたぶん「1日1回分の米食とパン食との比較」って書いている。

              「婦人会長内山さんの音頭取りでこの町の婦人たちはときおり集まって料理の講習会。みんなのくふうで農家むきのパン窯を利用」

              米と比較するあたり、主食としてパンの方が栄養的に優れているという趣旨の講習なのだろう。パン業界などが米を頭悪くなるとか攻撃していた時期である。

              「自家製パンで、1日1回パン食を実行しています」

              この後内山さんと村の婦人たちは前述のウサギの肉でまんじゅうも作った。

              「毎年開かれる農業祭には料理コンクールを行い、主婦たちが日ごろの腕をきそうのです。おばあさんも今では熱心な見学者。あれやこれやとお嫁さんの腕前を批評しています。中にはいちいちメモをとる勉強家もみられる盛況ぶりです」

              農村に似つかわしくないオシャなサンドウィッチ。

              「県でも小型キッチンカーを走らせ、山の人々に食生活の大切なことをうったえています」

              舗装されていない山道を砂ぼこりを上げながら爆走するキッチンカー。キッチンカー事業はアメリカ小麦戦略の翌年から始まり、野菜の煮つけや漬物でごはん大量に食べる古い日本人たちに、フライパンや油を使った栄養豊かなおかずを伝えた。

              栄養士さん「毎日の食事を作る場合にこのいろいろがかたよらないように、とりあわせればいいわけなんですね。そしてできるだけ食品の数を多くします。塩辛いお漬物でどっさりめしっていうのが一番悪い食べ方なんですね。でごはんの量は少なくしておかずをたっぷり取り入れた料理をしていただきたいと思います」

               

              『岡山県ニュース』栄養指導者誕生(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=wkS7RWyWb4s

              いっぽうこちらは岡山県のお宝動画。栄養指導車と書いてやまびこと読む・・・のか?

              何年の動画か分からないのだが、とりあえず昭和30年代ではあるらしい。

              キッチンカーをとりかこむご婦人がた。この光景は前述の静岡県の動画でもまったく同様である。

              塩辛いお漬物でどっさりめしを食べていた日本人にとって、栄養士さんの作るフライパンや油を使った栄養ゆたかなおかずは当時目新しかったにちがいない。こうして日本人の食は欧米化した。

              キッチンカー事業においては第一期として八台の「栄養指導車」(愛称:キッチンカー)が建造され、1956年(昭和31)10月に日々や応援で盛大な出発式が挙行された。その後4台が追加されて計12台となったキッチンカーは復帰前の沖縄を除く全都道府県を回り、事業が終了する1960年(昭和35)までに二万回以上の講習会を実施した。献立を決めるにあたり、アメリカ側からは「小麦粉を使った料理を最低一品は入れること」という条件が出され、途中から大豆も追加された。これは米国大豆協会がオレゴン小麦栽培者連盟に相乗りする形でこの事業に参加したことによるもので、その頃から油を使った料理が増えていった。アメリカでは植物の消費量の3分の2を大豆油が占めているのである。

              ・・・

              身近な食材を用いながらも、揚げたり炒めたりする調理法は多くの参加者にとってまだ目新しく、その場で試食できることも好評だった。みな講習帰りに近所の店で同じ材料を買い求めるため品切れになることも珍しくなく、あらかじめ献立を聞き出して仕入れておく店もあったという。また、大型バスを改造してステンレス張りの流しやガス台、冷蔵庫などを効率よく配置したキッチンカーは、とりわけ農村部では見たこともないような最新式の台所であり、講習会に参加した主婦たちの羨望の的となった。

              (「パンと昭和」104〜105ページより)

               

              生きているパン(YouTube)

              https://www.youtube.com/watch?v=A1hlvdq4nlA

              こちらは先のキッチンカー動画とは違い、米および戦前の日本型食生活をディする「栄養改善」ではなく、イーストがいかにして働き生地が膨らむのかなど科学的な趣のあるパンのイメージビデオである。

              しかしこの動画も1958とパンは頭良くなり米は馬鹿になる説が出てきた時期でもあるし、パンのステマなのだろう。

              家庭用パン焼き器。静岡の農村で作っていたパンはこれとは違う形だが真ん中に穴が空いているのは共通している。

              栄養改善でもパンの焼き方をやっていたし、「パンと昭和」にも載っていた。てことは配給小麦の時期にけっこう普及してパン屋やスーパーがいっぱいできるまでは家庭でパン焼くのが普通だったのかもしれない。

              何か変な菌が優勢になってしまい納豆ばりに糸引いてるパン。気持ち悪い。


              戦中=和菓子×パン○

              0
                評価:
                甲斐 みのり
                グラフィック社
                ¥ 1,620
                (2016-02-05)

                前に「パンと昭和」って本の読書感想文書こうと思ったけど、パンの敵は米。っていう語りが長くなりすぎて収拾つかなくなったので書いてる途中で投稿した。私はそれまで見聞きしていた米派のパン批判にくわえ、美健ガイド社のマンガを読み、なぜ戦後に日本人がすごい欧米化したかを考えるうえで、GHQの陰謀に想いをはせずにはいられなかった。

                また和菓子をルーツにあんぱんを看板とした戦前の○○屋みたいな名前の老舗パン屋のいっぽう、戦後の製パン所はそのほとんどが昭和20年代に創業していてなぜこの限られた時期に大量のパン屋が集中しているのか疑問を抱いたと同時に、そのうちの1つである山崎製パンだけがここまで巨大化したのも不思議に思っており、それらをどうやって調べたらいいのか分からずとほうにくれてたら今年2月に出たばかりのこの本に全部書いてあり昭和より前のパンの歴史も分かって助かった。よく科学技術を進歩さすのは戦争だのエロだの言われるが、日本におけるパン史もまた乾パンなど軍隊における非常食が起源で、幕末の兵糧パンにはじまり1885年には海軍にパンが導入されたという。

                海軍は長期にわたる航海で新鮮な食材が不足し脚気にかかりやすかった。白米の食べ過ぎと原因が特定されていたのでパンが導入され、その結果脚気が姿を消したそうだがパン食は食べた気がしなかったためにやがて麦飯などが評価されるようになったそうだ。

                 

                沿革(木村屋)

                https://www.kimuraya-sohonten.co.jp/corp/history

                明治10年 陸軍、パンを採用。「西南の役」用のパンを製造。

                 

                銀座木村屋の歴史

                http://www.ginzakimuraya.jp/history/

                日露両国の関係が緊迫して衝突が必至な状況の中、日本陸軍はパン屋、菓子屋を集めて軍指定の大規模なビスケット工場の建設を計画した。
                その理由は日清戦争後の義和団事件で日本兵は飯を食わなければならないが火を使って飯を炊くからその火を目がけて敵弾が降りそそぎ、多くの犠牲者を出した。
                しかし欧米の兵士たちはビスケットと缶詰めだから火は使わない。日本軍は各国から近代戦争の基礎を知らないと嘲笑されたのが原因である。
                日本軍の食糧政策の大転換により、真剣に戦時食糧の研究を始め、その実験にあたったのが儀四郎らが作った東洋製菓であった。この東洋製菓は日本の近代的ビスケット工業の始祖となった。そして研究の末、乾パンが完成した。むろんこの乾パンが日露戦争の食糧となったのは言うまでもない。
                明治33年、儀四郎はこの東洋製菓で実験を重ねていた時、ビスケットの生地にジャムをはさんで焼く作業を見ているうちに、これをあんの代わりに酒種生地にしてみたらと思いつき、銀座の店で売り出したところ大変な評判となった。ジャムパンの完成である。

                 

                また戦時中は米不足だったのでパンが米の代用食として推奨されたという。それらパンは興亜建国パンとか時局パンとかいったもので、NHKのドラマに出てきたのか検索するとキャプチャー画像や再現した人がおり、本の中でもレシピを元に再現されている。

                これらは魚粉や海藻が入っていてあまりおいしくないようだし、前に引用した記事で戦前はイモのツルでできた真っ黒けのパンを食べていたという証言もあった。というわけで、アベ政治許さないの人々はパンが和菓子に書き換えられたのを戦中だと言っていたけど、米が不足していたしぜいたくは敵だったのでむしろ和菓子よりパンの方が戦中で富国強兵でネトウヨなうえ戦後にわたってさえなお駐留米国人向けの特製パンやケーキの委託加工製造を行い米軍GHQより朝鮮戦争戦地向けビスケット受注開始と軍需産業だった。

                 

                節米料理(Wikipedia)

                https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%80%E7%B1%B3%E6%96%99%E7%90%86

                節米運動開始後の日中戦争期、節米料理として飯に米以外の具材を混ぜること(混食[1])や、米以外の食材を主食とすること(代用食[1])が奨励された[2]。

                ・・・

                代用食としては、パン、うどん、芋などが食べられた[5]。女性雑誌上ではパン類やホットケーキ、お好み焼きといった粉物が紹介された[3]。当時のグラフ誌『アサヒグラフ』でも1940年夏には節米の特集として、一般家庭の家族が楽しそうにひやむぎを食べる写真が掲載された[2]。1940年8月には読売新聞紙上に『うまくて家庭向き米飯ぬき国策料理』が掲載され、代用食としてうどん、饅頭、マカロニなどの料理が紹介された[6]。このように当時の代用食はまだ、彩りや味を考える余裕があり[6]、こうした風潮は1941年(昭和16年)頃まで続いていた[3]。

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                戦前戦後と「暮しの手帖」のホットケーキ(むかしの装い)

                http://blog.livedoor.jp/mukashi_no/archives/49195130.html

                1937(S12)年の日中戦争以降の国策料理なんてのが流行っていた時期、太平洋戦争は間近ですがまだまだ余裕があり戦争気分が盛り上がっている頃です。1938(S13)年には国家総動員法が施行され統制(国などが指導・制限すること)が始まっています。実は戦前も慢性的な米不足で海外に頼っていたのですが(貧しい層は外米を多く食べていた、戦中でもないのに雑穀や芋なども多用されていて米は御馳走の場合も多かった)、1939(S14)年の朝鮮の凶作などでさらに米が不足して節米が叫ばれ節米料理が盛んになりました。節米のために登場し推奨されたのが、小麦や雑穀を使ったものや雑炊など量を増やしてごまかす調理方法でした。

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                説明に書かれているように、戦中〜占領期と注意したいのは、レシピに小麦粉と書いてあっても実際は雑穀などを混ぜた粉中心だったということです、だから戦中(後半以降)から戦後のレシピは「粉」とだけ書いてあるものもあります。戦争後半以降の粉食は普段食べないようなものを、粉にして食べやすくした結果でもあったようです、使われた粉は、脱脂大豆の粉の豆粉、高粱やトウモロコシの粉、大麦の粉、糠やふすま、野菜や芋の粉、澱粉滓の粉、などです、米や雑穀は未精製の粒のまま配給されることもあり各自が精製・製粉しました。雑穀や正体不明の粉類は変質しやすく、管理も流通もひどい時期ですから腐ったりカビが生えたり砂の混じったものもあったようで、今の雑穀入りのごはんやブラン入りのパンとはかなり違うもののはずです。粉食は戦前から節米のために奨励されましたがその頃はわりと余裕で楽しい工夫的なものもありました、しかし戦争も後半以降は芋類や南瓜や雑穀の粒と並び、各種の粉は飢えを満たすため大切な食糧となっていきます。さまざまな得体の知れないものが混ざった粉の調理方法として、蒸しパンなどパン類、麺類、すいとん、団子・まんじゅう系、お好み焼き・おやき系、それらを芋類や野菜等で増量したタイプ、など各種のお料理が婦人誌上で工夫されています、画像でその片鱗がわかるでしょうか。当時の婦人誌のお料理は、空想の料理との批判も多いですから実際はもっと厳しかったのでしょう。ともかく、白く細かく滑らかで香りのよい現在のような小麦粉は一般にはなかったので、戦後のアメリカの白く精製された高品質の小麦粉には感動もし、ありがたがったのだと思います。麦の統制撤廃は、昭和27(1952)年でした…

                 

                また居留地の外国人や捕虜によって製パン技術が向上したという面もあり、ロシアパンなんかは日露戦争の捕虜や革命を逃れてきたロシア人によって伝わったらしい。そういえばゴンチャロフ製菓(1923)やモロゾフ(1931)など洋菓子もこの手の話が多いように思う。

                戦後になると深刻な食糧難を重く見たGHQが1946年2月11日に小麦粉200ポンドを放出し、これを真っ白なコッペパンに加工したものが都民1人あたり2個ずつ配給された。同年に企業許可例が廃止されたことにより、誰でも鉄板二枚くらいの小さな窯で委託加工パンがはじめられるようになったとのことだ。

                 

                見るだけでも食欲をそそる白いコッペパン(1946)

                 

                委託加工パンは家庭に配給された粉を持って逝ってパンを焼いてもらうというシステムで、戦前からのパン屋が作っていた配給のパンよりもそっちの方がおいしかったらしい。私がなぜこんなに多いのかと長らく疑問に思っていた終戦直後大量発生した製パン所は1946年から配給が終わる1952年までのものはすべて委託加工パン業者と思われ、1948年設立の山崎製パンもやはりコッペパンやロシアパンを委託加工していたのだという。

                 

                パンが「おやつ」から「食事」に変化していった時代じゃ!(ヤマザキ)

                https://www.yamazakipan.co.jp/stylebook/world/20061221/index03.html

                パンザ博士     その後一般市民は、第二次世界大戦後に、主食としてもパンを食べるようになった。

                ヤマザキ君     何かきっかけがあったんですか?

                パンザ博士     戦後の食糧難の時代に、アメリカなどから救援物資として小麦粉が配給されたんじゃ。家庭に配給された小麦粉を預かってパンに加工する「委託加工所」が登場したり、小学校で、コッペパンと脱脂粉乳の学校給食が始まった。物不足の時代、パンは日本人の食を支えてくれていたのじゃ。

                ヤマザキ君     学校の先生に聞いたことがあります!

                パンザ博士     そして、戦後10年が経った1955年頃からは、全国に大きなパン工場が次々と建設され、パンの生産量は一気に伸びていった。その頃の生産量は、戦前の最大年間生産量のなんと6倍以上にもなったと言われておる。

                ヤマザキ君     そんなに作られるようになったってことは、その分パンもおいしくなったってことなんでしょうね!

                パンザ博士     そうじゃな。1964年の東京オリンピックから高度成長期に向けて、日本人の食生活は一気に洋風化していった。それに伴って、パンがおやつとしてだけでなく食事としても食べられる習慣が広まっていったのじゃ。そしていま、日本では世界中のさまざまなパンを手軽に食べられるまでになったのじゃ。

                 

                ヤマザキのロシアパンやその巨大化バージョン「大ロシア」は今でもたまに見かけるが、ヤマザキ創業者が戦前に奉公していた中村屋でロシアパンはじめとする多くのロシア料理を作っていたそうなので、ヤマザキ創業当時からロシアパンが売りだったのもそのなごりなのかもしれない。というわけで、終戦直後はGHQがパン大好きに洗脳するためってより、食糧難で輸入小麦しか食べるのがなかった(けど戦前の代用食からしたら美味)までのようである。

                しかしその時点でパン業界がけっこう大きくなったために、復興して米が食べられるようになると、パン業界が余剰小麦を売りたいアメリカと結託し、米を食べるとお馬鹿になる。とステマしたということなのだろう。また小麦の委託加工ってパンだけでなく、もしかして今スーパーとかによく数十円で売られてる袋入りのゆでうどんやそばをおろしてる製麺所も製パン所と同じ経緯でできてるのかな?と思ったけど、検索ワードがよくないのかそれらしいのは↓以外引っかからなかった。

                 

                ごあいさつ(羽田製麺)

                http://www.haneda-seimen.co.jp/company/58.html

                弊社の創業は戦後間もない食糧難の時期、政府から各家庭に配給となったメリケン粉(小麦粉)をうどんに加工しお戻しする委託加工が商売の始まりでした。その後街の食堂にうどん、そばや中華麺を卸すようになり、徐々に中華麺・ラーメンの麺の製造が増えてきました。

                 

                製麺所で検索するとさぬきうどんのサイトがけっこう出てくるので、ふとさぬきうどんも戦後に配給小麦やアメリカ小麦戦略で盛んになった食文化のような気がしていくらか読んでみると、全体の傾向として戦前は家でうどんを打ち、戦後は製麺所もしくは製麺所から麺をしいれてる商店でうどんの玉を買ったり給食で食べたという感じで、外で食べるにしても製麺所や製麺所が麺おろしてる食堂であって、店内でうどん打ってるセルフ方式はかなり最近の物と思われる。やはり戦後すぐに小麦をうどんに加工するシステムはあったらしいが、パンとうどんの小麦の種類が違うので配給なのか自分ちの小麦かや製麺所が製パン所のように戦後急増した業種なのかどうかまではよく分からなかった。

                 

                丸亀市土居町・昭和23年生まれの男性の証言 戦後のうどん屋はだいたい老夫婦がやっていた(さぬきうどん昭和の証言)

                https://www.sanukiudon-mirai.jp/showa/500

                店でうどんを打っていたんですか?


                    いやいや、打ってない。たぶん製麺所から買うてきたやつを湯でさばいてダシをかけて出していた。玉売りもやってなかったですよ。店で粉から打ってうどんを出す店なんか、聞いたこともない。だいたい、「手打ち」が脚光を浴び始めたのは1990年代にうどんブームになってからでしょう。当時のうどん屋はみんな、座って待っとったら持って来てくれるのが当たり前やったですよ。

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                映画『UDON』で小学校に製麺屋さんがうどんを運んで給食で食べているシーンがありましたけど、給食でうどんは出てましたか?


                    出てましたよ。週1ではなかったけど、月に1、2回だったかな。うどん屋さんが学校にセイロでうどん玉を持って来てね、映画『UDON』と全く同じ。うどん玉にダシがかかって、天かすとカマボコが載ってたかな。あとはパン。パンとうどんですよ(笑)。何かおかずがちょっとあったかもしれんけど。昭和30年代の前半な。栄養が云々とか、誰も言いよらんかったからなあ。まあのどかな時代やったわ。

                 

                高松市北浜町・昭和16年生まれの女性の証言 仕事はパンづくり、趣味はうどんづくり。パン工場のまかない食はうどんだった!(さぬきうどん昭和の証言)

                https://www.sanukiudon-mirai.jp/showa/227

                私は昭和16年生まれで北浜町出身です。実家はタバコとかお菓子とかを扱う商店でした。近くに小さい製麺所があったから、そこでちょいちょいは出来だちを買って食べていました。製麺所の名前はちょっと覚えてないなぁ。小さい製麺所だった。戦後の昭和20年代、私が小学生の頃にはそういった小さい製麺所がたくさんあったんです。お使いで買いに行った時、麺を錬って、足で踏んでいたのを見た記憶があります。蒸籠に入れて玉売りしてる。その玉を買うて帰って食べる。値段は覚えていないねぇ。家で親がうどんを打つということはなかったです。商売をしていて忙しかったからだと思います。
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                でもね、亡くなった主人は昭和14年生まれで三木町の田舎の生まれだったんですけど、その主人の小さいときのお話では、製麺所に小麦を持って行って、生のおうどんに代えてもらっていたそうです。従兄弟と一緒に買いに行って、帰りに一本そっと抜いて食べよった。それがおいしかった、という話を何回も聞きました。湯がいてないのを食べてもおいしかった、楽しみだったと。貧しい時だったんやろうね。だからおうどんは、昔はおご馳走だったんとちがいますか。お祭りとか市とか、そういうときでないと食べられない。普段は質素だったんじゃないかと思います。今から考えたら何で生うどんがおいしかったんかと思うけどねぇ。戦後間もない頃だったから。

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                「パンと昭和」って本の読書感想文なのに途中からうどんの話になってしまった。しかし、アメリカ小麦戦略が語られるさいの今や日本でもパンが主食として確固たる地位に。ってな前提が私の中で受け入れられなく、給食にゴリ押されたり米(日本の心)との対立をあおるためにパンばかりが標的になってるだけで、本当に主食として米をおどかしている麺類だって小麦が材料でしかも戦後の食文化なはずでいづれ配給時代やアメリカ小麦戦略下における製麺所および中国からの引揚者が始めた支那そばの屋台やソフトメンこと「スパゲッティ式めん」、喫茶店文化(モーニング、サンドイッチ、ナポリタン)などブログに書くかどうかは別として戦後の小麦食を主食軽食にかかわらず総合的に考察して逝こうと心に誓った。

                 

                町のパン工房“定年”迎え幕 思い出の味、30日まで 横浜(6月23日 yahoo!ニュース)

                https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170623-00018719-kana-l14

                創業69年の横浜市中区山元町のパン・洋菓子店「マルイベーカリー・ボヌール」が今月末に閉店する。親子、兄弟で支え合い、地元に愛された町の店だった。  

                1948年創業。当時は客から配給された小麦粉を預かって窯でパンを焼き、加工賃をもらっていたという。親子2代にわたり、誕生日ケーキを注文する客もいる。30歳で両親から店を引き継いだ2代目店主の井上龍太郎さん(65)は「うちのケーキでなければと言ってくれる。本当にありがたいこと」と話す。

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                たまたま検索で引っかかったのだが、典型的な配給小麦の委託加工をルーツとする町のパン屋。もう70年も経っているうえ学校給食も米飯が見直され、昔に比べるとオシャなパン屋も多いのでこの手の店は今後激減すると思われる。


                デジャブ

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                  [일본문화#1. 한국여자 일본여자 차이] (YouTube)

                  https://www.youtube.com/watch?v=eFMJXi0hie0

                   

                  日本人とアメリカ人の違い☆日本の女性とアメリカの女性(YouTube)

                  https://www.youtube.com/watch?v=Lm7tjKwjzvI

                   

                  韓国人youtuberによる韓国と日本の女性の違いをテーマにした動画(4月投稿、73万再生、韓国人向け)がある韓流サイトに貼られてあったので見たところ、日本人女性を模倣した部分以外は韓国語なので何言ってるか分からないのだが、これ明らかになっちゃんっていうアメリカ人youtuberが投稿した「日本人とアメリカ人の違い」(2月投稿、38万再生、日本人向け)のパクリすぎてびっくりぽん。日本人の女はそこらへん出かけるのにも入念にヘアセットし、一回外出たのに「あ、香水つけるの忘れた」って戻ってくる、好きな男からラインが来たときにやばいどうしよを連発、久しぶりに会った友人にかわいいと褒める、遅刻したときに謝りまくる、などなど構成がほとんど同じなうえセリフも一字一句同じ部分があり(下記参照)、youtuberみんな似た動画上げる傾向があるとはいえさすがにこれは。

                   

                  好きな男からライン来た時の日本人女性の台詞

                  アメリカ人版「えっ!今ラインきたの。けんすけから。えー!えーまじイケメンだけどやばいどうしよ。どうしよ。えーまじやばいやばい。じゃあ・・・ごはん、行きたいです。あー!送ったーあ!やばーい!

                  韓国人版「えっ、やばい。なにこれ。いやきょうすけからラインきたの。どうして?なんでなんで?やばい!えーやばやばい!やばくね?やばいよねー!あーどうしよ。ごめんね、ちょっとライン送ってから話すね。ごめん。うん。あ、そうなんだ」

                   

                  久しぶりに友人に会ったときの日本人女性の台詞

                  アメリカ人版「えーひさしぶりー!えーめっちゃかわいいんだけどー。やばい。かわいくなったね。えやせた?やせたでしょ。ひさしぶりー。えーまじー?まじやばーい。やばい。えーほんとにぃ?え太ったの?」

                  韓国人版「えーひさしぶりー!元氣ー?元氣ー?あー元氣でよかったー。うんあいかわらずかわいいねー。うんうん。今度いっしょにごはん食べよ?」

                   

                  遅刻した時の日本女性の台詞

                  アメリカ人版「もしもしー?3分くらいおくれるんですけど。お待たせいたしましたー。えごめんなさいほんっとに。えっけっこう待ってた?ごめんなさいほんと。ほんとほんとごめんなさいほんとに。えーごめんほんとに。えけっこう待ってた?えーごめんなさいほんとに。すいませーん。ほんとに」

                  韓国人版「あーごめーん。ごめんごめんごめんねー。ごめーん遅れちゃったごめーん。ほんと列車乗り間違えちゃってごめーんそれで遅れちゃったよ。ごめんごめん。ごめんねー

                   

                  ダイエットしてる時の日本女性の台詞

                  アメリカ人版「あっごめん今日は食べに行けない。うちダイエット中なの。あのさー、とうふダイエットというやつがあって、こんなとうふにレモン汁をつけて毎日53個食べたらやせるんだって」

                  韓国人版「あごめーん。今日は行けない。うちダイエット中なの。あのね、こんにゃくダイエットというものがあってね、ふつうはお米食べるじゃん、お米って炭水化物だからすごい高カロリーなんだけどこんにゃくの場合はすごい低カロリーでいくら食べてもさすごい気持ち的にはいっぱい食べたなーという気になるの。すごくなーい?だからうちこんにゃくばっかり食べてて最近お米は食べない。だから外ではごはん食べれないよ」


                  J-POP批判する

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                    このたび日本デビューした韓国のガールズグループTWICEがテレビ朝日系「ミュージックステーション」に出演すると聞き、K-POP好きとして一応見ておこうと公式サイトで出演者を確認してみたところ、EXILE SECOND、関ジャニ∞、欅坂46、DEAN FUJIOKA、原田知世、Hay! Say! JUMPとTWICEを含めても7組しか表示されなかったため、あれ?スペシャルじゃなかったっけ?と目ーゴシゴシしたらやっぱり2時間スペシャルって書いてたので、2時間でたった7組しかでないんかい!と驚きのあまりチーズ蒸しパンをのどにつまらせた。これは渋ガキ隊とか昭和歌謡の映像見さされる奴に違いないが、単純計算で通常1時間の放送では3.5組しか出てないということではないか。

                    出演者も私がテレビで見かけたら消したり雑誌に出てきたら煙たがっているジャニーズ、AKB系列、EXILE系列、アミューズのみで構成されており、けっきょくJ-POPというのはごく限られた事務所やレコード会社ばかりが優遇されるのだと悟った。昭和歌謡流したり韓国人ゴリ押す放送時間を、わが国の才能ある若々しいアーティストを見いだし、紹介するほうにあてるべきではないのか。と、去年エイベックスの韓国人がレコード大賞新人賞とった時にも思った。

                    韓国にもジャニーズに相当する強大な事務所があるし、日本で最初から成功が約束されたかのようなゴリ押ししてるけど、韓国本国のランキング番組ではしのぎをけずり、弱い事務所でも曲がよかったら話題になって売れたりする。KBSミュージックバンクを例にすれば、売れっ子も新人もかわるがわる1時間半で20組とミュージックステーション2時間分の2倍以上も出演者が出演しているのだ。

                    そのように新人が大量に出てくることもあって、KARAに限らず日本でK-POPブームゴリ押してた頃にいたグループは7年をへた今ほとんどが滅亡しているほどに世代交代が激しく、残っているのは少女時代くらいである。SMAPが28年、モーニング娘が20年、EXILEが16年、AKBが12年続いたわが国ではK-POPアイドル達の寿命の短さに驚くかもしれぬが、J-POPアーティストが長寿化したのは2000年代以降の話で、SPEEDは5年、キャンディーズは6年、ピンクレディー、光GENJI、小室あたりは全盛期が2,3年程度なので、ふつうはそんなもんなのである。

                    J-POPも浜崎あゆみやモーニング娘。初期のエグザイルが売れているころくらいまではそこまで荒廃していなかったけど、2000年代半ばに倖田來未を売りだしたり、のまのまイェイとか言い出してからエイベックス社に対し「?」となり、やがて歌番組も古い歌を妙に長い時間流すようになり、良いなー。と思っていた歌手が中高生にこびたような悪い意味で売れ線の恋愛ソングを歌うようになり、その矢先にK-POPに魅せられたので私の心はJ-POPから遠のいた。

                    今ドラマが不調と言われているのもきっとJ-POPと同じで、決まった事務所の奴ありきでキャスティングしているせいもあると思う。あと何でかミュージックステーションで原田知世が時をかける少女(熟女?)を歌うらしいが、このように目新しい音楽でなくカバーに走るのも2000年代以降のJ-POP停滞をまねいた悪しき風習である。


                    主食対決

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                      先月買った「パンと昭和」って本、ひと月ほど寝かせた末ようやく半分ぐらい読んだ。私がパンと昭和について知りたくなったのは、まず最近影響を受けた真弓定夫先生監修の美健ガイド社マンガシリーズてのが戦後GHQのもたらした欧米化が日本人の健康をおびやかしているという価値観において一貫しており、その例としてあげられているアメリカ式育児法とか牛乳とかのうちの一つにパンがあったのである(下表紙画像参照)。

                       

                      https://www.amazon.co.jp/dp/4894720094

                       

                      https://www.amazon.co.jp/dp/4894720582

                       

                      そのため春先に道徳教科書の検定で愛国心が足りないとしてパンが和菓子に書き換えられたというニュースが、アベ政治のノリは戦中みたいで恐ろしいっと話題沸騰していたのも、いや別にパンと和菓子って対立してないよ?パンと戦ってる和の心は和菓子じゃなくてお米だよ?と、アベ政治許さない扇動に疑問を抱いたということもあった。私調べによれば、パン作ってる業者って戦前は○○屋、戦後は○○製パン所って社名が多く、それとは別に名前の最後に「堂」「舗」「製菓」などの漢字のつくパターンがある。

                      そういう屋号のついてるとこは和菓子がルーツと考えられ、また山崎製パンなどパンの会社はしばしば和菓子も作っておりスーパーでもパンのコーナーと一緒にされている。なので和菓子とパンの両方を作ってる会社などいくらでもあるし、あんぱんも銀座木村屋など初期バージョンのは酵母にイーストではなく酒種を使っており、小ぶりでまんじゅうに近かったように記憶している。

                      あんぱんだけでなく、カステラや蒸しパンやシベリアなどパンなのか和菓子なのかよく分からない食べ物もある。戦前パンがスイーツ(菓子)だったことを考えると自然な話で、あんこ、砂糖、小麦粉など材料がかぶっていることをふまえても、いち出版社が道徳教科書を書き換えたからといって和菓子を戦争やナショナリズムと結びつけいたづらにパンと対立さすのは日本に根ずいてるパンを在日外国人と同一視し、アベ政治は差別主義で性格悪って感じに無理くり持って逝こうとしてるフシがあり、こうした和菓子ネトウヨ説をロハス野郎ハチミツ赤ちゃんに食べさせてる説とともに此れという根拠が見いだせない限りは否定しなければならぬと心に誓った。

                      しかし米となれば話は別である。とにかく日本人は長年米が主食だったんだからパンなんてくってんじゃねー。と、パンをアメリカがもたらした堕落の象徴であるかのようにものすごい敵視しているロハスはけっこういるのだ。

                      だから上に貼った美健ガイド社のマンガの画像「ごはんはえらい!」も、ごはんが侍でパンが白人としてえがかれている。これがマクロビオティックになると、米でも白米は精製してるからダメで玄米に限るとかになってくると思うけど、私マクロビよく分からないのでそれはまた今度調べとく。

                      で私がこのお米とパンの戦いについて知ったのは、美健ガイドのマンガを読むよりまださかのぼることマスゴミが温暖化ゴリ押してた頃にNHKのFMでやってた大貫妙子司会「懐かしい未来」であった。そもそもこの番組名がロハスおよびNHKによる謎のチベット推しの側面があったと思われるが、それはともかくこの番組のゲストに幕内秀夫が出演していたのを聞いたのが初めてである。

                      検索するとそれが2011年6月末の放送だったようで今からちょうど6年前のことらしい。大貫妙子はメトロポリタンミュージアムやシャルウィーダンスなどの曲で有名な歌手だけどしゃべってるの聞いたことなく、この番組確か低い声で電子レンジとか現代文明けっこうディスってて、フワフワした透明感ある歌声とのギャップに驚いた。

                      そんな大貫妙子が幕内秀夫の考えに共鳴してラジオに呼んだのだろう。幕内氏は給食に関する著書が多く、その主張するところは、伝統的な粗食を推進でとにかくパン給食などやめて日本人なら米食べよってことである。

                       

                      https://www.amazon.co.jp/dp/4062724561/

                       

                      https://www.amazon.co.jp/dp/B01G5EIYL6/

                       

                      これはパンの記事なのでパンが表紙になった画像を拾ったけども、幕内氏の数ある著書はほとんどがお米の絵や写真の表紙である。マクロビには否定的だったので別に玄米ではないようだ。

                      しかし乳がん患者の8割は朝パンを食べているって、乳がん患者の10割が日常的に米も食べているんじゃないか?と思ってしまった。推薦してる宮崎ますみも、病気してるあいだに何かあったのか最近スピリチュアル方面でたまに名前聞く。

                      あと今調べてて、幕内氏のプロフィールに帯津三敬病院で食事相談を担当とあるのに気づいたが、この帯津三敬病院の帯津良一名誉院長も幕内氏と同じ年に懐かしい未来に出演していた。帯津良一で本ぐぐったらホリスティック医療とか気とかホメオパシーとか書いてたので、そういえば確かがん患者の治療で代替医療取り入れているのが売りだった気がした。

                      ホリスティックとかホーリズムとかいうのはロハスにある基本的な概念で、ホール(全体)っていうのがたぶん科学や還元主義の対義語である。ヒッピーの本のホールアースカタログとかオーガニック食材のホールフーズマーケットとかホール言うし、マクロビみたいに一物全体=皮ごと食べるって思想も関係ありそうだ。

                      最近知った例では、GHQ日本解体説の高橋史朗っていう人の本にホリスティック教育とかいう題名が多かった。幕内氏に話し戻すとそういう病院(ホリスティック医療の帯津三敬病院)と関係あるからって特別スピリチュアルなノリは感じないけども、日本人の長く培ってきた伝統が、欧米からもたらされた科学、栄養学よりも重要なんだという点で大貫妙子のようなロハスに熱烈な支持を受けているのだと考えられる。

                      幕内氏の主張は確かにー。と思うこともあるのだけど、ラジオを聞いた第一印象としては当時、米とパンが戦ってることを知らなく、むしろ2010年ごろは温暖化や厚生省のゴリ押しの一環でロハス(持続的なライフスタイル)としてマクロビにも脚光が当たってたし、自給率とか生物多様性の見地から稲作を盛り上げようという機運が高かったので、幕内氏が日本人はパンばかりに目をくらみ米をぞんざいに扱ってるみたいなこと言うのに、そうでもなくないか?と違和感を抱いていた。

                       

                      美健ガイド社「ごはんはえらい!」より

                       

                      しかしその後幕内氏の話をもとに調べると、戦後のある時期まで日本人が米をバカにしてた時期があったことを知った。それがアメリカ小麦戦略であり、終戦直後の食糧危機から脱してもアメリカの余剰小麦を消費するため給食にパンをゴリ押し主食に米を食べると馬鹿になりパン食べるとめっちゃ頭よくなるという荒唐無稽なステマを展開していたのだ。

                      そのもっとも顕著な例が頭脳パンで、頭脳パンは各社から発売されていて私もフジパンの頭脳パンに一時期ハマってたのだが、これら頭脳パンには「頭脳―才能をひきだす処方箋」(1958年) の著者である林髞(たかし)とおぼしき博士の絵もえがかれている。この博士がアメリカ小麦戦略の回し者として、アメリカ式育児スポック博士とともに欧米化で日本人の健康むしばんだ戦犯視されている二大博士だ。

                       

                      ・・・

                      一方で、林は当時の製粉・製パン業界にとって、まさに「救世主」であった。1955年(昭和30)から1958年(昭和33)にかけて米は豊作が続き、小麦の1日1人当たり消費量も1954年(昭和29)をピークに減ってきていたことから、関係者は危機感を募らせていた。このままじり貧になるのを是が非でも避けたい製粉・製パン業界は、林を講演会に駆り出し、「米を食べるとバカになる」というパンフレットを大量に制作して配布したという。こうしてなりふり構わずパンの優位性を人々に訴え続けた業界は、「パン離れ」を一時的な現象にとどめることに成功し、消費は再び増加へと転じた。粉飾推進運動は、米不足により「主食の二本立て」をめざす時代から、米の作柄とはかかわりなく小麦を消費する時代へと、さらなる転換をとげたのである。

                      (「パンと昭和」108ページより)

                       

                      日本人は戦争に負けてからというもの、アメリカの豊かさをありがたがった。ちゃぶ台とか漬物とかイケてないわぁー。となり、食も体を白人のように大きくしてくれる脂肪やたんぱく質を多く摂取し欧米化することが「栄養」だったであろう。

                      それが今では栄養が毒とばかりに、ダイエット、デトックス、不食など栄養を取らなかったり出すことこそ健康とさえ考えられるようになった。そうした流れの中で幕内氏の提唱する粗食や和食が評価されているにちがいない。

                      米とパンが戦っていることを知らなかったときは、炭水化物大好き野郎として幕内氏の説に対しなぜそこまでパンを敵視?!と疑問を抱いたけど、成程かってアメリカにグイグイ押しつけられたという背景があったというわけである。しかし私(アラフォー)の時代にはすでに欧米化完了しててとくにパンがもてはやされることもなかったし、コッペパンとともに米飯給食もあったのでピンとこなかったのだ。

                      それにそもそもパンが主食として米の地位をおどかしているというのがにわかに信じがたい。実際のところパンはあくまで軽食であり、けっきょく朝ごはんやおやつの域から出ていないように思う。

                      日常的に食事における主食として食べているのはそれこそ給食くらいで、昼ごはんはどっちかというとうどんやラーメンなど麺類のほうがパンよりも食べそうだし、夜ごはんにいたってはなおさらパンなんて食べないだろう。そういう意味ではパンに焦点を当てるうえでの代替案としては主食ってよりも持ち歩いたり単体で食べることの多いおにぎりのほうがふさわしい気がするし、日本人の主食を米からパンにしようとしたとされるアメリカ小麦戦略は失敗だったのではないか。

                      ただ給食の場合だけは別で、おかずなどと一緒にあたかも主食のように出てくるし幕内氏の著書も給食に関するものが多い。これは同じ小麦製品でもスパゲッティーを除いてアジアの料理である麺類に比べパンがいかにもな欧米であること、また給食という、戦後に一般化しまた断れない場で来る日も来る日もパンを食べさされてパン大好きに洗脳されたという筋書きがあるのでパンが主食であるかのようにことさらに名指しされ袋叩きされてしまったのだと私は考えている。

                      しかしコッペパンなど給食を作っている製パン所の大半が1940年代後半から50年代と戦後の限られた時期に創業しているのを見て、私は長年アメリカ小麦戦略をGHQの陰謀と思ってたけど、記憶違いでこのたび「パンと昭和」を読んだところ、給食とかアメリカ小麦戦略はGHQより後の高度経済成長期だったらしい。戦後すぐは食糧難で米もなかったし戦中に米の代用食として作っていたパンはまずかったので、輸入小麦粉の白いパンは美味しかった模様。

                       

                      輸入小麦粉の真っ白いパン配給(NHKアーカイブス)

                      http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009100012_00000

                      さる1月、アメリカ軍の厚意で輸入された小麦粉が、さっそくパンに作られることになりました

                      見ただけでも食欲をそそる、きめの細かい真っ白なパン

                      このパンはすでに2月22日から東京都内に配給されております

                       

                      真っ白なパンの味

                      http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/w-T10-1.html

                      終戦の詔勅は訳わからなかった。負けるとは思いもしなかった。言われるままに働いていたわけです。
                      食糧事情は全部配給で、隣組に週に1回、魚とか野菜とか豆腐とか配給があった。
                      それはお金を払って買うんですが、お米は米穀通帳で配給ですわな。
                      1人当たり何合やったか、月のうち三分の一くらいしか米はないんです。あとは代用食ばっかり。
                      その代用食の配給はありました。
                      小麦、稗、丸麦とか、豆かす、豆を絞ったあとの馬が食べるようなもの。
                      農家はよかったけれど。大阪から大和の農家を訪ねて行って、キモノとお米と交換したものですわ。

                      ・・・
                      戦後結婚した主人の弟は戦死。一番有難かったのは日々の配給で、進駐軍が来てから真っ白な
                      粉の配給
                      があったこと。それまでサツマイモのツルでこしらえた真っ黒けなパンを食べていた。
                      それはちょっと苦みがあって。
                      小麦でも丸のままで配給していたのは、人手不足で製粉する手間がかけられなかったんでしょう。
                      丸のままの小麦やカチカチに乾燥したトウモロコシを石臼で家でひきましたよ。
                      荒い粉にひいてそれを固めてパンに焼いたり、そやから今みたいなパンは見たこともない。
                      アメリカさんの援助物資の真っ白なパンの味が忘れられません。何ともいえんおいしかったですわ。


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