ラーメンの帰属意識

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    速水健朗氏の著書は、以前に「自分探しが止まらない」(2008年)と「フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人」(2013年)を読んだことがある。
    自分探しや食へのこだわりを手がかりに現代のニューエイジ風味なノリを考察したような書物であるが、私的にはいづれも我が意を得たという読後感にはいたらず、とくに後者はマクロビやほっこりとした感じが好きな自然派「フード左翼」の反対に当たる「フード右翼」が何なのか、読んでもほとんど分からなかった。
    それでこの「ラーメンと愛国」を見つけたときは、「これにフード右翼の説明が載ってるのか?」と思って購入したわけである。
    しかし、著者が「作務衣系」と呼ぶここ10年ばかりのラーメン屋のノリが和風だからといって、それが愛国ってほどのもんなのか私にはやはりよく分からない。「作務衣系」ってカテゴライズするほど作務衣着たラーメン店員もそうそう見かけないし。
    近年はラーメンに限らず、スイーツに抹茶やほうじ茶や和三盆が使われることが多くなったし、スパゲティも和風の内装やメニューは珍しくない。
    ようするに中華や洋食など、脂っこいものにさっぱりとした和の深みを加える。そうすると懐かしさと新しさが同居する洗練されたおいしさが生まれる・・・という効果を狙っているだけじゃなかろうか。
    それにしたがって昔ながらの(和風でない)中華料理屋や喫茶店が、昭和で素朴だという感じになってきてもいる。
    そんな状況の中でフード左翼も江戸や米食やふんどしなど日本の伝統大好きだってことを考えると、和風をぷちナショで愛国と考えるのは昨今のニューエイジ界を考えるうえでけっこう混乱を招くと思う。むしろヤングなネトウヨって、そんなに和風とか好きじゃない気もするし。
    今は愛国&右翼、反日&左翼といった議論がさかんだ。
    そのはしりになったとも思われる香山リカ著「ぷちナショナリズム症候群」(2002年)にも、確かぷちナショの例として作務衣を着た路上詩人の写真が掲載されていたと記憶している。
    確かに路上詩人とラーメン屋の和風は明らかに同じノリだ。作務衣系に相田みつをを彷彿とさせる「ラーメンポエム」がつきものだと指摘されているが、あの手の趣味は若手起業家のあいだで流行っているのかもしれない。成功哲学的に。
    相田みつをが流行していたのが90年代半ばで、その後ナカムラミツルや路上詩人など、癒し&自己啓発風味なポエムが続々と世に出てきた。これは「作務衣系」が台頭してきた時期とも一致している。
    速水氏は208ページで作務衣は陶芸家をイメージさせるために着ているものだと書いているが、同時に作務衣は禅宗の僧侶が着るものであって陶芸家は作務衣を着ていないとも書かれてある。
    引き合いに出されている莫山先生と片岡鶴太郎も陶芸家ではないし、画像検索しても莫山先生が作務衣を着ている写真は出てこないのでこのへんの記述は不可解である。
    ただウィキペディアによれば相田みつをは禅宗と関わりがあるようだし、作務衣野郎にニューエイジ的なノリが散見されることからもイメージ的にあの宗教的かつ示唆的な書のスタイルと禅が結びつくのもそう不思議ではない。

    おまけコーナー

    今はラーメンでさえ中華テイストって誰もありがたがらないが、どうも昭和50年代に関してはその当時の書物やYouTubeを見る限り、「中国四千年の歴史」的ハッタリがグルメや健康法にずいぶん応用されているように見受けられる。
    ウーロン茶もやせるお茶としてブームになったもので、伊藤園やサントリーなど大手企業による大量生産が始まったのが1981年。
    当時の最先端テクノポップバンドYMOが人民服を着て毛沢東のポエムを曲に取り入れ、若者もファッションとしてしばしばチャイナ服を着ていた。町の漢方薬局なんかも30年前って感じの店構えが多く、オウム真理教の麻原彰晃が「亜細亜堂」を開業したのも1978年となっている。
    代替医療は今でこそアロマだのホメオパシーだのとキザな横文字がブームだが、この頃は学生運動(毛沢東主義)上がりが気功や漢方など中国の医学を持てはやし、それらは90年ごろにはニセ科学的な意味で問題視されていた。
    そんな華流ブームの世の中にあってはインスタントラーメンも「本格中華」であり、1981年に明星から「中華三昧」が発売され翌年にはハウス「楊夫人」(マダムヤン)がその後を追った。

    中華は作務衣だけではなくキムチ化も進行しており、各種キムチラーメン、キムチチャーハンだけではなく、夏に韓国冷麺を出す店もある。
    そんな相性のいい中華とキムチだが、ことインスタントにいたっては私の中で辛さとまずさに定評のあるK-ラーメン(ラミョン)。K-POPごり押し期マッコリとともに大量に輸入されたため、スーパーなどで見かけた方も多いだろう。
    ウィキペディアによれば韓国のインスタントラーメンは1963年、明星から無償技術供与を受けた三養(サンヤン)食品が製造を開始したのが最初であり、朝鮮戦争後の食糧難の時代に手軽なエネルギー源として受け入れられたとのことである。
    三養食品はCMに少女時代を起用しているトップ企業だが、今のところ日本向けの製品は見たことがない。
    また韓国料理の店では必ずといってよいほどインスタントラーメン入りの鍋(プデチゲ)が用意されており、プデは部隊の意、具にスパム(の模造品?)が使用されていることから、野戦食の影響があるとみられる。
    日本でも発売されているオットギ社の「サリ麺」はスープが入っていないのだが、あれもチゲ用なのだろう。
    食べ方は必ずしも皿にとりわけるわけではなく、麺を鍋ぶたの裏に取ったり、または豪快に鍋ごといったりする例もあるようだ。

    現在、日本の袋めんは生めん風がブームだ。
    この市場を切り開いたのは、東洋水産「マルちゃん正麺」で発売は2011年11月。「ラーメンと愛国」がこの1か月前なので、当然ながら同書には生めん風には触れられていない。
    役所広司のイメージが強いせいか、後発商品のCMも西島秀俊や堺雅人など中年男性俳優を起用するのが定型化している。
    これまでのインスタントは生めん志向になるとノンフライの細麺になる傾向があったが(豚骨はそれでもよいのだが)生めん風は麺の太さをキープしながらツルツルしているのがなんとも革新的で、これにより醤油および塩ラーメンの素晴らしさが一気に向上した。あくまでメインは麺であり、スープ自体はかなりオーソドックスなのである。
    にしても・・・こういうのが出てくると、前からある袋めんや高級カップラーメンの価値が相対的に落ちそうな気がしないでもない。まぁカップは麺がどうしようもないぶん、脂っこいスープで勝負って感じだろうか。

    恐怖の格安売春

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      江戸の性に関するカラーの資料集を1冊持っておこうと、増税直前に買った永井義男著「春画と書入れから見る吉原と江戸風俗」がおもしろかったので、後日、中古で同じ著者による新書「江戸の下半身事情」も購入した。
      以前に読んだ「本当はエッチな日本人」と、テーマが同じなだけあって内容もよく似ているが、ところどころ見解の違うところもあるようだ。
      たとえば、手ぬぐいでほっかむりして丸めたゴザを持ち、夜な夜な「遊んでかな〜い」と声かけする、江戸の売春界で最低ランクの街娼「夜鷹」の年齢層について、永井氏の本では40〜60歳となっているが、「本当はエッチな日本人」によれば夜鷹には10代も多くいて、平均年齢は20代半ばとしている。
      20代と60代じゃ全然違うではないか。
      永井氏によれば、夜鷹は白髪や薄毛を隠すために、ひたいを墨で染めたり白髪に黒い油を塗ってごまかしていたが、隠しきれずに髪の毛が白黒のまだらになっていたのだという。
      「本当はエッチな日本人」にも、夜鷹は梅毒で欠けた鼻をロウで固めていたという描写があったので、やはりけっこう年はいっていたんじゃないかと思うのだが。
      にしても、崩れた鼻をロウで固めた、髪が白黒まだらのオバハンが、ほっかむりして夜に声かけてきたら、めちゃくちゃ怖くないか。
      しかもそんなオバハンと、そこらへんでゴザひいてやるんだそうだ・・・ワイルドだぜぇー。
      夜鷹というのは吉原や岡場所など普通の風俗店で働いていたのが、性病やら加齢やらで通用しなくなって、最終的に立ちんぼとなって日雇い人足相手に一発500円程度で春をひさいでいたらしい。
      ただ500円といってもそれは基本料金であり、実際は2000円くらいはするとのことだが。花魁だとちょめちょめにこぎつけるのには100万レベルの金が必要という話もあるので、その料金の多様性たるや驚くばかりである。
      しかしいくら安くたって、夜鷹っちゅうのは皆が悪性の梅毒持ちだったというのだから、ちょめるのも命がけではないか?
      現代の男ならそんな不気味な女はまず抱けないだろうが、夜鷹しか買えないような貧しい男ならば性病の知識も不十分であるし、そもそも江戸は男余りな上にセクロス以外の娯楽もなかったので、得体の知れない娼婦でも買う奴がいたのだろう。
      永井氏によれば、たまに「買い逃げ」する悪質な客もいたので、ヒモ兼用心棒の「牛 ぎゅう」(妓夫)が暗闇から見張っていたのだそうだ。
      下半身事情を例に出すまでもなく、やはり江戸時代は野蛮で遅れた社会ではなかろうか。
      近年、FUROSHIKIやらFUNDOSHIやら打ち水やら循環型やら、江戸を懐かしい未来とばかりにロハス的観点から称賛する左翼の陰謀が後を絶たない。
      だが私にとってみれば、性の話題ひとつとっても、そんなにええもんかい。といった感じだ。
      以前読んだ田中優子著「春画のからくり」も違和感ありまくりだったのだが、その点永井氏は江戸ブームに距離を置いており「江戸の下半身事情」の前書きでも「江戸を理想社会のように持てはやす向きもあるが、思ったよりゆたかで自由な面があった、そんな一面があったというだけにすぎず、基本的には貧しく不自由な時代だった」(管理人要約)と述べているのにはまったくもって同感である。
      そんな永井氏の姿勢もあってかその著書は楽しく読めるものの、年号の多くを「天保○年」「寛政○年」などと全然ピンとこない元号で表記し、西暦に直してくれていないのは私的にかなりのマイナスであった。

      本当は左翼な江戸時代

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        先日「本当はエッチな日本人」(歴史の謎を探る会編)を読んだのをきっかけに江戸時代の下半身事情に興味がわいた私は、田中優子著「春画のからくり」を購入した。
        著者の田中氏は江戸文化の専門家なのだが、じつはかの「週刊金曜日」編集委員の顔も持ち、個人的には江戸と全然関係ない反原発運動や新大久保の反差別運動などで見かけたことのある名前だ。
        最初に江戸に気色悪さを感じたのは、2000年代のエコブームにおける打ち水でFUROSHIKIで循環型社会・・・といったノリであったが、やはり江戸礼賛には左翼がつきものなのだろうか?
        世間的には、左翼が日本の伝統を重んずるはずがない、と考えられているのか、なかなか信じてもらえないのだが。
        田中氏には「春画のからくり」と同じちくま文庫から「張形と江戸おんな」という、これまた江戸の下半身事情に関する著書もある。張形(はりがた)とはバイブレータのごとく、てぃん子をリアルに形どった大人のおもちゃのことだ。厳密には電動しないので、バイブではなくディルドーというらしいが。

        春画と張形・・・どちらも捨てがたい。立ち読みしたら内容も似ていたので迷ったが、けっきょく値段の安い「春画のからくり」を選んだ。
        しかし、やはり「春画〜」はカラー資料の多い「張形〜」と違って、掲載されている絵が白黒で、しかも文庫なので載っている絵が小っちゃく何描いてあるのかよく分からんという問題はあった。
        表紙に使われているのは美人画で有名な喜多川歌麿の代表作「歌満くら」。
        茶屋の二階でくちずけする男女がえがかれている。茶屋というのは、「本当はエッチな日本人」に飲食店を装った休憩専門のラブホテルと書かれていた出合茶屋のことだろうか。

        性器こそ描かれていないものの、女のうなじや手つき、黒い布に透ける白い脚、ちらりとのぞく男の視線がなんともなまめかしい。
        「はまぐりにはしをしっかとはさまれて鴫(しぎ)立ちかぬる秋の夕暮れ」
        扇子に書かれた狂歌が、ちょめちょめを暗示している。
        この絵は性器のみならず、顔もほとんど描かれていないという点において、春画というにはかなり珍しいようだ。
        だいたいこの本に掲載されている春画をざっと見た感じだと、気合を入れて描かれているのはたいてい性器、顔、着物である。まぐわっていても全裸ではなく、たいてい着衣なのだ。
        だから、男も女も下をまくって、挿入を楽しんでいる。田中氏によれば、この手の絵は交接部分を強調するためにあえてゴチャゴチャ描きまくっているということのようだが、まあ当時はちょめにおける乳の重要性がいちじるしく低かったので、じっさい全部脱ぐ必要もなかったのかもしれない。
        それに服を描きこんだほうが絵的にも美しいし、現代のコスプレよろしく女の属性もわかるという物ではないか。
        しかし・・・不思議だ。なぜ春画において顔が重要でありながら、ちょめっている男女は真顔なのだろうか?
        現代のエロい漫画ならば、女はもっと顔を赤らめ、眉間にシワを寄せたり涙を浮かべたりと切なげに描かれるにちがいない。それに比べると春画の女は、せいぜい目をつむっている程度で口もそんなに開けていないのだ。
        当時はあまり表情を描かなかったのかとも思ったが、「春画における覗き」(113ページ)で紹介されているいくつかの覗き(他人のちょめちょめを覗きながら、おのれのむす子をこすってるおっさん)はちゃんと助平な顔に描かれている。
        春画は「笑い絵」とも呼ばれるように、ギャグマンガ的な要素があったようだが、なかでも覗き魔は笑いの対象だったのだという。
        そういうマヌケな脇役だけ、いかにもグヘヘ♪といった顔なのだが、まぐわっている主役の男女はあくまでわれわれが浮世絵と言われてイメージする典型的なそれである。
        あの手の顔は、現代のマンガにおいて主役クラスの目が大きく描かれる、というのと同じくらいのお約束で、それ以上を書き込めばギャグ要員になってしまったのかもしれない。
        やはり浮世絵には、漫画の遺伝子を感じてしまう。西洋の絵画が写真ばりにリアルだったのに比べると、浮世絵はずいぶん平面的で、顔や性器の異常なデカさに対する口の小ささ、乳の適当さなどは、当時の価値観に合わせてデフォルメされているし、設定も日常的ではありながら、現実そのものではない。
        日本文化の中で浮世絵や漫画の人気が高いのも、その独特の美的感覚が外人のハートをわしずかみにしたという事実にほかならないだろう。
        そのような考えをもって「いけないヌードから正しい春画へ」(初出1996年)を読むと、やや違和感をおぼえる。
        男女がちょめっている春画と違い、女性のヌード写真ばかりが氾濫している現代の状況をまるで女性差別だとでも言いたげな田中氏。
        しかしあれだけ文字の書き込まれた春画の比較対象としては、ヌード写真よりも漫画がふさわしいのではないか。エロい漫画ならば春画同様、裸の女だけではなく、それをいたぶる相手役も必要なはずであるし。
        だいいち梅毒や間引きが普通だった売春都市の性にそんな素晴らしい要素があるのかどうか、怪しいものだ。
        もしかすると一部の左翼は、現状を変革するために、日本の伝統ともいうべき江戸時代に対してエコだけではなく男女平等&性に開放的(やりまくり、のぞきまくり)であってほしいという邪悪な願望を抱いているのではないだろうか?
        これについては先日読書感想文を書いた青木やよひ著「フェミニズムとエコロジー」にも、気になるくだりがあったので最後に引用しておく。

        たとえばかつて私は、『婦人職人分類』と題した歌麿の浮世絵版画の一枚を見て、意外の感に打たれた記憶がある。それは二人の『かわらけ』職人が頭に手ぬぐいをかぶり着物の裾をはしょりあげて作業をしている情景を描いたものだった。
        ・・・
        江戸時代に三つ指ついて夫に仕え、三界に家なきわが身のはかなさをかこっていた侍の妻などは、ほんのひとにぎりにすぎなかったのである。大部分の女は、農婦や自営業の内儀(おかみさん)としてみずから労働をになっていたはずである。そしてそこには、瀬川清子氏の『若者と娘をめぐる民俗』にひろいあげられているような性の開放性や、それなりの男女平等のルールも存在していたにちがいない。
        しかしもちろん、みずからの願望を歴史に投影して、『バラ色の過去』を描き出すことはいましめなければならない。
        ・・・
        男女の人口比一つとってみても、江戸時代になぜ女の出生率がいちじるしく低いのかという疑問が、長らく私の心を苦しめている。
        「フェミニズムとエコロジー」38ページより 初出1983年


        おエロでござる

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          「そりゃもうエロチックだった日本人のあふれる性力を赤裸々リポート!」「江戸の時代の大人の桃源郷にタイムトラベルできちゃう歴史エッチ秘本!」「町人も武士も将軍サマも、若い娘も遊女も大奥もみなさん、けっこう好き者ぞろい!のぞいてみたら、ビックリ昇天‼」
          表紙の扇情的なうたい文句に惹かれ購入した、歴史の謎を探る会編「本当はエッチな日本人」。
          私が買ったのは中古本であるが、もともと4冊ほどの本を再編集した内容とペーパーバック型の簡便な製本であるため、定価も500円とさほど高くはない。大川清介のエッチで楽しいさし絵が雑学の面白さを引き立てており、江戸時代に詳しくない私でも気軽に読める一冊だった。
          にしても、わがブログは少しでもハレンチな語が入っていると記事を更新できない仕組みになっているので、その感想文を書くのは容易ではなさそうだ。
          おもにページが割かれているのは、性技や売春の話題である。じつは世界屈指の大都市であるとともに、屈指の売春都市でもあった江戸。もともと小さな漁村にすぎなかった江戸に都市を建設するうえでは、多くの働き手が必要とされた。その結果男余りになり、売春の需要が高まったというわけだ。
          女性の中の売春婦の占める割合は2パーセント、50人に1人とも。その種類は庶民に手の届かない「吉原」に始まり、「岡場所」など幕府非公認の遊郭、街娼「夜鷹」、まんじゅう売りに扮した「船まんじゅう」、素人売春「旦那取り」、品川に多かったという宿場の「飯盛(めしもり)女」、風呂屋で性的サービスを提供する「湯女(ゆな)」など多岐に渡る。
          この頃の遊女はほとんどが梅毒(性病)に感染していたらしいが、避妊も中絶もおぼつかなかった当時のこと、妊娠しにくい体になるので梅毒持ちはかえって一人前と歓迎され、最終的には夜鷹として崩れた鼻をロウで固め「遊ばな〜い?」と、道で客引きしていたとか。
          性技に関しては、この頃すでにくちづけが「口吸い」「口ねぶり」などと呼ばれ、営みの前技および愛情表現として定着していたものの、今と違い女が男性自身を口で愛する「尺八」「吸茎」はあまり行われていなかった。
          そのいっぽうで、男側から行われる「舐陰」はごく一般的であり、男女が互いちがいになる「あいなめ」今で言うシックス何とやら、も一応はあったらしい。
          また自らを慰める行為は男女ともにポピュラーで、男のそれは5本の指を使うことから「5人組」、意中の女を思い描きながら行うのは「あてがき」と呼ばれた。現代のバイブレータに相当する「張形(はりがた)」は、私もどっかの秘宝館で見たことがある気があるような、ないような。
          男色および両刀使いも、さほどタブー視されていなかったようで、「陰間(かげま)」と呼ばれるプロの男娼も存在し、有名な戦国武将でモーホーをたしなまなかったのは豊臣秀吉ぐらいとまで言われている。
          それにしても、現代人が抱きがちな「昔の人はエロに対して遅れていた」というイメージに対し、江戸時代は実はそうではなかったという逸話の数々、私にとってはさほど意外なことではなかった。
          先に述べたような「男余り」も要因の一つだったとは思うが、江戸時代なんて江戸しぐさだの識字率が高いだの循環型社会だのと、いくら今日的なロハス感覚で讃えたとこで、実際は人権も娯楽もない野蛮な社会に決まっとるではないか。
          それに私は中学生の時、偶然ながら春画を見たことがあるのだ。「おちゃっぴー」「エルティーン」もマッサオな春画の下半身丸出しっぷりに「江戸時代の奴、やることやっとる。むしろ現代以上に・・・!」と、この頃から前近代社会における民度の低さは強く印象づけられたものである。
          その後、春画に関心を寄せる機会も特になかったのだが、最近になってあの下半身丸出し画がふたたび私の頭をよぎっていた。というのも近年、こだわりの雑貨に囲まれてほっこりとていねいに暮らすナチュラルなご婦人の増加にともない、人工乳(粉ミルク)に対する母乳の優位性が語られるようになっている。
          乳の出のよくない奥様がたに配慮してか母乳優位は異端視されがちな傾向にもあるが、私にはやはり人工乳が母乳を追いやっている一因になっているのではないか、という思いが捨てきれないでいるのだ。
          昔のように生後間もなくから母子を接触させ、人前でも授乳していれば、母乳はもうちょっと出てたんじゃないか?と・・・もちろん現代のご婦人に乳ポロリをお勧めする意図はないのだが。
          「海女ちゃん」だってつい何十年か前までは露出していたわけだし、それらをふまえると日本人の乳に対するセクシャルな恥ずかしさは、戦争に負けたことによって押しつけられたアメ公の価値観だろうと推測される。
          人工乳が受け入れられた背景には「乳の形が崩れない」ということも、ひとつにあったと言われている。今考えたら、そんな理由で粉ミルクにするんかいっ!て感じだが、アメリカにひれ伏し、衣類が洋装化しつつあった高度経済成長期ならば、十分ありうる話だ。
          そんなことを考えていたところ、生娘の時分に見た、かの下品な春画を思い出したというわけだ。春画といや、下半身こそジャンボかつリアルに描かれているが、乳は描かれていないか、もしくは描かれていても見るからにぞんざいなのである。
          これが、乳を気合い入れてボインに、下はパンツはいているような感じに描いていれば、今とそう変わらないわけで、昔のエロ画といえど何の印象も残らなかったに違いない。
          ちょうど114ページ「春画に描かれるアソコはなぜ、あんなにデカかった?」に、わが「乳はエロくなかった」仮説を裏づける記述もあった。そのまま引用するとアップできない可能性があるので以下カギカッコ内に要約する。
          「春画において極端に誇張されたのが男の一物であり、それを受け入れる女陰も大きく描かれることとなった。そのかわりヘソや肛門は省略されている。乳に焦点をあてた絵はほとんどなく、老婆のように垂れ下がっていたり、全裸の絵でさえ乳が省略されていたりする。挿入シーンに比べ、前技の描写も少ない。よって男が女の乳をまさぐっているような絵はほとんど見当たらない」
          また、「突きもせぬ眼に貰い乳の膝枕」目に入ったゴミを流すために男の眼に乳を注いでいた・・・という川柳も引き合いに出しながら、章の最後に「当時の人たちに乳は子育ての道具にすぎず、性的な魅力に乏しかった」と、しめくくられている。もっとも、43ページには豊かな乳を持つ遊女によって谷間に男性自身を挟むサービスはあったと書かれているし、美人画の絵師、喜多川歌麿による春画は乳に執着していたともあるが、それは異例中の異例だろう。
          もうひとつ、乳に対する意識とは別に、私は昔の性に関して気になっていることがあった。それは月経である。
          というのも近年、こだわりの雑貨に囲まれてほっこりとていねいに暮らすナチュラルなご婦人の増加にともない、現在流通している生理用ナプキンに対する異議がますます高まっているのをあなたはご存じだろうか?
          使い捨てナプキンは石油からできていることもあって、環境にも女体にも悪い。だからこそ、温暖化対策を急がねばならぬ現代においては、使い捨てナプキンからの脱却がさけばれているのである。
          だが、私は布ナプキンをすすいだ経血入りの水を、肥料として野菜にかけたり(オエッ・・・)、本来女性はトイレで全部出せるなどと言う一部の過激派については疑問を感じずにいられなかった。
          かのような主張は、冷えとりで有名なマーマーマガジンにおいても、才田春光氏による「月経血コントロール」として紹介されている。
          別に人がロリエに出そうと、布に出そうと、トイレに出そうと、粗相さえしなければどうでも良いことなのだが・・・反使い捨てナプキンの気運が高まるにつれ広がりつつある「昔の人は生理用品など使っていなかった」伝説はとうてい信じがたい。以前にも、日本初の使い捨てナプキン「アンネ」以前の生理用品の広告をネットで探したことがある。おそらく布ナプキンとそう変わらないシロモノだったとは思うが、戦前より前の歴史はよく分からなかった。
          まあ、いくら遅れた社会であっても服くらいは着ているわけだし、生理用品もおのずと布であろうとは思っていたのだが、29ページ「女性たちはユーウツなアノ日をどう乗りきっていた?」によれば、木綿だけでなく「浅草紙」と呼ばれる再生和紙も使われていたそうで、それら布や紙をたたんで当てがい、上からふんどし状の布「股ふさぎ」で押さえていたという。股ふさぎが馬用の前垂れに似ていることから「馬」とも呼ばれ、「アンネちゃん」同様に月経自体を「お馬さん」と呼ぶこともあった。
          花王ロリエのホームページによれば、股ふさぎはアルカリで凝固するコンニャク成分で防水されていたとある。ちなみに、コンニャクは男性の辞意行為に使われる道具でもあったそうだ。
          ふんどしの他には、海綿にヒモをつけたタンポンもあったらしい。当然繰り返し使うことを考えると、布ナプキン以上に衛生面でよろしくない気がするが。
          いづれにせよ、トイレで出すなどという事例は書かれていない。そのようなことをできる人が今より多かったと仮定しても、ポピュラーではなかったのではないか。
          そう、私は現代人が理想の循環型社会として江戸文化を引用することに、かなりの違和感をおぼえているのだ・・・。
          江戸時代にウラミがあるわけでないが、奴らが近代社会のオルタナティブ(代替手段)として風呂敷、浴衣、風鈴、打ち水、自然なお産・・・と江戸を懐かしい未来に仕立て上げれば上げるほど「江戸の知恵に学ぶ物なんか何もねぇ!!」と叫びたくなることもしばしばである。
          だがそのいっぽうで、明治維新や敗戦といった、欧米に毒されるターニングポイントで葬り去ってきたであろう独自の下品な文化は、日本人のルーツとしてけして無視できるものではない。この思いは「本当はエッチな日本人」を読んで、よりいっそう強くなるばかりであった。

          あわてない予防接種

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            子どものからだと心の雑誌「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」(略称「ち・お」)誌の編集代表である原宿の小児科医、毛利子来(もうりたねき)氏の著書「ママは育児にあわてない」の中古本を買った。
            そっけない装丁の多い文庫本にはめずらしく、水中に浮かぶ赤ちゃんの写真が愛らしい表紙だ。
            出版はぶんか社、初版は2006年となっているが、もともと1998年に徳間書店から「たぬき先生の子育てライブ相談室」という名前で世に出た書物を、時代に合わせて加筆や再編集して文庫化したものだという。
            「たぬき先生」とは、毛利氏の名前がなまったことによる愛称で、ときおり自らも「Dr.たぬき」と名乗ることがある。
            ひととおり読んだ感じでは、「ママは育児にあわてない」というタイトルが示すように、育児にあわてるママさんのお悩みに対して、「たぬき先生」が楽観的な見解を示すパターンが大半を占めていた。
            たとえば子供が、何かの分野で遅れをとっているからといって、親があせったり、訓練を強いるのは心の傷になるからほうっておいた方がよい、というのが本書におけるアドバイスの典型だが、それは毛利氏に限らず「ちお」誌の中ではよく言われていることのようだ。
            親があれしなさい、これしなさい、と、子供の意思に関係なく命令していると、親の顔をうかがって「いい子」を演じるがために本来持っていた個性がだめになってしまうらしく、ついでに「いい子」ほど将来グレることが暗に示唆されている。
            だいたい「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」の誌名自体が、「遅れもまた個性」と、障害児をはじめとする弱者に寄りそう左翼的共生社会を演出しているではないか?
            ただ、毛利氏はけして何か特定の育児法を提唱しているわけではない。
            憲法9条で反原発で予防接種に懐疑的なことから、左翼にありがちな、ほっこりとした自然派野郎だと思われそうな要素は少なくないのだが、実際のところは、たとえ厳しく育てても、仕事であまり一緒にいれなくても、愛情を注げば子どもは勝手に成長するのだから、母親は背負いこまずに自分のスタイルで育てればよいのだ、といった相対主義的立ち位置をとっている。
            たとえば「茶髪」「超ミニ」とそれぞれ毛利氏の脳内であだ名をつけられたヤンキー(であろう)夫婦が、香水の匂いをプンプンさせながら予約もなしにわが子の検診に訪れるのだが、毛利氏はこんな匂いの中でこの子は大丈夫なのだろうか、と一瞬心配しつつも、見た感じ丈夫なので特にとがめることもしないエピソードが出てくる。
            こうした話題は展開が決まっているので、実際はいろいろ組み合わせて都合よく脚色したようなフィクションだとは思うのだが、ポイントは、一見たよりない親でも見た感じ赤ちゃんが健康ならば問題にしない、というのが毛利氏の哲学に元ずいた行いだということである。
            この意図された大ざっぱさは、氾濫する情報や数字に振り回され、ともすれば完璧を求めて疲れてしまいがちな現代の母親へ、育児の多様性を気づかせようしているのかもしれない。
            「ちお」が民間療法を静観しているのも、そのへんに理由があるのだと思う。漢方やホメオパシーが効かないと思う人ならば、西洋医学と比較してそれらのリスクや欺瞞をあれやこれやと指摘しそうなものだが、そこはあえて母親の方針を尊重しているのだと。
            母子の健康状態が良好ならどんな育児でも良いのであり、むしろ科学的根拠にもとずく画一的正しさを体格も環境もさまざまに異なる子供へ当てはめようとする専門家のほうに憎悪を抱いているのだ。
            ただ食に関しては、加工品のベビーフードでなく、できるだけ金と手間を惜しんではいけないとして、らでぃっしゅぼーやや大地を守る会などの宅配野菜を紹介している。
            さて先ほども少し述べたように、予防接種に対して懐疑的な態度をあらわにしている毛利子来氏。その理論は、本書において「第3章 予防接種相談室」に詳しい。
            指しゃぶりや夜泣きなど、とるにたらない話題は、クリニックに訪れるママさんの心配を茶化すかのような書きぶり(それも、医師の威厳を否定しているためか、わざと句読点やカタカナを多用した片言気味の文章)なのだが、予防接種に関してはQ&A方式で比較的まじめに回答しておられる。
            私はジャパンマシニスト系の本は過去に何冊かチェックしているが、復習の意味もこめて、あらためてその見解を以下太字にまとめておく。異論も多いDr.たぬきの予防接種メソッド(2006年時点)、信じるか信じないかはあなた次第です。

            予防接種はすべて受けないことを原則とする。薬はよほどでないと飲まないのに、予防接種を元気な子供にホイホイ受けさせるのはなぜ?

            予防接種は免疫として不自然で、副作用も見過ごせない。それを医者や役所が安全だと言いくるめている。受けるさいは慎重に。

            学校や保育園の集団接種よりも、各自が医療機関で個別接種を受けるほうが望ましい。

            予防接種は、一定の接種率を保つことによって集団の免疫をつけるという戦略に立っているにもかかわらず、自己負担があるのはおかしい。公費で接種させるべき。

            無数のウイルスや細菌の存在する地球で、自然感染の機会に恵まれないのは人類全体の問題。天然痘とポリオは撲滅できたが、ほとんどの予防接種は効果が不十分なので、結局大きくなってから苦しむハメになる。

            予防接種を受けても、自然感染はする。予防接種の効果が保たれているあいだに自然感染を受けて、免疫を確実にしたいのが予防接種戦略の本音。

            ある種の未熟児は母親からもらった免疫が少ないので、普通より多く予防接種を受けたほうがよい。はしか、風疹、おたふくかぜなど。BCGとポリオと三種混合は普通の子と同じでよい。

            インフルエンザ、日本脳炎、小学生以上のBCGは必要性が乏しく効果も疑わしい。(=受けなくてもよい)

            破傷風の予防接種は、ケガをしてから受けるのでは遅い。二回しておけば有効。接種のやりすぎに気をつける。

            おたふくかぜの予防接種は副作用が大きいので、自然にかかって一生ものの免疫をつけたほうがよい。おたふくかぜによる不妊の心配はない。水ぼうそうも、子供のときにかかっておけば軽くすむ。

            はしかの予防接種は、心臓病や喘息の持病、ひきつけを起こしやすい子供を持つ親、あるいははしかの重い症状が心配な親は受けさせるべき。ただし、十分に看病できるなら、受けさせずに本物のはしかにかかった方が確実な免疫を得られる。

            風疹は、症状の軽くすむ子供のときにかかったほうがよい。ただ妊娠初期の女性がかかると胎児に異常をきたすため、本来は女子中学生に公費で受けさせるべき。はしか単独ではなく、風疹と抱き合わせたMRワクチン(M=はしか、R=風疹)を幼児に接種するのはおかしい。

            BCGは効果が疑わしい。中止している国でも、結核は日本より少なかったりする。

            百日ぜきワクチンは、効果あるけど副作用も多い。

            インフルエンザは3、4日で自然に治る。タミフルはインフルエンザへの効果が疑わしいうえ、重い副作用も心配。ワクチン接種も同様に、子供にはやめておいたほうがよい。

            (管理人注 母里啓子、山田真、浜六郎らの見解は、毛利子来と異なる場合もあります)

            久しぶりに発見

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              松永和紀著「メディア・バイアス」。この本の初版は2007年4月、副題は「あやしい健康情報とニセ科学」となっている。買ったのはおそらく2、3年くらい前だろう。でも内容をあんまり覚えてないし線も引かれていないから、チラ見して放置したらしい。
              それが今年の始めぐらいに買った佐藤健太郎著「ゼロリスク社会の罠」を読んださい「確か前にもこんな感じの本買ったよな」と気づいてまた読もうと思っていたところ、最近わがゴミ屋敷の中から出土したのが本書である。
              「ニセ科学」「ゼロリスク」。聞いたことない人が多いかもしれないが、私が個人的に興味を抱いているオカルト市民運動などは、こういった言葉をもって批判されることが多いように思う。特にインターネット上では。
              私もオカルトは好きか嫌いかで言えばまあまあ嫌いなのだが、科学と無縁なせいか「ニセ科学」「ゼロリスク」な言説にはあまり共感できずにいた。
              「メディア・バイアス」は基本的に、大衆は恐怖を煽るセンセーショナルなあやしい報道に振り回され〜・・・ってな感じでけっこうおどろおどろしく問題提起しており、それらの対義語は「冷静」「科学的」であったりする。
              科学リテラシーという言葉はこの本には出てきていないようだが、その手の教養を身につけることで冷静に物事の真実を見極める特殊能力が身につくかのような幻想が、ちかごろ一部に蔓延しているような気がしてならない。
              だが、メディアに踊らされている大衆と違ってわれらが冷静であり、意見の異なる者が世の不安を煽って不当に金儲けしていると考えるのは、オカルト側も同じなのだ。ダイオキシン騒動をパニックと捉えるか、それともインフルエンザ流行をパニックと捉えるか、そのへんのリスク評価が「冷静」の別れ道であろう。
              前者であればおそらくマイナスイオン家電や血液型占い、水からの伝言(っていう本)の恐ろしさを「煽る」だろうし、後者は食品添加物や遺伝子組み換え作物の恐ろしさを「煽る」、どれが怖いかは、あんたの好きに選んでおくれ。
              それにしても私はオカルト市民運動ってやつはオカルトそのものであって、科学を装うという意味の「ニセ科学」とは全く異質であると感じる。最初から科学なんか信用していないからこそ、GHQ以前の非近代的な生活や東洋および第三世界の知恵に素晴らしさを見出しているのだと。
              松永氏はスローフードとか言って昔をもてはやす昨今の風潮を、食べることに長い経験を持つ年寄りがファストフードの代名詞であるマクドナルドで飲食している例をもって批判しているが、スローフードってべつに年寄り至上主義ではないし、年寄りなんてむしろ現代の若人よりアメリカに憧れていた可能性さえあるのだ。
              昔の日本は確かに漬物とか根菜ばっかり食べてて貧しかった。だから戦争に負けてから大きなアメリカ人になるために小麦、そして栄養豊かな乳製品、おシャンティな生野菜サラダを食べ、頭を良くしようと味の素もたくさん振りかけた。そんなアメリカ小麦戦略の反省が地域に根ざしたスローフードで、食のグローバリゼーションを容易に受け入れないイタリアを参照しているのである。
              何にしろ近代化、ことに科学の恩恵というのはありがたいものだが、「自然は急激な変化を嫌う」みたいなことわざもどっかの国にあるように、豊かさを享受するために昔を捨ててしまうことにはもうちょっと慎重になるべきなのかもしれぬ。
              松永氏も66ページにおいて、シナモンを香辛料として食べるのは数千年もの歴史があるが、健康効果を期待しカプセルで多量に摂取すればどんな影響を及ぼすか分からないといった例をあげているが、それ言ったら日本人の今みたいな食生活だって数千年の歴史などあるわけなく、せいぜい40〜50年ってとこだ。
              抗生物質や添加物を使って食べ物を大量生産したり、使い捨てのゴミを出したり、化学肥料で農業したり、遺伝子とか組み替えたり・・・ひとつ便利になると有機的なつながりの歯車が少しずつ狂っていき、後世に取り返しのつかないツケを残すかもしれないというオカルト市民運動の未来像はべつに「間違っている」わけではないと思う。私がそれに賛同するかはまったく別として。
              確かに松永氏が「『昔はよかった』の過ち」と嘆くように、個人レベルじゃ昔のほうが良かったってことはそうそうないだろう。だが環境汚染や欧米化に危機感を持つ人が、失われた文化(江戸時代とか)を再評価するのはけして無知からではなく、精神的かつ政治的な意味があるのだ。
              169ページで昔は丈夫な(アレルギー疾患と無縁という意味で)子供が多かったとはいえ現代人が非衛生的な生活に戻れるのか、誰もがノーというはずだ、となぜか勝手に決めつけとるが、戻る気さえあれば戻れるんじゃないか?昔を手本にし、非衛生的な生活にシフトする若人だって増殖していることだし。

              大好き!母乳

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                評価:
                山本 高治郎
                岩波書店
                ---
                (1983-05-20)

                今から3年ほど前、西暦にするとK-POPステマ全盛と同じ2010年頃のことであるが、じつはこのときゴリ押されていたのはキムチだけではなかった。
                「幸せなお産」「自然なお産」と呼ばれる、助産院や助産師による出産が、いく度となくマスコミに取り上げられていたのである。
                なんの力が働いていたのだか、堀北真希「生まれる。」仲里依紗「つるかめ助産院」といった有名女優主演の出産ドラマ、もしくは河瀬直美監督「玄牝」などのドキュメンタリー映画がここ数年相次ぎ、芸能人やモデル、一般人にいたるまで、自然な分娩とやらにチャレンジする妊婦をテレビや雑誌で目にする機会は不自然に思われるほど多くなっていた。
                まあ普通に考えて、左翼の力が働いていたのだろう。最近はゴリ押し終了したようだが、私自身がそれ系のテレビや雑誌を見なくなったのもあって確証はもてない。
                「自然なお産」の根底にかいま見えるのは、近代的な病院出産への反感だ。なかには陣痛促進剤や帝王切開を否定するむきもあり、これに対して母子の安全確保から鑑みて安易な自然礼賛に疑問を呈す声も根強い。
                2010年以前から暮らし系雑誌を発信源として静かなブームは形成されつつあったが、ゴリ押し期間で周知されたせいもあって、あんまり安全じゃない出産、もとい「自然なお産」をめぐる論争はここ数年で表面化している。
                「自然なお産」は「天然」「ほっこり」といったテイストを好み、原発やオスプレイといった社会問題にも造詣の深い一部のご婦人のあいだではステイタスとなった。当然なから出産がゴールではなく、その後には子育ても控えている。
                となると、おむつはパンパースか布か、はたまた無(おむつなし育児)か、おもちゃはキャラクターか木か、おやつはセシウム入りか玄米せんべいか、薬は、予防接種は・・・と、母親は際限なく選択を迫られることになる。
                そのうちもっともあくなき闘いに発展しやすいのは、やはり母乳と粉ミルクだろう。
                あらためて書くまでもなく自然派は一般に母乳志向である。帝王切開などにしてもそうなのだが、母親からみても医療行為を介さずに自然分娩し、粉ミルクでなく母乳を与えるのが理想的であることには違いない。
                しかし、それができない人もいる。胎児が逆子であったり、予定日を過ぎても陣痛が来なかったり、母乳が出なかったり、病気持ちだったり、といった各々の事情があったうえで、ご婦人がたは文明の恩恵を受けざるをえなくなるのだ。それはしょうがないことで、誰にも責められることではあるまい。
                それでいてなぜ母乳と粉ミルクが南北関係のごとく冷え切っているのだろうか?ここで私は一冊の岩波新書を紹介したい。
                その名も山本高治郎著「母乳」(1983年)。著者は粉ミルクが母乳に比べ不完全であり、事情があればともかく安易に混合や人工に走る母親、そして母乳を軽視する病院出産のあり方には否定的な立場をとっている。最近はもう母乳礼賛&粉ミルク批判といや近代文明に歯向かうカルトのイメージこそあるが、この本はそこまで行っていない。
                それにしても母乳が出るマッサージ「桶谷式」の研修センターが1980年、母乳やおむつなし育児など「ナチュラルマザリング」を推奨している自然育児友の会が1983年の設立と、「母乳」が著された時期とほとんど同じであることをふまえると、この80年代初頭というのが、病院出産や人工栄養を見直すパラダイムシフトであったことがうかがえる。
                私は1980年生まれでちょうどこの頃に乳児時代を過ごしたが、どうもお袋は粉ミルクしか与えなかったようだ。現代のご婦人ならば、母乳に問題がないのにわざわざ全部人工にするってことはないだろう。しかし当時は、うちのお袋のような愚者もさほど珍しくなかったと聞く。
                当時の粉ミルクのクオリティって大丈夫なのか?もっとも幸いなことに、生まれてこのかたろくに風邪も引いたことないのだが・・・
                いや、私はおのれの屈強な免疫力をもって粉ミルクが母乳に比べて無問題というつもりは毛頭ない。個人の経験なぞ何の根拠にもなりえないし、だいいち粉ミルクっちゅーのはコストがかさみ、いちいち哺乳瓶を洗浄消毒したりお湯を沸かしたりと手間もずいぶんかかるものである。
                それにひきかえ、母乳は乳をボローンと出して吸わせておけば、よい具合の濃度と温度で染み出し、スキンシップ、産後のダイエットにもなり、ゴミも出なく、じつに合理的である。
                しかし戦後、とくに高度経済成長期は日本が欧米に追従し急速な近代化を遂げるなかで、乳ポロリなぞは野蛮な行為と見なされ、次第におシャンティな粉ミルクや哺乳瓶、病院出産が受け入れられた。
                その傾向が高度経済成長期を経て、80年代初頭にいたるまで残っていたということだろう。日本の良いところを捨てて、アメリカや経済至上主義に走った、粉ミルク批判にある背景は反省をもって考慮しなくてはならないはずだ。粉ミルクや病院出産に頼らざるをえない母親がいるからといって、それを差別だとか昔を美化しすぎだとかいって封じ込めるのは筋違いである。
                そういえば、乳ってのはどうも昔の日本じゃそこまでわいせつじゃなかったような気がする。最近「あまちゃん」というNHKドラマが流行っていたらしく、各所で海女が注目されているのだが、あの海女っていうのは何十年か前まで乳をボローンと露出していたようだね。
                未開の民族も富永一朗のマンガみないにたらちねをブラブラさせておるし、わが国も前近代における春画なんかじゃ、女陰は巨大に、かつ精密に描かれているのに乳はめっちゃ適当だ。
                だいたいブラジャーなんてもんも、戦後生まれからじゃないかね。それまでは基本和服だったし、乳のふくらみなんて性的にはどうでもよかったからこそ、若妻が人前でも豪快に授乳していたんだろう。現代じゃ、そんな勇気のあるご婦人はいないし、されても困る。よって母乳をやるにしても外出先では哺乳瓶が必要になってくる。この人工乳首というのも、本来乳飲み子に吸われることで出やすくなる母乳を、ますます母子から遠ざけているそうな。
                また、病院出産における授乳の間隔は出産直後から3時間おき程度と決められていて、その時間にならないと母子が接触できないシステムになっていると思うのだが、これも山本高治郎氏をはじめとする母乳派からの評判がかんばしくない。
                本来は母親が添い寝し、新生児が泣いたときに授乳する、これも哺乳瓶ではなくモノホンの乳首を介することが前提だ。吸われることでの身体の準備も整う。間隔が整ってくるのはそれから後のことだという。
                「母乳」によると、この昔ながらのやり方は「無制限母乳栄養」と呼ばれ、管理された病院出産の「形式母乳栄養」と対をなしている。この概念を提唱したのはナイルズ・ニュートンという女性で、マーガレット・ミードとともに未開社会を調査した文化人類学者と書かれている。
                文化人類学の調査・・・今じゃどこまで信用に値するのか、眉唾この上ないジャンルだが、1980年代当時はまだ近代化および資本主義の矛盾に対し、未開やオカルトに何らかの真実が見出せると信じられてたのだろう。これを読む前から、自然なお産が文化人類学の影響を少なからず受けているのはうすうす感じていた。江戸時代を讃えるのなんかは典型的である。
                ただ母子の健康状態に個人差があることを考えると、人によっては昔の方が良かった面も確かにあるかもしれない。乳児の死亡率も下がり、粉ミルクで問題なく育った者を引き合いに出して前近代を否定するのは簡単だが、ゼロリスク風に言えば赤ちゃんが死ぬリスクはゼロにできないのである。
                病院出産の高い安全性を差し置いてでも得られるものが昔(ふう)の出産にあるとすれば、それを選択する妊婦を止めるのはじつに難しいことだ。

                ゼロリスクって何だ

                0
                  岩田健太郎氏の本は以前に『予防接種は「効く」のか?』(2010年)を読んだことがある。
                  自分自身の予防接種に関しては、危ないっちゃ危ない?効かないっちゃ効かない?くらいには思うものの、まあ打つこともあるし、特にワクチンに関して知りたくもないのだが、そんな意識の低い私も、左翼思想に毒された一部の医師が予防接種を強く批判しているのを見聞きし、その論点がいったい何なのか興味をそそられることも過去に多少あった。
                  読んだのがだいぶ前なので記憶はおぼろなのだが、確か岩田氏は予防接種懐疑派に対し「幼稚」「ナイーブ」と評し、一部に効かないと宣伝されているインフルエンザワクチンが十分に有益であると主張していたかと思う。
                  今回の『「リスク」の食べ方』にも、やはり現実にありえない「ゼロリスク」を希求する姿勢に対し「幼稚」という言葉が用いられていた。
                  岩田氏は感染症の専門家であるからして、予防接種だけでなく、食中毒とかにも詳しいという。予防接種や食べ物に絶対安全はありえない。それなのに、しばしば報道や市民運動が恐ろしげなリスクをクローズアップしたり、それを受けてお上が規制したりする。このような有用性を考慮しない歪んだ安全・安心志向が、著者が「幼稚」と一蹴するゼロリスクっちゅー奴であろう。
                  ていうか、ゼロリスクとゆう言葉、聞いたことありますか?ここ10年くらい(BSE問題以降か)科学的思考で冷静な人々のあいだで静かなブームになっているようだが、私はこの言葉を目にするたび、もや〜っとしていた。
                  だって、ゼロリスクな人なんて実在しえないじゃないか。放射能が・・・農薬が・・・と、いくらこの世の食べ物を心配していても、生きていくうえでは無添加天然酵母自然農法フェアトレードとなんだかんだ変わったもん食べてるってことだ。なかには南の島に移住して自分で野菜作ったりヤギ飼ったりする強者もいるほどである。
                  もちろんそのような食べ物であっても、ゼロリスクとはいえない。例えば有機だったら虫ついてたり、添加物がない食べ物で腐敗しやすかったり塩分が高かったりすることもあろう。ようするにリスクなんてのは指摘しようと思えばいくらでもできるわけだ、何を食べようと。
                  よってゼロリスクはありえないと同時に、そんなものを志向している奴はいないも同然なのである。 本書においては100ページあたりから食中毒のリスクをゼロにするために生卵、海外旅行、おにぎり、缶詰、海水浴、弁当、給食、麺類、肉類、生野菜、漬物、魚介類、水道水等の回避が必要であるとして、ゼロリスクを希求すれば食生活が成立しないことを著者は皮肉っている。
                  しかし生卵、海外旅行、おにぎり、缶詰、海水浴、弁当、給食、麺類、肉類、生野菜、漬物、魚介類、水道水等を回避しているこだわりのゼロリスク野郎が実際にいたらともかくとして、いないわけだから問題視する必要がないというか、いないものが、いるかのように批判されているのがなんとも不可解なのである。
                  私が見た感じゼロリスクという言葉が使われるのは、価値観の違う人間を「知識がない」「だまされている」「冷静さを欠いている」とほのめかす場合がほとんどであり、そこには少なからず悪意が感じられる。
                  実のところゼロリスクとされている人も、たいていはある世界観にもとずいて「不潔」「人命軽視」などのリスクを許容しており、むしろ標準的な現代人よりリスキーな行為が多かったりする。
                  人によってバイキンのリスクを重んずる奴もあれば、農薬や添加物のリスクが気になるものもいて、そんなもん好きなように食っとくれって感じなのだが、まあバイキン派からすれば、添加物よりバイキンのほうが殺傷能力高いのに馬鹿だなー。と思うし、添加物派からすれば、バイキンなんて共生するしかないのに化学物質など添加して愚かだなー。って思うだろう。猫か犬か?黒人か白人か?うんこ味のカレーかうんこ味のうんこか?そんな正解のない二択のようなもんじゃないか。
                  まあ食中毒のリスクはゼロにできなくても、添加物(自然派いうとこの化学物質)のリスクなら添加物を添加しなければゼロにはできる。原発もしかり。熱中症のリスクはゼロには絶対できないが、原発事故のリスクは原発がなければゼロである。日本では銃乱射事件のリスクはゼロみたいなもんだが、アメリカじゃ挨拶がわりって噂だ。
                  でもこれは、どっちがゼロリスクとかどっちが嘘をついているとかいう問題でもない。著者の言葉を借りれば「双方向性」原子力発電所も銃も予防接種も核兵器も有用なケースが考えられるため、それをリスクと計量比較し、おのおのが選択するまでのこと。バイキンリスクをとって化学物質にNOをつきつけるか、添加物をとって衛生的で便利な生活を謳歌するかはてめーのフィーリング次第である。
                  さて、今思い出したがこの本のメインな話題はまだ記憶に新しい焼肉店のユッケ事件をめぐる生肉規制の是非に関してであった。
                  根強い人気があるのか近ごろ復活のきざしを見せてはいるものの、基本的には死亡事故をきっかけにホサれているも同然、ユッケが命に関わるリスクは現在ゼロに近いかもしれない。だがお上が民衆の食にまで介入することに岩田氏は疑問を呈する。それになぜお騒がせなユッケのみならずレバ刺しまでもが・・・
                  確かにユッケぐらい食べさせてほしいもんだ、あんなん食べなくたっていつか死ぬんだぜ人間。

                  日航のジャンボ

                  0
                    日航機墜落事故(昭和60年)における損傷の激しい遺体について、その処理に当たった著者が当時の模様を生々しく記録した一冊。ただ今はこの本が世に出た頃と違いネットでかなりの情報が拾えるため、すでに知っていることも多かった。
                    人には平等に死が訪れるが、こんなむごい最後はあんまりだ。まして小さい子供までもが・・・

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